第一章 四節「激闘、キリハジムU」
――よし。何とか一戦目は勝てた。という喜びもつかのま、「さて、二戦目を開始しようか」というチアキの言葉で二戦目が開始される。
ナツキはボールを掴む。大丈夫、二戦目のポケモンは決まっている。それにこれを制すればバッジが手に入るのだ。そう思うとボールを握る手におもわず力が入る。対するチアキはボールを出す気配がない。先ほどのようなパフォーマンスを仕掛けてくるのだろうか。
だが、どちらにせよこの勝負は勝つ、という思いがナツキの中にはあった。アサナンは苦戦したがゼニガメならアサナンレベルのポケモンが繰り出されたとしても勝てる自身がある。
「……勝つ」
自身の内側の決意を言葉に出し、ナツキはボールを振りかぶる。そして投擲する瞬間に叫んだ。
「いけっ、ゼニガメ!」
ボールは地上に着く前に割れ、中から光に包まれたゼニガメが現れる。ゼニガメは両手をあげてひとつ雄叫びを上げる。
チアキはそれを見て自身のあごを触りながら、感心したようにフムと頷く。
「なかなか育てているようだな。……なるほど、申し分ない、か」
チアキは右手を高く上げる。それを不審そうにナツキが見ていると、チアキが指をパチンと鳴らし高らかに叫ぶ。
「来い!」
その叫びがジムに木霊したかと思うと、チアキの後ろのジムの奥から何かの足音が聞こえた。巨大な足音だ。そして足音とともに何かの金属がこすれるような音が響く。ナツキもゼニガメもチアキの後ろの暗闇に注目した。その暗闇の中で何かが動き、こちらにやってくるのが見えた。それは思った以上の大きさだった。重量がある、といったふうの大きさではない。向かってくるそれは長身で、ゼニガメの十倍近くはあるであろう大きさだった。
ジャラ、という金属音が先ほどよりはっきりと聞こえる。どうやらその金属は引きずられているらしい。そしてその音が近くなれば当然足音も近づく。ナツキは金属音と足音が連動して聞こえてくる状況を想像してみた。頭の中に幾つものイメージが浮かぶがその中で最も印象が強かったのは手錠や足かせだった。手錠や足かせをつけて歩いているのだとしたらこういう音がするのではないか。そして近づいてくるポケモンはそういうものをつける必要があるポケモンだということ――。
暗闇の中からその姿が僅かに見えた。最初は足の先から、次いで身体が半分ほど見えてくる。
その姿は直立する人間を思わせた。僅かに見える指や二足歩行がそう思わせたのだろう。だが、それ本来の姿はそんなものではない。その指は鋭くかぎ爪のように尖り包帯が巻かれている。そして手首の付け根や足首には予想していた通り、鎖が途中で切れた手錠や枷があった。ズン、と重い足音が響きその姿が光にさらされる。そこで初めて全体をつかむことが出来た。
そこにいたのは燃えるような赤をその身に宿した猛禽類の特徴を持ったポケモンだった。しかし猛禽類と言っても翼があるわけではない。タカ等の猛禽類ならば人間のような指があったり、直立二足歩行をしたりはしない。目の前に立つのはそういった存在とは一切を隔絶したものだった。身体を覆う赤い羽毛のような体毛、Vの字の鶏冠、くちばしを持ち、鋭いカギ爪を持つことなどは猛禽の特徴だがそれ以外はむしろ人間の男性といったほうがいい。そう、目の前に立つのはまさに鳥人と言っても差し支えない存在だった。
ナツキはその姿に見覚えがあった。ホウエン地方のポケモントレーナーが最初に手にするポケモンのうちの一匹がこういうふうに進化することを聞いたことがある。そのポケモンは炎を操り、さらには近接戦闘もこなす万能型のポケモンだと。そのポケモンの名は、確か――、
「――バシャーモ」
チアキはナツキの思考を代弁するようにそのポケモンの名を告げる。名前を呼ばれたバシャーモはそのくちばしを開き、そして前方のナツキとゼニガメに対して威嚇するかのように咆哮した。
ビリビリと空気が割れるような振動を感じる。それほどに目の前のバシャーモから放たれるプレッシャーは凄まじかった。ゼニガメがその威圧感にたじろぐように一歩下がる。バシャーモは鎖を地面に引きずりながらゆっくりとチアキの傍らへと移動した。
「驚いたか? これが私の切り札、バシャーモだ」
チアキがバシャーモに触れながら言った。
「コイツは少しばかり凶暴でな。ボールにも決して入りたがらないし、戦闘になれば相手をポケモンセンターでも治せないほどの痛手を負わせないと気がすまない性質なのだ。だから普段は手かせ足かせで縛り付けているのだがね」
ナツキはその言葉で先ほどのポケモンセンターの異常なまでの混雑を思い出した。あれは全てこのバシャーモにやられたトレーナーたちだったのだ。
「おかしいわ。そんなに強いポケモンが使えるはずがない。ジム戦にも決まりがあったはずよ。レベルや強さ、技なんかの決まりにのっとらなければ、それは無効試合になるはず」
確かにナツキの言うとおり、ジム戦にはジムリーダー側に制限があった。ジムリーダーはバッジによって階級を分けられ、それぞれのバッジごとに適した強さのポケモンを使用する決まりとなっている。ナツキは当然のことを言ったつもりだった。しかしそれを聞いた瞬間、チアキの表情が一変した。
「……あなたもまた同じことを言うのだな」
