ポケットモンスターHEXA











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アヤノ編
第二章 三節「漆黒」
 秒針がカチカチとわずらわしい音を立てながら今、十二の数を一回りした。

 これで何度目だろう、と考えながらアヤノは天井を見る。あの昔話のあと、アヤノは何故か寝付けなかった。きっと楽しかったからだろうと思う。小さい頃からアヤノは遠足なんかがあったその日の夜は明日も楽しいことがあるような気がして眠れなかったことが度々あった。

 秒針がまたカチリと音を立てる。

「……だめ。やっぱ眠れない」

 呟いてアヤノは半身を起こし、ついでベッドから降りた。よくよく考えれば寝付けなくて当たり前なのだ。どこも悪くないのにベッドに一日寝ているのがいけないのだから。

 アヤノは立ち上がって耳を済ませた。

 静寂があたりに満ち溢れている。耳を澄ませても生きている音はしない。無機質な秒針が時を刻む音だけが耳に届く。誰も彼もが寝静まった夜に一人だけ起きている、その事実が何だか幼いころに戻ったようにアヤノの胸を躍らせた。

 ――外に出てみようか。

 ふいにそんな考えが浮かぶ。アヤノは二、三度周囲を見る。もちろん誰もとがめるものは居ない。

 その時、部屋の窓が急に音を立てたので、アヤノはびっくりして飛び上がった。窓を見ると風が窓を絶え間なく叩いている。どうやら外はかなり荒れているらしい。

 アヤノはひとりでは心細くなったので一匹だけポケモンを連れて行こうと思った。カバンを探りモンスターボールを一個取り出そうとする。その時、あることに気づいた。

「あれ? エイパムがいない」

 ためしにカバンをひっくり返してみる。中に入っていた服や日用品が床にごちゃごちゃになって積まれる。アヤノはその荷物を念入りに調べたが、やはりエイパムが入ったモンスターボールだけが無かった。

「カリヤさんが預かってくれているのかな」

 そういえば自分はあのジム戦のあと、エイパムをボールに戻す前に気を失ってしまったのだ。ならおそらくエイパムはカリヤが預かってくれているに違いない。

 アヤノは仕方なく、エイパムの代わりに手持ちの違うポケモンを連れて行くことにした。
ボールを腰につけて、カリヤがただ開けてくれるだけだったドアの前にアヤノは立った。ドアノブへと手を伸ばす。木製のドアは何の抵抗も無く、ただドアノブを単純に回転させただけで開いた。

 アヤノは部屋から顔だけ出して廊下を窺う。誰かが来るような気配はなかった。恐る恐る廊下へと一歩踏み出す。その時、あることに気づいて足を止めた。

「あ。あたしパジャマのままだ」 

 呟いて、それが少し気になったが誰にも見られる心配は無いだろうと思い、そのまま出ることにした。

 夜の廊下は静かなものだった。いや、昼間だってめったに出ないのだから同じようなものだがそれでも夜の静寂は廊下を別世界に変えていた。

 アヤノは怖さ半分、冒険心半分で暗い廊下を進む。オレンジ色の光源が壁につけられてはいたがそれでも照らせる面積は僅かでほとんど真っ暗に近かった。アヤノは歩いていくうちに、本当にお手伝いさんがいるのか疑問に思えてきた。なぜなら、行けども行けどもお手伝いさんの部屋も無ければ埃も溜まり放題で掃除も行われていない様子だったからだ。

 しばらく行くと下りの階段があった。

 アヤノはそれを降りる。降りるときに足場が不安で幾度か転びそうになったが、それでも手すりを掴んで何とか持ちこたえる。何とか降りきったときに手すりを掴んでいた掌を見る。掌はすすのようなもので真っ黒に染まっていた。

 アヤノはそれを手で叩いて払いながら、正面玄関へと向かった。正面玄関は先ほど降りた階段の真正面だった。

 正面玄関はアヤノの背丈より少し高く、真ん中の辺りに取っ手があったがそこに南京錠がかけられている。ためしに引っ張ってみると南京錠が軽い金属音を立てた。どうやら南京錠だけで閉じられているのではなく、本来の鍵をかけた上に南京錠をつけているらしい。

 アヤノはそれを不審に思った。

 なぜこんなにも厳重に鍵をかける必要があるのか。外の天気が荒れているからだろうか、と思ったがそれにしてはやりすぎだ。なら外からの侵入を防ぐためかとも思ったが、だとしてもこれほどまでやる必要はないはずだ。

 これではまるで、

「……閉じ込められて、いる」

 アヤノが呟く。信じられなかったが目の前の事実を見る限りそうとしか思えなかった。

 その時である。

「――何をしているんですか?」

 突如として後ろから聞こえてきた声にアヤノは驚いて振り返った。

 振り返ったアヤノの視界に映ったのは、ぼんやりと光るオレンジ色の灯りだった。それが二階の廊下からこちらを見つめている。そのオレンジ色の灯りを誰かの手が掴んでいる。どうやらオレンジの光はランタンの灯りのようだ。

