第六章 七節「モノクローム」
草原の爽やかな香りが身体を満たしている。
頬を撫でる風は優しくまるで女神の手のようだ。自分は草原を走っている。
片手にピカチュウのぬいぐるみを抱いている。柔らかな毛並みが頬に当たってくすぐったい。陽射しを浴びて太陽の匂いをうんと吸い込んだぬいぐるみは自分にとって無くてはならないものだった。いつでも綺麗なぬいぐるみは自分の自慢だった。ピカチュウのぬいぐるみを持っている子供は他にもたくさんいたが、自分のものだけが生きているように感じられた。きっとそれは他の子供も同様だったのだろうが、幼少期はそれが当たり前に思えた。ピカチュウのぬいぐるみと共に風になりながら、家の扉を勢いよく開ける。ママとパパが当たり前のように笑っている場所がそこにはあった。おやつ時の芳しい紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。ママの入れてくれる紅茶はいつでも魔法のように心を持っていた。少なくとも幼い時の自分にはそう見えた。カップの底を覗くと、茶葉がダンスをしているのだ。ママは魔法使いなのだと、当然のように思っていた。
パパはいつでも背中に自分を乗せてくれた。大きな背中と、漂ってくる煙草のにおいが安心感を与えてくれる。ママはパパが煙草を吸うのをあまりよくは思っていないような事を言っていたが、本心ではない事は分かっていた。だって、微笑みながら自分に言うのだから。きっとママもパパのそういうところが好きだったのだと今ならば思う。パパは時々、釣りに連れて行ってくれた。大きなコイキングを釣っては、「これはうちでは食えないな」と困ったように笑って川に返していた。パパなりの優しさだったのだろうと思う。おかげでうちにはポケモンの食事が並ぶ事はなかった。いつも天然の有機栽培をしたイッシュから直送で送られてくる野菜を食べていた。だから、小さい頃は「やせっぽっち」ってからかわれた事もあったけれど、でもポケモンを食べるよりは随分とマシに思えた。パパとママは時折、仕事に出かけていった。二人で同じ制服を着て、同じ時間に手を繋いで出て行く。とても寂しかったけれど、自分はそんな二人が誇りだったと思い出す。玄関先で手を振って送り出した。二人は温かい手で自分の頭を優しく撫でてから、決まって「すぐ帰るからね」と言った。すぐ帰るとはいつなのだろう、と時計とにらめっこする日々もしばしばだったが、たいていはピカチュウのぬいぐるみと共に外で遊んだ。町には自分ほど退屈を持て余している子供は少なかったが、それでも遊び相手はいた。
他の子供もピカチュウのぬいぐるみを持っている事もあれば、ピッピ人形を持った子供が草むらにわざと近づいて野生のポケモンを驚かして遊ぶなんていうこともしょっちゅうだった。当たり前に過ぎるような日々だったが、今にして思えばなんと楽しかった事だろう。夕方にパパとママは帰ってきて、パパは大きな手で抱っこして肩車をしてくれた。ママはそれを見て笑いながら、ハピナスの絵があしらわれたエプロンをつけて、晩御飯の準備を始めていた。毎日がそうやって過ぎていった。
だが、ある日、パパとママがいつまで経っても帰ってこない事があった。朝にはいつもと同じように「すぐ帰るからね」という言葉があったのに、いつまで待っても帰ってこない。自分は玄関先でずっと待っていたが、結局次の日の朝になっても帰ってこなかった。その日は外に出ずにずっと家にいた。いつ帰ってくるのだろう。すぐとはいつなのだろう。そう思いながら玄関で待っていると、不意に開いた。パパとママだと思って顔を上げると、黒い服を着たパパよりも大きな大人達が何人も立っていた。わけが分からずに後ずさると、黒服の大人達は鋭い視線を交し合って、「この子が?」、「間違いありません」とお互い囁いた。何が間違いないのだろう、と思っていると黒服の大人達は家に押し入ってきた。自分は突然の事にパニックになりながらも、パパとママに言われた事を思い出す。
