ポケットモンスターHEXA - ナツキ編
第一章 二節「憂鬱と憧れ」
 カイヘン地方は山脈と海に面しているために、急勾配の多い特異な地形をしている。春は穏やかな潮風が盆地へと流れ込むが、冬は雪も解けにくくその雪は山脈付近では夏にも見られる。山脈地域と海辺の地域では生活様式も異なり、ひとつの地方の中にふたつの異なる民族が同居しているも同然だった。

 キリハシティは、そのカイヘン地方では西にある工場の多い町だ。
海に面したこの町の端は工場が連なり、黒く汚れた作業服を着た人々がせわしなくその周りを行き交っている。隣の町では港がありそこからこの工場地帯はずっとつながっているのだ。海に面する光景が見渡す限りすべて灰色。だがこの工場ばかり並ぶ風景はこの地方では珍しくなかった。

 もともと東のカントー地方のような進んだ技術や、西のジョウト地方のような伝統的な建築物もなく、伝説のポケモンの目撃例もないカイヘン地方は、ポケモンリーグ参加地方としての利権を得るために工業地帯としての道を歩んだのが始まりである。近頃はホウエン地方の技術支援も受け、ロケット開発にも力を入れ始めており、そのために海辺の景色は段々と無骨な灰色の建造物で埋め尽くされつつある。それはカイヘン地方が豊かになっていく象徴としてとらえられているが、それを快く思わない人間も数多くおり、カイヘン地方特有である海辺のポケモンたちの種類の豊富さが失われるのではと危惧する思いや、重化学工業や利益に走ることで犯罪組織を招き入れやすい環境を作っているのではないのかという見解もある。それを裏付けるように近年、カントーを拠点とする地下組織――ロケット団の活動がカイヘン地方で活発となっているという報告もある。そこでポケモンによる犯罪を防ぐためにこのカイヘン地方にもポケモン専門家が派遣され治安維持に協力しているという事例がある。その事例のひとつがヒグチ博士だ。ヒグチ博士はポケモン群生学の権威であり、さらにポケモントレーナーを支援する数々の道具を開発したことで知られる人物である。

 そして今、ナツキはキリハシティポケモンセンターでそのヒグチ博士と話していた。だが、直接話しているわけではなくセンター備え付けのパソコンによる通信で話している。

 そのパソコンの中のヒグチ博士の顔は曇っていた。

「どうしたんですか、ヒグチ博士?」

 ナツキが不思議そうに尋ねる。ヒグチ博士はもともと目つきが余りよくない人物だったが今日の顔はいつも以上だった。

 画面の中の博士はうなりながら、頭をかく。

『……いや、これは君に言っても仕方のないことなんだけど少し前に事件があってね。その事件の調査で呼ばれてしまって三日三晩徹夜なんだ。それに事件もまったく進展しないまま一回こうやって帰らせてもらっているわけなんだが、どうにもその事件のことが頭から離れなくて、こうやって額にしわを寄せて精一杯考えているのだよ』

 博士は額を指差しながらそう言った。確かに額に無数の濃いしわが刻まれている。ナツキはそれを見ながら博士がこれほどまでに悩む事件とは何か気になっていた。

「博士、その事件って言うのはどんな事件なんですか?」

 すると博士は急に激しく首を振った。

『とんでもない。君になんて教えられないような痛ましい事件だよ。ディルファンスの人たちにこの事件の調査は依頼しておいたから君が心配する必要は――』

「え? 博士、ディルファンスの人たちに会ったんですか?」

 突然、ナツキがパソコンの前で大きな声を出し、博士の言葉をさえぎった。画面の中の博士はきょとんとしたが、ああ、と言ってやがて納得したように何度も頷くと、

『そういえば君はディルファンスの大ファンだったか。ああ、会ったとも』

「そそそそそ、そこにはあの、アアアア……」

『うん、アスカさんもいたよ。いやー、君たち若い世代が夢中になるのも分かるよ。噂にたがわぬ美人だったね彼女は、私も思わず……――』

 ナツキは博士の話を半分聞きながら銃で撃たれたような衝撃と、陶酔しそうなほどの感銘を受けていた。何を隠そうナツキはそのアスカの大ファンなのである。

 会話の中にあるディルファンスというのはもともとカイヘン地方で近頃多発しているポケモンを使った凶悪犯罪に対抗するために組織された民間団体である。もちろん最初は警察がその手の捜査を行っていたのだが、ポケモンを使用する点では犯罪組織のほうが一枚も二枚も上手であり、ポケモンに対する専門知識の違いが事件解決の妨げになっていた。

