第六章 五節「個人と正義」
モニタールームにエイタがやってきたのはタリハシティの六角形を見つけて間もなくの事であった。ヤマキと構成員がエイタに説明するも、エイタはどこか怪訝そうに口を開いた。
「こんなに分かりやすい方法でヘキサが尻尾を出すとは考えられない。もし停電させるとしてもギリギリまで引き伸ばすなりの方法があったはずだ」
「そんな余裕がなくなったんでしょうか?」
尋ねたのは今も忙しくキーボードを打ち続ける構成員だ。いくつもの画面を呼び出しながら、タリハシティの俯瞰図を見つめる。今はどこから呼び出したのか熱探知機を用いてタリハシティを調査していた。熱探知でも同じように六角形が現れる、と思われたが熱自体はばらけて存在しており、タリハシティがヘキサの本拠地であるという確証には繋がらなかった。
「そもそもタリハシティ地下に電力を集中させる意図が分からない。そんな事をすればヘキサの行動がこれから始まるということを教えるようなものじゃないか」
モニターを睨みながらエイタが口にする。もっともな意見にヤマキは構成員に渋面を向けた。構成員はヤマキの表情とエイタの言葉を読み取ってから、モニターに一つのウィンドウを開いた。
「今のカイヘン地方にはヘキサを止められるだけの力がない、と踏んだのではないでしょうか。警察、公安、政府、マスコミ、全てが麻痺状態にあります。無理もないですよ。ロケット団が復活したかと思えば、ディルファンスとの全面戦争、挙句の果てにヘキサですよ。ついていけない、というのが実情なんじゃないですかね」
その言葉に思わずヤマキは構成員の肩を引っ掴んで、「おい」と耳元で囁いた。構成員の皮肉は実際に戦ったものからしてみれば場違いにも程があるものだ。ヤマキは肩越しにエイタの顔を窺った。エイタは腕を組んで、息をついていた。構成員の口から発せられた言葉に耳が痛くないはずがない。ヤマキは声を潜めた。
「物事は考えてから喋れって。ディルファンスの現状を分かっているだろ」
「分かっていますよ。だからこそ、このデータを見ていただきたいんです」
落ち着き払って構成員が指差したモニターには電力供給の模式図と熱探知の模式図が二つ並んで表示されていた。それらがゆっくりと重なっていく。熱探知の部分はオレンジ色に、電力は紫色で表されている。折り重なった途端、ヤマキは「あっ」と声を上げていた。
熱探知のオレンジがもっとも濃い部分と紫色の電力供給が完全に一致していた。構成員は椅子ごと二人に向き直り、片手を軽く翳して「ぼくの考えでは」と口を開いた。
「この状況は何事かを意味しています。電力の供給はイコール熱反応にはならないからです。確かに若干の発熱はしますが、ここでモニターしている熱量はそんなものの比ではありません。明らかに集中している場所、例えばここを」
構成員が画面を指差す。六角形の並行する線の先端部分だった。四つの頂点をそれぞれ指し示して、構成員は言葉を続けた。
「この部分の熱量が特におかしいです。ここだけで街一つ分はあります。それを四つ配置している。まるでそこに何か重要なものがあるかのように」
「……重要なもの。兵器の開発所か?」
口にしたのはエイタだったが、構成員は首を横に振ってやんわりと否定した。
「今更兵器を開発して何になるというんです? まさかその兵器が完成するまで宣戦布告したカントー政府や他地方の政府が待ってくれるとでも? ありえないですね。考えられるとすれば、一つ」
「何だよ。もったいぶらずに教えろって」
焦れた様子のヤマキの声に構成員は硬い表情で言葉を発した。
「今日明日中に、もう事は起こるということですよ」
構成員の言葉に「まさか」と返したのはエイタだった。
「タリハシティと周辺地域を人質に取った程度でどうなるというんだ? 確かに物流は滞るかもしれないし、交通網の麻痺、メディアの情報が完全封鎖される危険もある。タリハシティにはテレビ局があるからね。しかし今更メディア情報をジャックする必要があるとは思えない。彼らは現に一度、自力で電波をジャックしている。首都と周辺地域を牛耳った事と、犯行声明のカントーへの侵攻は全く繋がらない」
