第六章 八節「歪んだ鏡」
瞼の裏でかちりと音がする。
それを合図にして暗闇の中で薄い光が弾けた。暗闇から一転、視界は灰色と白色光の連なりに支配される。覚えず立ち眩みを覚えて、目の前が暗くなりかけたのも一瞬、
「どうした、キシベ」
という声に気づいて顔を上げた。目の前には前髪を撫で付けた中年の男が自分を見つめていた。黒いスーツに身を包み、その眼にうろたえ気味の自分が映っている。青二才、という言葉を形にしたように落ち着きのない自分の姿にキシベは踵をそろえて挙手敬礼をした。
「すいませんでした。少し、眩暈がしまして」
その言葉に男はフッと口元を緩めた。キシベの肩に手をやって、落ち着けとでもいうように何度か叩く。
「そうかしこまるな。サカキ様の御前というわけでもあるまい。それに、眩暈といったか。疲れているのならば休んでもいいのだぞ」
そこはかとなく気安さを持って放たれた言葉にも、キシベは上官へと忠義を誓う部下という態度を崩すことは無かった。
「いえ。今は差し迫っている責務がありますので、休むわけには。このキシベ、この身を粉にして今次作戦に臨む所存であります」
さらに身を固くしたキシベに対し、男ははっきりと笑みを浮かべて「不器用だな」と口にした。
「ここでは上官も部下もあるまい。『R計画』の推進派という意味では、お前のほうが上官といっても差し支えない。私は研究に対しては無頓着な方だからな」
「いえ、勿体無きお言葉」
視点を一点に向けたまま、硬直するキシベに男は「その白衣」と言葉を発した。
「伊達ではないのだろう。ならば、もっと自信を持つといい。私は研究の主任を命ぜられてはいるが、お前のほうが詳しい。ならば、私はお前に従おうと言っているのだ。上下関係のしがらみなど、経験の前では無意味な事よ」
その言葉にキシベはふと既視感を覚えた。今までも確かに似たような事を言われた事はある。だが、これはそういうものではない。つい最近、聞いたような――。その思考を中断するように、男は身を翻して歩き出した。キシベは敬礼を解いて、その背に続く。
「『R計画』の進行状況は?」
尋ねられた言葉にキシベは手元の書類を捲りながら応じた。
「現在、25パーセント、と言ったところです。今のままでは、即実戦投入は難しいかと」
書類に視線を落としたまま答えるキシベは、既に熟練の研究員の面持ちになっていた。それを確かめるように男は一瞬だけ肩越しにキシベを見やってから、「ふむ」と神妙に頷いた。
「やはりポケモンを揃える段階で不備が発生するのか? ヘキサツールの完成状況は?」
「芳しくありません。戦闘団員から入手したポケモンのデータをマザーコンピュータに自動入力させているのですが、今のままではカントーで確認されている150匹を集める事すらままならぬ状況でして」
「その150匹には、ミュウのデータは?」
「無論、入っておりますが不確定要素が多く、解析には時間がかかります。全ての技を覚える、と言っても技の数とて膨大ですから。それを処理するだけの高速演算コンピュータを今、技術支援としてイッシュから仕入れているところです」
「表向き、か」
男が口元を歪める。皮肉のような笑みだった。キシベは考える。イッシュでは現在、ロケット団関係の研究施設、及び団体が少ない。仕入れられるとしても、随分と値段を下げた中古品か、はたまた時代遅れの遺物か。どちらにせよ、イッシュではロケット団は大っぴらに動けない。法になっているのはカントーだけだ。ホウエン、シンオウ、イッシュではろくな動きが出来ない。隣のジョウトですら制限のかかった動きなのだ。さらに遠方ともなれば、当然指揮系統にも鈍りが生ずる。ならば、高速演算コンピュータを希望通りの性能で得られる事は不可能と考えてもよい。そうなった場合、計画の遅延、最悪の場合は頓挫が予想される。