第六章 十九節「紅蓮の悪鬼」
激震が足元をすくい、ナツキ達は一様にその場に倒れた。
タリハシティの高層ビルが傾ぎ、この浮遊要塞そのものに衝撃が与えられたのだと知る。政府の攻撃か、と思ったが政府がそれほどまでにヘキサの動向を読めたとも思えなかった。腹の底に響き渡る重低音が響き、タリハシティの角度を修正していく。
「無敵か」と呟いたのはフランだった。
顔を拭い、高層ビルを見やっている。雨が降り続く中、浮遊するフワライドの群れが曇天の空に映る。その時、ナツキは不意に踵から指先まで震わせるプレッシャーの波を感じた。これまで感じた事がない。重みと呼吸困難すら感じさせるプレッシャーの元を探そうと視線を向けた、刹那、高層ビルに何かが衝突した。それはすぐさま黄金に輝いたかと思うと、ビルの群れの中に消えた。
「あれは……!」
リョウが声を上げる。衝突したのは一瞬しか見えなかったが、確かにポケモンだった。だが、見た事のない種類だ。五メートル以上はあるだろう。リョウがポケモン図鑑を開き、該当するポケモンを探している間に、ナツキは空に小さな息遣いが密集しているのを感じて仰ぎ見た。先程、視界に映った輸送機がタリハシティへと滑るように流れ、着地しようとしている。
「ディルファンスか」
サキが苦々しく口走った。恐らくそうであろう。だが、輸送機一機でどうしようというのか。数十人も乗れるようには感じられない。何かディルファンスには秘策でもあるのか。その時、「分かったぞ」というリョウの声が弾けた。
「今のポケモンはレックウザだ」
「レックウザって……」
「ホウエンの伝説のポケモンだよ。空を統べるポケモンのようだが、目撃例は少ない。オゾン層の上を飛んでいるらしいからね」
補足したのはヒグチ博士だった。こういう時にはポケモンの博士らしい事を言ってくれる。
「だが、伝説のポケモンがどうしてこんな所にいる? ホウエンなんて遠すぎるぞ」
サキの言葉に全員が顔を伏せて黙りこくっていると、「あっ」とマコが声を上げた。マコだけ顔を上げて両掌を上に向けていた。
「何だ、馬鹿マコ。また邪魔をするんじゃないだろうな」
「そうじゃないよ、サキちゃん。おかしいじゃない」
「おかしい? 何が?」
「だって、これって」
マコが指差したほうに全員振り向いた。そこには空中で静止している雨粒があった。マコが手を振って雨粒の上と下を確認する。だが、奇術でも何でもなく本当に雨粒が空中で固定されていた。
「……おい、見ろよ」
空を仰いだリョウが呟く。すると無数の雨粒が、時間が止まったかのように空中で留まっていた。今にも地面に落ちそうなのに、落ちる気配がない。何か、異質な風景だった。絵でも映像でも雨粒が完全に停止するところなど見た事がない。この世ならざる風景のようでナツキはぞっとした。
「これは……」
「エアロックだ」
博士の言葉に、フランが尋ね返した。
「博士。エアロック、とは」
「レックウザの特性だ。天気の影響を全て無効化する。文字通り、天候をロックしてしまう。時間が止まったわけじゃない。レックウザがこの近くで戦闘をしているから起こっているのだろう」
「それじゃあ、この現象自体には」
「ああ、意味はない。だが、不気味な事には変わりないし、いつレックウザがこちらに来るとも限らない。あれだけの大きさのポケモンの戦闘に巻き込まれるとまずい。早く、地下の本拠地に入れる場所を探そう」
そう言って歩き出そうとした時、サキが振り返って指差した。
「あれ、何だ?」
ナツキも目を向ける。数人の影がこちらへと駆けてきていた。近づくにつれ、その輪郭と姿が明らかになる。白い団服を着ていた。胸には青い六角形に「HEXA」の赤い文字が走っている。全員が歩き出しかけた足を止めた。
「ヘキサの団員か」
リョウが怒気を含んだ声音を発する。ナツキも気持ちは同じだった。全てを奪った敵。許せない。ホルスターのモンスターボールへとそっと手を伸ばす。しかし、その団員達はどこか様子がおかしかった。ナツキ達に立ち向かおうとするようには全く見えないのだ。むしろ全員、何かから逃げている風にも見える。全員が対応を決めあぐねていると、フランが歩み出た。
