第六章 四節「孤軍奮闘」
じっとりとした汗を掌に感じて、アスカは持っていたハンカチで手を拭おうとした。
部屋を見渡す。あてがわれた一室は、ディルファンスにいた頃よりも狭い部屋だった。灰色の壁に、鉄の扉。空調はきいているが、圧迫感のせいで汗を掻く。取り出した青いハンカチがかつてエイタから貰ったものだと思い出し、覚えずハンカチを握る手に力がこもる。
結局、裏切る形になってしまった。こんな自分をエイタは許さないだろう。だが、自分が動かなければ終わりのない抗争が繰り広げられていただけだ。リーダーとして出来る最善を尽くしたつもりだった。ディルファンスの構成員の半分を離反させたのも、これ以上ディルファンスの兵力を増やさないため。半分も裏切れば、疑念が生まれディルファンスは自然消滅するはずだ。
だが、ディルファンスが崩壊しただけでは真の平和は訪れない。今、自分がいるヘキサをも破壊しなければ。そのためにサキ達に全てを託した。ディルファンスとしてではなく、個人として動いてくれる事を願って。ヘキサに寝返る事を計画していたのは、随分前からだった。キシベと三回目に会った時のことだ。その時に、アスカ個人のメールボックスへとヘキサ構築の計画と、ディルファンスを裏切る事の段取りが送られてきた。だからこそ、アスカはキシベを信じる事が出来なかった。片や、ロケット団幹部として刺客を送り込みつつディルファンスとの共生をはかり、片やヘキサのような独立組織を立ち上げようとする。キシベの意思はどこに向かおうとしているのか。それは幹部として招かれたアスカにも全く分からなかった。
「――でも、やるべきことはある」
ヘキサが立ち上がってから一日が経とうとしている。まだ組織の管理体制は磐石ではない。今こそがつけ入る隙なのだ。アスカはホルスターからモンスターボールを取り出して緊急射出ボタンに指をかけた。
「キルリア、お願い」
その声と共にボタンを押し込むとボールが割れ、中から小さな妖精のようなポケモンが飛び出した。スカートをはためかせ、回転していたキルリアがアスカのほうを振り向いた。
「キルリア。フランのキルリアと交信は取れる?」
キルリアは目を閉じた。頭部の赤い角が点滅し、思念を拾おうとする。このキルリアとフランに渡したキルリアはつがいだ。目の前にいるのはメスのほうのキルリアである。タマゴから孵った時期も同じ二体のキルリア同士ならば、情報の交換が可能なはずだ。フランの居場所を探ろうとしたのだが、キルリアは残念そうに目を伏せて首を横に振った。
「……そう。やっぱり、ここじゃ深すぎるのね」
壁に手をついてアスカは呟いた。アスカがいるのは地下三階層、だとキシベから聞かされている。本当のところは分からない。キシベの使うフーディンによって自分達はディルファンス本部から直接、ここまで移動したのだ。ここがどこなのか、まずは探る必要があった。
「そのためには、やっぱり出るしかないか」
アスカは扉の取っ手に手をかけた。アスカは取っ手を握った手にじわりと汗が滲むのを感じた。誰の力でもない、自分の力で踏み出す。子供の頃には当たり前のように持っていた感情だったがいつの間にか忘れてしまっていた。誰かの影に隠れなければ、権力の笠を着なければ何も出来なくなっていた。いつからそうなってしまったのだろう。頭を掠めたそんな疑問に思考を奪われかけたのも一瞬、アスカは奥歯を噛み締めて覚悟を決めた。子供の頃にいくらでもやった事だ。大人の自分が今、出来ないでどうする。背後のキルリアがアスカの不安を感じ取って、怯えた声を上げる。キルリアを追随させるのはもしもの時の備えだ。ルカリオやジュプトルは目立ちすぎる。キルリアならばもし他の構成員や団員とすれ違っても足元に隠れる事が出来る。