「すぐに帰ってくるから、だから家を守っていてね」
自分は大人の足に組み付いた。だが大人の力は強くてすぐに引き剥がされて、パパと同じような大きな手が自分の頬を叩いた。
「このクソガキが! ロケット団の子供の分際で俺に触りやがった!」
その大人は自分の首を締め付けようとする。他の大人がその大人の肩を引っ掴んで、やめさせたが、自分は痛みとショックで口も利けなくなっていた。何が起こったのか全然分からない。大人のうちの一人がさっきいきなり首を絞めてきた大人を羽交い絞めにして宥める。
「やめろよ。ここで殺したら、俺達の方が犯罪者だ」
その声に大人はまるで子供のように泣きじゃくりながら、それでも自分に向ける視線は憎悪に染まったままで叫んだ。
「だってよぉ! こいつらに俺の妻は殺されたんだ! ポケモンも、息子も! 全部奪われた! だったら、こいつらのものも奪っていいだろうがよぉ!」
その言葉に大人達は黙りこくった。自分は荒い息をつきながら、羽交い絞めにされている大人と視線を交わした。その濁った眼が、根本から自分を否定していた。身体から力が抜けたようにその場にへたり込む。大人の一人が歩み寄り、肩に触れた。びくりと身体を震わせる。
「大丈夫かい? だがね、君のお父さんとお母さんは許されない事をしたんだ。だから、君も許されない。私が守りたいところだが、それ以上に君を憎む敵意はやむことはない。だから――」
「こいつらと同じ目にあわせてやるんだよぉ!」
羽交い絞めにされた大人が懐から写真を取り出した。その写真には、見たことのない姿になった二人の大人が身体をバラバラにされていた。一人は本当にバラバラになっていて、もう一人は――女の人の方は、見知らぬ男の大人に――。
それが、苦痛に歪んだその顔がパパとママに見えて――。
「おいやめろ! そんなものを子供に見せるな!」
自分の肩に触れていた大人が写真を持っている大人を組み伏せる。だが、もう遅い。見てしまった。
誰のものか分からない叫び声が木霊する。サイレンのように、自らを引き裂いてしまいかねないような叫び声だった。
自分はそれを客観的に見つめている。七歳の頃の自分の姿、まだアヤノだけだった頃の姿だった。
アヤノは引き上げられるような感覚と共に目を開いた。
滅菌処理された白い天井が映っている。先程までの夢の余韻が、網膜の裏にちらついたのも一瞬、アヤノは上体を起こして額に手をやった。玉のような汗が滲んでいる。着ている服も汗がじっとりと染み付いて、どこか不愉快だった。胸元に風を通そうとして、周囲に誰かいないか気を配る。エイタも今は出払っているようで、誰かが来る気配は無かった。アヤノはディルファンスの制服の上着を脱いで、息をついた。片手で前髪をかき上げて、ため息混じりに呟く。
「……嫌な夢」
あの夢を見るのは久しぶりだった。カイヘンに来た頃にはまだ見ていたが、旅を始めてからはほとんど見る事が無かった夢だ。無意識のうちに思考の表面に上らないようにしていたのかもしれない。悲しさよりも、大人達の不気味さのほうが先に立つ夢だった。
アヤノの両親はロケット団員だった。それをアヤノが知ったのは随分後の事だ。幼い頃のアヤノには両親が着ている制服の意味など分からなかった。ただ二人して背筋をしゃんと伸ばして出て行くのだから、アヤノは両親が誇り高い仕事をしているのだと思っていた。だが、実際には世界の敵の一人だったのだ。アヤノの両親はロケット団壊滅に伴い、法で裁かれること無く、ロケット団排斥に向けて動いた民衆達によって私刑にされた。その事が分かったのも後の話だ。あの時に大人の一人が叫んだ言葉の意味は分からなかったが、ただ両親は二度と自分の前に戻ってこない事だけは直感的に分かった。アヤノは身体を折り曲げて、膝を抱いた。涙は出ない。とうに涸れてしまった。ただ眉間が熱くなるだけだ。それが涙として出ない分、余計に辛い。