チアキが呟く。ナツキがそれに疑問を挟む前に、チアキの怒声がジム内に木霊する。
「蹴散らせ、バシャーモ!」
その言葉と同時にバシャーモの身体が砂煙を上げながら動き出す。真っ直ぐにゼニガメへと駆けるその速度は、まさに光速と呼んでもいいほどだった。ナツキはそれに気づき、すぐにゼニガメに指示を出す。
「ゼニガメっ、水鉄砲で応戦して!」
ゼニガメがその指示を受け、すぐに攻撃態勢へと移ろうとする。だが、それはあまりにも遅過ぎた。ゼニガメが息を吸い込んで準備にかかろうとしたとき、バシャーモは既にゼニガメのすぐ目の前に立っていた。
それにゼニガメが気づく前に、下から放たれた蹴りがゼニガメの身体を浮かせる。中空に浮いたゼニガメには成す術がない。そしてそれはバシャーモにとっては最大の攻撃のチャンスだった。
バシャーモがひざを曲げ身体を低く沈ませる。そしてその拳を強く握ったとき、チアキが叫んだ。
「バシャーモ! スカイアッパー!」
その叫びに呼応するように直下から振り上げられた拳は赤い光をまとってゼニガメへと向かう。ナツキがゼニガメに避けてと指示を出す。しかしそんなことは出来るはずもない。
まがまがしいまでの赤い拳は無情に、あまりにも無情に、ゼニガメの無防備な身体へと食い込んだ。
これが「スカイアッパー」。バシャーモを含め数えるほどのポケモンしか覚えない格闘タイプの中でも屈指の威力を誇る技。その攻撃は格闘タイプの弱点である空中の敵にさえダメージを与える唯一の技でもある。
スカイアッパーをもろに食らったゼニガメはそのまま高く浮き上がり、そして地上へと落下した。
「ゼニガメッ!」
ナツキが心配そうにその名を呼ぶ。するとゼニガメの指が僅かに動き、そしてふらつきながらも立ち上がった。しかしスカイアッパーほどの大技をまともに食らったのだ。当然ダメージは大きく、甲羅の腹に痛ましいひび割れが入っていた。しかしチアキはそんなゼニガメを目にしてもまだ攻撃を緩めようとはしなかった。ゼニガメが立ち上がったと見るやチアキが叫ぶ。
「バシャーモ、炎の渦!」
バシャーモが腕を大きく掲げる。そしてそれを勢いよく目の前の地面へと振り下ろした。地面がめくれ上がり拳を飲み込んだ瞬間、赤い円が突如としてゼニガメを囲うように現れる。そしてそれは見ているうちにも赤さを増し、その輪郭が一際光ったかと思うとゼニガメを中心に地面から火柱が立ち上った。やがてそれは渦巻き、内部のゼニガメを焼き尽くさんばかりに燃え狂う。
それを見てナツキが髪を振り乱して叫んだ。
「やめて! こんなの試合じゃないわ、ゼニガメが死んじゃう!」
しかしそれでもチアキは攻撃を緩めようとしない。その代わりのようにチアキが炎を見ながら話し始める。
「お前たちはいつもそうだな」
その言葉にナツキはチアキを見つめた。チアキの眼には悲しみとも、怒りとも取れる色が炎に揺らめいて浮かんでいた。
「お前らはいつも私を低く見ていた。三つ目のバッジのジムトレーナーだから弱いだろうと。どうせたいした事ないだろうと。そんなお前らの眼が、嘲る口元が、私はいつでも憎たらしかった! お前らを破滅させてしまいたいほどに、私は毎夜苦しんだ! お前らが泣き叫び、許しを請うほどに強くなることを強迫観念のように自分に押し付けた!」
ヒステリックに両手を上げチアキは叫ぶ。炎で顔の半分が赤く見えるチアキの顔は泣いているようにも見えた。そして今度はやけに落ち着いた口調で言った。
「それがどうだ。こうして強くなればずるいだの、卑怯だのと言う。私はお前らのせいでこんなふうになったのに……それでもお前らは私をさげすんだ。だから――」
チアキの顔に笑みが浮かぶ、狂ったようなその笑みのすぐ隣の頬を流れる涙が、紅蓮の炎で赤く光る。それはまるで血の涙のようだった。
「――だから、完膚なきまでに殺しつくしてやるのさ。お前らのポケモンも、トレーナーとしての誇りとやらも!」
チアキは叫び、「ほのおのうず」を止めて次なる指示を出す。その眼には狂気の色が浮かんでいる。ナツキはその眼を見て確信した。この人は今ポケモンバトルをしているのではないことを。これはどちらが正しいのかを決めるための無情なる戦闘なのだと言うことを。
「ほのおのうず」から抜け出したゼニガメはまさに満身創痍だった。おそらく次の一撃を「スカイアッパー」のようにまともに食らえば終わる。
バシャーモはくちばしを大きく開けて、空気中の酸素を吸収している。次に大きい技が来るのは疑いようがない。ナツキはゼニガメを呼んだ。ゼニガメは苦しそうにうめきながらも振り向いた。
ナツキはゼニガメに見えるように三本、指を立てた。それにゼニガメは一瞬、逡巡するかのようなそぶりを見せたが、ナツキの真剣な表情を見てすぐに頷き、バシャーモを真っ直ぐに見据えた。
バシャーモのくちばしに酸素が吸い込まれるにつれて口の中が赤く光り輝いていく、何本もの光の線が最後にバシャーモに吸い込まれたかと思うと、そこでチアキは静かに呟いた。
「――これで終わりだ」
チアキの黒髪が揺らめき、静かに彼女は指をゼニガメに向ける。ゼニガメは身構える。ナツキはその拳を強く握り締め、チアキの視線を真っ向から受けた。
本当は一秒にも満たない一瞬、両者はお互いの覚悟を感じ取った。どちらも思っていたことはひとつ。
――これで終わりにさせる!
