AloneT
蟻の巣状の構造を持つディルファンス本部には、当然、構成員同士の模擬戦を想定した区画もあった。
地下六階層に当たる部分がそうだ。一面が白く天井の高い部屋の中、ぽつりと立ち尽くす少女がいた。強化ガラスで何重にも遮られている向こう側には生き残ったディルファンス構成員達が少女に視線を注いでいる。
その中にはセルジとヤマキの姿もあった。ヤマキは席に座っていたが、セルジは縫い付けられたようにガラスに近づいて部屋の中にいる少女を見つめていた。緑色の髪を二つに結っている。頭身が高いが、話によればまだ十四歳だと言う。ディルファンスの制服を身に纏っているが、あんな少女がいただろうか、とセルジは思った。若い構成員はそうでなくても目立つのに、あんな髪の色ではより一層そうだろう。だが、何よりも目を引くのは頭部から目元を覆い隠すヘルメットのような巨大なゴーグルだった。白地を基調に、青いラインが二本入っている。ゴーグル面自体は黒色で、少女から周囲がどのように見えているのかは壁際にあるモニターで確認する事が出来るようになっている。水色の各種サインが明滅し、少女の心拍数、呼吸数、脳波などをモニタリングしている。その視界から、自分達の姿はマジックミラーになっていて見えない事が分かった。
「……こんな事、許されるのか」
呟いたセルジにリラックスして座っていたヤマキが「どうした?」と声をかける。セルジはガラスについていた手を拳に変えて、振り返った。
「まるで実験動物じゃないか。皆して安全な場所から、あんな女の子にディルファンスの試作兵器を使わせようなんて。まともじゃないだろ、こんなの」
「ちょ……。お前、声がでけぇよ」
慌ててヤマキが立ち上がり、セルジの口を塞ぎにかかった。セルジはヤマキの手首を掴み、部屋の中の少女へと再び視線を向けた。
「おかしいと思わないのか? 今、この状況ですべき事じゃないだろう」
「お前、声のボリュームもでかいし、空気読めなさ過ぎだろ。いいんじゃないか、単なる模擬戦なんだし」
「その模擬戦に、試作兵器の発表も兼ねるって言うのがおかしいって言うんだ」
「何がだよ。模擬戦と試作兵器の試験も兼ねられるんだろ? 一石二鳥じゃないか」
「だったら、あんな女の子が犠牲になってもいいって言うのか? コノハさんと、そう歳が変わらない子だぞ」
セルジの言葉に、ヤマキは呆れたような息をついて、「お前さ」と口にした。その響きに、セルジは「何だよ」と返す。
「なーんか、最近おかしくねぇか? コノハさんに肩入れしたいって気持ちは分かる。あの人は気の毒だよ。フランさんを失ったばかりか、先の戦闘でポケモンも失って薬物付けになったんだからな」
ヤマキの言葉にセルジは医務室でのコノハの姿を思い出す。コノハは虚ろな目を中空に向けたまま、何一つ言葉を発する事が無かった。薬物中毒による、一時的な心神喪失状態だと診断された。だが、セルジはひそかに、このままコノハは二度と元には戻らないのではないのかと思っていた。自身の身を削って戦線を切り拓いたコノハだが、誰も彼女を褒めようという者はいない。腫れ物に触るように扱い、あまつさえ邪魔者扱いするものもいる。ディルファンス構成員のほとんどが寝返ったために、医療に関わる構成員が足りておらずコノハの治療には至っていない。それが余計に歯がゆかった。その現実に奥歯を噛み締めると、ヤマキがセルジの肩に手を置いた。
「あんま考え過ぎんなよ。色々あったさ。だけど、俺達じゃどうにもならない事ばかりだ。コノハさんの事も、今の模擬戦だってそうさ。それに、ここだけの話」
ヤマキは急に声を潜めた。セルジが耳を傾ける。
「コノハさんは、エイタさんと寝たって噂だ。今回の模擬戦のあの子もそうらしい。エイタさんのお気に入りだってな」
ヤマキの言葉にセルジは目を見開いて、ヤマキの襟首を掴み上げて怒鳴りつけた。
「誰がそんな事を言ったんだ! そんな事で彼女達が犠牲になって堪るかよ!」
「落ち着けって。噂だよ、噂。本気にすんなよ。皆、見てるぞ」
その声にセルジは周囲へと目をやった。他の構成員達の視線が集まっている。セルジはヤマキの襟首から手を離した。ヤマキは服装の乱れを直しながら、「今する話じゃない事は分かってる」と言い訳するような小さな声で言った。