そうならないために、自分はどう動くべきか。ホウエンの技術支援を受けようにも、ホウエンでは変わった宗教団体が力を持ち始めている事を小耳に挟んでいる。大地を広げるべきだという派閥と、海を広げるべきだという派閥が一触即発の状態にまで陥っているという。そこにロケット団が協力し、火種を持ち込む計画も考えられているのだが、キシベにとっては重要なのはそこではない。どこからもまともな技術支援が受けられない事であるのだ。カントーで孤立した場合、崩壊時にはそれなりのツケが回ってくる。受け入れ態勢の整っていない地方にロケット団員を派遣しても意味がない。その地方の株を上げてしまうだけだ。ならば、どうするべきか。
「――つい三日前に連絡が来たのだが」
研究員らしからぬ思考に身を沈めていると、そんな言葉が投げられた。思わず聞き逃すところだった。キシベは「はい」と短く応じた。
「タマムシシティカジノの経営が破綻したらしい。いや、正確には暴かれたというべきか。今まで闇の中であった部分が、白日の下に晒されたのだ。カジノ地下に鼠を潜り込ませられたらしい。カジノ経営の甘い蜜を吸っていた者達は警察に捕らえられた。何かが、ここ最近のカントーではおかしい。まるで我々に歯向かう勢力がいるかのようだ。だが、今までは警察すら手玉に取ってきたサカキ様が反対勢力の増長など許すはずがない。当然、しかるべき報いを受けさせるはずだが、今回は妙なのだ」
「妙、とは」
男の横に並んで尋ねるキシベに、男は視線を送ってから顎に手を添えて頷いた。
「まるで敵性勢力の動きではない。組織だったものの抵抗ならば、数で勝るロケット団が負けるはずがない。交通、マスコミ、預かりシステムへのハックなど、全ての面で現在のカントーではそいつらを孤立させる方法がある。だというのに、まるで掴めない。預かりシステムへのハックは試みたようだが、あまりにも増えすぎた利用者が邪魔になる結果になった。だが組織ならば、それなりの戦力が揃った預かりシステムを同期しているはずだ」
ポケモンの預かりシステムには、個人利用では知る由もないが法人組織利用ならば、ボックスの数が無制限になり、レンタルポケモン制度も使えるという。レンタルポケモン制度というのは、スタジアム戦においてある一定金額を払う事によりスタジアム側から一時的なポケモンの貸与が可能になるというものだ。組織ならば強力なポケモンが必須のはず。レンタルポケモン制度を使っていないはずがない。加えて、法人組織ならば預かりすシステムを同期する事が出来る。つまりAのパソコンに預けてあるポケモンを同じ組織に所属しているBも使う事が出来る、というシステムだ。これにより、組織内でのパワーバランスは保たれる。
「だが、同期している利用者にそれらしいものはいなかったそうだ」
「だとすれば、個人、という事になりますが」
「それこそ、ありえないだろう」
ナンセンスだと言わんばかりに男は肩を竦めた。
「我々ロケット団に歯向かう個人など。しかも、カジノの一件だけではない。オツキミ山の一見や、ハナダシティの下っ端がやらかした泥棒騒動、それにシオンタウンのフジ博士の確保までを邪魔立てしている」
「フジ博士、というと『プロジェクト・ミュウツー』の」
『R計画』と同時並行で進められている極秘計画の名前をキシベは口にした。ロケット団の中でも一握りしか知らない、サカキ直々の命令である。下っ端には触れられることのない秘密をキシベが窺い知る事が出来ているのは、その研究に深く携わっているからだ。ポケモンでの戦闘は専門ではないが、研究としてならば誰よりもポケモンを知っている。
男はキシベの言葉に頷いて返した。
