第二章 四節「狂気の夜」
「――本当に、便利な方でしたよ。あなたは」
カリヤは「あくのはどう」を撃ち込まれた場所を見ながら言った。そこからは土煙が上がっている。アブソルの放った技のせいだ。カリヤは自分についた埃を払いながら、吐き捨てるように言う。
「少し優しくすれば安心するんですから。つくづくおめでたい方ですよ、アヤノさん。寝床に忍び込んでも気づかないほど、僕のことを信用して。本当ならあなたのポケモンを一夜に一匹ずつ貰っていくつもりだったのですが、二夜目でこういうことになるなんて思いませんでしたよ」
カリヤはそこまで言って、顔を押さえる。そして片手で顔を覆いながら狂ったように高笑いを上げた。おかしくておかしくてたまらないといったふうに、カリヤは身体をそらせて笑う。
「ほんっ、とうに馬鹿ですね! あなたは。騙されていたと最期まで知らないなんて! 憐れすぎます、可哀そうに! 何ならあなたのために泣いてあげましょうか!」
舞台の上の俳優のように、カリヤは身をくねらせ猟奇的な笑い声を上げる。
その時、アブソルがにわかにうなり始めた。それに気づいてカリヤは笑いを止める。
「どうしたのですか、アブソル」
カリヤが問いかけてもアブソルはうなったままだ。まだ土煙の舞う場所を見つめてアブソルは威嚇する。それでカリヤもそこを見た。
それで異常に気づく。土煙が中心に向かって渦を巻いているのである。まるで何か巨大な力に引き込まれるような動きをしている。そしてその渦の中心が僅かに光っている。まるで落雷が起こる直前の暗雲の再現を見ているかのように、土煙の渦の中が光り輝く。カリヤはそれにたじろぐように一歩下がった。その時、声が響いた。
「コイル、十万ボルト!」
その声を合図にしたかのように、土煙の渦がすさまじい光を発する。その瞬間、解放された球体のプラズマがアブソルに向けて直進してきた。あまりの光にカリヤは目を細め、顔を背ける。そのせいでアブソルへの指示が遅れる。
そのためにアブソルはその攻撃をまともに受けた。着弾したプラズマはアブソルの身体に接触すると同時に弾け、無数の小型の雷となってアブソルの身体を蹂躙した。
アブソルは一秒間の間に何百回も自分の内を貫く鋭い痛みに叫び声を上げた。
その瞬間にアヤノは土煙の中から姿を現す。そして「じゅうまんボルト」の放つ光に紛れて、カリヤの横を通り抜けた。カリヤがそれに気づいてアヤノに向けて手を伸ばす。しかし僅かな差で届かず、カリヤの手は空を掴んだ。
――ここで捕まるわけにはいかない。
アヤノは心の中で決意を決めて、土煙にまみれた身体を抱いて部屋を飛び出した。そして走りながら後ろに向けて呟く。
「コイル、ゴメンね」
「――くっ! 逃がすか。アブソル!」
カリヤがアブソルを連れてアヤノを追いかけようとする。だが、それを灰色の何かが前に回りこんで遮った。
それは中心の球体を挟むようにしてU字磁石が両端についている奇妙な物体だった。フロート効果で宙に浮いており球体の頭頂部には螺子がひとつ付き、ひとつだけある巨大な眼がカリヤとアブソルを睥睨する。
カリヤはそれを見て舌打ちした。
「コイルか……。なめたマネをしてくれるな。アブソル!」
カリヤがアブソルに向けて叫ぶ。それと同時にコイルもカリヤのアブソルに向けて電磁波を発生させながら突進する。
刹那、暗闇の中で戦闘の光が爆ぜた。
方向など構っている暇は無かった。
ただ真っ直ぐと走った。鼓動が爆発しそうなほどにうるさい。喉が焼け爛れたように熱い。そこから嗚咽のような声が漏れる。
「……信じ、たかったのに」
頬を伝う熱いものを感じる。呟いたのは後悔でも何でもない。ただ単に自分が抱いていた理想を砕かれたことを再確認するだけ。言葉が現実として形を帯びていくと余計に涙が零れた。まるで傷跡をなぞるような行為だ。
しかし口を閉ざそうと、心を切り替えようと思っても一度募った思いは簡単には消えない。走っても、走っても、カリヤが敵だということを認識していても、アヤノはカリヤへの思いを断ち切れなかった。
ふと、足を止め振り返ってみる。