「僕が行こう。ひょっとしたら、地下へと通じる通路が聞けるかもしれない」
フランは団員達へと駆け寄った。団員達は半ばパニックになっているようでやたら大声で、ナツキ達にも会話の全容が聞き取れた。団員の一人がフランへとすがりつく。フランは思わず一歩、引いた。
「逃がしてくれ! お願いだ!」
「生憎だが、僕はそのために来たんじゃない。それに市民を人質に取っておいて言える台詞か?」
「市民を人質にしたのは俺達じゃない! そんな話は聞いていなかった!」
「聞いていない? 命令系統が万全じゃないのか? だけど、そんな言い訳――」
「俺達は元ロケット団員だ。上の意志も分からないこんなところにいられるか! 誇りも何もない! ディルファンスとの共生など、不可能だ! 奴らは必ず俺達を裏切る!」
どうやら疑心暗鬼になっているようだった。無理もない。一日前まで敵同士だった組織が信じあえるはずも無かった。
「分かった。だが、逃がすというのはお門違いだ。君達は裁かれなくてはならない。そのために僕達と行動を共にして欲しい」
「ああ、分かった! するさ。だが、ヘキサと戦うのだけは勘弁してくれ」
「戦闘は僕達がやる。君達には地下施設へと入るための道を教えて欲しいんだけど」
「それなら、タリハホテルに隠しエレベーターがあって――」
「お喋りはいけねぇなぁ」
遮ったその声に全員が視線を向けた。ビルの屋上から男が見下ろしていた。青い髪を逆立てており、黒いジャージを着ている。面長の顔に鋭い眼光はそれだけで凄みがあった。
「誰だ、あんたは?」
団員の一人が口を開く。それに対して意外そうに目を向けたのはフランだった。
「知らないのか? 仲間じゃないという事か」
その言葉に男は大げさに身振りをつけながら口角を吊り上げた。
「おいおいおい。忘れてもらっちゃ困るぜ。……ああ、そっか。下っ端はオレの事知らねぇんだな。じゃあ、自己紹介でもしておこうか」
男は腰に手を当てて、団員とナツキ達を見下ろし、高圧的な態度で言葉を発した。
「オレの名はフレア。ヘキサ戦闘部隊幹部だ」
にたりと笑った顔にナツキは怖気が走った。あの顔は戦いを愉しむ獣の表情だ。一瞬でそう分かった。
言葉を聞いた団員がフレアに対して懇願する声を上げる。
「フレア様。どうか、お見逃しください! 我々はもうついていけません!」
団員の決死の声に、フレアは顎に手をやって首を傾げた。
「ついていけねぇ、ね。いいんじゃねぇの? ついて来たい奴だけついてくれば。オレは別に逃げる奴は逃げればいいと思うぜ」
その言葉に団員達が顔をほころばせた。だが、ナツキは先程から嫌な汗が滲むのを感じていた。この男は危険だ。そう本能が告げている。
「……あの、それでは我々は彼らと行動を共にします」
フレアは応じなかった。ただ見下ろしているだけだ。それを肯定と取ったのか、団員の一人が歩み出し、ナツキ達を促した。
「さぁ、我々についてきてください。タリハホテルの隠しエレベーターにさえ到達できれば問題ないはずです」
団員が先頭を歩こうとした。その時、
「あ、忘れてた。逃げる分には別に構わねぇけど」
団員の腰の辺りに小さな何かが見えた。それは紫色の気球のような姿をしていた。糸のような細い腕が垂れ下がっている。それを認めた瞬間、ナツキは叫んでいた。
「駄目! フランさん、離れて!」
ホルスターからボールを抜き取るのと、フレアが口を開くのはほぼ同時だった。
「オレ、粛清係だったわ。オレの職務は全うするから。じゃあな」
その言葉を団員が理解する前に、閃光が腰の辺りで瞬き、一瞬にして膨れ上がった熱が爆風となって辺りを駆け抜けた。
砂煙が上がり、飛び散ったコンクリートの破片がコロコロと転がる。それをビルの上から眺めていたフレアが両手を叩き、高笑いを上げた。
「やべぇ、超楽しい! 久しぶりだな、人間爆破するの。破裂音が骨身に響くぜ」