アスカは「大丈夫」とキルリアに言ってから、鉄の扉を開いた。廊下には幸いにして誰もいなかった。ぽつりぽつりと白い蛍光灯の光が無機質な灰色の廊下を照らしている。抜き足差し足は逆に怪しまれる。アスカは堂々と廊下に踏み出して、歩き出した。ここが本当に地下三階層だというのならば、少しでも地上に近づけば交信が可能になるはずだ。それがたとえ嘘だとしても、地上に出るルートぐらいはあるはず。アスカはひとまず階段を目指す事にした。エレベーターのようなものが備え付けられていればよかったが、歩けど歩けど、そのようなものは見当たらない。来た時と同じようにフーディンのテレポートで部屋まで飛ばされたため、演説をした部屋への行き方も分からなかった。
これでは幽閉されているのと同じだ、と今更に感じる。
ここがどこなのか。そもそもキシベはどうやってカントー政府セキエイ高原に侵攻しようというのか。ロケット団とディルファンスの勢力を合わせたとしても不可能ではないか。カイヘン地方からカントーまで行く方法がそもそも分からない。無論、リニアで向かうわけではないだろう。船で密航、というのも考えづらい。自分達はあまりにも目立ちすぎている。テレビ演説をしたのが隠密行動をするには裏目に出るはずだ。何か、逆転の策でもあるのだろうか。そう考えながら歩いていると、ふと突き当たりに行き当たった。壁だ。触れてみると冷たい感触が伝わってくる。アスカは振り返った。今まで一直線に歩いてきたのに壁にぶち当たると言う事は、進む方向が逆だったのだろうか。それとも、この階層は――。
「――いかがなされましたか? アスカ殿」
差し込むように放たれた声にアスカはハッとして周囲を見渡した。だが、廊下が一本あるだけで何もない。天井付近を見たがスピーカーに当たるものも無く、声がどこから聞こえてくるのか分からなかった。
「ここですよ」
その時、アスカの耳に羽音が聞こえた。かすかな羽音だが、廊下の薄闇を縫って近づいてくる。覚えずアスカは身構えた。腰のホルスターに手をやる。すると、「そう構えなくてもいいんですよ」という声が聞こえた。羽音と共に近づいてくる声の主に、アスカは目を見開いた。
「……キシベ、じゃない」
喋り方と声からキシベだと思い込んでいたが、現れたのはポケモンだった。頭が音符のような形をした鳥ポケモンである。首周りに貴族のような白い襟巻きがあり、羽は青い。大きさはさほど大きくはないが、腰周りにベルトが嵌められておりそこからモンスターボールが一個吊るされていた。
「意外でしたか? 私もこういうポケモンを使うのですよ」
その声は紛れも無くその鳥ポケモンの口から発せられていた。アスカは聞いたことがあった。人の声をそっくりそのまま真似するポケモンがいると。名前はペラップと言ったか。
アスカが警戒を緩めずにペラップを見つめていると、ペラップは表情に全く似合わない不敵な声で言った。
「あなたが動く事は予測の範囲内でした。必ずディルファンスにヘキサの本拠地を知らせるために、何らかの行動を起こす。たとえば、地上を目指したりしてね」
アスカはペラップに怪訝そうな目を向けた。見えているわけではないはずだ。ペラップはあくまで声を伝えるだけのポケモンである。それもリアルタイムの声ではない。録音したテープを聞かせているようなものだ。だというのに、自分の行動がこれほどまでに読まれている事にアスカは薄ら寒いものを覚えた。
覚えずボールに添えていた手を強張らせたのを見ているように「まぁ、そう警戒しないでください」という淀みない声が嘴から発せられた。
「これからあなたを案内しようと思っていたのですよ。ペラップはあなたが動けば自動的に追いかけるように指示しておきました。モンスターボールを持っているでしょう?」
アスカはペラップにベルトで吊るされたモンスターボールを見やった。
「中にフーディンが入っています。取り出してテレポートを指示してください。そうすれば、あなたをここまで案内できる」