もしかしたらこうして逃げているのは悪い夢で、目が覚めればカリヤはまた優しい笑顔を見せてくれるのではないかという淡い期待がこのまま逃げることを拒む。カリヤとしっかりと向き合えばこの悪夢は醒めるのではないか、そんな考えさえ浮かんでくる。
今引き返せば甘い期待が現実になるのではないのか。そう思い、踵を返そうとした。その時である。
声が、聞こえた。
その声に立ち止まる。聞き違いかと思ってもう一度耳を澄ましてみた。
――確かに聞こえる。
聞き違いではない。声の行方を捜して周囲を見渡す。
声は背後の扉から聞こえていた。アヤノはその扉を見つめた。
古ぼけた扉だが、他の部屋とは異なりドアノブにはすすが付いていなかった。つまりこの部屋はよく人が使っているということだ。
アヤノは恐る恐るドアノブを掴んだ。掴んで少し力を加えると、軋んだ音を立てて扉が内側へと開いた。アヤノはそこに身体をもぐりこませるようにして入る。
扉を閉めると中は真っ暗だった。先ほどの書斎で感じたようなかび臭い匂いはしない。むしろ感じられるのは消毒液のような匂いだった。それが強く漂っているのだ。
アヤノは声のするほうを探る。すると部屋の奥からそれが聞こえてきた。アヤノは足元に気をつけながら奥へと進む。どうやらこの部屋はあまり広いわけではないらしい。すぐに部屋の奥へとたどり着いたらしく、頭が壁にぶつかってそれに気づいた。
すると、また声が聞こえた。足元からだ。
痛みを堪えながら声のするほうを見下ろしてみる。すると、何か球体のようなものが自分の真下に転がっているのが分かった。
アヤノは屈んで、それを手にとって見る。それはモンスターボールだった。ためしにそれを耳に近づけてみる。声はやはりその中からしていた。しかもそれはアヤノの聞きなれた声だった。
確かめようとボールの緊急射出ボタンを押す。すると、手の中でボールが開いて中から光に包まれた物体が目の前に射出された。
光によって一瞬、部屋の内部が照らされる。そして段々とその光は細やかな粒子となって、その物体から離れていく。それで姿が明らかになった。
アヤノはその姿を見て、息をつまらせた。
紫色の身体。顔の半分を占める大きな丸い眼。横長の顔にある口元は常ににやけているように綻んでいる。背中では手の形をした特徴的な尻尾が揺れている。
その姿をアヤノは知っていた。忘れるはずが無い。それはアヤノのポケモンだった。
「エイパム!」
アヤノがその名を呼ぶと、エイパムは頭をぶるぶると振ってから返事をするように万歳をして、アヤノの身体に乗っかってきた。
アヤノはそれをしっかりと受け止める。二日ぶりの再会だった。それなのにまるで何年も会っていなかったような気分だった。それだけ自分はカリヤに心奪われていたのかもしれない。
「……エイパム、ゴメンね」
エイパムの頭を撫でながらアヤノは呟く。エイパムは慰めるかのように、手の形をした尻尾をアヤノの頭にぽんと置いた。
「許してくれるの? ありがと、エイパム」
そしてエイパムの身体をぎゅっと力を込めて抱きしめた。暗闇の中、エイパムだけがアヤノの救いだった。
だがエイパムがここにいるということは、カリヤは本当にアヤノのポケモンを奪っていたということになる。大切なものを手に入れた代わりに、認めたくなかった真実が確かな現実となってアヤノの目の前に現れる。
――しかし、もう泣いてはいられない。
アヤノはエイパムを下ろして、涙を拭った。カリヤが本当にこんなことをしていたと分かった以上、甘い考え方ではここから出られないだろう。
覚悟を決めなくてはならない。戦う≠ニいう覚悟を。
――だが。
アヤノはまだ不安だった。本当に自分に戦うことなんて出来るのか。それも一度心を許した相手と対峙することなんて。
それはとても難しいことだろう。今までだって戦いから逃げ続けてきた。平和的な道を探そうとしてきた。しかし、今は、この瞬間は戦わなければ今までどおりの日々も得られない。
「やるよ、エイパム」
アヤノは足元に佇むエイパムを見て言った。エイパムは顔を上げて、アヤノを見た。