二人はほぼ同時に叫んだ。
「バシャーモ、火炎放射!」
「ゼニガメ、ハイドロポンプ!」
バシャーモの口の中が一際強く輝き、最初に熱線が放射されたかと思うと後から熱線の波に乗るように、紅蓮の炎がバシャーモの口から放出された。それは進行方向の大気を焼き尽くしながらゼニガメへと向かっていく。
これが「かえんほうしゃ」。炎タイプで六番目に強い技である。しかも今、これを使っているバシャーモは並みの強さではなかった。地獄の業火のようなその炎はトレーナーであるチアキの心に感応し、ジムの壁が融けるほどの高温となっていた。
対するゼニガメはバシャーモが「かえんほうしゃ」を出す前に、普段の「みずてっぽう」とは比べ物にならないほどの膨大な量の空気を一気に吸い込んでいた。それと同時に腹を出来る限り膨らませ、噴射のための準備をし、そして攻撃の瞬間、「みずてっぽう」の五倍以上の水量が一気にゼニガメの口から放出されたのである。その水流は空気の壁を打ち破るほどの速度で直進し「かえんほうしゃ」と激突した。
これが「ハイドロポンプ」。水タイプで二番目に強い技であり、ナツキのゼニガメが三番目の隠し技としてあえて今までの戦いでは使わなかった技である。この攻撃は単純な威力では「かえんほうしゃ」を上回っており、その上水属性の技のために炎の攻撃に強く、この勝負はゼニガメが優位に立ったかに見えた。
だが、両者の様相は拮抗していた。
激突の瞬間、両者の技の先端が気化し中心部に僅かな水蒸気を生じた。そしてそれが消えたかに見えた瞬間、また同じような水蒸気が現れる。これはつまり両者の技が相殺を繰り返しているということだ。その中心部では絶えず炎と水がぶつかり合って、どちらも一歩も退こうとはしない。
赤と青の光がジムの中を舞い踊り、それぞれのトレーナーの姿を映す。ナツキはゼニガメを信じ、チアキはバシャーモが負けるはずが無いと思っている。
二匹のポケモンは技を放出し続ける。技の放出にはもちろん体力がいる。これほどの大技を相手とぶつけ合えばなおさらだ。加えてゼニガメには先ほどまでのダメージが蓄積されており、絶えずバシャーモのプレッシャーにさらされている。対するバシャーモにはダメージは無く、さらに技に力をこめることが出来る。もしそれをされればゼニガメに打つ手は無い。
そして、それは現実となった。
「らちが明かないな。バシャーモ!」
チアキが苛立たしげに叫ぶと、バシャーモは炎を吐きながら雄叫びを上げる。するとバシャーモの身体が赤く輝き、体表を覆っていく。それが全身に回った瞬間、バシャーモは身体から炎を発した。炎に包まれた瞬間、「かえんほうしゃ」が消え、ハイドロポンプがバシャーモの身体を直撃する。一瞬、視界が霧に包まれたように白くなり炎が消えたかのように思われた。しかし、霧はすぐに晴れ水蒸気の壁を破るように、中から赤色の炎に包まれた巨体が姿を現す。
「……そんな、ハイドロポンプが効かないなんて」
ナツキが絶望的に呟く。バシャーモから発生する炎はさらに勢いを増して炎の鎧のようにバシャーモにまとわりついていく。バシャーモが一歩踏み出すと地面が熱せられその足跡は黒く焼け残る。
ゼニガメがその姿を恐れるように一歩退いた。つやつやとしていたゼニガメの水色の皮膚が乾燥している。すさまじい熱量がナツキのもとにも伝わってくる。
――勝てない、とナツキは思った。
それほどまでに目の前の敵は強大過ぎた。炎に包まれたバシャーモは鬼のような眼でゼニガメを睨み付ける。
「これがオーバーヒート。炎タイプの中でも随一の、自らを炎に包んで相手と戦う必殺の技。これは使った後に特殊攻撃力が下がる少々厄介な技だが、止めを刺すにはちょうどいい」
チアキが静かに語った後、その指を恐れおののくゼニガメへと向けた。その指示に忠実に、バシャーモは体勢を低くし、いつでもゼニガメに攻撃を仕掛けられるようにする。ゼニガメは困ったようにナツキを見た。しかしナツキは呆然としてゼニガメがこちらを向いていることにすら気づいてないようだった。
それを見越したように、チアキがゆっくりと最後の攻撃を告げた。
「――殺せ、バシャーモ」
その瞬間、赤い軌跡を残しながらバシャーモの姿がバトルフィールドを疾走した。その速度は指示を出すトレーナーが実体を眼で捉えることが困難なほどの速度だ。ましてや実際に戦っているポケモンはなおさらその姿を見ることなど出来ない。ゼニガメはまるで空間を飛び越えたように目の前に現れたバシャーモに驚愕する間もなく、その身体を蹴りつけられた。
ゼニガメの身体は宙を舞い、遠い地面に落ちる。だが落ちる寸前、またもその身体が宙に浮いた。バシャーモが落下地点に先回りして、その背を蹴り上げたのだ。その攻撃で背中の甲羅にもひびが入る。だが、それで攻撃は終わらない。ゼニガメの身体が上がったと見るや、バシャーモの姿がゼニガメよりもなお上空に飛び上がった。バシャーモはつま先を高く上げ、その脚はそのままゼニガメの身体へと垂直落下していく。ナツキは見ていられず、思わず手で顔を覆った。チアキがにやりと笑う。
次の瞬間、バシャーモの燃える踵落としがゼニガメの身体へと入った。それは誰の目から見ても直撃だった。ゼニガメは成す術もなく、地へと叩きつけられる。轟音が響き渡り、衝撃で地面が割れ捲れ上がった。
