ポケットモンスターHEXA - グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 十一節「朝、決意の刻」
 朝陽が閉め切ったつもりのカーテンの隙間から鋭く差し込んで目を刺激する。

 上体を起こして、眠気の残る瞼を擦った。ナツキは眠るつもりは無かったのだが、いつの間にか眠っていたらしい。リョウと話した事で少しだけ気持ちの整理がついたからかもしれない。ベッドから降りて、カーテンを開ける。振り返って壁にかけられている時計を確認すると、もう八時半を回っていた。

「……思ったより寝ちゃったのか」

 額に手をやってナツキは呟く。夢さえも見ていないほど熟睡していたのだろう。昨日はさまざまな事が起こり過ぎた。未だ、思考の行く末は判らない。何が正しいのかも、何が間違っているのかも、判断するには混乱している頭をリセットするのが一番だったが、一度にいくつも考えられるわけがない。自分は所詮、人なのだ。分不相応な事を考えるべきではない。

「考えるべきじゃないけど、でも考えちゃうな」

 割り切れていない証拠だった。結局、自分はどの視点に立てばいいのか。現実を知ったロケット団の視点か、憧れの中のディルファンスの視点か、それとも――。

 そこまで考えかけた思考をノックの音が遮った。

「どうぞ」とナツキが言うと、扉が開いた。そこにはリョウがいた。いつもの赤い帽子に赤いジャケットに濃い緑色のズボンである。いつも背中に背負っているバッグは無かったが、トレーナー然とした格好だった。

「ナツキ。そろそろ時間だ。あ……」

 リョウが口ごもる。ナツキは首を傾げた。

「どうかした?」

「いや。髪下ろしてんの、久しぶりに見るからさ」

 リョウの言葉でナツキは自身の髪に触れた。今までも家で眠る時は下ろしていた。だが、旅の間中はほとんど下ろさなかったので珍しいのだろう。

「変なら括ろうか?」

「いや、別に変とかじゃねぇよ。降りて飯にしよう。もうロケット団の人達は食べ終わったから」

 何故かリョウは目を合わせようとはせずに、ひと息に言って背中を向けた。

「うん。……ねぇ、リョウ」

 呼び止めた声に、扉を閉めかけていたリョウが立ち止まってナツキを見やった。ナツキは俯いてどこか遠慮がちに尋ねた。

「今言う事じゃないかもしれないけれど、いい?」

 リョウは何も言わずに部屋に入って、後ろ手に扉を閉めて頷いた。

「私、真実を知ってよく分からなくなっちゃった。今までは一般の視点だったりしたけれど、ロケット団の現実を知って、サキやヒグチ博士の事も知って、結局、私はどういう立場にいればいいのかって思っちゃって。もちろん、サキの味方でありたい。でも、そうするとロケット団を憎まなくちゃならなくなる。けれど、ロケット団の人達の味方にもなりたい。そう考えると、何だか頭の中こんがらがっちゃって」

 ナツキは額に手をやった。どうすればいいのかがあやふやになっている。ヘキサを倒すとしても、本当にそれでいいのか不安になる。チアキは救いたい。サキの味方でもありたい。ロケット団の人々を助けたい。だが、ひとつを選べばひとつが犠牲になる。ヘキサを倒せば、サキが救われるのか。倒してもチアキはロケット団だ。非戦闘員の人々だって所属していたという過去は消えない。また悲しみが増えるだけなのではないのか。悲しみが増える事ばかりで、こんな因縁を誰かがどうにかしてくれるのだろうか。

「知らねぇよ」

 リョウが発した言葉にナツキはハッとして顔を上げた。リョウは扉にもたれかかって、腕を組んで言った。

「誰の味方するかなんて難しい事考えんなよ。ナツキ、お前は自分の味方であればいいんだろ」

「……自分の、味方?」

 問い返した言葉にリョウな頷き、自分の左胸に拳を当てた。

「そうだよ。自分のやりたい事から目を背けるな。自身の心の味方であるのなら、間違う事なんてねぇし、後悔もしねぇ。少なくとも、俺はそうしてきた。ナツキ、お前もそうであれ、とは言わない。ただ、信じるものくらいは自分で持っといたほうがいい」

 その言葉がヨシノに言われた言葉に重なった。自分のやりたい事から目を逸らすな、と。誰の味方かなんて関係がない。自分の心に思い描いたものの味方ならば、後悔はしないし、ぶれることもない。

