AloneU
覚えず舌打ちが漏れた。
だが、それを近くの構成員に聞かれなかったのは幸いだった。エイタは模擬戦の部屋に隣接するモニタールームでアヤノの動向を監視していた。ランクルスとの戦闘中に、急にアヤノの脳波と心拍数が乱れた。その異常に気づいた構成員が声を上げる。
「被験者、心拍、及び脳波に異常確認。このままルナポケモンとの戦闘を続けさせるのは不可能です」
「分かった」と何事もないように応じたエイタだったが、心中は穏やかなものではなかった。折角手込めにした女も使い物にならなかったか、と独りごち、エイタは「模擬戦を中止する」と言い置いてモニタールームを後にしようとした。
「どちらへ」と尋ねる構成員に振り向かずに応じる。
「アヤノのところに行かなくては。何がどうなったのかは分からないが、彼女は精神的なダメージを負った可能性が高い」
それをケアできるのは自分だけだ、という傲慢を出さないような柔らかな口調で言い、エイタはモニタールームの扉をくぐり、隣の模擬戦の部屋に入った。ガラス越しに観戦していた構成員達のざわめきが聞こえてくる。エイタもガラス越しに中の様子を窺った。ランクルスは所在なさげに部屋の中央で佇んでいる。ガラスに身体をぶつけたエイパムも目立ったダメージはないようで、急に蹲ったアヤノの様子を訝しげに見つめている。もっとも、エイパムは表情をほとんど表に出さないために、エイタの見立て通りの事を思っているかは分からないが。
一つだけある扉の認証パネルにパスワードを打ち込み、扉が空気圧のロックを解除して開いた。中のアヤノはまだ蹲っていた。エイタはまず、安全のためにランクルスをモンスターボールに戻した。次にアヤノの手からモンスターボールを取って、エイパムを戻してから、ようやくエイタはアヤノの肩に手をやった。アヤノが身体をびくりと震わせる。エイタは優しく包み込むように「大丈夫?」と尋ねた。
アヤノは震えたまま、首を横に振った。エイタはゴーグルを外してやり、アヤノの顔を見た。アヤノの目には怯えが浮かんでいた。何に対して、なのかは分からない。争い事が嫌いと言っても、エイパムが攻撃を受けた程度でこれほどまでにショックを受けるのはトレーナー失格だ。今までの旅が出来ているわけがない。ならば、他に理由があるのか。先程までエイパムがいた場所を見やってから、「とにかく」と口にした。
「ここから出よう。あとは医務室で。立てるかい?」
その言葉にアヤノは歯の根が合わないようにガチガチと震えながらも頷いた。エイタはアヤノの身体に手を貸す直前、床に転がったゴーグルに目をやった。モニタールームで受信していた映像も頭の中に呼び覚まし、とりあえずは成功だとほくそ笑んだ。すぐにゴーグルの量産に取り掛からせれば、ヘキサの発起までには間に合うだろう。そうなればこちらのものだ。ルナポケモンにだって弱点はある。そこを突けばいい。アヤノの髪から立ちのぼる香りが、エイタの鼻腔を掠める。それがまた少女の香りに戻っていた事に、少なからず安堵した。
医務室でアヤノはベッドに上体を起こしたまま、しばらく毛布を握り締めていた。震えが止まらない。どうしてなのか分からない悪寒が走り、まるで全身の機能が麻痺してしまったかのようだった。エイタがコーヒーを沸かしている影がカーテン越しに見える。漂っている匂いがコーヒーだと判じるだけの頭はある。だが、先程までの事を思い出そうとすると、頭の隅から鋭敏な痛みが走った。片手で頭を押さえながら、アヤノは思いをめぐらせる。エイパムがなぜ言う事を聞かなかったのか。今までそんな事は一度も無かったというのに。考えても考えても、納得する答えは出ずにアヤノは息をついた。その時、カーテンが開かれた。
「アヤノ。コーヒーが出来たよ」
エイタが優しく微笑みながら、コーヒーカップを差し出す。「飲める?」と尋ねられて、アヤノは頷いてカップを受け取った。エイタはパイプ椅子を引き出して、アヤノのベッドの脇に座った。その様子に、アヤノは思わずカリヤとの日々を重ねてしまった。自分から壊した幻想。もし、裏切りが無ければいつまでも続いていたかもしれない悠久の時間。コーヒーの香りが紅茶の香りに変じて、あの時間を巻き戻そうとする。だが、その夢に浸る前に、エイタの現実の声に引き戻された。