「ああ、最高責任者だ。だが、研究があと一歩で完成する直前に逃げ出した。ミュウツーが無事産まれたかどうかは分からない。ただ、公式では『プロジェクト・ミュウツー』に関わった研究者は全員、死亡扱いになっている。遺伝子研究の大実験だ。他の組織にリークされては困るからな。当然、始末はしてあるさ」
始末、という言葉がキシベの胸に鋭く突き刺さった。
それはいつ自分に訪れても不思議ではない言葉だ。
研究者をしている以上、自白剤で口を割らされる可能性がある。重大な秘密を話してしまうかもしれない。だから、ロケット団では研究者で脱走した者は即座に抹殺されるという暗黙のルールがあった。このルールがまかり通っているのは、脱走した人間の後の動向を誰一人として掴めないからである。明言化されているわけではない。だが、無言の圧力というものは時に言葉にされるよりも人々の行動を制限するものである。
「フジ博士の確保は不可能と考える。『プロジェクト・ミュウツー』が失敗に終わった今となっては、『R計画』のみがロケット団の生命線だ」
「承知しております。しかし、『R計画』は遅々として進んでおりません。自分の監督責任を問うばかりです」
キシベの言葉に、男は立ち止まり振り返った。キシベが思わず、と言ったように同じく立ち止まる。男は低く問い質すように言葉を発した。
「キシベよ。上に立つ人間が必要なものは何だと思う」
キシベがその眼を見つめてハッとした。忠義と使命に燃える瞳が輝きを灯している。真っ直ぐな光さえ宿したその眼差しに、キシベは思わず視線を外した。
「……分かりません。私には上に立つような資格はありません。今回の管理業務への昇格も、私に務まるのかどうか不安で……」
「資格ではない。必要なものだ。覚えておけ。それは揺るがぬ崇高なる信念と大義。それが上に立つものには常に試されているのだ」
「ですから、私には上に立つような人間ではないのです」
「そういう人間である、無いに関わらんさ」
男はキシベの肩を掴んで、その眼差しを真っ直ぐにキシベへと向けた。視線を逸らす事も出来ずに、男の内側からの光を発する眼差しがキシベの靄のかかった視界を貫く。それは光明に思えた。
「キシベよ。忘れるな。同志たるもの、常にその心を持つべきと。その心さえあれば、部下はついてきてくれる。決して、その心を疑うな。信念とは信ずるところより発するもの。己を信じられずしてどうするのだ」
男はキシベの肩から手を離し、二三度軽く叩いた。
「毅然としておけ。上に立つものが不安を見せてはならん」
そう言って、男は身を翻した。再び歩き出す男の後に続こうとは思わなかった。自分とは違いすぎる。白色光の連なりの向こうへとその背中が消えてゆく。それが灰色の鈍い輝きに埋もれる寸前、キシベの網膜の裏を映像が横切った。
赤に満たされた映像だった。今まで話していた男の身体がねじれ、雑巾のように捨てられる。その身体から内容物が撒き散らされ、信奉していたサカキの顔に血の泥を塗る。突然、身に覚えのないものが脳裏を過ぎり、キシベは思わず目元を押さえ額の汗を拭った。疲れているのか。一つ大きな息を吐き出し、キシベは自信に喝を入れるように両頬を叩いた。
男の背中を追ってやってきたのは、実験室の扉だった。週に三度、男はここを訪れる事になっている。キシベはほとんど毎日だった。それもある理由があるからだ。男が前に立って、認証パネルにパスワードを打ち込むとすぐさま扉が開いた。扉の向こうに広がっていたのは、パイプが生物の内臓のようにうねる実験室だった。うねりの中に数個のカプセルがある。今はカプセルの中は空だ。培養液の一滴すら入っていない。キシベと男が実験室に入ると、白衣を纏った研究員達が一斉に振り返り、踵を揃えて挙手敬礼をした。男とキシベもそれに返礼をしてから、
「ここにいる諸君は誠に偉大な仕事をなしている事を自覚して欲しい。ロケット団の生命線は最早、君達だけなのだ。サカキ様を満足させられる研究、期待している」