 それを解決するためにヒグチ博士のような専門家が選出した屈指のポケモントレーナーたちを集めた自警団がディルファンスである。彼らはその独自の捜査と、巧みな技術によっていくつもの事件を解決してきたポケモン犯罪のエキスパートであり、その若きリーダーを務めるのがアスカである。ポケモントレーナーでありながらモデル級の容姿を持つ彼女はポケモントレーナーのカリスマとして雑誌などにも出演しておりその知名度は高く、カイヘン地方のトレーナー達の中では憧れとなっている。そしてその例に漏れずナツキもアスカの大ファンであった。そのアスカが自分のすぐ近くの知り合いのところまで来ていることが、今のナツキの頭を感動で満たしていた。

『あー、もしもし、ナツキ君?』

 しかしその言葉でナツキは唐突に現実に引き戻された。画面を見ると、ヒグチ博士が呆れ顔でナツキを見ていた。

『ともかく君には事件のことは教えられないから。えーっと、見つけたポケモン五十六匹、捕まえたポケモン四匹だっけ? もうちょい、いろんなポケモン捕まえような。じゃ、ジム戦、頑張っておいで、はい』

「ちょ、ちょっと、博士。そんな適当な」

 ナツキの声もむなしく通信が切られる。真っ暗になったディスプレイをナツキはしばらく見つめていたが、やがて大きなため息をひとつ吐きだし、とぼとぼとした足取りで待合の椅子へと座った。

 ロビーにある大型のウィンドウにはポケモンの回復の待ち時間が表示されている。ナツキのポケモンが完全に回復するまではあと八人分待たなければならなかった。ナツキはそれを見て、またも大きなため息をつく。

 いつもなら一瞬で終わるポケモンの回復が、今日はやけに混んでおり時間がかかった。その原因を聞くと一重にこの町のジムリーダーのせいらしい。なんでもこの町のジムリーダーの持つポケモンがやけに強く、そこでやられた人々が後を絶たないのだと言う。これからジム戦を控えたナツキにとってはなんとも聞きたくない話だったが聞いてしまった後ではもう仕方がなかった。

 ナツキは憂鬱を紛らわせるために、待合にあった雑誌を手に取った。ポケモンだいすきクラブが監修している雑誌だったがそれの表紙がアスカだった。

 表紙の中のアスカはモンスターボールを握り、最新のファションに身を包んでいた。その姿は自信に満ち溢れ、そのエメラルドブルーの瞳は強い意思を宿し真っ直ぐにナツキを見つめていた。ナツキはそれを見てぼんやりと、もしこの人と一緒に戦えたらと考える。もちろん、まだジム戦が三回目の自分が数々のジムを制覇しジョウトのポケモンリーグまでも制覇した彼女と対等に戦うなんてことは夢のまた夢だ。現実にかなうなんてことはありえない。だが、それでも彼女の強い立ち姿を見るといつでもそんな淡い夢を持ってしまう。

 ナツキはページをめくった。巻頭グラビアでは彼女が手持ちのポケモンとともに写っていた。左から、ジュプトル、キルリア、ルカリオである。緑色の蜥蜴のような容姿を持つジュプトルは、自慢の両手の武器――リーフブレードをかざし主人を守るように力強く立っている。小柄なエスパータイプのポケモン、キルリアはおしとやかに主人の傍らに寄り添っている。青い身体を持つ直立した狼のような姿のルカリオは両腕を組んで主人の影となり、その身を静かな闘志で満たしている。アスカはこの三匹しかポケモンを使わなかったが、どのポケモンも屈指の実力を持っていることは周知の事実だった。