バシャーモはその傍らに華麗に着地する。着地のときに身体の炎の鎧は消えもとの姿にもどる。
「ゼニガメ――!」
ナツキは砂煙が舞う落下地点に向けて叫んだ。その目は涙で潤んでいた。
砂煙が消えていく。そして落下地点があらわになる。それを見た瞬間、ナツキは手を口元に当てて戦慄した。
ゼニガメがそこにはいた。だがもはやその姿はひんしの状態を超えているかのように見えた。甲羅は崩壊寸前なまでにひび割れ、水色の皮膚も黒く焼け焦げている。ナツキはこれほどまでにひどい傷を見たことが無かった。ポケモンバトルというのはもっと安全で、きれいなものだと思っていたのだ。だが目の前の惨状はどうだ。
地面は焼け焦げ割れている。空気は熱く、皮膚が焼け爛れそうなほどに痛い。加えてぴりぴりとした細い糸のような緊張があたりを埋め尽くしている。
同じポケモン同士が戦ったとは思えない状態となっているこの場所はもはや戦場だった。
「死んだな」
目の前の惨状をものともせずにチアキが平坦に告げる。ナツキも認めたくは無かったが見てしまったものは仕方が無かった。――あれで生きているはずが無い。そう思うほどの重傷だ。だが、ナツキの手持ちではたとえ今ゼニガメを戻してもバシャーモを倒せるポケモンはいるのだろうか。
ナツキはバシャーモを見つめる。
その立ち姿はまさに戦場に立つ悪鬼だった。まだ戦い足りないとその狂ったように赤い眼が言っている。地に伏すゼニガメを見つめ、まだ痛めつけたそうに拳を握り、呼吸を荒立たせている。
ナツキのモンスターボールを握りかけていた手が宙で止まった。無理だ、とナツキは感じた。目の前の敵はポケモンの枠を超えている。今、自分たちがかなうレベルではないと本能が告げる。
ナツキはそのまま地に手をついて倒れこんだ。もう何の策も無かった。チアキが、降参するのかと言っているのが僅かに耳に届く。
――降参。それはつまりは敗北するということ。この戦いはポケモンバトルではなかった。この戦いはどちらが正しいのか決めるもの。ここで敗北するということは、つまりナツキたちポケモントレーナーが間違っていたということだ。
だが、それでもいいとナツキは思い始めていた。もういい、と。ここで負けを認めて楽になれるなら、と。
ナツキは、降参する、と言おうとした。
だがその時、ある声がナツキのその言葉を遮った。
ナツキは顔を上げる。確かにそれは聞き覚えのある声だった。しかしそれと同時にこの場所に今聞こえるはずの無い声だ。ナツキはそれがどこから聞こえたのか辺りを見回して探す。声は弱々しいがそれでもはっきりと聞こえる。
やがてその場所が分かった。ナツキは信じられないといった顔でその場所を見た。そこはゼニガメが倒れているはずの場所だった。聞き違いか、と思い耳をそばだてる。すると確かに弱々しいがそこから聞きなれたあの鳴き声が聞こえてくる。そして次の瞬間、驚くべきことにその指が僅かに動いた。
ナツキは口元を手で覆い、その姿を見つめた。すると今度はその上体を起こしてゼニガメが立ち上がろうとしているのが見えた。チアキも信じられないといったように目を見開いてそれを見つめている。
ふらつきながらもゼニガメはしっかりと両手で身体を支えながら重たそうにその身を上げて立ち上がろうとする。その過程で何度も倒れそうになるが、そのたびにしっかりと足を踏ん張ってその体重を大地に打ち付けるように力を込めた。そして、何度かそれを繰り返しながらも、ついに両足でしっかりと地を踏みしめ立ち上がった。ナツキはその姿に感極まったのか涙が頬を流れるのを止められなかった。その姿をゼニガメが降り返って、見る。その眼には確かな闘志があった。それを見てナツキはまだゼニガメがあきらめていないことを悟った。あれだけやられてもまだ勝負を捨てていないのだ。それなのに自分は勝手に降参しようとしていた。そんな自分がひどく恥ずかしく思えて、ナツキは涙を拭って自分の頬っぺたを右手で強く叩いた。パン、という乾いた音がジム内に響く。
それでナツキとゼニガメの覚悟は決まった。
ゼニガメはナツキの姿をみて頷き、再びバシャーモをにらみつけた。バシャーモはゼニガメの鋭い闘志にたじろぐように一歩後退した。それを見たチアキが否定するように手を大きく振って叫んだ。
「何をやっている、バシャーモ! そんな死に損ない、今度こそ蹴散らしてしまえ!」
その声でバシャーモは我に返ったように叫んだ。だがゼニガメは動じない。真っ直ぐにバシャーモを睨んでいる。バシャーモが右手を大きく後ろに引き拳を硬く握る。そして見ているうちに、その拳が赤く染まっていき高温となったそれはついに炎を発した。
「バシャーモ、炎のパンチ!」
その声にバシャーモが右手を振り上げる。溶岩のように真っ赤になった拳がゼニガメへと物凄い勢いで向かってくる。動かなければそれは直撃し、今度こそ死は免れない。
だがゼニガメはそれを避けなかった。真っ直ぐに向かってくるパンチを微動だにせず睨んでいる。
「愚かな。勝負を捨てたか、ミサワタウンのナツキ!」
チアキが叫ぶ。だが、ナツキは首を振った。
「いいえ。もう逃げないと決めたのよ。私も――」
