エピローグX
彼岸花置きし指先に、滴る血が乾いた大地を濡らす。その血はきっと罪の味。赤い墓標を並び立て、私は罪の丘を下る。風が荒巻き髪を撫で。私のまなこは空へと吸い寄せられる。灰色に染まる空の中、東の空に光る一番星の光が、あの日見た星と重なって、記憶の中で二重像を結んだ。
額に浮いた汗を拭い、呼吸を整える。
三十分前に迫った時計を見やり、ナツキはポニーテールを解いて長く息をついた。鏡の前で黒い服を身に纏った自身の姿がある。ヨシノが仕立ててくれた服は一年経った今も大事に着ていた。胸元に手をやって瞳を閉じ、ナツキは思いを馳せる。ヨシノは元気にしているだろうか。テクワはヨシノの言う事を聞いているだろうか。博士は疲れて目の下の隈が濃くなっていないだろうか。サキとマコは仲良くしているだろうか。アヤノはあの後どうしたのだろうか。リョウはカントーへ行って兄を見つける事が出来るだろうか。アスカは罪を償って胸を張って社会に出てくる事が出来るだろうか。フランは大切な人の傍にいられるだろうか。
いくつもの思惟を身体の内側に感じる。大丈夫だと、返してくれる人はいない。そう簡単に言える話はないのだ。ただ、それでも前に進んでいると彼らは返すだろう。歩み続ける事が、人間にとって何よりの原動力となるのだから。ホルスターにかけたモンスターボールへと手を伸ばす。彼らの温もりが指先から伝わり、まだ自分はポケモントレーナーなのだと実感させられる。この胸に彼らを信じる気持ちがある限り、ポケモントレーナーであり続けられる。
絶望を退けるだけの光を身体の内側から発せられるのならば、きっと世界の色は大きく変わるだろう。ナツキは目を開いて、自身の姿をもう一度見た。数々の人々の悲しみ、怒り、喜びの上に今の自分は立っている。正義でも悪でもなく、ただ自分の信じた道をしゃにむに走ってきた結果がこれなのだ。この身はただ自分だけの決意で出来ているわけではない。多くの人の決意が自分という小さな存在を押し上げたのだ。
扉がノックされ、ナツキは「どうぞ」と呼びかけた。開かれた扉からポケモンリーグの事務官が顔を出し、
「ナツキさん。会場にご案内いたします。どうぞ」
促されて、ナツキは「三分だけ、待っていただけますか?」と返した。事務官はにこやかな笑顔を作り、扉をゆっくりと閉めた。
ナツキは鏡の向こうの自身と向き合った。覚悟がある、とは自信を持って言う事は出来ない。それでもなすべきと思った事をやろうとする意志はある。
「チアキさんの言っていた事とは、ちょっと違うかもしれないけれど。でも、私は自分の道を選び取れました。チアキさん、それに皆のおかげで。本当にありがとう。今は、こんな言葉しか言えないけれど、見守っていてください」
ナツキは髪を結って肩にかかったポニーテールをかき上げる。扉に向かい、事務官に案内されて会場まで行った。四角く切り取られた光の向こう側から歓声が弾けて聞こえてくる。熱気に気圧されそうになりながらも、ナツキは会場へと足を踏み出した。水色のタイルに白い枠線が引かれ、中央にはモンスターボールを象ったマークが描かれている。ナツキは足を止め、相手を見据えた。
相手はちょうど体操をしていたところだった。ナツキに気づくと、いつかと同じような朗らかな口調で「おっ、来たね」と声を上げる。
青いつなぎにぼさぼさの髪を掻いて、レイカが待っていた。旅のきっかけを作ってくれた女性へと、ナツキは会釈をした。
「お久しぶりです。レイカさん」
「あー、もうお堅いのは無しでいこうよ、ナツキちゃん。それにしても、ここまで来るとはねぇ」
感慨深そうにレイカは腕を組んで何度も頷く。ナツキは少し可笑しくなって微笑んだが、テレビ中継のカメラを見ると、緊張が走った。それを見通したように、レイカが「気にしないほうがいいよ」と言った。
「勝手に見ているだけだから。いつも通りの戦いでいこう。あの時、出来なかったポケモン勝負!」
レイカはつなぎのポケットからモンスターボールを取り出した。ナツキもその言葉に幾分か緊張を和らげられ、ホルスターのボールへと手をやった。パートナーのポケモンが優しく語りかけてくる。指先から伝わる温もりに、ナツキは深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けた。
レイカはモンスターボールを振り翳し、叫んだ。
「じゃあ、行くよ! チャンピオンを決めるための戦い。最後の四天王、鳥ポケモン使いのレイカ! 全力で戦わせてもらいます!」
レイカがモンスターボールを投擲する。地面でバウンドしたボールが割れ、中から光に包まれた鳥が躍り出た。あの時と同じ、レイカのベストパートナーである鳥ポケモン、ピジョットだった。ピジョットが甲高い鳴き声を上げる。その声さえ、レイカのさばさばした性格を引き移したように安心させてくれるのだから、ナツキはようやく自分の感覚を取り戻すことが出来た。
ナツキは息を長く吐き出し、ぐっと押し止めた。これから先も、迷う事はあるかもしれない。きっと後悔もたくさんする。誰かのせいにする事もあるだろう。どうしようもない壁に幾つもぶつかり、自己嫌悪に苛まれる日々に陥るかもしれない。
「……それでも、全力で生きる」
それだけが散っていった者達へと送る事の出来る唯一の手向けだった。ナツキはホルスターからボールを引き抜き、叫んだ。
「行け――!」
投げられたボールから光が迸り、明日へと続く道を照らし出した。
ポケットモンスターHEXA 完