 リョウが「ガラじゃねぇんだよ」とぼやいて、背中を向けた。その背中が思ったよりも大きく、リョウもまた変わる事が出来たのだとナツキは思った。

「とにかく、飯が出来てるから来い。小難しい事は、いつでも考えられるが飯は熱いうちに食うほうがいいだろ?」

 その言葉にはナツキも同意だった。思考の海に沈む事はいつでも出来るが、仲間と共に過ごす時間はいつでもあるわけではない。その時しかないのだ。

「……そうね。行きましょ、リョウ」

 ナツキはリョウと共に部屋を出た。背後で閉まった扉の音が自分を送り出してくれているように思えた。



























「言うべき事がある」

 食後のテーブルでそう口火を切ったのはフランだった。食事はマコとヨシノが作ってくれたらしい。今、二人は食器を洗っている。ナツキも手伝おうかと思ったが、座っているようにとリョウに言われた。サキは腕を組んでふんぞり返っている。サキは料理も後片付けも出来ないので、必然的に話を聞く側になっていた。リョウがフランに返す。

「何だよ、改まって」

 フランは少しだけ視線を伏せた後、全員を見据えて言った。

「今朝早く、アスカさんからキルリアへと交信があった」

「本当か?」と声を上げたのはサキである。サキの声に気づいてマコが洗い場からこちらを見やる。フランは深刻な面持ちで頷いた。

「本当だよ。キルリアは確かにアスカさんからの交信を受け取り、アスカさんの居場所を示した。そこが恐らくヘキサの本拠地だろう」

 フランの顔は一言発するたびに、暗くなっていく。ナツキはそれを不審に思ったが、言葉にする前にリョウが口にした。

「――の割には浮かない顔だな。何かあるのか?」

 フランは暫し逡巡の沈黙を挟んだ後に、深く頷いた。

「キルリアは交信を受け取ってすぐにタウンマップ上で場所を示してくれた。そこがここなんだ」

 フランが懐から四つ折にしたタウンマップを取り出してテーブルに広げる。全員の目がそれに吸い込まれた。縦長の土地であるカイヘン地方の中央に、ペンで記された赤い丸がついている。だが、そこは――。

「タリハシティじゃないか」

 口にしたのはサキだった。フランが困惑したように後頭部を掻く。

「そうなんだ。ある意味、納得は出来るんだ。ディルファンスの構成員が本部から短時間で移動できる距離、という点では」

「でも、おかしいだろ。タリハシティでロケット団が牛耳っていたシルフカンパニーは崩壊した。今更ここに根城を構えるのは不利益じゃないか」

 リョウの言葉にフランは腕を組んで呻った。ナツキが口を開く。

「フランさん。場所以外にアスカさんが伝えてきた事はないんですか?」

 フランはその言葉に首を横に振った。

「いや。何も伝えられては来なかった。本当に場所だけなんだ。だけど、タリハシティに何かあるとは僕は思えない」

「同感だな。タリハシティは首都だぞ。それを本拠地とするにしては、ヘキサの戦力は心許ない。腐っても警察機構もいれば、政府だっているんだ。ディルファンスからも近い。どうぞ襲撃してくださいと言っているようなものじゃないか」

 サキの言葉にナツキは顔を曇らせて「でも」と言葉を発した。

「街の人達が人質になれば……」

「だとしても、だ。人質作戦なんてものを使うには、ヘキサの戦力は足りない。それに今の状況ならば、人質作戦なんてものは意味がない。ナツキ、お前には悪いがディルファンスのエイタがそんな事で侵攻をやめるとは思えない」

 リョウの言葉にナツキが困惑していると、フランが「そうだね」と返した。

「エイタは僕達も殺そうとした。他人の命なんてどうとも思っていない。それにチャンピオンとのコネクションもある。いざとなれば情報封鎖だろうね」

「街ごと焼き払うのも辞さないかもな」

 サキが付け加える。確かにサキやフランの話を信じるならばディルファンスはまともな組織ではない。全てはエイタのシナリオのために動いていたとしても理解は出来る。ただ納得が出来ないのだ。本当にそこまで冷酷になれるものなのか。ナツキが抗弁の口を開く。

