第六章 十六節「愛」
際限なく輸送機の機体表面を何かが叩く。
窓一つない輸送機の格納ブロックには二十人ほどの構成員が身を寄せ合っている。皆、不安を押し殺した面持ちだった。アヤノもエイパムのボールを手に握り、今にも押し潰されそうな不安と恐怖から逃れようとしていた。構成員の中には試作兵器装備者もいる。その一人に、自分に説経してきたセルジという構成員を見つけた。何故、彼が装備者に選ばれて、自分がそうでないのか。アヤノの中で感じたことのない黒いうねりが泥のように沈殿し、思考が焼け爛れる。
こういう時にアヤメが出てくれれば、とアヤノは心の底から思った。
(アヤメ。どうして出てくれないの?)
呼びかけても応じる声はない。アヤノの中で破壊衝動が湧き起こってもアヤメが出てくる様子はない。いつもならば、少しの怒りでも出てくるのに。
アヤノは凍てつくような漆黒の中で身体を抱いた。仮初めの温もりが欲しかったのだ。ぎゅっと肩を抱くと、過去の記憶が映像となってフラッシュバックする。それは初めてアヤメと出会った時の事だった。
アヤノはロケット団員だった両親が私刑にされ、施設に送られる事になった。不慣れな環境だったがアヤノはまだ大丈夫だと思っていた。しかし、ロケット団への弾圧は孤児院にまで及んでいた。無垢ゆえに、限度を知らない他の子供達から何度も暴力を受けた。
――ロケット団の子供。世界の敵の子供。
あらゆる罵声が浴びせかけられたが、アヤノは黙って耐えていた。いつか彼らだって分かってくれると思っていたからだ。今は何も知らず大人の言葉に惑わされているがために彼らは暴力を振るっているに過ぎない、と。ならば分かってくれた時には本当の意味で理解し合えるに違いないと思っていた。
たとえ大事にしていたピカチュウのぬいぐるみがボロボロにされて倉庫に押し込められていようと。下着が切り刻まれていようと。アヤノは自分に暴力を振るう彼らを愛していたのだ。だが、日に日に暴力はエスカレートし、遂には施設の職員までアヤノに対する露骨な嫌悪が現れ始めた。アヤノの分だけ食事が出ない、無視される、ぐらいならばまだよかった。礼拝堂の前で男の職員に無理やり服を脱がされた事もあった。それでもアヤノは彼らを愛し続けたのだ。愛す姿勢を見せればきっと分かり合えると。まだ服を脱がされただけだ、何もされやしない。そう思っていたのだ。今となっては楽観主義と言うほかない。
当然、その男の職員は行為に及ぼうとした。
アヤノはその時、初めて憎しみを覚えた。何で自分ばかりがこんな不条理な世界に生きねばならないのだろう。両親がロケット団というだけで、何故殺されなければならなかったのか。世界の敵だと定義したのは誰か。両親の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。男の手がアヤノのスカートの中に滑り込む。その瞬間、アヤノは頭の中から声が聞こえてきたのを感じた。
(可哀想に。愛してばかりのアヤノ。だったら、私が壊すわ)
その言葉が響くと同時にアヤノの意識は闇に没した。次に目を覚ました時、首にガラス片を刺されて絶命している男の姿があった。当然、問題にはなったがアヤノがやったと誰が思うだろうか。男の首筋には深々とガラス片が突き刺さっており、アヤノの力では不可能だと判断された。だが、問題のある人間を置いておくのは無論、施設側としても好ましくなかったのだろう。アヤノは程なくしてカイヘン地方へと渡った。カイヘン地方で受け入れ可能な施設が見つかった、というのが表向きだが実際のところは大人達が次は自分が殺されるのだと思い、遠くにやりたかっただけだ。
アヤノはカイヘン地方の更生施設に二年間入っていた。カイヘン地方にはロケット団の排斥運動はほとんど無く、アヤノを受け入れてくれる人々が多かった。その後、ミサワタウンで里親になってくれる人が見つかり、ミサワタウンへと越してきた。始まりの町でナツキ、リョウ、サキと出会い、アヤノは今までの自分を捨て去り、新しく生まれ変わろうとポケモントレーナーになる事を決意したのだ。トレーナーになれば生まれを気にする人間などいない。実力が全てなのだから。戦闘はアヤメに任せ、自分はその結果だけを受け取る。卑怯ではあった。しかし、そうしなければ生き残れなかった。狡猾に生き延びる事だけを考えて四つ目のバッジまで辿り着いたが、そこでカリヤに出会ってしまった。