キシベの言葉にアスカは従うべきか迷った。ペラップはそれ以上、言葉を重ねようとはしない。録音されたのはそこまでなのだろう。このまま反対側を目指しても地上に出られる保証はない。もしかしたらこの階層自体、地上に出られるようには造られていないのかもしれない。そう考えると、ペラップを倒しても意味がない上に、永遠にここを出る機会を失うかもしれない。そう思う反面、いやキシベは自分をヘキサに勧誘したのだから、これから出るチャンスはあると考える自分もいたが、本当にキシベが自分を必要としていないとしたらどうだろうか。ただ単にヘキサの戦力を拡充させるために用いた餌だったとしたら。ならば、ここで飼い殺しにされる可能性もあるということだ。
アスカは吊るされたモンスターボールに手を伸ばした。従うわけではない。だが、ここがどこなのかも分からない今のままでは死んでいるのと同じだ。アスカは緊急射出ボタンを押し込んだ。光に包まれた巨大な狐の頭部を持つ人型が現れる。フーディンが、両手のスプーンを翳して自分を見つめている。アスカはその目に気圧されないように言った。
「フーディン。キシベの指示した通りに、テレポートを」
フーディンはその言葉に従い、青い光をスプーンから迸らせて空間を包み込んだ。景色が霞み、次に視界に映ったのは黒で統一された壁だった。アスカは見覚えがあった。ヘキサ誕生の演説をこの場所で行ったのだ。その証拠に壁には青い六角形に「HEXA」の赤い文字が走っている。そのシンボルを背にして立っている人影を反対側に見つけた。ペラップが羽音を立てて、黒スーツの人影の肩に止まる。既にフーディンは傍に侍っていた。アスカは身体ごと向き直り、口元を歪ませて立つ人影を凝視した。
「……キシベ」
アスカがその名を口走る。キシベは肩を竦めてみせた。
「おや、呼び捨てとは。あまり信用されていないようだ」
アスカは足元にいるキルリアを見やる。キルリアは先程から赤い角を光らせて、交信をはかっていた。それをキシベに気取られないように身体で隠して、アスカは一歩、踏み出す。
「信用はしていません。私は戦いをなくしたいだけです。だというのに、あなたはカントー政府への攻撃を宣言した。そんな事、計画書には書いていなかった」
「計画書には確かにありませんでした。しかし、あなたはディルファンスを裏切った。私がそんな事を言おうが言うまいが同罪だ。裏切り者としてあなたはディルファンスに処刑されますよ」
「私は争いをなくしたいだけです。ディルファンスもきっと分かってくれる」
アスカの言葉にキシベは口元の笑みをより深くした。
「何が、可笑しいんです」
目に力をこめて、アスカは言い放つ。あまりにも飄々としたキシベの態度にアスカは苛立っていた。それがキシベの策であるという事は分かっていても。
「いえ、別に可笑しな事は。ただ、あなたは残酷な方だと思っただけですよ」
「私が、残酷?」
「ええ。平和を望む気持ちが強いのは分かる。ですが、あなたは仲間を裏切った。リーダーという責任ある立場でありながら。それはどんな組織であれ、重大な背信行為だ。あなたは私を信じられないと言った。それはあなたの仲間も同じ気持ちなんじゃないですか?」
返そうと開きかけた口を、アスカは噤んだ。キシベの言う事はもっともだ。お飾りのリーダーを演じた挙句に裏切ったのでは、本当の信頼関係が築けているはずがない。フランとの交信が出来ないのも、それが起因しているのかもしれない。頭に浮かんだその考えを振り払うように、アスカは声を張り上げた。
「それでも、あなたの考えが容認されるわけじゃない! あなたの目的は世界を混沌に陥れる行為。だから、私にはあなたを止める義務がある!」
アスカはホルスターからボールを引き抜いた。ボールを翳して鋭い視線をキシベに投げる。キシベはそれを意に介することなく、嗤っていた。
「義務、ですか。しかし、あなたはディルファンスのリーダーでもなければ、警察や公安でもない。義務などどこにあるのです?」
「誰に強制されたわけでもない。私は私の意志で、あなたを止める」
その言葉にキシベは手を叩いた。乾いた拍手が二人を挟んで木霊する。
「いやはや、感服しますね、その強い意志には。ただし、強すぎる意志は身を滅ぼす。特に、その身に不相応な意志はね」