「でも、街一つ潰せばさすがに世論が」

「そんな事になりふり構ってられるほどディルファンスも余裕がないんだろ。エイタは自分を裏切った全てを許さない。たとえディルファンスが緩やかに消滅するとしても」

 リョウの言葉はどこまでも冷たかった。ロケット団にもディルファンスにも通じるその姿勢はどこから来るのだろう。事態を達観しているとも思えるリョウの思考を推し量る事も出来ずに、ナツキは俯いた。

「アスカがいいように利用されているのだとすれば、ディルファンスをおびき寄せる餌として使われた可能性が高い。キシベにでも見つかれば確実にそのために使われるだろう」

 サキの言葉にナツキはキシベの姿を思い返した。あの男は全てを利用しようというのか。チアキも、アスカも。ディルファンスもロケット団も、全て自分のためだけに。だとするならば、それは許すべきではない。怒りよりも、ナツキの心にはキシベを必ず止めるという強い意志が炎のように燃え盛った。静かな決意を胸に、ナツキは口を開く。

「それでも、救わないわけにはいかない」

 ナツキの言葉に全員が黙りこくった。これは賭けだろう。アスカの決死の交信と取るか、それとも罠と取るか。ヘキサを壊滅させるつもりならば回り道はしていられない。確実な手段を選ぶとするならば、恐らく――。

 その思考を遮るように、マコの暢気な声が耳に届いた。

「あれ、皆どうしちゃったの、黙っちゃって。大事な話だったんじゃないの?」

 エプロンの前で濡れた手を拭きながらマコがサキへと歩み寄る。サキは渋面を作って瞼を閉じていた。フランとリョウも同様だ。ここで下手に動けば、ヘキサを壊滅させる機会を失うかもしれない。カントー政府侵攻が開始されてからでは遅い。先回りして行動しなければ、確実に後手に回る。

 サキが呻ると、マコがサキの顔を覗き込んだ。

「サキちゃん、どうしたの難しい顔をして」

 じっとマコがサキを見つめる。その頭へと不意に目を開いたサキの叩き下ろしたチョップが突き刺さった。マコの顔がべちゃっとテーブルに突っ伏す。

「痛いよ、サキちゃん!」

 喚くマコへとサキが立ち上がり、その尻を蹴り上げた。

「当たり前だ、痛くしてるんだからな! 考え事をしているんだ! 邪魔するな、馬鹿マコ!」

「おしりも痛いよー! やめてったらー!」

 マコの尻へとビンタを繰り返すサキを宥めようと、フランがため息をついて立ち上がり、サキの首根っこを掴んで引き剥がした。

「何すんだ、お前! 今、馬鹿に分相応な罰を与えてやっているところなのに!」

「……はいはい。マジでやめなって。僕も言いたくはないけど、君達はおめでたすぎるよ」

「何だと!」とサキがフランへと振り返り、拳を当てようと振りかぶる。フランは軽く身を揺らしてそれをかわした。

 それを見ていたヨシノが不意に吹き出した。全員がそちらの方へと視線を向けると、ヨシノは弾かれたように手を叩いて笑い出した。顔を見合わせて首を傾げると、ヨシノは身体を折り曲げて爆笑した。

「……えと、何かおかしかったでしょうか?」

 フランが申し訳なさそうに尋ねると、ヨシノはフランを指差した。フランは急に指されてたじろいだ。

「あなた達が馬鹿みたいな事をしているからよ。そうやって馬鹿騒ぎして、当事者はそれが馬鹿みたいだって気づいていないんだから。あなた達、本当に見ていて飽きないわ」

 ヨシノはその後も暫く笑っていたが、やがて呼吸を落ち着けてから、胸を張って「よし」と腰に手を当てて言った。

「あなた達!」

 急に大声で呼ばれて全員が肩を震わせる。ヨシノはにんまりと笑って頷いた。

「難しく考えすぎない! 助けたいんでしょ? だったら、裏なんて考える必要ないじゃない。もっと直感的に行きなさい!」

「えっと、でもこれに失敗したら後がないんですけど……」

 フランが途切れ途切れの声で説明するとそれに押し被せるように「なら!」と大声が弾けた。

「失敗しなければいいじゃない。ね」

 その言葉に全員が硬直していたが、ナツキは分かっていた。ヨシノはいつだって皆が一緒に前を向ける方法を見つけているのだ。暗い過去を持っていても、決して振り返ったり立ち止まったりして足を取られる事がないように。未来を全員の足で踏み出せる光の事を言っている。