その時、砂煙が円形に抉れた。それを見た瞬間、フレアの笑みが凍りついた。そこには返り血を受けながら立つナツキの姿があった。隣にはダイノーズがいる。フレアが手を叩くのをやめ、それを疑問の目で見ていると、すっとナツキが指鉄砲を向けた。ダイノーズの鼻の下の砂鉄が砲身を形作り、チビノーズがダイノーズから離れて電磁力を拡大させる。青い光が砲の奥で固まった瞬間、「やっべぇ」とフレアが呟いた。
直後、青い電子を纏った弾丸がフレア目掛けて発射された。空間を抉りこみながら、「でんじほう」がフレアへと撃ち込まれる、直前、フレアは手を振るった。すると、フレアの眼前で爆発が起こり、その爆発が壁となって電磁砲を受け止めた。フレアは腰に手を当てて、見下した笑みを浮かべる。
「攻撃宣告もなしにトレーナーを直接攻撃とはな。嬢ちゃん、可愛い顔して容赦ねぇじゃん」
ナツキは何も答えなかった。ただ真っ直ぐにフレアを睨みつけている。
「……ナツキ、さん」
ダイノーズが咄嗟にチビノーズで背後に隠したフランが起き上がる。フランは舞い散る砂煙を見て、察したのか「くそっ!」と悪態をついた。ナツキはフランに一瞥を向けると、「大丈夫です」と言った。フランが顔を上げ、ナツキを見る。ナツキは見ずに頷いた。
「大丈夫。私が、戦いますから」
ナツキがモンスターボールを翳す。その言葉にリョウが口を開いた。
「でも、お前一人じゃ――」
「リョウ。さっき言ったよね。自分の身も守れないのに、らしくないって」
ナツキの思いがけない言葉にリョウは返答を窮したようだったが、頷いた。
「本当にそうだった。思い上がりだった。今だって、ヘキサの人達を救えなかった。皆を救おうなんて傲慢かもしれない。でも、どうせなら傲慢なほうがいい。私は、この人が許せない」
鋭い瞳がフレアを射抜く。だが、フレアはそれが快感だとでもいうように口元を歪めた。今にも臨戦態勢に入ろうとするナツキへと背後から言葉が投げられる。
「お前は、それでいいのか、ナツキ」
サキの声だった。普段ならばほとんど喋らないサキが自分に問いかけている。戦う覚悟があるのか。自己を犠牲にしてまで、貫きたい思いがあるのかと。ナツキは振り返らずに頷いた。
「うん。今何もしないで後悔したくない。それに、皆の目的のための足止めをさせるわけにはいかない」
「だが、ナツキ君。君にもチアキさんという目的が……」
口を開いたのは博士だった。博士の言葉にナツキは首を横に振った。
「私は自分の心に従います、博士。今、やろうとしている事は心に従った結果。だから、邪魔はしないでください」
その言葉に博士はそれ以上何も言わなかった。
「行こうぜ」とリョウが全員を促す。「しかし」と踏みとどまろうとしたのはフランだった。
「危険すぎる」
「ここにいたって変わらねぇ。それにヘキサがカントー本土に辿り着けば俺達の負けだ。それまでにけりをつける」
「リョウの言う事に同意だな。行くぞ」
サキも身を翻す。それに惑うようにマコがナツキとサキ達を交互に見た。
「サキちゃん。でも、ナツキさんが」
「覚悟しているんだ。私達は私達の目的がある」
リョウとサキは静かに歩き出した。博士もその後に続き、フランも「死ぬんじゃないよ」と言い置いて一行の後を追った。五人が充分に離れてから、フレアが言葉を発する。
「行っちまったぜ。いいのかよ、お仲間の助力なしで」
どうやらフレアはわざと待っていたらしい。ナツキを本当の一人にして追い詰めるつもりだったのか。だが、ナツキの眼には決意の輝きが灯っていた。一人だが、独りではない。
「私はあなたを倒す。仲間まで犠牲にしたのを、私は許せない」
モンスターボールを翳し、フレアを睨み据える。フレアは後頭部を掻いて、「しゃあねぇな」と言った。しかし、口元には依然、愉悦の笑みが浮かんでいる。
「ガキ相手に本気になるような人間じゃないんだが、あんたは本気のようだ。だったら、本気で相手をするのが礼儀って奴だな」
ベルトのホルスターに差していたボールを引き抜き、眼前で翳す。フレアの瞳が蒼く暗い光を宿した。
「どうせ、てめぇは死ぬんだ。オレの手持ちの最高を見せてやるぜ」