「でも、こんな状況どうしろって言うんだよ。ほとんどの構成員が裏切ったんだぞ。それなのに、冷静でいられるかよ。……こういう下世話な話題が無いと、やっていけねぇんだよ!」
今度はヤマキが声を張り上げていた。セルジは黙ってその言葉を受け止めた。ヤマキの言う通りかもしれない。人間は綺麗な面だけを見つめて生きていくことなど出来ないのだ。ヤマキは集まってきた視線から逃れるように、その場を立ち去った。あとに残されたセルジは拳を握り締めて、部屋の中の少女を見つめて呟いた。
「どうして、こんな事になっちまったんだ」
その言葉を受け取る人間はいない、とでも言うように部屋の中の少女は虚空に無機質な視線を投げていた。
無菌室にいると、自分がどれほど汚れているのかを自覚させられるようで嫌だった。だが、エイタが望んだ事なのだ。そしてカリヤを助けるためでもある。それならば、と受け入れた模擬戦はまだ始まっていない。エイタの声を待っている間、アヤノは周囲を見渡した。ゴーグル越しの視界は今のところ良好だ。嵌め殺しの黒いガラス自分を囲うようにがあるが、それ以外はほとんど真っ白と形容していい。白い天井や壁は光を透過するように出来ているようで、上下左右から光が感じられる。意識が閉じる直前のような白色は、気分のいいものではなかった。だが問題なのは、これからどうなるのか、という事だった。腰のホルスターにあるエイパムのボールに触れる。エイパムの鼓動を掌に感じる。それだけがアヤノの心の支えだった。だが、今は別の支えもある。
『アヤノ。準備はいいかい?』
縦長の直方体の部屋に反響する声はエイタのものだった。どこからか自分を見てくれている。その安心感にアヤノは「はい」と応じていた。エイタは事務的な口調で続ける。
『これから行うシミュレーションは対ルナポケモン戦だ。ルナポケモンの説明は既にしたから、分かっているね』
エイタの声にアヤノは硬く「はい」と答える。その頭の中に模擬戦を受ける前にエイタの言っていた事が思い出された。
――ルナポケモン、というものがいる。月の石の薬の投与によって、通常の五倍以上にまで性能を引き上げられたポケモンの事を僕はそう呼んでいる。
エイタの説明はかつてカリヤの言っていた事とほとんど同じだった。エイタによれば、ロケット団は先の戦闘でそれを用いていたようであった。アヤノは自分のエイパムもまたルナポケモンであるという事を告げるべきか迷ったが、その逡巡の間にエイタは言葉を次いだ。
――ルナポケモンを見分けるのは至難の業だ。戦闘に入ってみてから判断したのでは遅すぎる。虹彩が蒼いだけだからね。実際、接近してみなければ判らないのが実情だ。ヘキサは恐らく、それを実戦投入してくるはず。それも今までのように実験的にではない。敵のほとんどのポケモンがルナポケモンだと考えて間違いないだろう。ルナポケモンを倒す手立ては少ない。弱点を突く、地形が不利な場所に誘い込む、様々な方法があるけれど、どれも不可能だと僕は思っている。
不可能とは、と問いかけるとエイタは厳しい眼差しを虚空に投げた。
――弱点を突くなんてことは最初に看破される。これは普通のポケモンバトルだってそうだ。僕が思うに、弱点の完全克服は出来なくとも、ダメージの軽減くらいならば可能だという推測が立つ。この理由は先の戦闘で手に入れたデータだよ。ドラゴンポケモンに対してドラゴンを用いたのに、ほとんど効果が見られなかった。敵は恐らく、弱点に当たる攻撃を半減出来るんだ。二倍ならば通常ダメージに、四倍ならば二倍までに軽減できる。
そんな敵と、どう戦えば、とアヤノが不安げに顔を伏せると、エイタはアヤノの頬に手をやって尋ねた。
――不安かい? でも、手立てはないわけじゃないんだ。ルナポケモンに対抗する手ならばあるさ。それがこれだ。
エイタが取り出したのは細長い直方体だった。片側に穴が開いており、もう片側にボタンがある。直方体のケースを開けると、中に青い液体が揺らめいた試験管が入っているのが見えた。その見覚えのある色にアヤノは目を見開いた。