キシベの言葉を振り切るようにアスカはボールを振りかぶった。投擲の瞬間に叫ぶ。
「行け、ルカリオ!」
ボールがバウンドし、中から光に包まれた人型が躍り出た。青い体表に狼のような頭部がある。だが四足ではなく、二足歩行であり、拳は硬く握られていた。甲の部分に鋼の特徴を映した棘がついている。手足と顔に黒い紋様が走っており、強い意志の宿った赤い双眸が輝いている。格闘・鋼タイプを持つポケモン、ルカリオは威嚇するように雄叫びを上げた。その雄々しい声に、普通の敵ならば竦み上がるところを、キシベとフーディンはまるで好敵手に巡り会えたかのように嗤った。
「ディルファンスリーダー、アスカの手持ちポケモンの一つ、ルカリオ。あまりにも有名ですから私も存じ上げていますよ。いいんですか、そんな有名なポケモンで」
「あなたの野望を砕くのなら、私はルカリオの拳と共に砕く!」
アスカの声に応じるようにルカリオは両拳を構え、短く息を吐き出した。キシベは笑みを濃くして頷いた。
「いい覚悟だ。それに熱いですね。ですが、その熱ささえ――」
フーディンが一歩踏み出す。その手に握られたスプーンが青い光を帯びた。
「私のフーディンの前では意味のない事。行け、フーディン」
フーディンがスプーンを斜めに振るった。するとルカリオへと青い光が斜めに走りその身を締め付ける。蛇のように離れない光が、広がってルカリオを押し潰そうとする。「サイコキネシス」だ。だが、ルカリオは苦しみに喘ぐのではなく、轟、と空気を割るように叫んだ。腕を開き、いとも容易くサイコキネシスの呪縛を振り解く。
「私のルカリオはサイコキネシス一撃で沈められるほど、やわじゃない」
アスカの声に応じるようにルカリオは一声鳴き、両手を脇に構えた。手の中で迸った青い光が渦を巻き、球形を生じさせている。ルカリオの手だけに留まらず、足、耳までも青い光で輝いた。まるで炎のように青い光がたゆたう。それは生物の根源のエネルギーである波導≠ナあった。ルカリオはその波導≠操る事の出来る数少ないポケモンなのだ。手足に波導が集中しているのはルカリオの運動性能を補助するために他ならない。耳に至った波導は聴覚を鋭くさせ、筋肉の軋みさえも聞き逃さない。ルカリオが波導を手の中で練る。まさしく命の灯火が火炎のように燃え盛り、ルカリオの手の中で完全な球形となった。その瞬間、アスカは叫んだ。
「ルカリオ、波導弾!」
ルカリオは手を突き出して開いた。手の中で凝縮されていた波導が弾け、フーディンへと一直線に向かう。これが「はどうだん」である。格闘タイプの技でありながら数少ない特殊攻撃だ。なおかつ、攻撃は必ず命中する。フーディンはすぐさま念動力で身体を浮かして、横に移動しようとしたが波導弾はフーディンの足跡が見えているように偏向した。波導弾は生物の波導を追う仕組みになっているのだ。どのような生物でも波導は存在するために、波導弾から逃れる術はない。フーディンの眼前に波導弾が迫り、次の瞬間上半身に叩きつけられた。衝撃で砂煙が上がり、フーディンの姿が見えなくなる。直撃の手応えをアスカは感じていた。キシベも先程までの笑みを掻き消して、戦闘の顔になっている。
「――しかし」
呟いたのはキシベだった。砂煙を青い光が裂いた。波導の光ではない。エスパータイプの念動力の光だ。スプーンを振り翳して砂煙を斜に切って現れたフーディンは健在だった。目立った外傷はほとんど見当たらない。
「当たり前の事ですが、特殊とはいえ格闘タイプの技だ。エスパーにはほとんど効果はありません」
フーディンが長い髭を揺らして主の言葉に頷き、声を上げる。だが、アスカとてタイプ相性の相関図が頭に入っていないわけがない。
「そんな事、分かっているに決まっているじゃない」
「ほう。ならば、どうして」
「確かめたかった。フーディンの耐久力をね。ルカリオは特殊攻撃力に秀でている。もちろん、物理攻撃力もかなりのものだけど。それでも特殊攻撃力のほうが高い」