男はそう言っただけで踵を返して立ち去っていった。もうキシベから研究の進捗状況を聞かされているので、これ以上いる意味もないのだろう。研究室は薬品臭い。そうでなくとも、男のような人種にはいづらいだろう。
キシベは男の背中が完全に見えなくなってから研究員に歩み寄り、尋ねた。
「ルナはどこにいる?」
男に聞こえないように出来るだけ潜めて言ったつもりだった。尋ねられた研究員の胸の名札を見る。ヒグチ、とあった。ヒグチは「ああ、それなら」と指差した。振り返るとカプセルがあった。キシベがどういう意味かはかりかねていると、
「ずっと隠れているんですよ。キシベさんが来るのを楽しみにしていて」
ヒグチは少し笑った。キシベは男が先程自分にしたようにヒグチの肩を二三度叩いてから、「さん付けはよしてくれよ。君の事を私は尊敬している」と言って身を翻した。
キシベはカプセルへとゆっくりと近づいた。よく見れば、半透明のカプセル越しに髪の毛が見え隠れしている。足音を殺して近づき、背後に立った。まだ幼い少女の背中があった。身体を丸めて機械の隙間に必死で隠れようとしている。キシベは少し微笑んでから、「わっ」と言って少女の肩に両手を置いた。少女がびくりと驚き、「わぁっ!」と声を上げる。少女が振り返った。大きな碧眼がキシベを見つめ、大輪の笑みを咲かせた。
「お父さん! どうしてルナがここにいるってわかったの?」
少女は首を傾げた。長い髪の毛が揺れる。キシベは優しく少女の髪を撫でた。
「それは、ルナがお父さんの自慢の娘だからさ」
キシベは笑いながら少女――ルナを抱き上げた。ルナが笑ってキシベに飛びつく。キシベはルナの背中を撫でて、愛しく目を閉じた。
ロケット団が今は法といっても逆らう組織や個人がいるのは明白だ。大切なものはいつも傍にいたほうがいい。直属の上官である男もそれを許してくれた。何ヶ月も会えない日々が続けば子供は寂しい想いをする。そんな子供時代を過ごさせたくない。そう言ってキシベにルナを預けてくれた妻の顔が思い出される。本当に寂しいのは自分も同じだろうに、いじらしい事だとキシベは思った。
「いつか家族で旅行に行こう。どこがいい?」
「ルナはホウエンがいい! ポケモンコンテスト見るんだ! 小さくてかわいいポケモンがきれいなリボンをつけているんだよ!」
「そうか。ホウエンか。お父さんも、ホウエンには行ってみたいな。ロケット開発が進んでいると聞くし」
「ロケットのほうが、ポケモンコンテストよりもおもしろい?」
ルナが小首を傾げる。ロケットもまだ絵本の中でしか見たことがないからどんなものか想像もついていないのだろう。
「ああ。お父さんはルナぐらいの年の頃からロケットが好きだったんだ。ロケットはすごいぞ。宇宙まで行けるんだからな」
「うちゅう?」
ルナが中空を見上げ、口をへの字にして思案する。宇宙という場所がどこなのかまではまだ絵本でも習っていないらしい。
「お星様が綺麗に見えるんだ。ロケットなら宇宙を飛び回ることが出来るんだぞ」
「じゃあ、こんどの旅行はうちゅう、いこうよ!」
ルナの言葉にキシベは困惑したように笑って、「そうだなぁ」とルナを下ろして頭を撫でた。
「いつか行けるといいな。その頃にはルナも大きくなっているだろう。そうだ。お父さんの今の仕事が終わったら、ポケモンをあげよう。何がいい?」
「ヒトカゲがいい!」
ルナが目を輝かせて言った。キシベは「そうか、ヒトカゲか」と言いながら顎に手を添えて思案する。
「でも、ヒトカゲは進化すると見た目が怖くなっちゃうぞ。いいのかい?」
「いいよ! だって、小さいときはかわいいけど、大きくなったらお父さんみたいに大きくてかっこよくなるんでしょ」
ルナの言葉に研究員達も笑い声を上げる。キシベは気恥ずかしそうに鼻の頭を掻きながら、「参ったな」と言った。