「アヤノさん、ですか? こんな時間に何か?」

 ランタンを持った人物が不思議そうに声をかける。顔は見えない。だがアヤノはその声の主を知っていた。聞き間違うはずが無い。それはカリヤの声だった。

「暗いから迷ったんですか?」

 暗闇の中にその姿の八割以上が沈んでいるが声は確かにカリヤのものだ。だがアヤノはその声に何かただならぬものを感じていた。普通に語りかけているようでも何かこちらの動向を窺っているような落ち着きの無い声なのだ。いつもの優しいカリヤとはまるで違う。

「何をやっているんですか? アヤノさんなんですか? 一体どうしたというんです?」

 畳み掛けるようにカリヤが質問をぶつける。カリヤの姿は二階の廊下から動こうとはしないが、それでも今にも掴みかかってきそうな気迫があった。

 アヤノはその気迫に一歩退く。最初に頭に浮かんだのは、どうしようという思いだった。そして次に浮かんだのは、逃げなければということだ。

 質問の仕方からしてカリヤはまだ、ここにいるのがアヤノだという確信を得られていないらしい。ならばいち早くここから逃げて無駄ないざこざを起こさないほうがいいのではないか。

 そこまで考えて、――いや、とその考えを否定する。

 閉じ込められているのならばここにいるのはカリヤとアヤノだけのはずだ。ならば逃げても無駄ではないのか。

 ――では、どうする? 

 そうこう考えているうち、カリヤの姿が動き出した。ゆっくりと、廊下を移動し階段へ向かおうとする。

 その姿を見てアヤノは、迷っている暇は無いと思った。そしてそう思った瞬間には走り出していた。

「――なっ! ちょっと待て!」

 それに気づいたカリヤが大声を出す。アヤノは階段の裏側に逃げた。そしてどこに通じているかも考えずに目の前の扉に飛び込んだ。

 カリヤは階段を駆け降りて追いすがろうとする。しかし勢いあまったのか、それとも足場が暗かったからか、カリヤは一歩目を踏み出した瞬間に階段を踏み外した。バランスを崩したカリヤはすさまじい音を立てながら、まっさかさまに階段を転がり落ちた。

 アヤノはその音を飛び込んだ扉の向こうから聞いて何事かと後戻りしようとしたが、そんなことをすればカリヤに見つかってしまう。もしカリヤが本当に自分を閉じ込めようとしているのなら、見つかることは避けなければならない。

 アヤノは後ろを振り向かずに走った。一本道の広い廊下でどこまで通じているのか定かではなかったが、それでも走った。走るたびに埃っぽい空気が流動し、鼻がかゆくなったがアヤノは一心不乱に走る。

 しばらく走ると目の前に扉があった。それを迷わず開ける。

 そこは広いリビングだった。高級そうな赤いソファや、数々の調度品が並んでいる。端にはダーツの台もあった。だが、それらの高級品はいずれも正しく管理されている様子は無く、埃はたまり放題でクモの巣も張っていた。

 アヤノはそこで隠れる場所はないかと探したが隠れられそうな場所は無かった。そうしている間に、廊下のほうから大声がした。

「アヤノさん、いるんでしょう! どうして逃げるんですか!」

 それはいつものカリヤからは想像もできない切迫したような声だった。

 アヤノは声を聞いた瞬間、その部屋を飛び出した。

 また長い廊下だった。だが今度は廊下の間に何個か部屋があった。三つの部屋が廊下の突き当りまでにある。アヤノはそのうちの一番手前の部屋に転がり込んだ。

 ドアを閉め、呼吸を整える。心臓は破裂寸前にまで鼓動を早め、パジャマに汗をびっしりとかいていた。呼吸を整えながらアヤノは部屋の様子を見た。

 そこは書斎のようだった。本棚が二つ、部屋の端に並んでいる。小さな部屋で、扉の真正面に窓があり風が激しく音を鳴らす。どこかかび臭いような匂いが、鼻腔を刺激する。アヤノは鼻をつまみながら部屋の奥へと歩き出した。一歩踏み出したその時、足の裏に妙な感触を覚える。見ると本が散らかっていた。結構厚めの本である。

 アヤノはそれを手に取った。

『ポケモン遺伝子工学』とそこには書かれていた。

 アヤノはその本をわきに抱えたまま、さらに奥へと進む。すると窓に面した位置に机が置かれていることが分かった。地味でくすんだ茶色の小さな机だ。その上にも本や書類が散らかされている。目でその書類たちのタイトルを追っていく。

『石によるポケモンの進化の可能性』、『洞窟に棲息する生命』、『特定物質の投与による能力の変化』、etc.――。

「何なの。これ……」

 アヤノは書類のひとつを手にとって言葉をなくした。

 そこにはポケモンに特定の薬物を投与した場合の反応の変化や能力の変化を観測し、それによって得た研究成果を事細かに記してあった。他の資料や本もめくってみるがどれもそういった実験の成果や、そういった実験を行うとどうなるかなどの考察が書かれている。