「アヤメがいてくれたら、もしかしたら慰めてくれたのかな」
アヤノは自身の心の内へと目を向けようとしたが、それはかなわなかった。心の中を見て、アヤメと話したモノクロの部屋が全く見当たらない。アヤメとの対話は二度と訪れないのか。それは安堵と不安が入り混じった複雑な感情としてアヤノの心に沈殿した。アヤメはいつだって壊す事を考えていた。自分が愛すれば愛するほど憎み、壊したがっていた。カリヤを傷つけたのも、エイパムを使いこなせたのもアヤメだからなのだ。自分には誰かを傷つける事などできないし、戦う事も出来ない。弱虫な自分だけが残ってしまった。
「……あたしのほうが、消えればよかったのに」
思わず呟いた言葉に、アヤノはハッとして首を横に振った。今はカリヤを助けるために弱音は吐いていられない。エイタの期待に副えるためでもある。ディルファンスの一員として、ヘキサを叩く。あの組織はロケット団と同じだ。大切なものを奪ってゆく。大切なものをアヤノの手から横取りする。そして、最後には両親のように突然の別れが待っている。アヤメだってその犠牲になったようなものだ。ロケット団に関わったから消えてしまった。アヤメは自分の一部であったはずなのに。アヤノは胸元に手をやって、瞼を閉じた。心の奥底、光の差さない深海のような場所へと呼びかけるように言葉を紡ぐ。
「アヤメ。お願いだから、いるのなら返事をして。あたし、やっぱりあなたがいないと何も出来ない」
言葉は虚しく残響するだけで、望んだ返事は来なかった。いるとだけ言ってくれればいい。ただそれだけで、自分は救われる。いつものように何も出来ない自分を叱ってくれてもいいのに、それすらしてくれない。
アヤメは本当に消えてしまったのか。アヤノは喪失の痛みに呻いた。胸元を強く握り締め、奥歯を噛む。
「……アヤメ。傍にいてよ。あたし、誰かが傍にいてくれないと壊れてしまいそう」
今までもそうだった。アヤメがいたから、乗り越えられた。破壊を司ってくれたから、愛する事だけに没頭できた。だというのに、アヤメがいなければ自分は愛する事さえも疑問を抱いてしまう。
その時、医務室の扉が不意に開いた。アヤノは慌てて胸元のボタンを留め、佇まいを正した。入ってきたのは知らない男の構成員だった。ディルファンスの服装に身を包んではいるが、どこかぎこちない印象を受ける。まるで、かなうのならばその服を今すぐにでも捨て去りたいとでもいうような、切迫した表情だった。アヤノは思わずベッドの上で身を引いて、身体を両手で抱いた。それに気づいた構成員が慌てて口を開いた。
「あ、驚かせるつもりは無かったんだ。ただ、さっきの君の模擬戦を観ていて。大丈夫かな、と思って」
「あなた、は……」
警戒心を解かずに返すと、構成員は「あ、悪かったよ」と弁明した。
「名前ぐらいは名乗るべきだったね。俺の名前はセルジ。構成員の下っ端をやっている」
セルジと名乗った構成員はアヤノへと歩み寄り、その手を差し出した。アヤノは仕方なく、その手を握り「アヤノです」と名乗った。手を離し、布団で身体を覆いながら口を開く。
「模擬戦、観ていたんですか」
「ああ、うん。アヤノさんのエイパム、結構強かったね」
「そう、ですか」
会話が続かずに沈黙が降り立つ。エイタやカリヤならばリードしてくれるのに、セルジは随分と口下手なようだった。アヤノは堪りかねて、「何の用なんですか?」と尋ねていた。
「ディルファンスはそうでなくっても大変な状態なんでしょう。あたしなんかに関わっている暇はないんじゃ」
「ああ、いや、うん。その通りと言っちゃ、そうなんだけど……」
セルジは言葉を濁して頭を掻いた。アヤノのつっけんどんとした言い方に困惑しているのだろう。アヤノも使い慣れていない言葉遣いのためにどこか羞恥のようなものを感じていた。それを悟られないように俯きながら、勢いに任せて言った。
「はっきりしてください。あたしだって、今すぐにでもエイタさんの助けになりたい。模擬戦を続けたいんです。なのに、あたしは……」