炎のパンチがゼニガメの目前に迫る。もはや黒くなってしまったその皮膚を、炎の赤が照らしていく。その眼に太陽のような拳が映りこむ。やがてそれはゼニガメの視界を満たしていき、赤がその姿を包んだと思ったその瞬間、ナツキが叫んだ。
「そして、ゼニガメも!」
その言葉と同時に炎のパンチがゼニガメのいた場所を爆音とともに包み込んだ。砂煙が発生し、衝撃波がナツキの身体をなぶる。しかしナツキは身じろぎひとつせず、ゼニガメのいる場所をじっと見つめていた。
チアキはそんなナツキの姿を忌々しく思いながらも、パンチが着弾した場所を同じように見つめていた。どうせ勝負は決まっているに違いないと信じながら。
だがその予想は大きく裏切られることとなる。
砂煙が晴れ、炎がくすぶるような音が着弾の中心地から聞こえてくる。チアキはその砂煙の中にバシャーモの姿を認めた。拳を前につきだしたまま、固まっている。だがその身は健在だ。何かが起こったというわけではない。チアキはそれを見て内心ホッとした。やはりバシャーモが負けることなどありえなかったのだ、と感じ、笑みさえその顔に浮かんでくる。チアキはバシャーモを呼び戻そうとした。だが、そこで異常に気づく。
戦いは終わっているはずなのにあまりにもバシャーモは身動き一つしなさ過ぎた。おかしいと思いチアキはバシャーモを再度呼んだ。しかしそれでも振り向こうともしない。チアキはそこであせり始めた。一体何が起こっているのか。砂煙の中を彼女は窺う。
そこで見た光景にチアキは我が目を疑った。
何度も瞬きするが、しかしその光景は変わらない。その光景はチアキには理解しがたいものだった。ゼニガメのレベルは確実にバシャーモより低いはずである。
そんなポケモンが、なぜ、――バシャーモの拳を受け止めているのか。
「……どういうことだ」
チアキは思わずそう呟いていた。ゼニガメはその小さな手でがっしりとバシャーモの拳を掴んでいた。バシャーモはそれで動けないでいるのだ。
「な……、バ、バシャーモ! もう一本の手でもう一度炎のパンチを!」
チアキが慌ててそう言うと、バシャーモの左拳が急速に赤くなり、間もなく発火する。そして先ほどと同じようにそれをゼニガメにめがけて打ち込んだ。
しかし今度は砂煙が起こるまでも無く、あっさりとその拳はゼニガメの手に受け止められた。その様子をはっきりと見たチアキは絶句した。
「――無駄よ」
ナツキはチアキに向けて言い放つ。その瞬間、ゼニガメに変化が訪れた。ゼニガメの身体をまばゆい光が覆っていくのだ。その光は段々とゼニガメの身体に張り付いていき、やがてその光は膨張していく。それにあわせてゼニガメの身体も大きくなっていく。
「もう、私たちは憧れに逃げたりしない」
ナツキが呟く。光は輝きを増し、ジムの壁に反射する。光が増せば増すほどにゼニガメの身体はさらに巨大化し、やがてバシャーモと同じくらいの大きさになった。
「私たちは変わる。この瞬間に!」
その声とともに、光が砕けた。ゼニガメを覆っていた光が開放されジム内に霧散していく。その淡い輝きの中、ゼニガメは新たな姿を現した。
チアキがその姿を視界に捉えた瞬間、彼女は驚愕した。
バシャーモと対峙するのはもはやあの幼かったゼニガメではなかった。
亀のような基本的な姿はそのままだが、その立ち姿は巨大な重機を思わせた。ゼニガメのときとは違うたくましい腕と脚。甲羅のひびは消え、装甲板のような甲羅がその身を覆っている。そしてもっとも目を引いたのがその甲羅から伸びる戦車の砲身のような物体だ。
その身体はまさに戦闘用に鍛え上げられた重機のあり方そのものだ。そしてゼニガメのような幼さを全て捨て去った鋭角的な眼がバシャーモの視線と真っ向から対立した。
チアキはそのポケモンを知っていた。それはカントー地方のポケモントレーナーが最初に手に入れる三体のうち一体の最終進化系。水を操るその巨体は全てを破壊する戦いの化身。
「馬鹿な……、カメックス、だと。だが、この姿は……」
チアキがその名を告げる。そう、確かにそのポケモンの名は「カメックス」だった。だが、その姿はチアキの知る通常のカメックスとは大きく異なっていた。通常、カメックスの体表の色は青だが、目の前のカメックスの体表はその色ではなかった。
黒いのだ。
闇のように黒いその姿に、チアキは恐れにも似た感情を抱いていた。
「戦闘中に二段進化など……、どうして」
チアキはそこでハッと気づいてナツキを見た。ナツキは真っ直ぐにチアキを見据えていた。その鋭い眼差しにチアキは気づいた。
「まさか、トレーナーの思いがポケモンを進化させたというのか」
ゼニガメがハイドロポンプを覚えているということは確かにカメックスに進化するレベルには達していたのだろう。しかしそれでも今まで進化しなかったのはトレーナーと気持ちが完全に一つではなかったからなのか。そして今、一つになったからこそゼニガメは進化を遂げたというのか。だが、それはチアキの知るトレーナー達ではありえない話だった。チアキの知るトレーナーはただ自身の虚栄心を満たすためだけにポケモンを強くし、そして弱者を見下す連中のことだ。そんな連中がポケモンと心の深い場所で感応することなどありえないと思っていた。だが目の前のナツキはそれを行っていた。深いところでゼニガメと心が通じていたのだ。だからこそ、今進化した。