「ご教授いただかなくとも分かっていますよ。それが何か?」
キシベがこれ以上聞くのはナンセンスだと言わんばかりに肩を竦める。アスカは「分かったわ」と言った。
「何がです?」
「フーディンの特殊防御力が。ある程度ね。波導弾なら五発程度は直撃でも耐えられるはず。でも、これは耐えられないはずよ」
アスカが三本指でルカリオに示す。ルカリオはそれを了解し、今度は片手だけを振るった。その手の中に影そのものが凝縮されたような闇の砲弾が形作られてゆく。紫色の電子が表面で弾け、歪な彫刻のような球形が回転し始める。波導ではない。ルカリオの眼がフーディンを鋭く睨み、影の球形を振り上げた。
「ルカリオ、シャドーボール!」
アスカの声にルカリオは闇の球であるシャドーボールを撃ち出した。シャドーボールがフーディンの間近に迫る。エスパータイプにゴーストタイプの攻撃は弱点だ。すかさず、キシベが指示を飛ばした。
「テレキネシスで偏向しろ! フーディン」
フーディンが浮き上がって後退しつつ、スプーンを前に翳してテレキネシスでシャドーボールの軌道を逸らそうとする。だが、シャドーボールは逸れるどころかより真っ直ぐにフーディンに向かってくる。驚愕に目を見開いたフーディンへとアスカが言い放つ。
「一撃目の波導弾にマーカーをつけておいた。同じ波導は引かれ合う。シャドーボールにも若干、波導が混ざっているわ。だから、どう足掻こうが避けられない。それは必中の攻撃」
影の球体が軌道上の光すら飲み込みながら、フーディンへと吸い込まれるかに思えた寸前、フーディンはスプーンを翳して身体を開いた。瞬間、衝撃音が響き渡る。だが、どこか鈍い衝撃音にアスカは直撃の感触を確信する事は出来なかった。ルカリオもアスカと同じぐらいの鋭い目つきで着弾点を見つめる。果たして、フーディンは健在であった。スプーンを握った両手が焼け焦げているがそれ以外に外傷は見当たらない。直前に「ひかりのかべ」で減殺した事が読み取れた。アスカはもう一度ルカリオに「シャドーボール」の指示を飛ばそうとして、さっと掲げたキシベの手に注意を削がれた。その手に従ってフーディンがその場から消え、一瞬にしてキシベの隣に現れた。
「ポケモンを呼び戻すという事は、負けを認めるということなのかしら?」
アスカの言葉にキシベは首を振りながら口元に笑みを張り付かせた。
「負け、ですか。確かに、エスパータイプであるフーディンにゴーストタイプの攻撃は脅威となる。波導によって狙いを定められているというのならば、余計に不利ですね。しかし、この勝負に勝ち負けはあるのですか?」
「何ですって?」
問い返したアスカの声にキシベは愉悦の笑みを浮かべて両腕を広げた。
「そうでしょう。なにせ、今私に勝ったところでヘキサの侵攻を止められるわけではない。あなたが表舞台に舞い戻り、ヘキサ壊滅をたとえ宣言したところであなたの言葉は誰に通ると思いますか? 一度裏切った人間が、もう一度裏切らないとも限らない。そうでなくとも、あなたの言葉はもはやあなた一人のものではない。公式な発言はディルファンスリーダーのものとして捉えられる。あなたが裏切った事も含めてね」
キシベの言葉にアスカは歯噛みしながらも、言い返す言葉が無かった。ディルファンスとロケット団の関係を憂い、キシベのヘキサ設立の案に乗ったのは他でもない自分だ。それも自分一人ではなく大勢の構成員を巻き込んで。今更に償えるものではない。この双肩には、構成員達の命もかかっている。アスカの行動の如何で構成員達の命運が決まるといっても過言ではなかった。それにキシベを倒したところでヘキサが止まるとは思えない。キシベはまだ切り札を隠し持っている。その確信に身体が震え出すのを止められなかった。ここでキシベを食い止めるよりもやるべき事があるのではないか。だが、キシベの思惑に乗ってこの戦いの舞台に上がった時点で、自分には選択権は無いのだ。キシベを屈服させても意味がない。
ならば、自分が今戦う意味とは何だ?