――驚くのも無理はない。これはルナポケモンの力の根源、月の石を凝縮した薬だ。これを打ち込む事によって、ルナポケモンへと変化する。ロケット団の裏取引を押さえた事があってね。その時に押収した物の中に入っていた。解析した結果がある。……だが。
そこでエイタは不意に言葉を切った。どうしたのか、と問いかける。エイタは不安に顔を翳らせて、首を振った。
――出来れば、アヤノは巻き込みたくないんだ。僕の痛みを知ってくれたただ一人の人だから。大切にしたい。でも、知らせればきっと君は僕の力になろうとする。その強く気高い意志が、何よりも辛いんだ。
アヤノは立ち上がり、エイタへとすがりついた。その時に、身体に纏っていた毛布が剥がれ落ちた。裸体で男にすがり付いている自分の事をアヤメはどう思っているだろう。だが、今は出てこない。それとも、もう二度と現れないのか。そう思っていると、エイタが呻いた。
――君を傷つけたくない。傷つくのは、僕だけでいい。
アヤノは首を横に振った。エイタの身体に自分の身体を引き寄せ、温もりを伝えるように柔らかな言葉を紡いだ。
――……君の強い信念は賞賛に値する。いや、僕にとってはもうなくてはならない女性だ。
エイタがアヤノを包むように抱き締める。その温もりにカリヤを重ねてしまう自分を恨めしく思いながらも、アヤノはエイタの手に自分を委ねた。
『アヤノ。聞こえてる? アヤノ?』
現実のエイタの声に引き戻され、アヤノは思わず「えっ? ええ?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。エイタの声が繋がった回線越しに笑みを含んだのが分かった。
『緊張するのは分かるけれど、しっかりして。大丈夫。君なら』
その言葉にアヤノは心の奥底から解されていくのを感じた。今まで感じた事のない熱が、身体中を駆け巡る。誰かの言葉で、こんなにも自分の中に自信が湧いてくる。
「やります。エイタさん。模擬戦を開始してください」
湧き上がる勇気に任せて、アヤノは強い口調で言い放った。
『では、模擬戦を開始します』
エイタの声が響き、アヤノから数メートルと離れていない地面が突然、円形に陥没した。機械音を響かせながら、じりじりと陥没した床がせり上がり、円柱を築き上げる。その円柱が中央から二つに開いた。中にあったのはモンスターボールだった。緊急射出ボタンへと金具がかかっている。その金具がボタンを押し込むと、ボールが割れて光が射出された。
光を取り去って現れたのは緑色の体色のポケモンだった。シルエットだけ見れば、熊の頭に腕がそのまま生えたようなポケモンである。だが、その実は熊の頭などではない。人間の胎児のような姿の本体を覆うように緑色の膜が形成されている。熊の耳に思えたのは分裂した脳だ。それも人間のような脳ではなく、小さな肉腫のようだった。腕に当たる部分は胎児から離れているにも関わらず太く逞しい。半透明の膜の中に、腕を形作る肉腫のようなものが見えた。肉腫が数珠のように連なり、緑色の膜の中で揺らめく。アヤノの視界を覆うゴーグルの内側に、自動的にスキャンされた相手の情報が表示される。エスパーポケモン、ランクルス。進化する毎に脳を分割する事によって処理速度を増した、主にイッシュ地方に生息するポケモンである。ランクルスは腕を突き出して威嚇するように裂けた口を開いた。その上にある目は蒼く輝いている。ゴーグルの内側でルナポケモンであるという判定が成された。エイタの言葉が思い起こされる。
――心苦しい事ですが、僕のポケモンにこの薬を打ち込み、ルナポケモンにする。模擬戦でそのポケモンと戦ってもらう。
アヤノは首を横に振った。エイタがこれ以上傷つく事はないと思ったからだ。だが、エイタはそんなアヤノの心境を心得ているように優しく微笑んだ。
――こんな事は僕だってしたくない。でも、構成員の誰かのポケモンをルナポケモンにするわけにはいかない。そんな非道な真似は僕には出来ない。だから、僕だけの犠牲で済むのならば、そうしたいんだ。
アヤノはその時のエイタの苦痛に歪んだ顔を見て、胸が締め付けられるのを感じた。こんなにも苦しんでいる。ならば、自分に出来るのは答えてあげる事だけなのだ。
