With youV
「――夜が明けるな」
物思いに耽っていた頭に差し込むように放たれた言葉に、ナツキは振り返った。リョウが東の空を指差す。目を向けると山の輪郭を浮かび上がらせる光が夜の闇へとナイフのように切り込んできていた。きっと、今にも闇の幕を裂いて明日という舞台を始めようというのだろう。時間は待ってはくれない。無情なものだ。
リョウは立ち上がり、服についた土や草を払った。「戻るの?」と尋ねると、「ああ」とリョウは頷いた。
「こんな所にいたら博士に心配かけちまう。博士だって精一杯やってくれているんだ。心の負担ぐらいは減らしてやらねぇとな」
「目の隈が濃くなっちゃうかもしれないしね」
ナツキが冗談交じりに言うと、リョウは笑って「違いねぇや」と言った。
「これ以上博士の目つきを悪くさせるわけにはいかねぇな。真っ昼間から白衣着て、目は虚ろで猫背と来てみろ。こりゃ、不審者だと言われて通報されても文句は言えねぇな」
冗談に冗談を重ねて、ナツキとリョウは笑みを交し合った。そうでもしなければやってられなかった。これから圧し掛かってくる重みをただ真正面に、愚直なまでに受け止めるほどには、自分達はまだ幼すぎた。目の前の大人をからかうくらいは大目に見て欲しいものだ。
「ヘキサツール。完成してっかな」
それは現実に引き戻す言葉だった。冗談で魔法をかけたのに、その一言で二人は否が応でも現実へと直面しなければならなくなった。
「どう、だろうね」
濁したような言い回しを気にするようでもなく、リョウは自分の左手に視線を落とした。右腕へとナツキは目を向ける。フーディンの攻撃でねじられて動かないと聞いていた。ポケモンの攻撃を人間が受ければどうなるか。普通の病院で治せるものではない事は想像に難くない。それを病院にも行かず、応急処置だけで済ませているのだ。
右腕はもう――。
そこから先を心の中でも言うのは憚られて、ナツキは目を背けた。リョウは左手を握り締めて、口にした。
「俺は、ルイを救う。そのためには絶対、ヘキサツールがいるんだ。博士には悪いが、もし完成していなかったとしても、俺は持っていく。ルイを救える可能性が僅かでもあるのなら」
リョウの言葉にナツキは押し黙った。博士が地下で告げた真実は、ゲンガーを止められる術、であって、ルイを確実に助けられる術、ではない。それを履き違えている。またはわざと直視しないようにしているのか。ナツキは指摘する気にはなれずに、他の言葉で誤魔化した。
「ヘキサツールって、結局どんな大きさなんだろうね。ポケモンに持たせられるって言ってたのなら、結構小さいのかな」
「ルイはこのくらいだって言っていた」
リョウが親指と人差し指で僅かな隙間を作り出す。それが本当ならば、難なく抽出完了、というわけにはいかないのではないのだろうか。精密な作業が必要になるはずだ。ナツキは東の空を見る。さらに明るくなった山々が輪郭線を浮き彫りにさせている。明朝までに、というのは無理な話ではないのか。それとも、無理は承知で博士は快諾したのか。考えても出る答えでない事は分かっている。だが、考えずにはいられなかった。ヘキサツールの完成のいかんによって、自分達は行動を決めなければならない。
リョウは研究所に戻ろうと歩みかけた。その足を止める言葉を本当はかけてはいけないのだろう。だが、ナツキはどうしてもここでリョウと話しておきたい事があった。「待って」とナツキが呼び止めると、リョウは首だけで振り返った。
「リョウ。……私、こんな事言う資格なんて無いのかもしれない。もしかしたら、リョウの心を傷つけてしまうかもしれない」
「何だよ、もったいぶって。言えよ。昨日今日会った仲じゃないだろ」
リョウは身体全体を振り向けて、ナツキに促した。ナツキは言いかけて、下唇を噛んだ。本当に言ってもいいのか。その逡巡が脳裏を過ぎる。だが、決めるのは自分だった。たとえ傷つける結果になっても、言わないで後悔したくは無かった。
「リョウ。ルイさんは、リョウにとってそんなに助けなければいけない存在なの? 私には、それがどうしても分からない」
リョウは何も言わない。怒っている風ではないが、顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「ルイさんに肩入れすればするほど、リョウが傷つくのが分かる。皆もそう。お兄さんの事もだけど、博士との事も。サキの事も。全部が全部、ルイさんのせいだとは言わない。でも、リョウ。これ以上皆が傷つくところを、私は見たくないの。リョウには待っている人がいるんだよ」
「俺に、待っている人なんていないよ」
リョウは今まで聞いたことのないような冷たい声音で言った。その言葉に返す前に、リョウは遮るように言葉を次ぐ。
