エピローグT
私は花を摘もう。ひとつは私のために。もうひとつはかつて私だった子のために。もうひとつは私の片割れのために。そして最後のひとつは、私の大切な人のために。
汽笛が長く低く響き渡る。
港町として名高いカワジシティは三番の番号が振り分けられた港に、今、一隻の船が停泊していた。プレミアムカイヘン号と名づけられたその船はカントーとカイヘンを結ぶ数少ない交通網の一つだった。その船からタラップが下ろされ、乗客達が降りていく中、薄紫色の髪を短く切り揃えた少女が昇降口を指差した。
「リョウ。あれ乗りたい!」
周囲の視線が突き刺さり、リョウは肩身の狭い思いをしながら、少女の頭を小突いた。
「馬鹿。声でけぇし、大体、今からあれ乗るんだよ。黙ってろ、ルイ」
小突かれた少女――ルイは頭を押さえて、目の端に涙を溜めながら膨れっ面になった。
「……むぅ。リョウってば変わらないよね。やっぱり冷たいし」
「ふざけてろ、馬鹿。お前の荷物も持ってやってんだ。感謝しろよ」
リョウは大荷物を引っさげて、身を翻した。視線の先にいたのは活発そうな薄手の服に袖を通したユウコだった。それでもスカートはいつもと同じようにフリルのついたものを選んでいる。
「博士が来れへんからって、どうしてうちなんやろうな」
「知るかよ。まぁ、あの顔じゃこういう場所には来にくいだろうな」
「目の下くまさんだから?」
見上げて問いかけたルイへとリョウは渋い顔を返した。
「……お前、それ何気に博士傷ついているからな。あんまり言ってやるなよ」
「ええやん。目の下くまさんって、何かかわええし」
ねぇ、とルイとユウコは視線を交し合う。リョウは理解しがたいものを見るような目つきで言った。
「可愛いって、お前らなぁ」
嘆息を漏らしながら、リョウは左手の時計に視線を落とす。あと三十分もすれば出航だった。
「いいん? 左手だけで?」
特に含んだところも無く訊いてくるユウコの言葉は一種清々しささえ感じさせた。リョウは右肩を上げる。肩口から右腕は無かった。あの後、義手を博士と共に探したがどれもしっくりくるものは無く、結局、「ないほうがいい」として今に至るのだ。
「ああ。博士には色々面倒かけちまったけど、俺はいい。もう左利きも慣れたしな」
「そう。なら、ええんやけど」
その言葉にリョウは首を傾げた。ユウコにしては何か思うところがあるように見えたからだったが、ルイが叫んだ声にその感覚は掻き消された。
「うわー! あの船すっごいよ、リョウ! 煙はいてる!」
子供さながらに興奮するルイへとリョウは親のように嘆息をついた。ルイは今まで外の世界を落ち着いて見た事がなかったのだからそう思うのも当然ではあったが、いくらなんでも騒ぎすぎだと思ったリョウは荷物を下ろして左手でルイの首根っこを掴んだ。猫のようにだらんと垂れ下がったルイがきゃっきゃと喚く。
「力、強なったね、リョウ」
「あ、ああ。そりゃ、左手だけだとな。それなりに鍛えねぇと不便だし」
「でも、いくら強なったからって、二体だけで大丈夫なん?」
リョウのベルトのホルスターについているモンスターボールをユウコは指差した。リョウは視線を向けて、「心配ねぇよ」と言った。
「向こうに着けば制限は解けるし、パソコンは全国繋がっているんだ。大丈夫だろ」
ユウコが言っているのはポケモンの所持数の制限だった。あの後、「ヘキサ事件」と呼ばれるようになったヘキサのテロ行為の後に、カントーがカイヘンを併合し、カイヘン地方が名目上「カントー特別自治区」となってから一年。全てのポケモントレーナーは厳格に制限を受け、ポケモンの所持数は二体までとなった。それを超過した場合、モンスターボールが強制的にロックされる仕組みがカイヘン地方全土に発布されたのである。この規格は今のところカイヘン地方だけだが、カントーの支配の及ぶ地域では広がるのではないかという懸念もある。