その自問が心に突き刺さり、アスカは言葉をなくして立ち尽くした。ルカリオが惑ったようにアスカへと振り返る。主の困惑が波導となって伝わったのだろう。構えていた拳を一瞬、下ろした。その隙を逃すキシベとフーディンではなかった。
「フーディン、気合玉」
その声にフーディンはスプーンを持った片手を振りかぶった。スプーンの皿状の部分にフーディンの表皮の色をそのまま移したような金色の光が寄り集まってゆく。それは皿状の部分で楕円を形作ったかと思うと俄かに回転し始めた。まるで無重力空間にさらされた液体のようにゲル状の不定形でありながら、それは確かに楕円でありまた高速回転していた。それが掌大ほどの大きさへとあっという間に変貌し、フーディンは軽やかなピッチングフォームのようにそれを放り投げた。空気を身に纏い、ねじ込みつつルカリオへと真っ直ぐに向かってくる。その速度は速く、アスカとルカリオがそれに気づいた次の瞬間、ルカリオの腹部へとめり込んでいた。みしり、と鋼の身体が軋む嫌な音が響き渡る。
これが「きあいだま」である。「はどうだん」に次いで珍しい、格闘タイプの特殊技であり、高威力を誇る技だ。特殊防御力を一段階下げる追加効果もある。
ルカリオはその場で身体を折り曲げて痛みに呻いた。格闘・鋼タイプを持つルカリオにとっては同じ格闘タイプこそが弱点である。それも格闘タイプの中で最も高い威力を持つ技を不意に叩き込まれたのだ。当然、ダメージは深刻であるはずだった。
「ルカリオ!」
叫んでアスカが駆け寄ろうとするのを制するようにルカリオは片手を横に突き出した。ルカリオは気高いポケモンであり、波導で心を読み取る。その気高さ、勇敢さゆえに今、一点の迷いのあるアスカを前に出す事を躊躇ったのだろう。ルカリオは片手をついて立ち上がった。ぽたぽたと赤黒い染みが足元に落ちている。血に違いなかった。先程の攻撃は急所に当たったのだ。ルカリオはスピードとパワーを活かした戦いで先手ならば確実に有利に運ぶが、後手に回れば辛い事はアスカにも分かっていた。ルカリオは痛みを振り切るように狼の口を開いて叫び、両拳を構えた。小さくジャンプをして戦いのリズムを再び自分に呼び戻そうとしている。アスカはそんなルカリオに何も言えなかった。迷っている自分の心まで引き受けて、敵と向かい合うルカリオの戦士の背中が眩しかった。
「気合玉は命中率が低いのが難でしたが、あなた達が注意力散漫なおかげで当てる事が出来た」
安い挑発だと分かっていても、アスカは思考が白熱化するのを抑えられなかった。ルカリオが傷つけられた事がより拍車をかけたのかもしれない。
「ルカリオ、シャドーボール!」
怒りのままにアスカは叫ぶ。ルカリオは痛みを堪えながら、忠義を尽くす瞳をアスカに向けたのも一瞬、片手に影の砲弾を形作り始めた。今度は完全な球体を形成する前に、ルカリオはそれを発射した。まだ形状が不安定なシャドーボールが空間を奔る。
「そんなもの。フーディン、光の壁」
主の言葉にフーディンは両手のスプーンを突き出して、それぞれ一回転させた。すると、スプーンの回転の軌跡がそのまま円形の波紋となり、フーディンの前面に青い楕円の壁を形成した。キシベは確実に防げると踏んで口角を笑みの形に吊り上げようとした。その時、アスカが叫んだ。
「いいえ、まだっ!」
その言葉に反応するように、シャドーボールが突然弾けた。不定形だったシャドーボールが分裂したのだ。一つの砲弾だったシャドーボールは、今この瞬間、複数の散弾へと姿を変えた。それをキシベが視界に捉えたのはあまりに遅すぎた。シャドーボールの散弾がフーディンではなく、キシベへと降り注ぐ。キシベとフーディンが砂煙に包まれて見えなくなった。フーディンは確実に防げただろう。だが、キシベは防げなかったに違いない。アスカはゆっくりとルカリオへと歩み寄った。ルカリオはやはり腹に傷を負っていた。手をやって押さえているが重傷だ。気合玉が腹腔を破っている。ルカリオは肩を上下させて荒い息をついていた。立っているのもやっとなのだろう。アスカはルカリオの肩に手をやって、労いの言葉を発した。
「よく頑張ってくれたわね。ルカリオ。でも、これで――」
