第二章 六節「幻想が揺れる窓辺」
柔らかな陽光が白いベッドの上に射していた。
格子状の窓が陽光を少しだけ遮っているとはいえ、それでも少しばかり体温が上がる温かさが日差しに満ちている。
アヤノはその日差しが顔にかかって目を覚ました。天井を見つめると、白い無機質な天井があった。ここはカリヤの家ではない。おそらくこの町のポケモンセンターだろう。
アヤノは仰向けのまま自分の手を掲げた。そのまま手を閉じたり開いたりすると、カリヤの眼を貫いたときの感触が色濃く残っていた。アヤノはその感触に悲しげな目をして、手を下ろした。そして上体をおこして、ベッドから降りてすばやく出発の準備をした。
警察が来たのは間もなくしてのことだった。アヤノが起きた事をポケモンセンターの職員が報せたのであろう。二人組の刑事にアヤノは昨夜あった事を話した。一人は柔和な笑みを浮かべている中年の刑事で、もう一人は電子端末にアヤノの発言を記録している。あるいはアヤノの経歴を洗っているのか。どちらにせよ、アヤノの口から出たのは真実とは程遠いものだった。
「ロケット団が襲撃してきたんです」
「ほう、ロケット団ですか。それはどうして分かったんです?」
アヤメの記憶を読み取り、アヤノはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「黒服に赤いRの文字が刻まれていましたから。多分、金品が目的だったんだと思います」
「昨晩からジムリーダーもご不在です。あなたとジムリーダー、カリヤさんが事態の収拾にあたったと?」
刑事は笑みを崩す事は無かったが、細めた眼の奥でアヤノの反応を細部に至るまで窺っているのが分かった。まるでハイエナのようだ、とアヤノは思いながら顔を伏せる。
「はい。あたしは、カリヤさんと一緒に戦いました。ジムを、この町を守るために」
「破壊光線を撃ったのは、カリヤさんですね? どうして自分のジムを破壊するような真似をしたんでしょう?」
刑事が小首を傾げる。この刑事は分かっていて訊いているのだ。そう思うと身体が硬直した。全てを見透かしているような、笑みの裏側にある醜悪な本性が見え隠れする。
「カリヤさんを、疑っているんですか?」
思わず喉の奥から漏れた声に、刑事が参ったとでも言うように後頭部を掻きながら、「いやいや……」と声を出す。
「そういうわけでは。ただ不可解ではありませんか。瓦礫は外側に向かって飛んでいたんですよ。なのに、襲撃者を迎え撃つにしては派手すぎて――」
「だから」
アヤノが抗弁の口を開きかけた直前、電子端末を手に持っていた刑事が中年の刑事に耳打ちした。すると、中年の刑事の顔色が見る見るうちに変わり、ついには蒼白とも言える顔でアヤノを見やり、いやらしく口角を吊り上げた。
「いやはや……。あなたの事も、ついでに訊きたくなってきました」
アヤノは確信した。この刑事は今、アヤノの経歴を知ったのだ。
「その前にかわやへ行かせてもらいますよ。長くなりそうですからね」
中年の刑事が部屋から出て行く。部屋の中には歳若い刑事とアヤノだけが残された。アヤノが顔を上げると、その刑事はアヤノを見下ろした。まるでゴミでも見るかのように。その口が今にも開かれそうになる。侮蔑の言葉を投げかけるために。
その瞬間、アヤノの中で声が弾け、視界が灰色の砂嵐に閉ざされた。。
(アヤノを侮辱しないでよ。許さないわ)
次に気がついた時には刑事はベッドに突っ伏していた。傍らにはエイパムが尻尾を揺らして佇んでいる。アヤメが命令したのだろう。刑事はしばらく起きそうになかった。
アヤメのしたことは自分のしたことだ。カリヤが生きていようが死んでいようがもうこの町にはいられなかった。
今の自分にはエイパムしかいない。その現実が重く、受け止めがたいものだったがそれでもここで立ち止まっている場合ではなかった。
「戻って、エイパム」
モンスターボールを腰につけ、アヤノはカバンを背負って立ち上がり出口へと向かった。
部屋を出る直前、自分が寝ていたベッドを見る。窓際の、陽が射す白いベッドがカリヤと話した日々を思い起こさせた。
見ているうちに目の周りが熱くなっていくのを感じる。あの思い出にもう一度戻りたい。しかし自分が壊してしまったものはどんなに願っても帰っては来ない。
ベッドの周囲に幻想が現れる。それは優しいカリヤの笑顔。カリヤの話を聞く自分自身。二人とも笑顔で幸福を享受している。硝子のようにもろい幸せだとは思ってもいない。この幻想は永遠に続くものだと信じている。
ふと、ベッドの上の自分が部屋から出ようとしている自分を見た。ベッドの上の自分は今のアヤノに対して疑念にも似たような表情を送ってくる。
――どうして幻想を壊したのか?