苦難に打ち勝つための力を本心から欲した今、この瞬間に。
「……認めない」
チアキがうなるように呟いた。目をかっと見開き目の前の現実を否定する。
「私は認めないぞ。そんなもの、虚像だと言うことを証明してやる。バシャーモ!」
バシャーモが雄叫びを上げる。それでカメックスに押さえつけられていた拳に再び火が入った。それはカメックスの腕を包み込み、焼きつくさんと荒れ狂う。バシャーモが押さえつけられたまま動けないのならば、このまま炎で潰してしまえばいいと考えていた。
しかし、カメックスにそれは通用しなかった。カメックスは炎をものともせず拳を握る手にさらに力を込める。ビシビシと筋肉に負荷のかかる音がする。その音はバシャーモの拳から出ていた。バシャーモは痛みに叫び、さらに炎の勢いは上がる。しかし拳を握り締める手は緩められない。
やがて激しい雷鳴のような音がひとつ鳴ったかと思うと、それと同時に炎の勢いがやんだ。カメックスがその手を離す。バシャーモはふらつきながら後退する。見るとその両手の全ての指が曲がるはずのない方向を向いていた。カメックスによって拳ごと握りつぶされたのだ。
バシャーモは咆哮した。それは痛みよりも、屈辱的な傷を受けたことへの怒りのほうが強かった。この手では「スカイアッパー」も「ほのおのパンチ」も出せない。つまり格闘タイプとしての誇りを傷つけられたことに相当したからだ。
怒りの咆哮とともにバシャーモの身体から炎が立ち上った。それは瞬く間にバシャーモの身体を覆っていく鎧と化す。再度、「オーバーヒート」を使うつもりだ。
それを感じたナツキはカメックスに指示を出した。真っ直ぐにバシャーモを指差して叫ぶ。
「カメックス、高速スピン!」
カメックスの甲羅から圧縮された蒸気が、地面に向けて噴射される。それによってカメックスの身体は宙に浮き、浮いたと同時にその四肢と砲身を甲羅の中へとしまう。そしてその四肢があった場所の穴から更なる蒸気が噴射されたかと思うと、カメックスの身体が緩やかな回転を始める。蒸気噴射は段々と激しくなっていき、ついにその形を明確に視認不可能なほどの回転速度に至ったとき、その身体が空気の刃を纏いながら真っ直ぐにバシャーモへと向かってゆく。
バシャーモはその姿が迫ってくるのをみるや、壊れた手を前に突き出した。そして次の瞬間、その手に巨大なカメックスの身体が激突した。
バシャーモが貫くような痛みに顔をしかめる。もう潰されている手で高速回転するカメックスを受け止めているのだからそれも当然だ。だがそれに一歩もひかず、バシャーモはカメックスを圧倒するように吼える。その声に反応するように、炎の鎧はさらに熱量を増してカメックスを受け止めるバシャーモの手に、まるで篭手のように装着された。
激しく激突する炎と水のポケモン。受け止められている箇所には摩擦のために絶えず火花が散り、まばゆい光を発する。チアキもナツキもその光に目を細めながらも、それを見つめることしか出来ない。
篭手の炎がカメックスの身体へと侵攻する。高速回転がその炎の大部分を吹き飛ばしていくが、そのうちのいくつかがまるで生き物のようにカメックスの身体へまとわりつき、甲羅の上からダメージを与えていく。一つの炎がその甲羅に根を張るとそれを触媒にして、バシャーモの身体の炎がカメックスの身体へと移っていく。そしてバシャーモの炎の鎧が半分ほど消えたとき、それはついにカメックスの身体を半分覆うほどの炎の網となっていた。
その熱量に甲羅の中からカメックスの苦しげなうめき声があがる。ポタポタと液体のような何かが回転するカメックスの真下に落ちていく。それはカメックスの血だった。ゼニガメのときのダメージがそのまま影響しているのだ。
その好機をバシャーモは見逃さない。半分ほどになった炎の鎧はさらに指先へと集中し、そこに炎のかぎ爪を形成する。完全にカメックスの回転を止めるためのその形は鋭い刃を思わせる。バシャーモがその炎の爪をカメックスの甲羅へと突きたてた。
すさまじい摩擦音とカメックスの苦痛に耐える声が響き渡る。火花がこれまで以上に増し、光が瞬き続ける。
「カメックス!」
ナツキがその名を呼ぶ。カメックスは懸命に回転を続けようと、蒸気をさらに放出するが勢いを止めようとする炎の爪は強い。
やがて健闘もむなしく、カメックスの回転が緩やかになっていく。そしてその甲羅の模様とおびただしいまでの傷跡が見えたときその回転が完全に、止まった。バシャーモはカメックスの身体を宙に浮かせたまま、固定している。
チアキが口元に笑みを浮かべる。
「私の勝ちだな」
それは完全に確信した口調だった。だが、その言葉にナツキは首を横に振った。
「いいえ。――私達の勝ちよ」
「まだ諦めないのか。よく見ろ! もう勝機は無い」
チアキが苛立たしげに叫んだ。しかしそれでもナツキは肯定しなかった。その眼にはまだ闘志に満ち溢れている。
「どういうことだ?」
チアキは疑問を口にする。何故そこまで自信が持てるのか、チアキには不思議だったからだ。
「よく見なさい」
ナツキはその疑問にカメックスを指差して答える。チアキが見るがそこにはバシャーモに受け止められた甲羅があるだけだ。そこから攻撃など――。