「アヤノ。何があったのか、教えてもらえるかな」
その言葉にアヤノは手元のコーヒーに視線を落として、言うべき言葉を探した。黒々としたコーヒーの色がエイパムの眼の色と重なる。あの瞳に見たものを言うべきか、言わざるべきか。逡巡の間に、エイタは次の言葉を口にした。
「君のおかげで、ルナポケモンを識別するゴーグルは何とか量産に持ち込めそうだ。だけどね、アヤノ」
エイタはアヤノの手へとそっと自分の手を添えた。アヤノが驚いて顔を上げると、エイタの顔が間近にあった。息遣いさえも感じられる距離で、本気で心配している声でエイタは言った。
「それじゃ駄目なんだ。君が犠牲になった事になってしまう。出来るなら、君とは共に歩みたい。一緒にヘキサを倒したいと思っている。君の力はまだまだ必要だ。だから、言って欲しい。君の力になれるかもしれないから」
その言葉に甘えてしまいたいという気持ちが鎌首をもたげる。だが、とアヤノは思い留まった。アヤメの事は、そう易々と言える話ではない。エイパムが本当はルナポケモンである事も言えない。結局、言えないことのほうが多い我が身を顧みて、アヤノは首を横に振った。どうしようもない痛みに呻くように、顔を苦痛で歪ませる。
「エイタさん。あたし、駄目なんです。言えない事のほうが、とても多くて。言ってしまいたいけれど、でも、エイタさんにあたしの痛みを押し付ける結果になってしまう」
「構わないさ。二人なら、何とかなるかもしれない」
何とかなるのだろうか。目の前に差し出された希望的観測にアヤノは、思わず手を伸ばしかけて躊躇った。力になれる、と言ってくれている。だが、アヤメの事はどうしても言えない。幻滅させてしまう。打ち捨てられたピカチュウのぬいぐるみとすえた臭いの立ち上る一室が脳裏にフラッシュバックし、アヤノは呻いて頭を押さえた。エイタはアヤノの手を優しく引き寄せると、そっと両手で包んだ。エイタの手は温かかった。確かな人の熱だ。今まで自分が忘れていたものであると思ったアヤノは、間近に迫ったエイタの顔に目を向けた。エイタも真っ直ぐ自分を見つめている。この人は自分を必要としてくれている。裏切る事なんてありえない。もう、綺麗な幻想は幻想のまま、壊れる事はない。そう感じたアヤノは当然の事のように、唇を重ねようとした。
その時、重い音が響き渡り、照明が一斉に落ちた。何が起こったのか分からず、視線を右往左往させていると、エイタの熱が急速に離れた。まるで自分を突き飛ばすように、エイタは立ち上がり、「何が起こっている!」と声を張り上げた。それは自分の知っているエイタではないようで、アヤノは身体が萎縮する感覚を味わった。暗闇の中、エイタが壁に手をついて扉へと向かおうとする。自分の事など端から眼中にないようなその背中にアヤノは声をかけようと口を開きかけた。直前、アナウンスと共に照明が点いた。
『この近辺の電力供給が断たれた模様。現在、予備電力に移行しています』
エイタはそのアナウンスに暫く耳を澄ませていたが、ハッとしたようにアヤノへと駆け寄った。
「大丈夫だった? アヤノ」
その声は先刻と変わらず、優しいものだった。だが、アヤノの心に浮いた疑問の一滴が消えはしなかった。
この人は本当に危なくなった時に、自分を助けてくれるのだろうか。
それは黒々とした染みとなってアヤノの心に広がった。
突然の停電に狼狽しているのは、何もエイタだけではなかった。ヤマキやセルジも同じだったのである。特に模擬戦を観ずに自室に閉じこもっていたヤマキは恐怖としてそれを実感した。まさかヘキサの攻撃が始まったのか、と推測するのは難しくなかったが、すぐにその考えを打ち消した。今、ディルファンスを襲撃する意味は無い。アスカと構成員の半分が寝返ったのだ。もはや残党なのはロケット団ではなく、ディルファンスのほうだった。新リーダーのエイタの声が無ければ、何も事を起こす事はできない。