「そこなんですよね」と構成員は後頭部を掻いてモニターに向き直った。ヤマキも腕を組んで神妙に呻り考えたが、答えになるような事は全く閃かなかった。ヘキサの目的と首都機能の奪取には関連性はないように思える。ディルファンスの動きを封じる事が目的だとは今は思えない。半分以上が寝返った上に、戦力も前回の戦闘で消耗している。そんな組織など脅威に上げるまでも無い。ヘキサはどうやってカントーへと侵攻するつもりなのか。首都機能を奪ってリニアを使う、なんて事はないだろう。何よりも、政府への反逆を宣言した組織にしては間抜けすぎる。リニアを止めるだけの権限はカントーにもある上に、遠足じゃあるまいしとヤマキはその考えを振り切った。
「あるとするなら、ヘキサにはもう戦力は拡充していて、あとはカントーへ侵攻するだけ。この停電はその前準備、と考えられます。ただ首都機能を麻痺させて得るものが何なのかは見当もつきませんけれど」
「だとしても、今日明日中というのは早計ではないかと僕は思う。だが、その考えを完全に否定するわけにもいかない。これだけ材料が揃っているんだからね」
エイタがモニターを指で叩いた。構成員が「どうします?」と尋ねて振り返った。それに応じたのはヤマキだった。
「タリハシティの民衆へ避難勧告が先だろ。よく分からん事態に陥っているんだ。それに彼らの生活がかかっている。近くの町への避難と物資の提供が最優先課題――」
「いや。その必要はないよ」
遮って放たれた言葉にヤマキは目を向けた。エイタは顎に手を添えて、眼鏡越しの視線をモニターに据えている。眼鏡に、点滅するモニターの光が反射していた。
「避難勧告なんてする必要はないさ。ディルファンスは民間団体ではあるが、ボランティア団体でもなければそれだけの蓄えのある組織でもない。今、ディルファンスは空中分裂寸前だ。そんな時に、民衆の相手をしている暇はない。今は一刻も早く、ヘキサを叩くべきだ」
エイタならば口にするかもしれないと予想はしていた。だが、面と向かってその言葉を聞くとヤマキは素直に承服できずにいた。
「駄目ですよ。まずは民衆を避難させてから、じっくりとタリハシティを調べるべきです。そうでなくっても、我々は民衆からあらぬ誤解を受けているんですよ」
ヤマキが必死に説き伏せようとするが、エイタは冷たい眼差しを送りながら言葉を返した。
「だからこそさ。あらぬ誤解を受けているから、彼らが素直に僕らの言葉に耳を貸すとは思えない。彼らの言い分を聞いている間に、ヘキサが事を起こしたらどうする? それは最悪のケースだが、充分にあり得るんだ。民衆には自力で逃げてもらう。ヘキサを叩く事を最優先とする。最終的にディルファンスが生き残るにはそうするしかない」
「じゃあ、民衆は……。タリハシティの人々は見捨てるんですか!」
思わず声が責め立てるように大きくなってしまう。エイタは表情を全く崩さない。ここに来て、ヤマキはエイタの表情がまるで作り物めいている事に気づいた。鏡のようだ。敵対心や憎悪、時には愛情を映すそれ自体には感情のない鏡。それがエイタの顔だった。だとするならば、自分は誰に怒りを感じているのか。何にも出来ない自分自身か、それともディルファンスというあり方か。答えを見つける前に、鏡の表情がエイタから視線を外した。
「ナンセンスだな」という言葉を潮にして自分との会話は切られた。構成員の肩を掴んで、
「君には引き続き、ヘキサの動向を調べてもらいたい。通信など何でもいい。動きがあったら僕に連絡してくれ。すぐに向かう」
そう言い置いて、エイタは踵を返した。ヤマキはその背に何事かを言いかけて果たせなかった。何を言おうというのか。コノハと模擬戦の少女を利用した事でも責め立てるのか。ヤマキは拳を骨が浮くほどに握り締めている自分に気がつき、ふと自嘲した。