「ルイはさ。俺と同じなんだ。失ったものを求めている。あるかどうかも定かでないものに希望を託している。それを明日に繋ぐ原動力にしようとしている。全部、同じなんだ。手の届かない蜃気楼みたいなもんだって分かっていてもさ。手を伸ばしたくなるだろうがよ。俺もルイも、ただしゃにむに手を伸ばしているだけだ。同類なんだよ、俺達は。だから、分かる。痛みを知れるのは俺だけだって。そうじゃなきゃルイは一生、闇に囚われたままだって。傲慢かもしれねぇって事は承知しているよ。でも、どうせ損するんなら、傲慢なほうがいい」
それ以上話す事は無い、とでも言うようにリョウは背中を向けた。ナツキは言葉をかけかけて、やめた。自分にも、これ以上リョウを呼び止められる言葉なんて無い。ナツキは東の空に目を向けた。山の稜線は遂にはっきりとしてきて、夜の闇との陰影がくっきりと浮き上がる。その光を受けて、ホルスターのボールの中にいるポケモン達が朝を感じて身じろぎするのが分かった。その中の、カメックスのボールを手に取る。ボールに視線を落とし、ナツキは呟いた。
「どうせ損をするのなら、傲慢なほうがいい、か」
同じ結果ならば気持ちを貫いたものが勝ち、という事なのだろう。だが、自分は結果を変えなければいけない。カメックスと自分との関係を含めて。結果と言う名の未来を変えるだけの力を持つ者だけが、力を正しく振るう事が出来る。チアキが覚悟と力を見せてくれたように、自分も見せなければならないのだ。
「……覚悟と、力」
ナツキはその言葉と共に、空を眺めた。射しこんできた光が次の道への階段のように見えた。
右腕が思い出したように疼く。
痛みに呻きながら、リョウは研究所の二階の一室を目指した。来る途中、博士の作業部屋に明かりが点いていた事を思い出す。博士は今やるべき事を果たしてくれている。だというのに、自分には何が出来るのだろうか、とリョウは自問した。ナツキにルイを助けてどうなると訊かれた時はついついきつい物言いで返してしまったが、ナツキの言葉はもっともだった。ルイを助ける事が、ルイの幸福に繋がるとは限らない。そもそもルイに関わる事自体が、皆を不幸にする事に繋がるのかもしれない。誰かの犠牲の上に、ルイを助けるとそれでも言う事が出来るのか。ルイのために、ではなくいつの間にか自分のためになっているのではないのか。単なる自己満足のために、犠牲があっていいのか。自問すればするほどに、迷宮に陥る感覚にリョウは舌打ちをした。シンプルにルイを助けると考えればいいだけなのに、背負うものがあるというだけでこれほどまでに難しい問題になってしまう。ヘキサツール、そしてヘキサ打倒を誓う仲間達、サキとルイの関係、「R計画」――。様々な事情が絡み合って、今は単純な思考に帰結する気にはなれなかった。元々、そう簡単な話ではないのだ。それを単純化しようとしても無理がある。今、自分が決めるべき問題は多数ある。その中の、どれを優先順位に掲げるか。それだけなのだ。
だが、ルイを助ける事を最優先にすれば、自分のせいで他人に重みを背負わせる事になる。リョウは今まで、自分で全てを解決しようとしてきた。兄の事もそうだ。独りならば、重みを背負わせる事はない。独りだから強くあれた。だが、今はもう、独りではない。それが自分の歪みだと、もう知っている。ならば、どうすればいいのか。
「……今まで何でも独りでやってきたツケってわけかよ」
呟いて、リョウは右腕に視線を落とす。痛み続ける右腕は、これまでの行為の代償に思えた。自分のためではなく、誰かのためになすべき事をなせるのか。だが、その「誰か」という考えでさえ、逃げではないと言い切れるのか。自分はルイに理由を求めているだけで、結局は自分勝手な面を捨て切れていないのではないか。地下で博士に独りで泣いていると言われた事が、今更に痛感される。差し迫った問題から、また逃げる気なのか。逃げて、それでも努力しているという甘えと逃げ道を作って、孤独に浸る。身勝手な行動で周囲を振り回して、結局は孤独を気取るなんていうのは人としてあってはならないあり方だ。そんなあり方を望んだわけではないのに、自分はいつの間にかそうなっている。ナツキの言葉に、冷静に返答できずに結局怒るような形になってしまったのが何よりの証明だろう。
リョウは息をつき、部屋に入ろうとした。その背へと「待って!」と声が振りかけられた。
「ナツキ。俺はもう――」
言って振り返ったリョウの目に映ったのはナツキではなかった。そこにいたのはユウコだった。つい数日前に見た顔のはずなのに、随分と久しい感じがする。きっと、まともに顔を合わせて話をする事がほとんど無かったからだろう。久しぶりに直視した幼馴染の顔は、少し上気していた。急いでここまで来たのだろうか。ユウコは肩で息をしながら、
「うち、リョウに言いたい事があるねんけど」と口を開いた。
リョウはその言葉に背中を向けた。ユウコまで巻き込む事はないと思ったのだ。ユウコにはサキの事も、ルイの真実も、自分の兄の事も無関係だ。痛みを背負わせる事はない。そう断じるように、リョウはユウコの顔を見ないようにした。