頭を抱えようとしたアヤノの手を、そっと温かな手が握っていた。目を向けると、セルジがアヤノの手に添えるように手を当てていた。握り締める、というほど強固なものではない。本当に、添えた、という表現が正しいような、慰めるわけでもなく距離感をはかりかねている手だった。アヤノが思わず手を振り払う。セルジは「あ、ごめんなさい」と謝って手を引っ込めた。
「俺の知っている人に似ていたんだ。つい……。ごめん」
再び沈黙が二人の間に降り立つ。アヤノはもう口を利くまいと思っていた。このセルジという構成員は今まで会った人達に比べると幼い気がした。横目で見やる。体格は大人の男のそれだったが、目つきはエイタやカリヤのような目ではない。どこか自分の居場所を決めかねている、先延ばしにしている目だった。その眼がアヤノに向きかけて、アヤノはすぐさま視線を逸らした。目が合うことが嫌だったわけではない。情けない眼を見る事が嫌だったのだ。
「……アヤノさん」
沈黙を破ったのはセルジのほうだった。アヤノは無反応を返す。
「会って欲しい人がいるんだ。君によく似た人なんだ。もしかしたら、君の行く末かもしれない。俺は、その人と君を重ねて仕方がない」
不躾な物言いだった。勝手に自分の都合を押し付けているだけだ。アヤノはついには顔を背けた。
「結構です。あたしには関係ありませんから」
これほどまでに拒絶の意思を異性の相手に示した事はなかった。セルジはエイタやカリヤと比べて人の気持ちを理解する配慮に欠けている。そんな人間とは話す口を持たなかった。セルジはそう言われてもまだ諦めていない様子で、「少しだけでいいんだ。時間は取らせない」と言った。ならば、とアヤノは返した。
「その人はどこにいるんですか。いつエイタさんが戻ってくるかも分からないんです。あたしは次の戦闘に参加したい。エイタさんの役に立ちたい。だからここを離れるわけにはいかないんです」
言い放った言葉に、セルジは少し顔を伏せて首を横に振った。
「それなら心配ない。医務室と繋がっている集中治療室がある。そこにその人はいるから」
セルジが背中を向ける。付いて来る事を前提に考えている。それもアヤノの神経を逆撫でした。だが、付いて行かないのでは初対面の構成員の心象を悪くする。それをエイタに告げ口でもされたら堪ったものではない。アヤノは渋々ベッドから起き上がった。スリッパを履いて、セルジの後に続く。医務室の一番端にある扉は「関係者以外立ち入り禁止」の電子表示がある。セルジはカードキーを認証パネルに通して、扉を開いた。扉の向こうは廊下があった。その廊下に面してガラス張りの個室がある。集中治療室だった。ほとんどの部屋の電灯は消えていたが、一つだけ点いている一画があった。その場所へとセルジとアヤノは足を運ぶ。セルジがその部屋の前で立ち止まった。アヤノはガラス越しに中を覗き込んだ。
中にいたのは半透明のチューブが全身から伸びている少女だった。おかっぱ頭の少女は人工呼吸器をつけており、ベッドの傍らには心拍数や呼吸数を絶え間なく示す機器が所狭しと並んでいた。まるで人形のようなうつろな瞳が、アヤノを真正面に捉えている。いや、その眼は捉えているという表現すら怪しい。アヤノのその先を見ているような眼差しだった。まるで死者の眼だ。アヤノはその眼に射竦められて、鼓動がどくんと胸を突いた。
「この、人は」
アヤノの声にセルジが集中治療室の少女に目を向けたまま答える。
「彼女の名前はコノハ。ドラゴンタイプの使い手だった。前回のロケット団との全面戦争で前線に出て、俺達を導いてくれた張本人だ。だが、今は見ての通りの状態だ」
セルジの口調は見せないようにしながらもところどころ悲しみが見え隠れした。押し殺しているのだろうが、滲み出ている。それほどまでにコノハという少女に関わったのだろうか。アヤノは再びコノハへと目を向けた。虚弱にしか見えない少女がドラゴンタイプの使い手という事も信じがたかった。ドラゴンタイプは通常のポケモンよりも遥かに高い戦闘能力を持つが故に、トレーナーを選ぶ。ドラゴンタイプを操れるだけの強い精神力と、体力が無ければ務まらない。