 ナツキは覚えず立ち上がっていた。全員の視線がナツキへと注がれる。怖気づきそうになったが、そんな感情を吹き飛ばすように声を張り上げた。

「そうですよ! ヨシノさんの言う通り。私達は未来に向かうためにここに集まってきたはずです。まだ終わりじゃない。絶望するのはまだ早いです。私達はこれから、未来を行動で示すんですから」

 ナツキの言葉に沈黙が降り立った。だが凍りついたわけではない。むしろこれから燃え上がる前の僅かな静けさだ。それを証明するように、リョウが立ち上がってテーブルを叩いた。

「乗ったぜ。そうだよな。俺達はこれだけの人数でヘキサを壊滅させるって宣言したつもりなのに、いつの間にかひよっちまっていた。怖気づくなんてらしくなかった。だよな、サキ」

 呼びかける声に、サキは首根っこを掴んでいるフランの手を振り払って、腕を組んで鼻を鳴らした。

「まぁな。私もそう思っていたところだ。お前らがあまりに情けないから、言葉も無かったがな」

 その言葉にマコも両手の拳を強く握り、頷いた。

「うん。サキちゃんが言うのなら私も同じ気持ちだよ。私も未来のために戦いたい」

「ちゃんってつけるな、この馬鹿!」

 ぺちんとマコの頭を叩く。マコが頭を押さえていると、マコとサキの頭に手をやって、フランも言葉を発した。

「そうだね。僕も決めたはずなのに、少し情けない姿を見せてしまった。行こう。アスカさんはきっと、僕達を導いてくれるはずだから」

「お前! 私に触るな!」

 サキが振り返り様に真っ直ぐな拳をフランの股間に打ち込む。フランは内股になって股間を押さえて蹲った。リョウがそれを見て顔をしかめた。実際にやられてなくても痛みが分かるのだろうか。少し内股になっている。サキは拳を服で乱暴に拭って、

「汚らわしいものに触れた。マコ、濡れタオルをくれ」

 マコがその言葉に従って台所へと駆けてゆく。それを見てヨシノがまた笑った。ナツキはヨシノのほうを見やる。ヨシノはわざとそっぽを向いて知らないふりをしたが、ナツキに向けた眼はしっかりとウインクしていた。

























「これなんか似合うんじゃない? ナツキちゃん」

 ヨシノが赤いドレスのような服をナツキの身体に当てる。ナツキは少し戸惑いながらも愛想笑いを返す。すると、隣にいたサキが鼻を鳴らした。

「そんな服で戦えるわけがないだろう。馬鹿なのか、お前は?」

 一回りは年の離れているヨシノに対してもサキの舌鋒は鈍る事はない。そんなサキの言葉に、ヨシノはきゅんとして目を輝かせた。

「やだー。サキちゃんこんなにちっちゃいのに毒舌でかわいいー」

「かわいいとか言うな! いいか、私が言いたいのはだな――」

「分かってる分かってるって。サキちゃんもかわいい服が着たいんでしょ。大丈夫。本部基地飛び出してくる時に、大体入れておいたから」

 再び巨大な旅行鞄に向かうヨシノにサキは言いかけた言葉を呑み込んで、歯噛みした。サキが負けているところをはじめて見たナツキは、ヨシノは只者ではないと思っていた。

 今は研究所ではなく、ユウコの家の中にある部屋へと迎えられていた。理由はこれから戦いに向かうのに、服装がしっかりとしていないとヨシノに言われたためであった。確かにナツキはいつも着ている服装だったし、サキとマコはディルファンスの制服のままだ。これではまともに動けないし、ディルファンスと鉢合わせになれば余計な誤解を生むことになるかもしれない。

「男子禁制」とでかでかと張り紙をして、ナツキ達三人とヨシノは一室を借りていた。使われていない部屋のようで、端っこにクローゼットがある以外は特に何もない。ヨシノはロケット団本部基地脱出時に大きな旅行鞄を持っていたらしい。それに気づいたのはついさっきだ。どこから出てきたのか分からない鞄に一同目を丸くした。

「女がでかい荷物持っているなんて、あんまり知ってほしくないでしょ?」

 その言葉で納得しろと言われても困る、と思ったが、思い当たらない事もないその言葉に何かを返すつもりにはなれなかった。男子禁制なのでもちろん、息子であるテクワもいない。今、テクワはリョウやフランと遊んでいるらしい。子供の遊びとは程遠い印象のあるあの二人が、どうやって遊んでいるのかは謎であるが。