暗闇が訪れた時、ヤマキの心にあったのはヘキサの襲撃などではない。コノハの事だった。セルジの前ではああは言ったが、ヤマキの心の奥底では気にかかっていた。電力が断たれた事で、コノハの生命維持装置に不備が生じるのではないか。そうでなくとも医師不足で困窮しているのだ。不測の事態に対応できる人間がそう多いとも思えなかったヤマキは自室を飛び出し、懐中電灯を持ってモニタールームに向かった。平時に比べればモニタールームに出張っている人間も少ない。おおよそ半分と言ったところだろう。モニタールームに着いたところで、ちょうど電力が復旧した。どうやら下階から順に電力が戻っているらしい事がモニターを見ていて分かった。ヤマキは知った顔のモニタールーム担当の構成員に話しかけた。
「何が原因だったんだ? 停電とか?」
構成員は首を横に振った。
「分かりません。ただ、この近辺の電力が急に断たれた事は事実のようです。これを見て下さい」
構成員がモニターに出したのは、近郊の街の様子だった。首都、タリハシティを初めとする周囲の街が暗闇に呑まれている。中にはディルファンス本部のように予備電力設備があった施設もあるようだが、そのほとんどが沈黙していた。
「タリハシティ近辺はほとんどの家屋に電力が行き届いていないみたいですね。リツ山付近のヤマトタウン、ハリマタウンまでの電力供給が完全にストップしているみたいです」
次々とモニターに映し出されるのは暗闇の中にある街の様子だった。最初はカイヘン地方全域が映し出され、ごま粒のように細かかったものが徐々に拡大されて、遂には建物の輪郭まではっきりと分かった。
「この映像は?」
「静止衛星のものを拾っています」
尋ねた声にすぐさま応じる言葉が返ってきた。構成員はいくつもの画面を処理しながら、ある一つの画面を拡大して見せた。それは巨大な二本の塔に見えた。直方体の塔は二つ並んで、異様な雰囲気を醸し出している。この非常時においてもその塔の頂上だけは分かるように赤いランプが明滅していた。塔の下部にはコイルをそのまま巨大化させたものがある。コイル、といってもポケモンではなく軸に導線を巻いた装置のほうだ。それはこの二つの塔を象徴するモニュメントだった。
「カイヘンの電力を支える基盤、ツインボルトタワー。ここが稼動しないと、タリハシティを中心とした三つの街の圏内が完全に停電状態になりますね」
構成員が慣れた仕草でキーを操作し、ツインボルトタワーから供給されるパイプラインの模式図を呼び出した。パイプラインは一度タリハシティを経由し、他の街へと電力が行き渡る仕組みになっている。
「タリハシティで送電系のトラブルでもあったのか?」
「分かりませんけれど、もしそうだとしたらリニアの電力も供給できなくって、やばいですよ」
ヤマキは渋面をモニターに向けて顎に手を添えた。ロケット団との戦闘から明けて約一日。顎の辺りに触れると伸び始めた髭でチクチクした。
リニアラインの電力供給は半分ずつまかなっている。例えばジョウトとカントーを結ぶリニアならば半分がカントー、半分がジョウトいった具合にである。これはもし片方の電力供給が断たれても、問題なくリニアを運行できるようにと配慮された結果である。カイヘン地方は特に離れているので、途中に中継地点を挟んでいるのだが、それでも距離が長い。これはカイヘン地方が海に囲まれている結果起こった事である。電力が断たれたとなれば通常運行に支障が出る。他の地方からの電力の援助が来るだろうが、それでもリニアに乗っている客達は普段に比べれば待たなければならないだろう。リニアの客達はさぞ苛立ちを募らせているに違いない、と思っているとふと気づいて声を漏らした。
「なぁ。でも、タリハシティに電力が真っ先に行っているのなら、問題なくリニアを動かせるんじゃないか?」
「それがそうでもないんです」
構成員はまた別の画面を呼び出して、マウスポインターで指差した。それはタリハシティの電力供給レベルを示す専門的な図だった。タリハシティの建築物などが簡略化され、ワイヤーフレームになっている。
「紫色になっている部分が電力の供給されているところですけれど、見えますか?」
「いんや、全然」
問われた事をそのまま返しただけだった。タリハシティの模式図には、どこを見ても紫色に色づけされた部分、即ち電力が供給されている部分を見つけることが出来なかった。数値の部分を見ても、0%とある。
