With youT
フランは研究室にあてがわれている部屋の窓辺で佇んでいた。
傍らにはキルリアがしとやかに立っている。時折、フランの顔色を気にするように二つ結いのような頭を揺らす。フランは気づいて屈み込み、その頭を撫でた。キルリアがくすぐったそうに目を細めている。だが、フランの眼はキルリアを見ているようで見ていなかった。フランは待っているのだ。キルリアを通してアスカから何らかのメッセージが来るのを。未だに来ぬ返事は、連絡出来ないほど事態は切迫している事を示しているのか。それとも、と考えてフランは首を横に振った。それでも完全に浮かんだ考えを打ち消す事はできなかった。アスカが完全にヘキサに寝返った。サキの言う「自演のシナリオ」が本当ならば、ありえない話ではない。だが、それならばなぜアスカは自分を助けた。なぜキルリアを託したのか。
「アスカさんは、まだ迷う心があるはずなんだ」
呟いたその言葉にキルリアが小首を傾げた。フランは微笑みかけて、
「君のご主人様は僕らをまだ見捨てたりはしないってことさ」
言ったが通じる道理はない。ポケモンと人間というものは結局のところ平行線なのだ。その垣根を越えようとすれば手痛いしっぺ返しが待っている。ヒグチ博士はその境界を越えかけた自分をあんなにも後悔していた。サキは、表には出さないが越えてしまうかもしれない自分に恐怖している。ナツキの話によれば、その垣根を越えれば比喩でもなく本当の痛みが待っている。本来、ポケモンと人間というのは関わらないほうがよかったのかもしれない。お互いに歩み寄ろうとして過度に傷つけたり、いらぬ干渉をしたりする。何も知らないほうが幸せで、どちらの世界も決して交わらない事が本来のあり方なのでは――。そこまで考えて、フランは「らしくない」の一語を吐き出した。
「少なくともキルリアや僕のポケモンとは分かり合えている。僕はそう信じたい」
そう思わなければ散っていったポケモン達の魂も報われない。信じられるもののために戦ったのだ。そうでなければヤミラミだって。カトウ襲撃時に共に戦った相棒の事を思い出し、フランは奥歯を噛み締めた。救う事の出来なかった命の一つ。その重みが今更に圧し掛かってきて、フランは呻く。
その時、足元のキルリアが不安そうな声を出してフランの手をそっと握った。キルリアはトレーナーの心を敏感に読み取るポケモンだ。フランの心から溢れ出した感情に反応したのだろう。髪留めのような赤い角が光っている。フランは優しく頭を撫でてやった。キルリアは気持ちよさそうに目を閉じた。
「すまない。今は弱音を吐いている場合じゃなかったね。皆、頑張っているんだ。博士、サキ、マコちゃん。それに――」
フランは立ち上がり、窓の外を見た。草原の上に二つの影が落ちている。リョウとナツキだという事は影の輪郭から知れた。
「ナツキさんに、リョウ君も」
彼らこそ辛いのではないか、とフランは思う。ナツキは望まぬ力を手に入れたために、覚悟を迫られている。ロケット団。世界の敵である彼らの過去を受け入れ、未来へと繋げる橋渡しになろうとしている。それは十四歳の少女には重すぎる覚悟だ。リョウは兄の問題とルイの問題両方を抱え込もうとしている。そんなに思いつめなくてもいい、と言ってやれる大人なんていない。彼らの問題に踏み込むだけの覚悟がない大人の言葉など、安全圏からの物言いに過ぎない。ならば自分は言ってやれる大人か、と胸中に問いかけてみるも答えは出ずじまいだった。キルリアはまた表情を翳らせている。不安を与えてしまったらしい。せめて、手持ちのポケモンの前でぐらいは笑顔でいたかったが、このような局面に至るとその気も失せてくる。
その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。フランが「どうぞ」と返事を返すと、控えめに開かれた扉から廊下の明かりが射しこんできた。その光を背にして立っている少女がいた。ショートカットの髪に、活動的な服装をしている。それと対比するようにふりふりのスカートという井出達は、どこか浮いて見えた。栗色の瞳が不安の色を灯して、フランを見つめる。フランは察して、部屋の明かりを点けた。
「どうしたんだい? もしかして、起こしちゃった?」
「いえ。そういうわけじゃ、ないんですけど」
少女はどこか気後れしたように言葉を発する。その口調が西のジョウトのなまりを含んでいる事に気づいたフランは、「君、ジョウトの出身?」と尋ねていた。
「ええ。うちはユウコっていいます。あの、フランさんですよね。ディルファンスの」