セルジの事は言えない。自分もコノハの事に憤りを感じている。この組織に疑問も覚えている。正しさを利用したのは一体誰なのか。ロケット団だと思い込んでいた。他ならぬエイタの言葉によって。だが、戦いが終わって失ったものに気づいてみれば本当に正しさを利用したのはどちらなのか、判らなくなってしまった。
「ヤマキさん。エイタさんを追いかけてください」
こちらへと顔を向けずに構成員が平淡な声で言った。その言葉にヤマキは振り返る。構成員はキーボードを叩く手を休めずに口を開く。
「ぼくに出来る事はヘキサの本拠地を見つける事です。それしか出来ない。だから命令には従います。でもヤマキさんはそれ以上の事が出来るでしょう? 言うべき事があるんじゃないですか?」
出すぎた物言いかもしれませんが、と付け加えて構成員は言葉を切った。それ以上の事、と自分の中で繰り返す。今までは組織の歯車でしかなかった。命令に異を唱えるわけも無く、意見もせず、何にも成れぬままにここまで来た。だが、ようやく自分の意思が持てたのだ。歯車の意思など組織からしてみれば不純物だろう。ディルファンスの事を第一に考えるのならばないほうがいいに決まっている。黙っていれば金は入ってくる。死なないように立ち回る事も出来る。しかし、とヤマキは拳を握り締めた。実際の死以上にそれは虚しいものではないのか。目的のない生き方など、結局、自分を殺している事に他ならない。
ヤマキは「すまない」と言い残してモニタールームから駆け出した。まだ廊下を歩いているエイタの背中を見つけ、言葉を発した。
「エイタさん。待ってください」
その声にエイタは気づいて振り返った。無感情に自分を見つめる視線に言葉を呑み込みそうになりながらも、ヤマキは口を開いた。
「もう一度言います。タリハシティの民衆の避難誘導を最優先にしてください」
ヤマキの言葉にエイタはほとほと呆れたとでもいうようにため息をこぼした。
「まだ、そんな些事にこだわっているのか。先程と答えは同じだよ。我々にはそんな事に割ける人員もなければ余裕もない。君だって分かっているはずだ。今のディルファンスには信用がない。アスカと構成員の半分の離反。スポンサーも離れ始めている。ならば、戦って結果を出して勝ち取るしかないんだ。悠長に避難誘導をしている間に、公安や警察機構がヘキサの本拠地を見つけて叩けば、ディルファンスの存在意義はなくなる。構成員は路頭に迷う事になる。そうなってからでは遅いんだ。僕は今のディルファンスを預かるものとして、最善の選択をしているつもりだよ」
エイタの言葉は正論だった。自分の言葉はそれに比すれば理想論と綺麗事に過ぎない。民衆の避難を最優先にしてくれというのは、我侭に近い。結果を追い求めるのならばヤマキの言い分は通るはずがない。わき道に等しいからだ。ヘキサの本拠地をあぶり出し、叩く。それが今のディルファンスにおいてもっとも優先させるべき問題なのだろう。
――だが、とヤマキは萎えそうな心に鞭打つように掌に爪を食い込ませた。
「ですが、今のディルファンスは客観的に見て戦闘が不可能です。戦力の大半を前回の戦闘で失っています。いくら試作兵器があっても勝算は薄いと考えていいと思います。それならば、戦力をこれ以上失う可能性がない避難誘導に人員を充てたほうが、これからのディルファンスのためにもいい。そうすれば失った民衆の支持を得る事が出来る。ヘキサの事は警察や政府機関に任せたほうが無難と考えます。相手はカントーへの侵攻を考えている、大きすぎる組織です。民間団体では手に負えない。これ以上、戦闘に介入するのは得策ではないと思います」
ヤマキの言葉を全て聞いてから、エイタは顎に手を添えて「ふむ」と神妙に頷いた。聞き届けてくれたか、と思い、先程から覚えず力を入れている腹から力を抜こうとした、その時だった。
「言いたい事は、それだけかい?」
意想外の言葉にヤマキは咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。エイタは眼鏡のブリッジを上げてため息をついた。