「――だから」
口に出した言葉と共に、戦闘態勢に入ったゴーグルがランクルスのステータスを表示する。体力、攻撃力、防御力、特殊攻撃力、特殊防御力、素早さ、特性、持ち物など全てのステータスが目まぐるしく点滅とスクロールを繰り返す。アヤノは一瞬も見逃さないように目を見開いて、文字群を追った。ルナポケモンになったせいか、元々高い特殊攻撃力の数値が異常に高く設定されている。唯一の欠点であった素早さも通常のポケモン以上になっている。アヤノはホルスターにかけた自身のモンスターボールに手をかけた。その一瞬、アヤメが出てこないだろうかと考えたが、その不安を掻き消すように叫んだ。
「行け、エイパム!」
ボールが無機質な白い床でワンバウンドして割れ、中から光に包まれた矮躯が躍り出る。手のような尻尾で光を振り払ったエイパムは何を考えているのか分からない呆けたような目で、ランクルスを見つめた。ランクルスの眼が攻撃の色を帯びる。アヤノは、先手必勝と断じた胸に叫んだ。
「エイパム、マッハパンチ!」
まずは必ず先手を打てる技を撃つ。これは模擬戦の前にエイタと示し合わせた事でもあった。ルナポケモンに威力の低い先行技がどれだけ通用するのかのデータを取るのだ。エイパムの身体が動き、短い足でランクルスに向けて飛びかかった。ランクルスが丸太のように太い両腕を突き出す。防御しようというのか。しかし、空中で軽く身を翻したエイパムのほうが僅かに早い。エイパムの尾から放たれた音速を超える拳がランクルスの頭頂部に突き刺さった。だが、ランクルスはほとんど身じろぎすらしなかった。スライムのような半透明の膜が衝撃を減殺したのだ。ルナポケモンにある打たれ強さもそれに加わって、ランクルスはすぐに反撃に転じた。エイパムの尾を握り締め、超能力で浮かせている身体を回転させた。
ハンマー投げの選手のようにランクルスが激しく回転する。ランクルスを中心に小さな竜巻が出来るほどであった。エイパムへと指示を飛ばす前に、ランクルスはエイパムを離した。エイパムの身体が壁に埋め込まれたガラスへと突き飛ばされる。
強化ガラスであるはずのガラスに皹が入った。
だが、それよりもアヤノはエイパムの身が心配だった。ルナポケモンの想定外の攻撃性にアヤノは驚く反面、冷静な自分もいる事に気づいた。アヤメが操った時には、エイパムはもっと鋭敏に動いた。という事は、つまりルナポケモンを御する事は不可能ではないはずなのだ。自分にも出来る。そう考え、アヤノはエイパムへと声を飛ばした。
「エイパム。立ち上がって、シャドークロー」
今度は効果抜群の技を試す。その腹づもりだったのだが、アヤノの意思に反してエイパムの動きは鈍かった。緩慢な動作でようやく立ち上がろうとするが、尻尾をへたりと床に垂らしており、明らかに覇気がない。どうなっているのか、ゴーグルにエイパムのステータスを呼び出すが、状態異常は受けていない。体力もまだ有り余っている。何が駄目なのか。アヤノはもう一度呼びかけた。
「エイパム、シャドークロー。早く!」
焦れた声に、エイパムがようやく顔を上げた。だが、その目はランクルスではなく、アヤノを見つめていた。その眼差しに思わずアヤノはたじろぐように後ずさった。攻撃の意思が宿っているわけではない。むしろ何の感情も見つけられないような、奈落の瞳だった。その瞳がアヤノの心に直接問いかけてくるようだった。
それでいいのか、と。
何が、という主語を欠いたままアヤノの心にその眼が踏み込んでくる。エイパムの瞳は黒々としており、何を考えているのか本当に掴めない。緩んだ口元も、笑っているのか、それともそれが必死の形相なのか見当もつかない。アヤノは模擬戦とはいえ、戦場で戦う意味を問い質す瞳に直面した。今までほとんど従順だったエイパムがここに来て、何かをアヤノに示そうとしている。自分にはまるで全体像の掴めない巨大な意思の塊をアヤノはエイパムの瞳の奥に幻視した。
「誰? エイパム? それとも、アヤメなの?」
アヤノはゴーグルを被った頭を抱えた。エイパムは静かにアヤノを見たまま、黙している。ゴーグルの内側の心拍数と脳波が異常数値を示した。アヤノは思わずその場に蹲った。