「じゃあ、約束だ。今のお仕事が終わったらヒトカゲをプレゼントするよ。指切りをしよう」
キシベが小指を差し出すと、ルナは細くて小さな小指をキシベの指に巻きつけて振り出した。
「ゆーびきりげーんまん」
「嘘ついたら針千本」
「のーますっ! ゆーびきった!」
ルナが指を離して笑顔を向けた。キシベはそれだけで救われる気がした。最愛の娘がただ笑顔を向けてくれる。これ以上の幸福はあるのか。そのためには必ず『R計画』を成功させなければならない。強く胸に誓って、キシベはルナを抱き上げようとした。その瞬間、ルナの身体が触れた先から砂のように崩れた。どうなっているのか。困惑する頭に差し込まれるように、声が響き渡った。
「約束が違う!」
その声に目を向けると、白衣を纏った自分自身が立っていた。今いる場所は研究室だが、異なるのはカプセルがオレンジ色の培養液で満たされている事だった。その中に影が揺らめいている。
カプセルの前に立って背中を向ける男が重々しく口を開いた。
「これは仕方のない事なのだ、キシベ。ロケット団はシルフカンパニーの助力が無ければ存続できない。シルフカンパニーは我々をとかげの尻尾のようにしか思っていない。不要ならば切り捨てるという算段だったのだ」
「しかし、我々の技術によってカントーは今の繁栄を築いているのですよ! それを忘れて、ロケット団にだけ罪をなすりつけようというのですか!」
預かりシステムの基礎を築いたマサキの技術も資金源も、大元を辿ればシルフカンパニー、すなわちロケット団に行き着く。ポケモンセンターの回復技術も、道具の技術もそうだ。全てロケット団の研究によって生み出された産物である。今の人間とポケモンのパワーバランスはロケット団が作り上げたのだ。だというのに、表の人々は裏を平気で汚れていると言うのか。今の繁栄にだけ目を向けて、それまでの過程にあったものはいらないと言うのか。
「キシベよ。歴史が証明している。軍事転用目的で造られたものが、民間に渡れば全て平和利用される。民衆は軍事目的で造られた事など知ろうとも思わないのだ。今の繁栄に甘んじているのは仕方のない事。憤りは分かる。だがな、キシベ。我々はロケット団の頭を失ったのだ。それでも耐える事が必要なのだ。サカキ様は全てを捨て去られた。我々の未来も、希望も。だが、サカキ様を恨むのは筋違いなのだ。恨むのは我らを排斥しようという世界と、そしてロケット団を壊滅させたトレーナーだ。そのトレーナーは玉座に至りながら、全てを捨てて消えたらしい。復讐の矛先さえ、向けさせてくれないのか」
「そういう事ではないでしょう。ロケット団が何故壊滅したかはいいんですよ。そうじゃない。どうして、こんな事になっているんですか!」
男へと叫び続ける自分は何をそんなに憤っているのか。疑問に思い、カプセルへと目を向けようとするが影になってよく見えない。
「聞いていたはずだ。『R計画』はロケット団壊滅すら視野に入れたプロジェクトであると。ならば、生き残った我々はこの研究を続ける義務がある。プロジェクトチームは残っているだろう。『プロジェクト・ミュウツー』の技術も入った。この計画だけが、ロケット団再興の切り札なのだ。これが完成した時、ロケット団は再び返り咲ける。サカキ様も戻ってこられるはずだ。我々はサカキ様を待ち望まなければならない。そのための玉座は空けておく。だが、頭がなければどのような組織も動かぬ。私はそのためならば、混沌の象徴にもなろう。サカキ様が全てを照らす光となるためには、混沌が必要なのだ。キシベよ。お前には私の右腕になってもらう」
男が肩越しにキシベを見やった。キシベは男の言葉に耳を貸す様子も無く、肩を荒立たせて手を振るった。