「ナツキちゃん。綺麗な髪なんだから、ちゃんと手入れしなきゃ駄目じゃない。ごわごわになっているわよ」

 考え事に耽っていたせいで髪をといてくれていたヨシノの言葉を聞き逃すところだった。ヨシノが持ってきた小型の鏡に自分の顔が映っている。旅に出た時と同じ顔のはずだった。まだ一ヶ月と少ししか経っていないはずなのに、見たことのない顔に見えたのはどうしてなのだろうか。変われたから、と言うのは簡単だが、では本当に変われたのか。結論は出ずじまいで、ナツキはため息をついた。

「あっ、ため息ついた。駄目じゃない。ため息なんて」

 ヨシノが優しく頭を撫でてくれる。ナツキはそういえば母親に会っていない事に今更気づいた。会ってしっかりと話をしておくべきだろうかと考えたが、やめておこうと思った。会ってしまえば、もしかしたら決意に疑問を抱くかもしれない。ヘキサを打倒するなんて事を言えるはずもない。両親はカイヘン地方を騒がせている事件に娘が関わっていると知れば卒倒するだろう。出来るだけ心配はかけたくなかった。鏡越しにマコとサキがお互いに服を選び合っているのが見える。この二人はいつの間にこんなに近づいたのだろう。自分もチアキと近づける日が来るだろうか。対等な友人として。その時が来るのは、十年後を想像する事と同じぐらいに難しく、ナツキは最も近くにいるチアキの友人に尋ねた。

「ヨシノさん。チアキさんとは、どうして友達だったんですか?」

「ん? まぁ、ロケット団で女って少ないから。自然と話すようになったって感じかな」

「私は、チアキさんに全く近づけなかった。トレーナーとしての実力も、同じ女性としても。だから、私……」

 思わず俯きそうになったナツキの頭に、ヨシノはぽんと手を置いた。

「嘆かないの。これから近づけばいいじゃない。実力も、女としても」

「でも、出来るでしょうか? チアキさんは強いし、とても綺麗だし。私なんて、全然何も無くって」

「そういうのが駄目なの。いい? 自分に何も無いなんてそんな事なんてあるわけない。さっきだって、ナツキちゃんは皆の決意を固めさせたじゃない」

「あれは、ヨシノさんが言ってくれたから」

「それだって、ナツキちゃんの力よ。言ったでしょ。変わる時は誰かと一緒に変わるものだって。あなたがいたから、私も前向きになれた。あなたがいてくれなくちゃ、私はきっと不安に押し潰されていた」

「そんな。それは私のほうで――」

「前向いて」

 思わず振り返ったナツキへと、ヨシノは優しく言った。ナツキは少し顔を伏せてから、尋ねた。

「ヨシノさんは、変わったって思えた事ってあるんですか?」

「あるわよー。テクワを産んだ時も変わったって思ったからねー。さぁ、前向いて。まだ枝毛があるから」

 ヨシノの言葉に従って、前に向き直る。望まずに授かったテクワの事をこんなにも前向きに言えるのは何故なのだろう。訊いてはいけない事だと思いつつも、訊かずにはいられなかった。ナツキは幾度かの逡巡の後、口を開いた。

「あの。ヨシノさん。チアキさんから聞いたんですけど、テクワはヨシノさんが望んで産んだ子供じゃなかったんですよね」

 その言葉にブラシを握っていたヨシノの手が止まった。鏡越しに服を選んでじゃれていたサキとマコも動きを止めてじっとこちらを見ている。

 言わなければよかった、という後悔が今更心に溢れてきた。言ったら軽蔑されるかもしれないと分かっていたのに。もう二度と口を利いてくれなくなるだろう。だが発した言葉は取り消す事は出来ない。ナツキは謝ろうと口を開きかけて、ヨシノの言葉に遮られた。

「そうよ」

 短かったが、そこに重みを感じないはずが無かった。その一言を言うだけでも、どれだけの葛藤があったのだろう。自分も女だから、というわけではない。人間として、それは分からないはずがない。ヨシノは再び髪をとき始めてくれていた。先程よりも優しく、まるで赤子をあやすように。

「テクワは、本当に誰の子供か分からなかった。チアキからもう聞いているかもしれないけれど、カントーではロケット団の排斥運動があってね。それで色々とね。取調べって言う名目で一年間くらいかな」