「二体っていくらなんでも厳しいんちゃう?」
「レベル上げにはちょうどいいさ。リーフィアもフシギバナもその必要はねぇくらい強いけどな」
モンスターボールに収まっている二体へとリョウは目を向ける。あの激戦をくぐり抜けたポケモンならば、命を預けてもいいと思えた。ユウコは髪をかき上げ、「まぁ、リョウがええって言うんならええんやろうけど」とどこか煮え切らない口調で返した。
「何だよ。何かありそうな言い方だな」
「何もないけど、そういえばルイはポケモン持っとるんやっけ?」
話を逸らし、ユウコはルイへと視線を向ける。ルイは「持ってるよ!」と元気に答えて、ホルスターからモンスターボールを引き抜いた。
「ヒトカゲを目の下くまさんにもらったの! ボク、進化させずに育てるんだ」
邪気無く笑うルイへとユウコはどこか攻撃的な目を向けた。
「ふぅん。それでリョウが守れる思ってるん?」
「ボク、強いから大丈夫だよ!」
言い返すルイとユウコの間に何かしら男には知れぬ火花が散っているような気がして、リョウは「それより」と話を逸らした。
「定期連絡はするけど、博士の事、頼むぜ。あの人、あれで抜けてるからな」
「ああ、分かっとる。家族ぐるみの付き合いやさかい、その点では大丈夫やわ」
「ホントかよ?」と訝しげな視線を向けると、ユウコは胸を張って「大丈夫やって」と言った。
「なにせ、この天才ユウコちゃんがついとるさかいな」
「それが余計に不安だっての」
交わす言葉にリョウとユウコはお互いに笑みを浮かべた。思えばヘキサ事件の後に、落ち着いて話したのは久しぶりかもしれない。あの後、事情聴取や取調べ諸々が重なり、一年はあっという間に過ぎてしまったからだ。あの場にいた事を証明する手立てはないのに、刑事というものは融通が利かないらしく同じ事を何度も尋ねられた。そのせいか、ユウコと空中要塞に赴く前に交わした約束は未だ果たせていない。あれが何だったのか、ユウコもまだ言おうとはしなかった。しかし、今からまた別れるという時にする話でもないな、とリョウは思った。
「カントーにお兄さん、いるんかな」
「ああ。間違いねぇ。兄貴はカントーにいる」
あの時、リョウも感知野で感じていた。空中要塞を貫いた四色の光は兄のポケモンが発したものだと。ナツキも僅かだがそれを見たらしかった。リョウはようやく踏み出す事の出来た自分に、ほとほと呆れていた。今の今まで踏ん切りがつかなかったのは、どこかで諦めていたからかもしれない。それが希望へと変わった途端に行動するあたり、まだまだ自分も子供かと自嘲した。
「見つかるといいね」
「必ず見つける。そんで一発殴ってやるんだ。どうして今まで帰ってこなかったんだ、ってな」
リョウとユウコは微笑を交し合い、ルイは船に乗るのを今か今かと待ちわびてそわそわしていた。
「そろそろ行くぜ。これ乗りそびれたら一ヵ月後だからな」
カントーとカイヘンを行き来する船の数も制限されている。チャンスは少なかった。ユウコはルイを手招いた。ルイはぱたぱたとユウコに駆け寄り、「どうしたの?」とユウコと同じ短い髪を揺らす。髪を切ったのはユウコだった。ユウコはルイへと顔を近づけ、言った。
「負けへんから」
ルイはしばらく黙っていたが、やがて大輪の笑みを咲かせ、「うん!」と頷いた。
「何やってんだ? 行くぞー」とリョウが呼びかける。