しかし、そこでチアキの思考は止まった。気づいてしまったからだ。この状況から攻撃する方法を。あの体勢、甲羅が真っ直ぐバシャーモのほうを向いている。頭が出るはずの穴がバシャーモの側に向いているということは――。
「いかん! そいつを放せ、バシャーモ!」
チアキが叫ぶ。だがその意味をバシャーモが理解する前にカメックスの身体に変化が訪れた。
背中側の甲羅が突然開く。そしてそこから白い砲身が出現する。それは真っ直ぐにバシャーモのほうを向いていた。バシャーモが気づき手の力を緩めようとする。しかし、炎の爪はしっかりと甲羅に食い込んでおり、外れない。何より壊れた関節では指など急に動かせるはずもない。
ナツキがカメックスを指差したまま、叫んだ。
「カメックス、ハイドロポンプ!」
その声で、バシャーモに向いていた二門の砲口からすさまじい勢いの鉄砲水が発射された。避けることなどできない。ゼロ距離で発射された水流はバシャーモの身体に直撃した。
バシャーモの身体が水圧で押される。爪が食い込んでいるために逃れることさえかなわずに攻撃を受け続ける。絶え間ない攻撃にバシャーモが顔を上げて叫んだ。それで爪となっていた炎が消えた。
その瞬間、バシャーモの身体は水流に流されるように一気に吹き飛ばされ、そして壁に激突した。壁は崩れ、バシャーモの身体は半分ほどその壁に埋もれた。
「バシャーモ!」
チアキはバシャーモに呼びかけた。しかしバシャーモはピクリとも動かない。カメックスが甲羅から四肢を出し、地面に着地する。そしてすぐに戦闘体勢に入った。まだバシャーモが起き上がってくると思っての行動だろう。ナツキもそれにあわせて身構える。
しかしいつまで待ってもバシャーモが起き上がる気配はなかった。
その時、チアキが突然、糸が切れたようにその場に膝を落とした。そしてもう動く気配のないバシャーモをじっと見つめている。
「バシャーモ……、私は……」
静かに呟いて、彼女はうつむいた。ナツキはチアキがうつむく瞬間に、チアキの頬を流れる一筋の涙を見たような気がしたが、その感覚が確信に変わるまでにチアキが顔を上げた。
そこには涙などなく、ただ何かを覚悟した眼差しがあった。その時、チアキは突然腰の刀に手を伸ばした。ナツキはそれに反応する。だがチアキは刀に手を伸ばしたかと思うと、その刀をはずして地面に置いた。さらには自らがまとう鎧も脱ぎ始めた。ごつい鎧は脱ぐのに時間がかかったがチアキはそれら全てを脱ぎ捨て、最後には髪を縛っていた布を取り捨てた。長い黒髪が一瞬揺れ、背中へと垂れ下がる。そして彼女自身は紺色の着物姿になっていた。
ナツキがそれにあっけに取られていると、チアキが静かに言った。
「参りました」
ナツキはそれが一瞬、何の意味か分からなかった。チアキはそんなナツキをしりめに続ける。
「私はバシャーモを使ったのに敗北した。私の手持ちで最強のポケモンだった。それに貴公は打ち勝ったのだ。そう――貴公はジム戦を制した」
チアキがそう言って薄く笑った。このジム戦が始まってから初めて見せる純粋な笑顔だ。それはどこかすがすがしささえ感じさせ、何かの重荷が取れたようだった。その顔を見てようやくナツキは現状を理解する。そして理解すると同時に腰が抜けた。その場に情けなくへたり込み、呟く。
「――勝ったんだ、私」
あれほど戦闘中に勝つことを意識していたのにいざ勝ってみるとその現実が信じられなかった。何か夢でも見ているような気分で、周囲を見渡した。視界の中にゼニガメが映る。いや、違った。もうカメックスだったか。
カメックスはナツキのほうを見て、短い首で力強く頷いた。それはまるで勝ったのだ自信を持てと言っているようであった。
「ナツキ」
自分を呼ぶ声を聞いてナツキはそちらを見る。すると間近まで来ていたチアキと目があった。ごつい鎧をはずしたチアキからは威圧するような気配も消え、そこには穏やかな表情で佇む美しい女性が立っていた。そのチアキがナツキのほうへと手を差し出していた。その手には小さく輝く何かが乗っていた。
「レンゲバッジという。受け取ってくれ、ジム認定の勝利者の証だ」
そう言ってそれをナツキの手に乗せた。ナツキはそれを見つめる。
レンゲバッジ。それは水面に浮かぶ蓮華を連想させるような美しい装飾が施されたバッジだった。緑色の表面に華の浮き彫りがありその浮き彫りの部分だけが僅かに桃色に輝いている。
チアキはナツキの手をとり、立てるか? と言ってくる。ナツキはなんだか気恥ずかしくなり、顔を僅かに赤らめながら頷いた。
立ち上がりチアキと向かい合う。
「負けるはずが無いと思っていたが――」
チアキが言う。柔らかい微笑みが今の彼女の表情にはある。きっとそういう表情のほうが似合う人なのだろうとナツキは思った。
「それが慢心だと言うことに気づいた。思えばいつしか私は私が嫌うトレーナーたちと同じになっていたのかもしれない。そいつらを一番嫌悪しながら、そいつらに勝つために強くなりながら、そいつらと同じだったなんておかしな話だな」
言って目を伏せた。きっとこの人もこの人なりに後悔しているのだろうとナツキは思った。いつの間にか戦いの狂気に飲まれていたことを。でも自分自身の間違いに気付けたなら、変わることが出来る。
「きっと、大丈夫ですよ」
ナツキが言った。それでチアキは顔を上げる。