 その言葉をひとつ聞くたびにナツキの胸の奥を刃で切られたような痛みが走った。まるで言葉で身を削っているかのようだ。

「出所して、それから産んで。大変だったけれど、でもテクワの事、後悔はしなかった。だって命なんだもの。この子はこの世に生を受けた瞬間から、誰のものでもないひとつの命なの。だから、私のしがらみとか大人の汚さなんていうのは関係なしに、育てなきゃいけないって思った」

 命、という言葉が重く圧し掛かった。ヨシノは自分の境遇をテクワに話していないのか。だが、それは自分の中にある重石を取り除かないのと同じ事だ。だというのに、ヨシノは自分の痛みは自分のものとして受け入れている。他人に痛みを押し付ける事無く、前を向いている。それは知っている者からすれば痛々しかった。だが、それ以上に勇気のいる選択だ。

「でも、なかなか働き口が無くって。そんな時に、カイヘンのロケット団から声がかかったの。私が以前付き合っていた人がロケット団の結構上のほうの人だったから。その関係だったみたい。ロケット団の制服が罵声を投げられる服だって事は充分理解していたわ。でも、テクワにはこのままいっても同じ道が待っている。選択肢が少なかったのね。だから、私はロケット団に身を置く事に決めた。非戦闘員、っていう名目があったけれど、でもロケット団にいる以上言い訳は利かないって事は分かっていた。そんな時にチアキと出会ったの。チアキは私とは少し違うけど、同じぐらい不器用だった。だからかな。通じ合えたのは。ナツキちゃんも不器用だしね」

 ヨシノは笑った。だが、ナツキは愛想笑いさえも浮かべる事が出来なかった。踏み込んだ事を訊いてしまった。

「ごめんなさい。私、何だか」

「いいのいいの。訊かれりゃ答える。それでいいんだから。ナツキちゃんも笑いなよ。折角かわいいのに、台無しでしょ」

 ヨシノはナツキの背中を叩いた。ナツキは少しむせこみながらも、笑おうとした。だが、代わりのように涙が溢れた。拭っても拭っても流れる涙に、わけも分からず悲しくなった。ヨシノは何も言わなかった。マコとサキも同様だった。頬を伝う熱い雫が、ヨシノの痛みだと知れた。ヨシノは今、自分に痛みを授けてくれたのだ。それは信頼してくれなければ出来ない事だった。きっとチアキも同じように泣いたのだろう。チアキの事だから誰にも涙は見せなかったのかもしれない。しかし、チアキは誰よりも優しい。それを自分は知っている。

 ナツキは痛みに任せるままに泣いた。涙が流れる事が今は愛おしかった。それはまだ他人の痛みを知れる心があるという事のささやかな証明だったからだ。


























 部屋から出るとリョウとフランがテクワと遊んでいた。リョウは精一杯おどけて見せているようで、奇妙な踊りの真っ最中だった。フランはテクワを肩車している。二人とも表情筋が緩みきっており、他人に見せるような顔ではなかった。フランは黙ってテクワを下ろし、リョウは咳払いをひとつして威厳を取り戻そうとした。

「ナツキ。終わったのか」

 澄ましきったようなその声が逆におかしく、ナツキは少し微笑んだ。その顔をリョウがじっと見つめる。

「お前、目が」

 リョウの言っている事は分かっていた。ナツキは「うん」と一言だけ返し、目の下をそっと拭う。リョウもそれ以上踏み込んだ言葉を放つ事はなかった。リョウはナツキの服装に目をやって「それにしても」としまりない笑みを浮かべた。

「馬子にも衣装って奴だな」

「うん。ちょっと私には似合わないかもしれないけど……」

 ナツキが言葉を濁して身に纏っている服に視線を落とす。ナツキが着ているのはタイトな黒い服だった。白いラインが入っており、それが体躯をよりスマートに見せている。スカートの端には華美にならない程度のフリルがついている。今まで着ていたポケモントレーナー然とした服とは趣が異なっていて、ナツキは戸惑いの声を漏らした。