ユウコは唇の前で一本指を立てて、「この事は女同士の秘密やから」と告げる。ルイも「秘密だね」と面白がって言った。二人はリョウには知れぬように笑みを交し合い、ルイはリョウの下へと駆けていった。その背中へとユウコは手を振り続けた。リョウは背中を向けたままではなく、振り返って片手を上げた。
「じゃあな」
短くぶっきらぼうに告げた言葉でも一年前まではそんな言葉すらなかったのだ。二人の姿が人混みの中に消えてから、ユウコは小さく口にした。
「待っとるから。リョウ。帰ってきたら、言うよ。うちの気持ち。ルイには負けんって」
その日のためにも魅力的な女性にならなければ。ユウコはそう決意し、港にある時計を仰いだ。今まさに、正午の鐘がなる頃だった。
『現在、午後十二時を回りました。カイヘン地方統括、ミサワタウン支部よりお伝えします。労働者の皆さんは、第二十六則に従い、昼食休憩を取ってください……』
正午を告げるアナウンスにハッとして目を覚ます。澄んだ声が響く中、ヒグチ博士はベッドから身体を起こした。寝汗を掻いており、べっとりと寝巻きが身体に張りついていた。博士はため息をついて、身体を伸ばす。カーテンを開けてもう中天に昇った光を全身で浴びていると、甲高い鳴き声が聞こえてきた。
窓を開けて外を見やる。
ペラップがちょうど博士の部屋がある二階へと飛び立ってきていた。手招くとペラップは博士の手に止まった。もうその嘴からキシベの声が聞こえる事はない。主人の声などもう忘れてしまったのか。それとも、博士についていく事を自ら選んだのか。それはポケモンの声が解せぬ以上、判断のしようがなかった。
ペラップを外に放ち、降りていくと少年が一階で跳ね回っていた。上半身裸である。その後ろから、「待ちなさい、テクワ」という声が弾け騒々しい追いかけっこの足音が響き渡る。階段を降りてきた博士とちょうど目があって立ち止まったのはテクワの母、ヨシノだった。ヨシノは博士に気づくと、「おはようございます、ヒグチ博士」と笑みを咲かせた。一児の母とは思えぬ微笑みに思わずくらりとしそうになるが、何とか持ち堪えて博士は「おはよう、という時間じゃないか」と返した。
「どうして、誰も起こしてくれなかったんだ?」
「起こしましたよ。ただ、サキちゃんもマコちゃんも今日はいないから、そのせいじゃないんですかね」
「そうか。サキはマコ君と一緒に朝早くに出るって昨日言ってたな」
ぼやけた記憶を手繰り寄せながら博士がぼうっとしていると、テクワがズボンも脱ぎ始めた。それを見かねたヨシノが「こら!」と叱りつける。
「汗かいたんだから、いいだろー」
テクワが風呂場へと向かう。ヨシノは、「だからって脱ぎ捨てないの!」と怒鳴った。若くてもやはり母親だな、と博士は思った。いつの時代も母は強いものなのだ。自分の子供の頃もそうだった、とらしくもない感傷に身を浸していると、寝汗のべっとりついた寝巻きに気がついた。
「私もシャワーでも浴びようと思ったんだけど……」
「ああ、すいません、博士。後にしてもらってもいいですか? お昼ごはん、準備しますから」
ヨシノの声に博士は息をついて笑みを返した。ヨシノも笑ったがすぐに母親の顔になって、テクワを追いかけた。博士は一階の研究室へと入って行った。その部屋の一つのテーブルに写真が立てかけられている。サキと自分が写っていた。幼い頃のサキではなく、今のサキだ。マコも一緒にいる。
「大丈夫。勝手に大きくなるものなのさ。子供っていうのは」
誰にいうでもなくそう言って、博士は窓の外を見つめた。強い日差しが降り注ぎ、吹き込む熱っぽい風が夏の到来を予感させた。