「ユウコ。何の用だよ」
放った言葉は自分が思うよりも冷たい声音だった。ユウコはその言葉に、戸惑うように言葉を彷徨わせた。何を言ったらいいのか分からない。そんな沈黙がお互いに降り立つ。沈黙を破ったのはユウコのほうだった。何度か言葉にならない声を発した後に、ようやく搾り出した言葉のようだった。
「うち、リョウに伝えなあかんことがあんねん。だから、ちゃんとこっち向いて、聞いて欲しいんやけど」
ユウコの声にはいつもにはない切実さがこもっていた。だが、リョウは振り返らなかった。これからの戦いに、ユウコは巻き込まれるべきじゃない。自分がもしかしたらユウコを戦いに赴かせる一因になってしまうかもしれないと思うと、どうしても言葉が慎重になる。
「今じゃなきゃ、駄目なのか?」
その言葉にユウコは「うん」と応じた。リョウはそれでも振り返るのは憚られた。もし、ユウコが自分の戦いに口を挟んできたら、ナツキのように冷たく突き放してしまうかもしれない。もしくはルイにしたように、酷い事を言ってしまうかもしれない。リョウは長く息を吐いてから、「……駄目だ」と言っていた。
「お前と話す事はない。俺に関わるな」
結局、冷たい言い回しになってしまった。ユウコがどんな顔をしているのか、リョウには分からない。だが、深く傷ついているに違いない。幼馴染に「関わるな」なんて事を言われて、傷つかない人間がいるはずも無かった。現に自分はこの言葉でルイを一度傷つけているのだ。冷たい言葉は刃物と同じだと言う事は分かっているはずなのに、この時ばかりはユウコの身を案じるばかりにそんな言葉しか出なかった。ユウコからの返事はない。諦めたのか、それとも今の言葉にショックを受けたのか。どちらにせよ、これ以上話せば未練が残る。リョウは扉の取っ手に手をかけ、中に入ろうとした。
その時、背中に抱きついてくる体温を感じた。振り向かなくても、それがユウコだという事は分かった。振り解こうとして、間近でユウコの声が弾けた。
「リョウ! うち、行かんといて欲しいねん! 変わらんといて欲しい。リョウが何を今背負っているのかは分からんけれど、でも、うちにだって背負わせてよ! 独りでどこかに行って欲しくないねん。カッコつけんといてよ! だって、リョウはうちにとっては大切な幼馴染で、いつも守ってくれる存在で、リョウは、リョウは……」
そこから先は言葉にならないように、ユウコは静かに泣き始めた。リョウは黙したまま、固く目を閉じた。いつの間にかこんなに近い人に、酷く心配をさせてしまっていた。独りで抱えれば全てが解決すると思っていた自分を、リョウは恥じた。こんなにも自分の事を思ってくれている人がいる。それに気づかなかった自分はとんだ大馬鹿者だった。関わり合いを避けて生きる事は出来る。だが、そのあり方は寂しい。虚しいだけなのだ。分かっているはずなのに、どうして自分からすれ違おうとしてしまうのか。本当に必要なのは、格好悪くても自分から誰かに理解してもらおうとする事なのだ。甘えるのではなく、慰めるのでもない。お互いを大切と思い合えることこそ、理解する事への一歩目となりえる。
リョウはすがりついて泣くユウコの頭へとそっと手を置いた。ユウコの体温が伝わる。振り返ると、顔を上げたユウコと目が合った。リョウはその眼差しに語りかけるように言った。
「心配すんな。俺は戻ってくる。だから、待っていてくれ。今は、詳しい事は言えない。だけど、帰って来た時に言うから。信じて欲しい」
ユウコは目の端の涙を指先で拭いながら、微笑を浮かべて頷いた。
「当たり前やん。リョウの事、信じられるのはうちだけやから」
いつもの減らず口を叩くユウコに戻った事に、リョウも安堵の笑みを浮かべた。
ユウコは目を閉じた。唇を少し突き出している。リョウがそれを見てきょとんとしていると、ユウコは顔をかっと赤くして、「何でもない!」と叫んでリョウから離れた。リョウが後頭部を掻いて困惑していると、ユウコは紅潮した顔で上目遣いに、「本当に、分からんの?」と尋ねた。リョウは渋々ながら「うん」と返答した。どういう事なのか、これほど分からない事も初めてだった。ユウコは深いため息をついた。何か、失望される事でもしただろうか、とリョウが思っていると、「まぁ、ええわ」といつもの口調に戻ったユウコが言葉を発する。
「リョウ。戻ってきたら、言うわ。今、言えんかった事。だから、絶対帰ってきてな。うちはリョウの帰る場所、守っとくから。リョウがいつもうちを守ってくれたみたいに」
その言葉には、リョウはすぐに片腕を掲げて返事を返せた。
「おう。任せとけ」
ユウコは笑って踵を返した。どこか上機嫌な足音に、リョウも少しだけ胸の重石が取れた気がした。リョウは扉の前で誰にも聞き取れないような声で呟いた。
「……俺は、独りじゃなかった。そんな当たり前の事、忘れてたんだな」