 ナツキはそれを見て、またもため息をもらしながら、自分のポケモンたちを思った。ナツキが持っているのはどれも進化前のポケモンばかりだ。最初にもらったゼニガメでさえまだ進化していない。他の三匹のポケモンもまだ進化には程遠い。進化しなければ能力は弱いままというわけではないが、それでも進化すれば強さは増すに違いないのだ。それにいつまでも自分の手持ちが進化しないというのはなんだかトレーナーとして未熟だといわれているようで少し悲しい。

 その時、呼び出し音が鳴り大型ウィンドウがあと二人待ちだということを告げる。それと同時に、大型ウィンドウの隣の小型テレビに映し出されているニュースがナツキの目を引いた。

 そこには『ロケット団員、留置所で自殺』という見出しとともにその団員が捕らえられていた警察署が映し出されていた。ナツキはそのニュースのテロップをじっと見つめる。

 どうやら先日、カントー地方のとある草むらで呆然としていたロケット団員が捕まり、そして今日未明彼は突然自殺したのだと言う。原因は不明。ただし彼はしきりに「影」を恐れるような供述をしていたようである。

 もしかするとこれが先ほどヒグチ博士が言っていた事件なのではないかとナツキはおぼろげながらそう思った。

 その時、呼び出し音がナツキの番が来たことを告げた。ナツキは雑誌をもとの場所に戻し、受付に回復したポケモンを受け取りにいった。























 ヒグチ博士は頭を抱えていた。

 ここはカイヘン地方の南西、ミサワタウンにある彼の研究室である。この研究室は彼自身の家と繋がっており、真正面から見ると単なる民家だが裏から見ると直方体の銀色の研究所というおかしな構造になっている。それもこれも彼がカイヘン地方に急に呼び出されたために使える施設が手配できず、仕方なく彼のような研究者を受け入れてもいいという関係者を探したところこの家しかなかったのである。いわば彼は研究者であり、居候でもあった。

 そしてそんなヒグチ博士が今、頭を抱える理由は当然、未解決のまま丸投げされた事件のことである。今朝、警察はロケット団員が死亡したことと、結局彼の口からは何の情報も得られなかったことを博士に伝えた。博士はそれに怒り狂い文句を言ってやろうと外に出ようとしたがそれを阻止したのは博士のポケモンであるナゾノクサだった。

 ナゾノクサとは青い身体を持ち、足だけが生えた球体のような形でその頭に雑草が生えているという非常に簡単な形のポケモンであり、数がやけに多いためほとんどどの草むらでも出会う。

 ポケモン群生学の権威である博士は、どの地方にも棲み、そして高い繁殖能力を誇りさらには「石」による進化で特殊な進化形態を持つナゾノクサに大変着目し、多数の地域を回って、とんでもない数のナゾノクサを採集した。

 そのおかげでいまや研究所はナゾノクサで埋め尽くされている。博士は彼らを逃がすことも考えたがなぜか博士に捕まえられたナゾノクサは高確率で博士になつき、決して離れようとはしなかった。そしてナゾノクサは二酸化炭素を吸い込み酸素に変えるためこの研究所の酸素濃度は異常に高く、酸素中毒の研究者も出るほどだった。だが今の問題はそれではなく極度になついたナゾノクサは博士が研究室から出ようとすると捨てられるのだと思い彼の道を阻み、そればかりか博士にまとわりついてくるのである。

 博士は目の前にわいたナゾノクサの大群が一斉に好意の眼差しを持ってこちらを向いた瞬間、今日はやめておこうと思い、また椅子に座って頭を抱えた。
そんな中のナツキからの通信である。適当になってしまうのも無理はなかった。