「それに気づけたんだもの。なら、まだ大丈夫。もう一度ポケモンを信じてあげてください。……貴女を馬鹿にしたトレーナーたちは私も許せない。でも、ポケモンバトルはそんなに悲しいものじゃないんですよ。えっと……、上手く言えないけど楽しいこともあるって言うか、……あ。でも別に戦いが好きとかじゃなくって――」
言葉がまとまらず混乱し始める。そんな様子を見てチアキは笑った。そしてナツキの頭に手を置いた。
「よく分かっているさ。言葉なんかで説明できるものじゃない。そうだろ」
そう言ってナツキの頭を撫でた。それでなんだかナツキは恥ずかしくなって首を縮めた。
「……何だか、お姉さんみたい」
ナツキが小声で呟く。
「ん? なんか言ったか?」
「いいえっ、何でもありません」
ナツキが首を必要以上に振りながらそれを全否定した。当たり前だ。否定しなければ恥ずかさのあまり顔が赤くなっているのがばれてしまうだろうから。
カメックスをモンスターボールに戻し、チアキはキリハジムを後にするナツキの背中を見送った。
別れ際、二人は約束をした。
「また戦いましょう。今度はポケモンバトルを」
そうナツキは言って固い握手を交わした。それで何だか自分の罪が少しばかり軽くなった気がした。
チアキは握手した右手を見つめる。そしてジム内を見渡した。ジム内はところどころ破壊され見る影も無い。
「……ひどい有様だな」
そう言って両手を着物の袖に入れる。その時、背後に気配を感じた。それは今しがた感じた気配ではない。ナツキと戦っている間中、ずっと感じていた気配だ。チアキは目をつぶり、気配の数を探った。
その気配は四つあった。動きからしてその道の熟練者。恐らく全員男だろう。チアキはため息のようなものを一つついてから言った。
「出てくるがいい。ずっと見ていたのだろう」
すると暗闇から影が躍り出た。その影はチアキが感じた通り確かに四つあった。そして全員男のようだ。ようだ、というのはその連中の服装が全部同じだからもしかすると女が混じっているかもしれないということだ。
その連中の服装は上から下まで全て真っ黒だった。違う色といえば腰のベルトと、服にプリントされたロゴぐらいだろう。そこには「R」と、毒々しい赤い色で刻まれていた。
「ロケット団か」チアキが呟く。
「いかにも」と、ロケット団員の一人が答える。
「何のつもりだ。ジムまで来て何か用があるのか。あいにくだが挑戦は受け付けられないぞ。見ていた通り、手持ちは全て駄目になってしまったんだ」
冗談めかした口調でチアキは言う。それを聞いて先ほど言葉を発したロケット団員がくっくっと笑う。
「今日はその用で来たのではありません。ジムトレーナーチアキ殿。一つ聞きますが、貴女は我々が見ていた限り、違反をしているようでしたね?」
「違反? ……ああ。さっきの試合のことか」
白々しくチアキが言う。
「ええ。貴女方ジムトレーナーには制約があるはずです。各々のジムはトレーナーの力量に合わせた手持ちを用意するように、と。しかし貴女のバシャーモは少々強過ぎるように感じたがいかがかな?」
「ああ。そういえばそういう制約があったな」
「このままでは貴女はすぐに今の役職を下ろされましょう。いえ、それだけではない。分かっていてたくさんのポケモンを瀕死以上まで追い込んだのです。これは即逮捕かもしれませんねぇ」
ロケット団員は楽しそうに笑う。チアキはそれを睨みつけた。すると、ロケット団員は咳払いをひとつして、失礼、と言った。
「ともかく貴女にとっては二進も三進も行かない状況にあるはずです。違いますかな?」
「いや、正しいな」
「ならばこそ、提案があります」ロケット団員が指をひとつ立てて言った。
チアキがその姿を怪訝そうに見た。
「提案、だと?」
「ええ。簡単なことです。貴女に我々の仲間となって欲しいのです」
それを聞いてチアキは失笑した。
「仲間だと。犯罪組織のか?」
「いえ、正確には犯罪組織の中の戦闘集団の仲間になっていただきたい。犯罪となる行為は我々の仲間が行います。今、ここに来ている我々はそちらとは別の意思で動いております」
「別の意思? 何だ、それは?」
「申し上げられません」
その言葉を妙にはっきりとした口調でロケット団員は言った。
「私に、組織の中の戦闘のエキスパートにでもなれと?」
その問いかけにロケット団員が指をパチンと鳴らし、感動したような口調で答える。
「いや、さすが。察しが早い。その通り、貴女にはある任務を帯びた戦闘集団の部隊長として組織に身をおいていただきたい」
「その戦闘集団にいる間、私はどうなる?」
「もちろん、貴女の身の保証は我々が行います。貴女には何の気兼ねも要りません。ただ戦ってもらえればいいのです」
「条件は何だ?」
「貴女が我々に大人しくついてくること。そして誰にも口外しないこと。この二つが条件です」
ロケット団員が指を二つ立てながら言った。
チアキはその条件に少し考える。確かにこれ以上とないほどの待遇だ。それに今自分がここに居座っても、自分が倒したトレーナーたちがいつ自分を告発するか分かったものではない。
何より、自分には戦うしか能がない。
ならば――、悪魔の誘いに乗るのも一興か。
「いいだろう。この力、好きに使え」
チアキは言い放つ。その言葉にロケット団員は口角をつりあげて笑った。