フレアがボールを上に放り投げた。放物線を描きながらボールが緩やかに下降し、地面についた瞬間、ボールが割れ中から光に包まれたポケモンが飛び出した。
それは逞しい巨躯だった。黒とオレンジで構成された身体。ビール瓶のような身体だが、それは全て筋肉であるという事が分かる。腕も太く、丸太のようだ。足は短いが、その重量に軋みを上げている様子もない。ほとんど首との境目のない顎から炎が髭のように燃え立っている。それは肩まで至り、装飾のようになっていた。腹にも中華を思わせる紋様が刻まれている。豚鼻から沸騰した蒸気が噴き出し、攻撃的な瞳がナツキを見下ろした。それはイッシュ地方のポケモントレーナーが始まりの町で手にする最初のポケモン一体の最終進化形態であり、炎・格闘という強力なタイプを持つポケモンだった。
「――エンブオー。オレの一番の相棒だ」
フレアがその名を呼ぶ。エンブオーは両拳をあわせて地鳴りのような鳴き声を上げた。鳴動する空気が熱風となって押し寄せる。エンブオーの眼が蒼く燃え盛っている。狂気に沈んでいる瞳だった。ナツキはそれでも視線を外さなかった。屈するわけにはいかない。この男にだけは。
ナツキは手に持ったモンスターボールの緊急射出ボタンを押し込んだ。ボールからライボルトが解き放たれ、青い電流が体表を走った。ダイノーズとライボルト。二体のポケモンが主人に忠誠を誓うように侍る。エンブオーから放たれるプレッシャーで今にも膝が砕けそうだったが、ナツキは長く息を吐き出しそのプレッシャーの波を受け流しつつ口を開いた。
「一つ、尋ねてもいい?」
「何だ? 戦う事が怖いか?」
フレアの言葉に返事を寄越さず、ナツキは一瞬空を仰いでから、フレアへと視線を戻した。
「フワライドを市民に与えたのは、あなたなの?」
ナツキの問いかけにフレアは口元をニヒルに歪めながら、自慢でもするように語り始めた。
「ああ、あれはオレのだぜ。オレは昔から爆発力のあるものが好きでね。フワンテを大量に持っている。今だってオレの周りには、小さくしたフワンテで囲ませている。トレーナーの防御が最も肝心だからな。フワライドは、面白いぜ。市民はあれで助かると思ってやがる。まさか、自分が人間爆弾になったなんて事、分かっちゃいねぇんだ。傑作だろ」
フレアは口元を押さえて肩を揺らして笑い始めた。ナツキはフレアに対して怒りでも悲しみでもなく無表情を貫き通した。もう一度、確認する声を出す。
「じゃあ、あのフワライドは全て?」
「オレが全部やった。あれ、嬢ちゃん知らない? オレの顔。ちょっと前まではすげぇ有名だったんだけどな。リニアの反対運動で一度タリハシティの駅が爆破されたって事件があっただろ。あれ、犯人オレなの」
フレアはさもおかしいとでもいうように、上機嫌で手を叩いた。
「思想犯とか色々言われてたけどさ、オレって結局、爆発したり炎が上がったりするのが好きなだけなんだよねぇ。リニアの式典に参加していた60人くらいかな。一気に吹っ飛んだのは、何にも勝る快感だったな。キシベはいい舞台を用意してくれたもんだぜ。ふっ飛ばし放題だからな。このままタリハシティを焦土にしてやろうかと思ったが、キシベは最後の楽しみに残しておけだとさ。まぁ、いいんだけどな。あいつの言う通りにしてりゃ、甘い蜜が吸えるってもんよ。本当に、あいつには――」
「黙って」
遮って放った声は自分で発したものとは思えない冷たさを含んでいた。フレアが自慢話を中断されて、ようやく怒りの表情をナツキに向ける。ナツキは「よかった」と呟いた。
「よかっただぁ? どういうこったよ、嬢ちゃん」
「――その話を聞いて、迷いはなくなった。私は、あなたを遠慮なく倒せる」
その言葉にフレアは吹き出して、両手を振るった。
「やれるもんなら、やってみな! 行けよ、エンブオー!」
「ダイノーズ、ライボルト。お願い」
エンブオーがアスファルトを踏み潰しながら、暴風のように駆け出す。それと同時にライボルトとダイノーズも動き出した。
フレアの狂気に沈んだ眼を、ナツキは真っ直ぐな光を宿した瞳で見つめ返した。