「コノハさんは、俺達を助けるために無茶をしたんだ。薬物の投与によるトレーナーとポケモンの同調。地上部隊と空中舞台を同時に操るという精神的な負荷。それが彼女をあんな姿にさせてしまった。これは俺達の責任でもある。戦いをなめてかかっていた、俺達の」
セルジは片手の拳を骨が浮くまで強く握り締めていた。セルジは言葉を継いだ。
「戦いはまだ終わっちゃいない。分かっている。だけど、エイタさんはさらに無茶な事をしようとしている。今のディルファンスではヘキサに太刀打ちできない。冷静に考えれば分かるはずだ。おかしいんだ、エイタさんは。アスカさんがいなくなったからなのか分からないけれど、どこか自分のためだけに動いているように見える。だから、アヤノさん」
セルジはアヤノへと向き直った。アヤノは首と視線だけをセルジに向けた。セルジは真っ直ぐにアヤノの眼を見て、言った。
「君には手遅れになって欲しくないんだ。コノハさんみたいに前線に立つのはおかしいんだよ。力があっても、傷ついて欲しくない。傷つくのは俺達、男の特権だ。女の子に戦場歩かせるなんてまともじゃない。俺はエイタさんとは真逆の事を言っているだろう。でも、それでも、今度の作戦には参加しないで欲しい」
頼む、とセルジは頭を下げた。アヤノはセルジの言葉に戸惑い半分、苛立ち半分を感じていた。セルジは結局、自分の自尊心を守りたいだけだ。本当に守りたかったのならば、前の戦いで守ればよかったのだ。それをディルファンスが弱体化してから文句を言うのだから、勝手だと思った。エイタを否定する言葉を言った事も気に食わない。エイタは自分と同じ痛みを背負っている。そんな心優しい人間を否定する事は自分を否定されている事と同義だった。アヤノは口を開いた。
「あなたは、結局自己満足がしたいだけなんですね」
その言葉にセルジが頭を上げてアヤノを見つめる。困惑、といった表情により一層苛立ちを感じた。
「分からないんですか。あなたは表面だけを取り繕っているだけです。戦いを止めたい気持ちが最初からあるのなら、もっと手はあったでしょう。なのに、しなかったのは黙認する事が利益になるからだと思っていたからじゃないんですか。今更、格好つけても誰もついて来ません。あなたはただ、エイタさんを否定して、それで自分が正しいという事に酔っているだけです」
「違う。俺は――」
「違いません。あなたは本当のところ、ディルファンスが劣勢だから、そんな事を言い出しただけなんじゃないですか。ディルファンスが今までのように法のようだったら、こんな事は言い出さなかったんじゃないですか」
その言葉にセルジは返事を窮した。それが決定的だと言えた。アヤノは「出て行ってください」と言っていた。
「あなたには、正義の味方を気取る資格もありません。戦う覚悟の無い人間が、戦場に出る前に自分を慰めているだけです。そんな相手は、他に探してください」
セルジは言葉を返しかけて、口を何度か開いてから噤んだ。ほら見ろ、何も言えまい。
「分かったよ」と言い残し、セルジは歩き出した。アヤノは初めて他人を否定したが、それ以上にエイタの自尊心を守りきった事に対する誇りが勝っていた。セルジはアヤノとすれ違う瞬間、ぼそりと呟いた。
「だけど、君は本当に危なくなった時にエイタさんが守ってくれると思うかい?」
その言葉に心臓が跳ねて振り返ったが、セルジは振り返りもせずに医務室を出て行った。一人取り残されたアヤノは集中治療室のコノハを見つめた。あれが末路だとでも言うのか。
「……違う。エイタさんはきっと、あたしを救ってくれる。カリヤさんに会わせてくれる。あたしの痛みを分かってくれた人だから。だから、きっと……」
アヤノはガラスについた手を拳に変えて、強く握り締めた。