「やっぱり、変かな?」

「変つーか、なんつーか――」

「似合ってるって言えばいいのよ」

 言葉尻を引き継いだのは後ろから現れたヨシノだ。ヨシノはナツキの頭に手を置いて笑みを咲かせた。ナツキは見上げながら、少し上気した顔を向ける。

「でも、私こんな服着たことないし……」

「似合ってるわよ、ナツキちゃん。トレーナーの服ってあんまり可愛くないからこういうのがちょうどいいわ。動きにくくはない?」

 言われてナツキは肩を回し、脚を軽く上げた。動く分には問題なさそうだった。ナツキは頷くと、ヨシノも「うん」と言って顔の前で指を一本立てた。

「私も元々ポケモントレーナーだったから。出来るだけ可愛い服で戦おうと思って色々調べたからね。自信はあるわよ」

 その言葉にナツキは驚いて振り返った。

「ヨシノさん。トレーナーだったんですか?」

 ナツキの意外そうだと言わんばかりの言葉に、ヨシノは少し心外だと唇を尖らせた。

「うーん。見えないかなぁ? チアキと話すようになったのもそれがあるってのが大きかったし。でも三番目のジムで挫折したけどね。それよりも」

 ヨシノがナツキの身体をくるりと回す。ナツキはリョウへと振り返った。ナツキの両肩を掴んで、ヨシノが少し悪戯めいた笑みを浮かべて言った。

「リョウ君、可愛いとか思っているんでしょ?」

 その言葉にリョウは顔を耳まで赤くしたかと思うと、口のへの字にして顔を背けた。

「全然、そんな事ねぇ」

 まるで頑固親父のようなリョウの言葉を、ヨシノは軽やかな笑みで返した。

「えー、いいじゃない。それとも、リョウ君にはもう好きな人がいたりして」

 リョウがぶるぶると首を振る。ナツキはルイの事を想っているのだと知れたが、ヨシノはただ単に好きな異性がいると認識したようだった。

「分かってるって。それよかさ。ナツキちゃん、自信持ちなさい。黒の似合う女は魅力的なのよ」

 ヨシノが頭を優しく撫でてくれる。それだけで不安が凪いでいくようだった。

「おっ。サキとマコ君じゃないか?」

 フランがナツキ達の後方を見て口を開く。ナツキとヨシノは振り返った。

 サキが着ているのは黒いノースリーブのワンピースだ。白いケープを上から羽織っている。見た目だけならばどこかの令嬢と思えなくもない格好だった。サキはケープに手を触れながら、眉をひそめた。

「このよれよれの布が邪魔だ。千切り捨てたい」

「駄目よ! 折角似合っているんだもの!」

 思いがけない言葉だったのか、サキがぶつぶつと何か言いながら、ケープをやたらと触っている。ナツキはサキが意外と気に入っているのだと分かった。サキが物にケチをつけるのは、気に入っている時だけである。結局、天邪鬼なのだ。

「サキちゃん、可愛いよ。捨てるなんてヨシノさんに悪いよ」

「うっさい! ちゃん付けするなと何回言えば分かるんだ。脳みその中身が足りてないのか?」

 空手チョップが脳天に突き刺さり、マコは頭を抱えて悶絶した。マコの着ている服はディルファンスの制服をそのまま色を反転したようなものだった。黒地に赤いラインが走っている。マコのほうを見ながらナツキはヨシノに目配せして口にした。

「よくありましたね。ディルファンスの制服にそっくりな服なんて」

「うん。ディルファンスの制服自体がよくある服の使い回しだから。元々の服を偶然買っていたのよ」

 ヨシノがウインクする。本当に偶然なのか問い質したい気分に襲われたが、どこかで煙に巻かされそうな気がして、ナツキは言わずにおいた。

「姉ちゃんたち、みんなカッコイイ!」

 そう口にして目を輝かせているのはテクワだった。テクワにしてみれば黒い服の集団というだけで格好いいのかもしれない。

「フランさんは、それ……」

「ああ、これかい?」

 フランはシャツと黒いズボンを穿いたラフな格好だった。

「僕にとってはこれが正装のようなものさ。君達みたいにいい服も持ち合わせていないしね」

「右に同じ」

 いつものモンスターボールの配色を基調にした赤と白の服が映えるリョウは帽子のつばを右にずらした。明らかにトレーナーだと分かるような服だ。

「俺もこれが正装だ。戦いに行くんだから、別にいつもの服でいいだろ」

 その言葉を聞いたヨシノが、これだから、とでもいうように肩を竦めた。

「やっぱり男の子と女の子じゃ価値観が違うわね。もうちょっと服装に気を配りなさい。二人ともよ」

 その言葉に何故か二人とも萎縮して、どこか頼りなさげな視線を交し合うのだった。



オンドゥル大使 ( 2013/01/25(金) 17:40 )