「でしょう。でも、これ見てくださいよ」
今度はどこから拾ってきたのか、ツインボルトタワーの電力供給レベルを示すデータだった。それを見てヤマキは眉をひそめた。ツインボルトタワーは正常に稼動していた。全力供給レベルはほとんど100%である。にも関わらず、真っ先に電力が与えられるはずのタリハシティの都市機能が麻痺し、周辺地域も電力不足に喘いでいる。不可解な事実に、ヤマキは腕を組んで呻った。
「どうなってんだ、こりゃ」
「分かりません。ツインボルトタワーのデータは非公開ですが、ほとんど時間に誤差はありません。リアルタイムのデータと見て、間違いはないでしょう」
だとすればさらに分からない。元々、考えるのが好きではないヤマキは早々に額に疼痛を覚えた。
「あー、分からん。これ、どう説明すりゃいいんだよ」
「知りませんよ」と構成員もどこかぶっきらぼうに答える。ヤマキはタリハシティの模式図をじっと見つめていた。すると、ある事に気づいた。
「なぁ、これって電力供給されているんじゃね?」
ヤマキがモニターを指差す。構成員は目を細くして、ヤマキの指先へと視線を向けた。そこには確かに紫色に染まった部分があったが、すぐさま構成員が「それは違いますよ」と返した。
「シルフカンパニーカイヘン支社のビル跡地です。大方、ホームレスの屋根代わりにでもなっているんでしょう。電気ポケモン使えば一人分くらいの電力はまかなえますよ。それを誤認しているんじゃないですか?」
「いや、それにしては縮尺から考えたらでかすぎるだろ」
シルフカンパニーのビル跡地にぽつんと浮かんだ紫色は気になりだすとそれしか見えなくなった。構成員は模式図の縮尺を画面上に呼び出す。
「五百分の一。それにしては、確かに大きいですね」
「どうしてビル跡地に電力が通じているんだ? ビル跡地ならなおさらいらないじゃないか」
「知りませんよ。……あ、でもひょっとしたら」
何か思いついたのか。構成員は忙しなくキーを叩き始めた。ヤマキが「何をしているんだ?」と尋ねると、構成員はモニターから視線を外さずに「調査ですよ」と応じた。
「この模式図、通常のパイプラインが通っている地下一階層分までの電気供給を調べる図なんですけれど、ビル跡地に電気が通っているって事でピンと来ました。ビル跡地って、確かカイリューの攻撃時に若干陥没しているんです」
「陥没? どれくらいだよ」
「大体、二階層分くらいですかね。そうなってくると、もしかしたらモニターできないだけで、一階層ずつずらしていけば見えるかもしれません」
何が見えるのか。その主語が無くとも、構成員はキーを叩く手を休めずに、様々なウィンドウを開いては閉じ、目にも留まらぬ早業で情報をさばいている。それを見て、ヤマキは、どうやったらここまで調べられるんだ、と尋ねかけてやめた。ディルファンスの情報網に関して言えば、それは野暮な事だ。カイヘン地方ならばありとあらゆる情報が飛び込んでくる。そういう組織だと承服していたはずじゃないか。だというのに、いざ目の当たりにすると嫌な汗すら滲んでくる。まるで誰かの家を土足で踏み荒らしているような感覚だった。
「出ました」と構成員が言ってエンターキーを押す。さすがに激務だったのか、息をついている構成員を押し出すようにヤマキはモニターに顔を近づけた。構成員が眉をひそめるが構っていられなかった。それよりもモニターに映し出された事実にヤマキは目を慄かせた。
二階層分下の電力供給を示す紫色の図は、タリハシティ全域に及んでいた。だが、サイクリングロードや一般道へは全く伸びていない。タリハシティに全ての電力が注がれているのが見て取れた。だが、それだけではない。その紫色が異様な図を示していたのだ。
「……なぁ、これって――」
ヤマキの言葉を察した構成員が額の汗を拭って頷いた。
「ええ。ぼくも驚きました。この図って」
紫色の図がタリハシティを侵食している。それがタリハシティを埋めているだけならば驚きはしなかった。だが、モニターに示されたのは隙間無く紫色で埋められた六角形だった。
「――ヘキサだ」
録画されていた映像で見た図とモニターに映し出された図が重なり、ヤマキの巡りの悪い頭でも、ヘキサを連想するのは不可能ではなかった。