 そのなかでもアヤノはある資料に目を奪われた。

 手にとってそれを読み上げる。

「月の石を埋め込むことによる能力の変化=B……これって、もしかして――」

 その時である。アヤノは突然、妙な感覚が自分の背中を走り抜けていくような感触をおぼえた。何か突き刺すような視線が自分を貫くときの不快感に似ているような感じだ。

 アヤノはその感触に思わず振り返った。

 最初に視界に入ったのは二つの赤だ。ペンライトほどの大きさの二つの赤い光球が部屋の入り口からアヤノをにらんでいる。その赤にアヤノは射竦められたように動けなくなった。視界すら外せない。身体に力が入らず資料を床に落とす。全ての身体機能を根こそぎ奪われたような感覚だ。倒れることさえ自分の意思ではできない。

 固まるアヤノを見据えながら二つの赤は段々と近づいてくる。窓から差し込む月光がその姿を徐々にあらわにしていく。やがてアヤノの目の前まで来たとき、その姿が完全に把握できるようになった。

 先ほどからアヤノを睨んでいた二つの赤は眼だった。月光がその白い姿を照らしている。白い毛並みが月光を反射し、ぼんやりとその輪郭が暗い部屋に浮かび上がる。白い姿のそれは深い青の顔を上げる。猿のような顔だが、口元を見れば乱杭歯が並んでおり、それは獣を思わせる。その額からは青いブーメランのような形の角がある。その角が僅かに左右にゆれている。アヤノはその角の動きを目で追おうとしたが、赤い眼に絡め取られている今、それすら出来ない。災いを呼ぶと古来より恐れられていたといわれる目から放たれる殺気がアヤノの思考すら殺す。

 その姿をアヤノは知っていた。それは二日前に自分が戦ったポケモンだったからだ。

「――アブソル」

 声の出せないアヤノに代わって誰かがそのポケモンの名を呼ぶ。その声でアブソルの身体に変化が現れ始めた。

 アブソルの体表から闇より黒い瘴気のようなものが漂い始める。それは体表を覆いつつ、アブソルの頭の先にサークル状の形を構成していく。アヤノはそれから逃げなければならないと思いながらも赤い眼に射竦められて、足を動かせない。だが、黙って見ているわけにもいかない。アヤノは腰へと手を伸ばした。アブソルの「かなしばり」のせいで関節を動かすたびにその部分が軋み、鋭い痛みが走る。だが、何とかしなければ自分の身が危うい。アヤノは必死に指に力を込めた。腰のモンスターボールの中心にある緊急射出ボタンを押せば、投げる動作を省いてポケモンを出すことが出来る。

 指がボールの頭に触れる。あと少し。あと三センチほど指を伸ばせば届く。

 だが、アブソルの動作のほうが僅かに速かった。どす黒いサークル状の瘴気は回転を始める。それにしたがってサークルの中心に力が収束していくのが分かった。

 アヤノはそれを見て、さらに指に力を込める。だが、ボタンに触れても押すことが出来ない。あともう少しでボタンを押せるのに。

 その時、アブソルの後ろの暗闇から音が聞こえた。カツン、という固い床を踏む音だ。その足音は次第に近づき、やがて月光のもと、その姿を見せた。

 アヤノはその姿を直視する。

 果たして、そこにいたのはカリヤだった。

 彼は肩をすくめるようなポーズをしながらアブソルの後ろで足を止めた。そしてカリヤは口元に笑みを浮かべた。それを見て、アヤノは――違う、と感じた。

 目の前のカリヤの笑みは今まで自分が見てきたカリヤの笑い方ではなかった。それはアヤノの嫌いな、醜悪なプライドに凝り固まった男の笑い方だ。

「――やれやれ」

 いかにも疲れたようにカリヤは言った。そしてアヤノのほうを見て、

「台無しですよ、本当に」

 興ざめだといわんばかりの口調でそう吐き捨てた。アヤノはその言葉を本当にカリヤが発しているのか信じられなかった。何か、これは悪い夢のような気がした。優しかったカリヤがそんなふうに話すなんて、どこか非現実のような気がしたのだ。アヤノはカリヤに話しかけようとするが、声が出ずに魚のように口をパクパクとさせる。

「ん、どうしたんですか? ……ああ、アブソルの金縛りで喋れないんですか。まぁ、知っていますけどね。じゃあ、もういいです」

 カリヤが人差し指をアヤノに向ける。それと同時にアブソルが口を開けた。サークルの中心が磁場を纏ったように反応し、収束を高める。

 アヤノはカリヤに向かって必死に口を動かした。「嘘ですよね、本当のカリヤさんはこんなことしませんよね、これは何かの間違いですよね」――今の現実を嘘だといってほしい。その一身で声の無い叫びを続ける。

 そんなアヤノの姿を見て、カリヤが笑みを浮かべた。それはいつか見せたのと同じような、優しげな笑みだ。昔話をするときにする、その慈愛に満ちた笑みにアヤノは安心して顔をほころばせた。

 そしてカリヤはその笑顔のまま、短く告げた。

「――死んでください」

「――え?」

 その言葉の意味を解する前に、漆黒の魔弾がアヤノの視界を包み込んだ。


オンドゥル大使 ( 2012/07/22(日) 22:48 )