 その時、前の民家と研究室をつなぐ扉が唐突に開かれドアの前のナゾノクサ数匹がドアに挟まれた。博士はそちらへと力のない目を向ける。

 そこにいたのは少女だった。髪は短く切りそろえられ、いかにもポケモントレーナーらしい活動的な上着と女の子らしいふりふりした短いスカートといういでたちである。それだけで博士は目の前の少女が誰なのか分かった。

 彼女は博士が居候している民家に住む少女、ユウコであった。

「はっかせー! 遊びにきたでー!」

 元気よくそう言って博士が何か言う前に研究室に土足で上がりこんでくるユウコ。そして彼女が目の前に来ればすかさず床を埋め尽くしていたナゾノクサが逃げていく。どうやらナゾノクサは彼女が苦手なようでユウコにだけは近づこうとしない。彼女がいる間だけナゾノクサは隅っこに固まってこちらを見ない。いいことだ、とヒグチ博士は思っていた。

「なぁなぁ、なんかおもろいことないん?」

 キラキラした目でユウコは机の上で暗い顔をしているヒグチ博士に尋ねる。どうでもいいことだが彼女はジョウト出身者らしく、西のほうのなまりがある。

「おもろいことって……、君、私が面白そうに見えるかい?」

 自身の顔を指差してヒグチ博士は尋ねる。それを不思議そうにユウコが見る。博士の顔には疲労の色が浮かび、目じりは垂れ、くまは真っ黒になるほど出来ており、さらにひぃひぃと細かい息が口から漏れていて起きているだけでも精一杯といった様子である。だが、ユウコは首をかしげながら、

「おもろいやん。なんでそんなこと聞くん?」

 と言って事も無さげに笑った。博士はその言葉で机に額を打ち付ける。その様子を見てユウコがげらげら笑いながら、「なにそれ、新しいギャグ? 博士、やっぱ天才やわー!」と言って見ている間に腹を抱えて床を回転しだす。

 博士はぼうとしながらその様子を見ていたが、やがて何かを思い出したように「あ」と一言だけもらし起き上がった。それを見てユウコの回転が止まった。

「どないしたん?」

「ちょっと、忘れていることがあった。おもろいかどうかは分からないけど、君にやってもらいたいことがあるんだ」

 そう言って博士は研究成果を積み上げたファイルを退かし、その下から親指ほどの大きさの黒い端末を取り出し、それをユウコの目の前に差し出す。

「なんやのん、コレ?」

 ユウコはそれを手に取り、鼻で嗅ぐ。嗅いじゃいけません、とヒグチ博士は注意する。

「データチップさ。これでナツキ君たちのポケモン図鑑をパワーアップさせられる。アヤノ君とリョウ君とサキにはもう渡してあるんだけど、ナツキ君にだけ渡しそびれちゃってね。彼女はまだキリハシティにいるらしいから届けてきてくれないか?」

 それを聞いてユウコは「えー!」と不満そうな声をもらす。

「それって博士のパシリなれいうことやん」

「パシリじゃなくてお使いと思いなさい。あと女の子ならもっとつつましい言葉を使いなさい」

「えー。博士ジジくさい」

 博士の説教に辟易しつつ、ユウコはデータチップを大切なものを入れるポケットに入れ、カバンから自前のローラーシューズを取り出した。

 それを見て「ここで履くな」と博士は言うがそんな言葉は意に介さずユウコはローラーシューズのつま先をとんとんと床に何度か打ち付けると、キッと真正面を向いた。ユウコが目的を見つけたときの顔だった。

「じゃあ、博士。帰ってきたらバイト代一万な」

 ユウコは人差し指と親指で円を作り不適に笑う。その言葉に博士が返す前にユウコは地を蹴って滑走し、ローラーで床に傷をつけながら研究室を出て行った。

 博士はその背中を見送って、呆然としているとナゾノクサが足元に寄り添ってきた。そして瞬く間にユウコが来る前と同じ光景に研究室はなっていく。

 ヒグチ博士はため息をつき、椅子に座ると天井を見ながら呟いた。

「……一万は高すぎるだろ」


オンドゥル大使 ( 2012/07/13(金) 22:42 )