壊さなければ、最悪の結末が待っていようとも幸福のまま終われたのに。大好きな人と過ごす、大好きな日々という名の幸福が。「幸福」という後ろ髪を引っ張るような言葉がアヤノの胸中に飛来する。
アヤノはその言葉を振り払うように、ベッドから視線を外して急ぎ足で部屋を出た。
――もう戻れない。
幻想に蓋をするように後ろ手に扉を閉める。
乾いた音が部屋に響き、窓辺のカーテンが風で静かに揺れた。
アヤノ編/第二章 了
◇
雨に煙るジムの敷地内の景色の中に黒衣の姿がひとつ、ふたつと浮かび上がった。
彼らはそのままジムの裏手の屋敷へと向かっていく。腰にはモンスターボールをいくつか下げ、帽子にプリントされた毒々しい赤の「R」の文字が闇の中でもはっきりと分かる。
ロケット団だ。
彼らは今日、カリヤの研究の成果を見にやってきていた。
その時、先頭に立つロケット団員が屋敷を見てあることに気づいた。
「何だ? あれは」
急いで屋敷へと駆けていく。そして彼の目に異様な光景が飛び込んできた。
屋敷の壁が巨人の腕でも通ったかのように砕けているのだ。庭を見ると、砕けた壁から一直線に地面が焼け焦げていた。これほどの威力があるのは恐らくカリヤのアブソルの破壊光線だろう。それが屋敷を破壊しているとなると何かが起こったのは疑いようが無い。
ロケット団員は仲間を呼び、ひとまずカリヤを探すことを提案しようとした。その時である。
声が聞こえた。
雨音に混ざって僅かに聞こえるだけだがそれでも笑い声のような声が響いている。ロケット団員たちはそれに気づいて、耳をそばだてた。
声は庭の奥から聞こえているようだ。
ロケット団員たちはそちらへと駆けた。走っている途中、何度もぬかるみに足を取られる。今日は相当な大雨だ。おまけに闇も深い。足にまとわりつく泥の感触を感じながらロケット団員は、もしかするとカリヤは自分のやっていることが恐ろしくなって逃げたのではないかと思い始めた。研究に係わっていたという証拠をアブソルに焼かせた、それがあの破壊光線の跡だと考えればつじつまが合わなくもない。
走っていると笑い声はさらに聞こえてくる。聞いているとそれが女の声のようだと思った。ならばこの笑い声の主はカリヤではないのか。
その時ふと、真正面に人影を見つけた。ロケット団員たちは立ち止まり、その人影を見つめる。
それは少女だった。髪の長い少女で、泥だらけの身体を抱えて笑っている。その傍らに誰かが倒れていた。
ロケット団員たちは慎重にそちらへと歩を進める。歩くうちに、泥とは違う臭いが空気中に漂っているのを感じる。鉄くさい血の臭いだ。まるで肺まで赤く染まりかねないほどの血の臭いが一歩すすむたびに鼻腔に入り込んで吐き気を催す。
足の裏に感じる感触が先ほどまでと微妙に異なっている。足元を見ると、茶色いはずの地面が何故か赤黒く汚れていた。それが何かの血だと分かったとき、ロケット団員は顔を青くして改めて目の前の人影を見た。
少女はまだ笑っている。しかしその片方の目からは涙が流れ続けている。相反する感情を同時に発している少女になにやら薄ら寒いものをロケット団員たちは感じた。再度、倒れている人物を見る。近づくとそれが誰だか判別できた。カリヤだったのだ。
ロケット団員の一人がそれに気づいてカリヤに近づいた。すると少女は笑い声を止めて、今さら存在に気づいたようにロケット団員たちを見た。
「なんなの? あんたたち。カリヤの仲間?」