「そういう事じゃないんだ! 『R計画』は確かに必要でしょう。私が言っているのは、その事だ!」
キシベがカプセルを指差す。その時になってようやく、カプセルの中で揺れる影の正体が明らかになった。キシベは驚愕に目を見開いた。
長い髪を揺らしながら、コードが身体に痛々しく突き刺さっている。カプセルの中央に浮かんでいるその瞼は閉じられ、小さな唇からは気泡が漏れる事はない。泡沫がカプセルの下の部分から上へと流れる。白磁のような皮膚に泡沫がかかった。
そこにいたのはルナだった。十数個あるカプセル全てにルナが浮かんでいる。キシベの意識はその場にいた自分の身体へと吸い込まれた。キシベが膝をつき、蹲って頭を抱えて首を振る。
その直前、カプセルの前に立って自分の似姿を見つめている本物のルナの姿が映った。ルナは痩せ細った手をカプセルの表面についていた。その唇から掠れた声が漏れ出る。
「――ねぇ、お父さん。どうして、ルナの目の前にルナがいるの? わからないよ」
泣き笑いのような顔になって、ルナが言った。その瞬間、静寂を引き裂く叫び声が聞こえた。自分の声だった。
思えば全てがおかしかった。
実の娘とはいえ、極秘の研究施設にルナを通した事。
キシベが研究の主だった役職から外され、管理業務が多くなった事。
それらは全て、適性のあるルナをキシベの目の届かぬところで実験台にするためだったのだ。『R計画』は最初から狂っていた。それに気づかないふりをしていたのは自分だったのだ。『プロジェクト・ミュウツー』のクローニング技術により、本物のルナを実験台にする必要は無くなった。だが、その代わりにルナはクローンのために遺伝子解析や、違法な手術を受ける事が多くなった。全てはクローンのルナを作り出すために。本物がないがしろにされ始めたのだ。いくらでも造れるし、調整できるクローンと違い、本物は扱いづらい。そのためもあったのだろう。調整可能な遺伝子さえ複製できるならば、不安定なクローンを実験に使うよりも本物を使ったほうがいい。どうせ、本物は目的達成時には使い物にならない。
「Rシリーズにはロケット団が知りえたポケモンについての知識や、人間社会の基本などを直接学習させる仕組みになっている。目覚めた時に、赤子同然では困るからな。だが、クローニング時の遺伝子の欠損などが見られる個体もある。目覚める者がいるかどうかは神に祈るしかない」
神に祈るだと? 何を言っているのだ。これこそ神の冒涜だろうに。
「ルナは私の娘だ! だというのに、どうしてこんな事に……」
顔を覆ってキシベは己が不明に呻いた。男は静かに口を開く。
「全ては世界が原因なのだ、キシベよ。サカキ様の繁栄が続くのならば、こんな研究は必要が無かった」
男の言っている事は先程からサカキの事ばかりだ。サカキさえいれば、健在ならば、と。キシベは覆った手の隙間から、憎悪に濁った瞳を男へと投げた。背を向けている男は気づく素振りなどない。自分達のやっている事が正しい事だと思い込んでいる。信奉し続け、自分で考える頭を失った自己陶酔の塊。
これを生み出したのは何だ? ロケット団か。それとも世界か。こんなもののせいで自分と娘の未来は閉ざされるのか。こんなものがいるから――。
「……分かりました」
キシベはゆらりと立ち上がった。視界の隅のルナがカプセルを見つめたまま固まっていた。もう本物のルナは駄目だ。なぶりものにされて、生きているという事すら自覚していない。このままでは緩やかに死を待つばかりだろう。いや、研究のためならば骨と皮ばかりになったルナさえも利用されるかもしれない。それだけは、とキシベは奥歯を噛んだ。
「この研究、私が研究主任として引き継ぎましょう。サカキ様の天下を再び取り戻すために。全ては、ロケット団再興のために」
口元に笑みが浮かぶ。この時初めて、キシベは偽りの笑みを身につけた。