「分かったよ。君にはこれ以上、作戦に参加してもらうのはよしてもらう事にしよう。迷いのある兵は、他の構成員にも悪影響を及ぼす。君は、ヤマキとか言ったか。今日で君とはさよならだ。ディルファンスに君のような人間はいらないんだ。僕もこんな事は言いたくはないんだが、君は統率を乱す恐れがある。今のディルファンスは一糸たりとも乱れてはならないんだ。ヤマキ、君を現時刻をもってディルファンス正規構成員から除外する」
放たれた言葉はにわかには信じられないものだった。ヤマキが次の言葉を探している間にエイタはヤマキへと歩み寄り、胸につけられたバッジを引き剥がした。
「これで名実共に、君は自由だ。どこへなりとも行くがいい」
話はそれで終いだと言うようにエイタは背中を向けた。ヤマキは胸元を握り締めた。先程まであった力がいとも簡単になくなってしまった。ディルファンスだから民衆を助けられると思ったのだ。ディルファンスだからコノハの事を気にかけることが出来た。だが、その冠を奪われれば、こうも簡単に自分は居場所を失ってふらふらとした浮遊感に身を任せるしかなくなってしまうのか。ヤマキは思わずその場に倒れかけたが、最後の意地で踏み止まり、エイタの背中に言葉を投げた。
「エイタさん! でも、もう皆戦えませんよ! コノハさんだって……」
その言葉にエイタは立ち止まり、肩越しに鋭い視線を向けた。
「コノハか。確かにあれほどのトレーナーはそうそういない。だが、別にどうって事はない。コノハの手持ちはまだ残っている。ポケモンさえいれば、後はどうにでもなる」
エイタの言葉にヤマキは思考が焼け爛れるような感覚を味わった。何も考えられなくなり、上下関係を無視した怒りの言葉が口をついて出る。
「あんた、それが本音かよ! コノハさんを利用するだけ利用して、それで用済みなら捨てるってか! そんな事が許されると思ってんのか!」
ヤマキの言葉にもエイタは冷ややかな視線を送り続ける。まるで何も感じていないかのように。いや、とヤマキは考える。思い返して見れば、この人は一度だって本気で感情に任せた事があるのか。今まで自分達を煽ってきた言葉も、大仰なパフォーマンスだと考えればそれで納得できる気がした。
「許す、許されない、か。だが、誰が許すというんだ? 誰が許さないというんだ? 僕を裁ける人間がいると思っているのか。それとも、自分で裁くとでも?」
この状況を客観視しているようなエイタの言葉に、ヤマキは思わず近づいてエイタの胸倉を掴んだ。それでもエイタの表情が崩れる事はなかった。無感情の鏡の仮面が、顔に張り付いている。それを引き剥がしてしまいたくなったヤマキは、拳を振り上げた。エイタは口元にいやらしい笑みを浮かべて、「殴るのか」と呟いた。
「……俺は、あんたを許せない。誰も裁けないというのなら、俺が裁く」
押し殺した声に、エイタは俄かに笑い声を上げた。
「やめておきなよ。君の名誉が傷つくだけだ。僕を殴ろうが、ここで殺そうが僕には何の不利益もない。コノハはもう喋れないだろうし、アヤノはもう僕のものだ」
その言葉にヤマキは白熱化した思考に任せるがまま、硬く握った拳を振り下ろした。鈍い音が響き渡る。エイタは赤く腫れた頬へと手を伸ばしていた。殴った拍子に胸倉を掴んでいた手は外れていた。ヤマキは拳を振るった姿勢のまま、暫く硬直していた。エイタは放心したように殴られた頬を触っていたが、やがてその手を握り締めて尋ねた。
「気は済んだかい?」
その言葉にヤマキはハッとして、拳へと視線を落とした。振り下ろした拳が熱い。心臓が耳元に移動してきたように鼓動が喧しかった。人を殴ったのは初めてだった。
「君はもうディルファンスに相応しくない。気が済んだのなら出て行くといい。僕にはやる事がある。君に関わっている場合じゃない」
エイタは身を翻して、廊下を歩き出した。ヤマキはその場に縫い付けられたように動けずにいた。
今振るった拳は誰のためだったのか、と自問した。コノハのためか、アヤノのためか、それとも自分のためか。その答えはすぐに浮かぶものではなく、疑問だけがヤマキの胸の中にわだかまり続けた。