少女――アヤメの眼差しがロケット団員たちを貫く。それは戦闘に際したときの獣の眼そのものだ。汚らわしいけだものではなく純粋に戦いを嗜好する崇高な獣である。
多数のロケット団員たちはその眼に気おされたが先頭の男の団員だけはそれに怖気づかなかった。一歩踏み出してアヤメの視線をそのまま見返す。
それを見てアヤメは感心したような声を上げた。
「へぇ。怖くないの? 私の目が」
するとその男は口角を吊り上げて頷いた。
「ええ。つい最近似たような方をスカウトしたばかりなのでね。この程度で怖がってはロケット団の名が廃ります」
「そのわりには後ろのお仲間方はびびってるみたいだけど?」
アヤメがロケット団員たちをあごで示した。
「彼らはあなたのような殺気にはまだ慣れていないのでしょう。それはそうと、これはあなたがやったのですか?」
介抱されているカリヤを指差して男は言った。
「ええ、そうよ。なかなか面白いでしょう? カリヤさんったら最初は強気だったのに最後は私に命乞いをしてきたわ。もう面白くて、愉しくて仕方が無かった」
アヤメがうっとりとした表情で語る。それを見て男があごを触りながら感嘆したような吐息を吐き出した。
「……なるほど。あなたはなかなかの逸材のようだ。抱えている闇が素晴らしい。その歪みがどれほどのものなのか興味がありますね」
ありがと、とアヤメはそれに答える。
「でもどうするの? 興味があっても私はあなた方のお仲間を傷つけたのよ。報復するなら、今だと思うけど?」
その言葉に傍らのエイパムの眼が闇の中で蒼く光った。男はそれを見て、薄く笑う。
「成功作ですか。どこまでもあなたは素晴らしい」
その言葉のあと、男は両手を上げて降参するようなポーズをした。
「報復なんてしませんよ。あなたと戦うなんて恐ろしい。それよりも提案があります」
「提案?」
アヤメが聞き返すと男は頷いた。
「あなたに我々の仲間になっていただきたい」
「ふーん。嫌だと言ったら?」
アヤメが興味なさそうに聞き返す。
「――死んでもらう。……と、言いたいところなんですが今はあなたに敵う気がしないので戦うつもりはありません。ただし、話ぐらいは聞いてもらいたい」
その言葉にアヤメは何も言わなかった。それを肯定の意味と取ったのか男は静かに語り始めた。
「我々がずっと追っている存在がいるのです。それを見つけ次第、捕らえていただきたい。戦闘不能にしてもらっても構いませんが、捕らえていただくのがベストです」
男が懐から何かを取り出し、アヤメに向けた。見るとそれは写真のようだ。白い壁の部屋の中心に薄紫色の髪の少女が映っている。
「この子を?」
「ええ。我々の仲間になる必要はありません。ただしこの写真の少女の顔だけは覚えてください。これは、我々ロケット団だけではなく人類の敵となる可能性がある少女です」
アヤメはもう一度よくその写真を見た。どこからどう見てもあどけないただの少女にしか見えない。
「少し話し過ぎましたね。それでは我々はこの辺で失礼させていただきます」
そう言ってカリヤを連れて、ロケット団員たちは引き返していった。その時、「そうだ」と何かを思い出したように先ほどの男だけ振り返って言った。
「雨に打たれ過ぎると風邪を引きますよ。せっかく可愛らしい方なのに風邪を引いては勿体ないですよ」
そんな言葉を残して男は踵を返した。
ひとり取り残されたアヤメはもう見えなくなった男の背中を睨みながら舌打ちをした。
「可愛らしい、か。……なんて馬鹿馬鹿しく、薄っぺらい言葉。その言葉は私のものじゃないわ」
そう言ってアヤメも雨の中に消えていった。