「何とかなったと、お思いか」
不意に差し込んできた声に寒気を感じる前に、砂煙が青い光で切り裂かれた。暴風に煽られたように砂煙が轟音を立てながら真っ二つに断ち切れて消え去っていく。
そこにいたのは傷一つないフーディンと、全身に傷を負いながらも立っているキシベがいた。キシベは息をついて首筋のネクタイを緩めた。黒いスーツは砂埃と自らの血で汚れている。額が切れたのか、血を流している。それでもキシベが立っているということは決定打にならなかったという事だと理解したアスカは、ルカリオを戻そうとボールに伸ばしかけた手を拳に変えた。まだ戦いは終わっていない。
キシベはスーツの埃を手で払ってから、服装を正した。長い息を吐いてから、ふっと口元を笑みの形に歪める。
「中々面白い攻撃でした。あえて完全ではないシャドーボールを放ち、空気抵抗を計算して炸裂するようにする。並大抵のトレーナーが出来る事じゃない。あなたには少々、本気で挑まねばならないようだ」
キシベが指を鳴らすと、フーディンが前に歩み出た。両手のスプーンを前に翳すと、両方の皿状の部分に金色の楕円が高速回転しているのが見えた。気合玉をまた放ってくる事は想像に難くない。アスカはルカリオに後退の命令を出そうとしたが、ルカリオはその命令を拒むように手でアスカの身体を押し返し、前に進み出た。まるでフーディンと一対一の真剣勝負に赴くかのように。
「ルカリオ! 戻って! 今の傷じゃ――」
その言葉を遮るようにルカリオの咆哮が木霊した。獣の声だった。猛り狂ったようなルカリオを誘うようにフーディンの身体から妖しいオーラが湧き上がる。もやもやとした不定形のオーラはどこか艶かしくさえも見える。それが揺らめく度、ルカリオは牙を剥いて呻り声を上げた。
「……何をしたの?」
アスカのその声に、キシベは「特に何も」ともったいぶった調子で言った。
「嘘。だってルカリオはこの程度で我を忘れたりはしない」
「なに、先程私があなたにしていたのと同じ事ですよ」
「何ですって?」
フーディンのオーラが蝋燭の火のようにぐらりと大きく傾いだ。ルカリオは拳を胸の前で合わせ、狂気に染まった声を上げた。
「挑発です。あなたも知っているでしょう。ポケモントレーナーの端くれなら」
その技ならば知っていた。「ちょうはつ」とは、相手を挑発して攻撃技を誘発する技だ。フーディンの場合は、それがオーラとして現れてルカリオを眩惑している。ルカリオは一時的に制御不能な獣に貶められているのだ。
「そして相手が近づけば近づくほどに、挑発の効果も濃くなり、相手の出せる技とこちらの出せる技も限られてくる。私としては大変都合がいい。気合玉は命中率が低いのが難点だが、この距離なら、問題ないでしょう」
フーディンとルカリオは互いに磁力のように引き寄せあい、至近ともいえる距離まで近づいていた。アスカがそれに気づいた時にはもう遅い。ルカリオはフーディンに飛び掛った。アスカはこの状況を知っていた。格闘タイプが防御を捨てて、相手へと真っ向勝負を挑む技「インファイト」。それをルカリオは行っているのだ。だが、それではいけない。インファイトで近づけば近づくほどに気合玉を受ける可能性も高まる。
「ルカリオ、退いて!」
全身を声にした言葉もルカリオには届かなかった。ルカリオの青い光の尾を引く拳がフーディンの顔面のすぐ傍を通る。それとほとんど同時にスプーンがルカリオの脇腹を捉えた。ルカリオの脇腹で気合玉が弾け、血が雨のように噴出する。ルカリオはそれでも攻撃の手を緩めなかった。膝蹴りがフーディンの腹を捉える。フーディンが僅かに仰け反った挙動が見て取れたが、それは一瞬だった。すぐに気合玉のこめられたスプーンを振り下ろした。フーディンの攻撃を防御するつもりのないルカリオは裂けた口を開いてその手に噛みつこうとした。気合玉が耳元を掠め、耳が皮一枚で繋がっている状態になっても、痛みなどまるで感じていないかのようにルカリオは攻撃を続ける。青い左フックがフーディンの胸を叩いた。フーディンが滅多に開く事のない口を開いて悶絶する。体勢の崩れたフーディンへと、ルカリオは振り上げた拳を頭頂部に叩き込んだ。超能力で支えられている頭部が傾ぐが、それと同時にフーディンはスプーンの皿の部分を上向きにルカリオへと構えていた。
