プロローグ
重い漆黒があたりを埋め尽くしていた。
静寂の中に聞こえるのは虫ポケモンたちがわずかに動く音だけである。普段ならばモルフォンたちの放つりんぷんが、バルビートたちの光に反射して粉雪のような光がこの草むらを埋め尽くしているはずだが、今宵はその光はなかった。
代わりにチカチカと先ほどから草むらの中心に激しい光が明滅している。それは一瞬光ったかと思うと暗い闇へとすぐに飲み込まれていくが、その光は普段この場所をすみかとしている虫ポケモンたちの眼には強すぎた。
それは彼らがもっともいやがる戦闘の光そのものだったからだ。
その時、激しい激突音が響き、光とともに巨体が暗闇に浮かび上がった。赤い眼が暗闇の中、ぎらぎらと光る。その巨体の正体は人の胴ほどの太さのある身体をもつ黒い蛇だ。その蛇は毒々しい赤の毒針を尾に持っており、顔は黄色い甲殻が仮面のように覆っている。これはただの蛇ではない。ポケモンだ。
その蛇の名はハブネークといった。その隣にいるのはトレーナーだろう。黒い服を纏い、ポケモン社会の闇に潜む者たち――ロケット団員だ。
彼のハブネークは先ほどからある敵と戦っていた。ある敵、と言うのはその敵の正体が彼自身もつかめていないからだ。だが、その敵が並大抵のポケモンとトレーナーでないことははっきりしている。
なぜならば、彼はその敵を追ってここまでやってくる途中、仲間を三人もやられたからだ。しかもそのやられた仲間たちは幹部クラスの護衛として名のあるものたちばかりである。そんな者たちを退けるほどの実力者とたった一人で今、戦っているという事実が彼を緊張させていた。額に汗が滲み、暗闇でただでさえ視界が悪いというのにその汗が目の中へと入って何度か目の端に映った敵の姿を霞ませる。
何よりこの暗闇では敵がどこから仕掛けるのかもわからず、彼のハブネークは「みやぶる」を使いながらでしか戦えず、敵の攻撃を受け続けるという危機に瀕していた。
だが、この何度目かの攻防で敵の攻撃パターンをハブネークは分かり始めていた。そして今、数度目かの「みやぶる」によってついに敵の姿が目の前に現れた。
彼はこのチャンスを見逃さない。
「ハブネーク、毒針ッ!」
ロケット団員の叫びとともにハブネークの身体がうねる。そして尾にある赤い毒針が鋭い光を放ったかと思うと、それは地を駆け空気を裂いて目の前の敵へと襲い掛かった。
このハブネークは鈍足だが命中率と攻撃力はロケット団の中でも折り紙つきの実力だ。何より「どくばり」は必中のわざ。避けられるはずがない。
――毒を与えた後に、鋭い牙でケリをつけてやる。
そうロケット団員は思っていた。だが、その毒針はあたらなかった。確かに敵を捉えたかに見えた針はむなしく空をうがつ。それと同時にどこからともなく声が聞こえてきた。
『ゲンガー、サイコキネシス』
その声とともに暗闇に巨大な影が現れた。ガスのようなその影は夜の暗闇と境目が分からぬほどの漆黒の固まりだった。
その影の中ほどに亀裂のような線が入りそこが唐突に開いた。
そこにあったのは二つの眼だ。赤いまがまがしい眼がハブネークをにらみつける。ロケット団員はハブネークに回避の指示を出すのも忘れてその眼に見入ってしまった。
それが勝敗を分けた。
突如としてハブネークの身体が何かに持ち上げられたかのように宙に浮く。何が起こっているのか、解す前にハブネークの身体がしめつけられてゆく。
これが「サイコキネシス」。エスパータイプの中でも威力の高いわざである。しかしこの「サイコキネシス」は通常、相手の放つ念によってこちらのポケモンに衝撃波のようなダメージを与えるだけのものであったはずだ。だが、目の前の光景はそんな生やさしいものではない。
ハブネークの身体に亀裂が入る。表皮が裂け、桜色の血肉が露になる。ハブネークの身体はそんな簡単にダメージが通るほどやわな物ではないはずだ。ならばなぜ、ハブネークはあんなにも苦しんでいるのか。
ハブネークが叫び声をあげる。赤い眼から力強さが消えていく。しかししめつける力は弱まらない。それどころかさらに強まり、ハブネークの身体から痛々しい音が幾重にも響き渡った。身体が絞られ、甲殻と甲殻の間から赤黒い体液がポタポタと地面に落ちる。
その様子を見ていたロケット団員は思わず叫んだ。
「やめろ、もうやめてくれ! ハブネークが死んじまう!」
その言葉に一瞬、サイコキネシスが緩み、ゲンガーの眼がロケット団員をとらえる。
『分かったよ』
どこからともなくそんな声が聞こえた。
ロケット団員はそこでホッとした。どうやら殺す気はないらしいと思ったのだ。
だが、――その気の緩みがいけなかった。
『サイコキネシスでは殺さないよ』
その言葉でゲンガーの身体にまた変化が訪れた。眼の下に新たな亀裂が入り、それが上下に割れる。
そこには紫色の蜃気楼のような空間が揺らめいていた。その空間の端にはびっしりと乱杭歯があった。
それが口だと、ロケット団員は悟った。そしてゲンガーが何をする気なのかも。
「――やめろ」
サイコキネシスでしめつけられたままのハブネークがゲンガーの口へと吸い込まれていく。ハブネークは抵抗するが、それもむなしくしめつけは緩まない。
『ゲンガー』
またあの声が響く。
ロケット団員は叫んだ。
「やめてくれぇぇぇぇぇぇ――!」
だがその叫びも虚空へと消え、最後の言葉が告げられる。
『噛み砕く』
その言葉とともにハブネークを吸い込んだゲンガーの口が閉じられ、ブルドーザーのような咀嚼音がその中から響き渡る。
喰っているのだ。同じポケモンを。
ロケット団員はその様子を黙って見ているしかなかった。自分のポケモンが影に食い潰されていく様を、ただ呆然と見ることがどれほど苦痛だったろうか。やがてロケット団員の中にゆがんだ笑いのようなものがこみ上げてきた。どうしようもない現実が、彼の意識をも喰らおうとしていた。
しばらくしてその音が止むとぎちぎちという音が周囲の暗闇から聞こえどこからともなう小さな何かがロケット団員の足元へと転がってきた。
彼はそれを見る。
それはハブネークの赤い毒針のカケラだった。
直後、静寂を割る叫び声が木霊した。
どこかの世界。どこかの国。
そこには不思議な不思議な生き物が居た。
人の意思を超えたものから、人に懐くもの、形も様々な彼らはいたるところにすみつき人間とともに生きてきた。
いつしか人間たちは彼らのことをポケットモンスター、縮めてポケモンと呼び始めた。