――出会わなければ、あたしは全てのバッジを取れていたのかな。
カリヤに出会い、全てが変わった。アヤメに任せて戦う事も出来ずに、こんな場所まで来てしまった。後悔などない。戦いから逃げていた自分と決別し、エイタのためにそしてカリヤを助け出すためにならば、自分の身など捧げよう。愛する彼らのためならば、いくらでも身を削ることが出来る。
「……あたしは、戦う」
呟いた声は誰にも聞き取られることはなく、輸送機の表面をまたモールス信号のように石粒の叩く音が聞こえた。
轟音が床を伝わる。
人工破壊光線を放ったのだろう、とキシベは廊下を歩きながら当たりをつけた。この空中要塞に装備されている人工破壊光線はリツ山のロケット団本部のものよりも随分と型落ち品だ。それもそのはず、カイヘン地方黎明期の頃、首都機能を牛耳るためにロケット団が用意したアジトの一つでありカイヘン地方では最も古いものだからだ。それでも電磁浮遊機関を四基、人工破壊光線砲台を前後二基ずつ、背面に推進剤を装備している様は難攻不落の要塞だろう。加えてキシベが命じた作戦により、さらに上陸は困難となっているはずだ。キシベが陰湿な笑みを浮かべていると、後ろからついてきているゲインが口を開いた。
「貴殿、何故、笑っておられる」
ゲインが口を開くのは、忠義を示した相手の前と本当に理解出来ない時だけだ。今は恐らく前者だろう。
「少しおかしくてね。ディルファンスや政府とて、この空中要塞には踏み込めない事が」
「それがしがついておる。それでは不満か」
「いや、心強い。君の強さは唯一の希望だ」
その言葉にゲインは突然、その場に傅いた。キシベも立ち止まり、振り返って「どうかしたか?」と尋ねる。
「……いや、あまりにも勿体無き言葉。このゲイン、貴殿のために力を尽くそう」
感に堪えないとばかりにゲインの発した言葉にキシベは笑みを浮かべた。これほどまでに御しやすい相手はいない。キシベはその肩に手を置いて、
「顔を上げるんだ、ゲイン。我等はもとより同志。下らぬ上下関係のしがらみに囚われる必要はない」
総帥が何度も口にしていた言葉だ。耳にこびりついた言葉を発すると、ゲインは目元を拭って立ち上がった。
「……情けない。忠義を誓った相手の前で涙するとは」
キシベは長身のゲインの背中を二三度叩き、理解している、という事を示した。暫く歩くと、道が二手に分かれていた。片側の突き当りにはエレベーターのドアがある。キシベはそちらを示した。
「ゲイン。君はそこから地上に出てくれ。侵入者がいる可能性がある」
「しかし、それがしは貴殿を守るために――」
「ゲイン。その言葉、私の心にしかと響き渡った。義で立ち上がる君の姿勢、私は誇りに思う。なればこそ、君の力、私を守るためだけに使うのは忍びない」
その言葉にゲインは少し沈黙を挟んでから、力強く頷いた。身を翻し、「我が身、全てはヘキサのために」と言い残して、エレベーターへと向かった。キシベは反対側の廊下を歩きながらほくそ笑んだ。総帥の言葉をそのまま言えば、忠義だの誇りだのに命をかける。何一つ考える頭を持たない馬鹿の一つ覚えに近い。
キシベは突き当たりの白い扉の横にはめ込まれている認証パネルに八桁の数字を入力した。すると、扉のロックが解除され、自動的に開いた。中は無数のモニターが備え付けられた部屋だった。目まぐるしくタリハシティ――いや、空中要塞ヘキサの隅々まで監視している。そのモニターの居並ぶ前に二人の影があった。一人は白い着物に身を包んだ女性だった。長い黒髪を白い布で一つに結んでいる。鋭い眼光は今や見る影もなく、空虚な目を宙に注いでいる。それはチアキだった。キシベはチアキの横に立ち、肩へとそっと手を置いて命じた。
「チアキ殿。貴女は第三ブロックの隔壁前をお願いします」
その言葉だけでチアキは何も言わずにその場を立ち去っていった。この空間にいるもう一人へと視線を向ける。薄紫色の髪に、白いワンピースを着ている。赤い眼もどこか焦点をなくしているように見えた。ルイだった。
「R01B。お前は地上部隊だ。エレベーターから地上へと上がれ。ゲインの後衛をしてもらう」
冷たく放たれた言葉に、ルイは何も言わずに静かに歩き出した。ちらりとその背中に目を向ける。影の中のゲンガーが嗤っていた。