無論、皿には気合玉が高速回転している。てこの原理で放り投げられた気合玉が、ルカリオの下顎を抉った。ルカリオはそれでも痛みに呻く事はしない。闘争本能が痛みを凌駕しているのだ。今のルカリオは恐怖さえも感じる事はない。たった数分で解ける暗示には違いないが、その数分が命運を分ける。血を滴らせた顎でルカリオが叫び、呼気一閃の回し蹴りを再びフーディンの頭部に撃ちこんだ。
だが、二度も頭部を無防備に狙われるフーディンではない。スプーンで展開した光の壁で防いだフーディンは、もう一方のスプーンを振り上げた。先端には気合玉がまるで刃のように鋭く振動している。それを見たアスカが叫んだ。
「ルカリオ、逃げて!」
その声がルカリオに届くか届かないかの瞬間、ルカリオの足がスプーンによって寸断された。片足を失ったルカリオがバランスを崩す。その隙を逃さず、フーディンはルカリオの眉間にスプーンを叩き込んだ。バキッ、と嫌な音が響き渡る。アスカは思わず目を閉じていた。
次の瞬間に開いた目に映ったのは、ルカリオが仰け反っている姿だった。眉間から血が噴き出し、青い顔を濡らしていた。気合玉のこめられたスプーンの直撃を受けたのだ。表面だけではない。きっと内部の損壊が酷いはずだった。アスカはすぐさまボールを取り出し、ルカリオへと向けた。赤い線がルカリオに命中し、ルカリオの身体が赤い粒子になってボールへと引き戻される。間一髪だった。少しでも遅れていたら、ルカリオは死んでいたかもしれない。
「さすがですね、アスカ殿」
キシベが場違いな拍手を響かせる。アスカは睨み返す眼を送った。それを意に介さず、キシベはアスカの戦いを評する。
「これほどまで戦い抜けるとは思いませんでした。さすが、以前カントーのポケモンリーグに参戦しただけはある。伊達ではないと言う事ですね。それほどの実力があるんだ。評価しますよ、我々は」
「誰が、ヘキサなんかに!」
強がりで発した言葉は声が震えていた。ルカリオが倒されてしまった今、キシベのフーディンに決定打を与えられるポケモンはいない。その震えを分かっているはずなのに、キシベは「おやおや」とまるで赤子をあやすように言った。
「困った人だ。あなたは。だったら、大人しくしてもらいましょうか」
キシベとフーディンが歩み寄ってくる。「来ないで!」とモンスターボールを翳して叫ぶも、その歩みが止まる事は無かった。確実に実力が理解されている。眼前に来たキシベがすっと指を上げる。それだけでアスカは全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。勝てない。それが決定的に分かったのだ。
「ですが、フーディンがこれほどダメージを受けるとは思いませんでしたよ。回復まで少し時間がかかりそうだ。地上部隊に加わる気はありませんか?」
「……いい、提案ね」
地上に出ればフランにこの場所を報せることが出来る。そう考えての発言だったが、キシベが見破っていないはずがないだろう。「ですが」と放たれた声は冷たかった。キシベがアスカの顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。視界の中にフーディンのスプーンが映りこんでいた。瞬時に察したアスカは視線を逸らそうとするが無駄だった。縫い付けられたように、スプーンから視線が外せなくなっていた。
「このままでは使いようがない。自我があるままではね。戦闘用にするのは忍びないのですが。まぁ、いいでしょう。使える駒だ。そこのキルリアも」
キシベがフーディンの催眠術を受けているアスカを横目に、キルリアに視線を向けた。キルリアは身の危険を感じて震え始めた。赤い角が激しく明滅する。
「この場所を結果的に教える事になるでしょうが。このキルリア、中々の実力を持っていそうだ。月の石を打ち込むとしましょうか。もちろん、あなたにも」
キルリアへと歩を進めたキシベが思い出したようにアスカへと目を向けた。アスカの眼には何の光も無く、ただ虚ろだけが広がっていた。