「私は、――戦う」
強い口調で覚悟を口にする。それを聞き届けたようにエイパムが片手を挙げた。
その時である。
部屋の扉がすさまじい音を立てて崩壊した。まるで強烈な砲弾でも当てられたかのように、砂煙を上げ根元から砕けている。アヤノはその砂煙の中を歩いてくる二つの影を視界に捉えた。
アヤノは身構える。エイパムもアヤノにあわせて紫の体毛を逆立て、二つの影を見据えた。
砂煙が晴れる。
そこにいたのはカリヤと、傷だらけになったアブソルだった。カリヤはアヤノを視界に捉えるなり、吐き捨てるように言い放つ。
「手間かけさせやがって、この女ァ!」
それはアヤノの知るカリヤの姿ではなかった。鬼のような形相でアヤノを睨み、その眼には狂気が浮かんでいる。
それを見てアヤノの覚悟はより強固なものとなった。
――この人はもう、カリヤさんじゃない。
戦える。そう確信した。
カリヤのアブソルはふらついている。眼の焦点も合っていないのだろう、赤い眼には先ほどのような力もない。どうやらコイルが予想以上に健闘してくれたようだ。
しかしこの場には何故かコイルの姿が無い。どうしたのだろう、とアヤノが思っていると、カリヤがそれに気づいてか下卑た笑いを浮かべながら、
「あ? なんだ、コイルを探してんのか?」
言ってカリヤはその手に持った何かを掲げた。アヤノは暗闇の中、目を凝らしてそれを見る。どうやら錆付いた何かの欠片のようだ。全体が錆付いていてもともとの色が分からない。だが、それの形にアヤノは見覚えがあった。U字型の、まるで磁石のような形。それは確か、コイルの身体の一部ではなかったか。
「随分時間かかっちまったが、まぁいいさ。いい経験値稼ぎにはなったよ」
カリヤがそれを地面に落とす。その錆付いたU字型の磁石は、地面に落ちた瞬間に砂の塊のように砕け散った。
それでアヤノは悟った。コイルがやられたのだと言うことを。アブソルとカリヤに、殺されたのだと言うことを。
「邪魔くせぇんだよ、雑魚が」
カリヤがコイルの残骸を踏みつける。それでアヤノの理性が弾けた。
「あ、アアアアアアアアアアアアアアアアッ――! エイパムッ!」
叫びとともにエイパムに指示を出す。名を呼ばれたエイパムは自身の役目を理解しているかのように、真っ直ぐにアブソルへと走り出した。
カリヤはそれを見て、口角をつりあげて笑う。
「アブソル、格の違いを分からせてやれ」
その言葉とともにアブソルの青いブーメランのような形をした角の周囲に変化が起こり始めた。角を中心にして、周囲の空気が渦を巻いているのである。やがてその空気は青い一迅の風となってアブソルの角に集約されていく。
エイパムはその技のための準備の隙を見逃さない。手の形をした尻尾を硬く握り、アブソルへと身体ごと衝突しかねない勢いで向かっていく。その速度を得た尻尾の拳が風を帯びて、超高速の鉄拳と化す。
そしてその鉄拳の間合いへと入った瞬間、両者が叫んだ。
「マッハパンチ!」
「鎌居達!」
拳の軌跡さえも見えない高速のストレートと、角から放たれた疾走する風の刃が中空で激突した。
それでエイパムとアブソルは互いに滑るように後退する。エイパムの拳には刃でつけられた生々しい傷が入り、そこから血が流れている。一方のアブソルの角には、「マッハパンチ」を受け止めた衝撃でひびが入っていた。これでは両者ともに、同じ技はもう一度出せる状況ではない。アヤノはエイパムを気遣って、次の技の指示を出すのをためらった。
だが、その迷いを感じ取ったカリヤはすぐさまアブソルに指示を出した。
「アブソル、破壊光線だ」
それを聞いたアヤノが驚いて叫んだ。
「無茶よ! アブソルはひどい怪我をしているのに、破壊光線なんて大技を出したら身体が崩壊してしまう!」
しかしアヤノの叫びを聞いてもカリヤは技を止めようとはしない。アブソルの口が開き、口腔内にオレンジ色の電子が収束していく。そして発射の直前、アヤノはエイパムを庇うようにその身に抱き寄せた。
瞬間、空間を裂くような轟音とともにオレンジ色の光線が放たれた。