ユウコはどこか恐れているようにも見えた。無理もない、とフランは諦観して目を閉じる。ディルファンスは民衆には虐殺を行った団体として見られている。真実を知る人間ばかりと話しているとそういう普通の感覚を失ってしまうものだ。仕方のない事。そう思って、フランは口を開いた。
「そう。いや、そうだったと言ったほうが正しいね。僕はディルファンスにとっては死人だから」
「死人、って……」
「ああ。幽霊とかいう事ではないんだ。博士とかからは、何も?」
ユウコはふるふると首を振った。ならば、この事件自体とユウコは無関係なのだろう。覚悟も、真実も知る必要はない。口を開こうとして、フランは押し黙った。知らないほうが幸せだと先程考えていたばかりではないか。だというのに、引き込もうとしてどうする。フランは言葉を慎重に選んだ。
「そうか。だが、この事件は思ったよりも根が深い。そう簡単に割り切れることじゃないし、あまり詳しい事は話せない。君のためだ」
こんな物言いしか出来ない自分に苛立ちつつも、フランはそう言うしかなかった。ユウコは、「で、でも」と言葉を発する。
「うちは知りたいんです。リョウが折角帰ってきたと思ったらすごい怪我してるし、サキやナッチも雰囲気変わっとって……。うち、多分怖いんやと思います。皆が、何だか遠くへ行ってしまうみたいな気がして。うちだけ残して、皆消えてしまうんやないかって――」
「大丈夫だよ」
フランはユウコの言葉に押し被せるように言った。ユウコの顔を見ると、目の端に涙が溜まっていた。この少女もまた不安に押し潰されそうになっている。自分と同じだ。何が違う。真実を知って、それで勝手に境界線を引いているのは自分のほうだ。痛みを知っている者ならば、ユウコだって充分に分かっている。言うべきか、とフランは逡巡した。だが、結局果たせずにまた「大丈夫」と呟いた。
「不安なのは分かる。僕だってそうさ。彼らほど強くはなれない」
「フランさんが、ですか。でも、ナッチはすごい強いって言っていましたけど」
「見せかけさ。本当の僕は弱いんだ。ディルファンスにいた頃、妹みたいに可愛がっていた子がいてね。僕はその子の事を常に第一に考えていた。その子もとても弱々しくって、僕が守らなくちゃいけないって思っていた。だが、死人になってみて気づいたんだ。本当に依存していたのは自分だったんだって。その子が、傍にいないだけでこんなにも辛いなんて思いもしなかった」
コノハ、という名前は言わなかった。言ってしまえばユウコの前で臆面もなく泣いてしまいそうだったから。フランは顔を伏せて、絞り出すように口にした。
「僕には何の能力も無いよ。卑下とかじゃないんだ。本当に。ディルファンスという冠が無くなってしまえば僕はただの無力な一個人さ。当然、不安も恐れも感じている」
拳に視線を落とす。この手では何も出来ない。まだ守られてばかりだ。何が出来る、何を守りたい、そう問いかけても答えはまだ出なかった。
ユウコはフランの独白に戸惑いを感じているようだった。当然と言えば当然か。強いと思っていた大人の弱さが見えてしまった瞬間ほど、どうしていいのか分からなくなる。ユウコは視界に入った木製の椅子を指差して、控えめに言った。
「座っていいですか?」
その言葉にフランは顔を上げて、「どうして?」と尋ねる。
「うちに出来る事は分かりません。でも、フランさんの痛みを知る事くらいは出来ます。抱え込まんといてください。今、こうやって顔を突合せとるんやさかい、悪いものは吐き出しましょ」
どこかあっけらかんとしたユウコの口調に、フランは驚いたように口を開けたまま放心していたが、やがて壁にかけられた時計を指差して呟いた。
「こんな時間だよ。知らない男の部屋にいて誰も怒らないのかい?」
どこか冗談めかしたような口調に、ユウコは微笑んだ。
「そんなん大丈夫です。うち、腕っ節には自信ありますから」
ユウコが拳を強く握り締める。フランは思わず吹き出した。それにつられるようにユウコも笑みを咲かせた。
汗が額を伝って、視界をぼやけさせる。
寝不足も影響している、とヒグチ博士は首を振って顔を拭った。一度、顔を洗おう。そう思って、博士は洗面所に向かった。テーブルの上には基盤をむき出しにしたポケモン図鑑がある。リョウのポケモン図鑑であり、世界で最初に完成した図鑑でもある。それを今、誰の許しを得るわけでもなく解体しているのである。緊張に指が振るえ、喉の奥が渇きを訴えて痛んだ。研究者としては最悪の行為だ。先人が作り上げたものを壊そうとしているのだから。
ガラスに映る自分の顔は酷いものだった。目を縁取るように濃い隈があり、元々陰鬱な顔をさらに暗く見せている。同じように心の中も決して晴れやかというわけではなかった。真実を語った事に対する責任はもちろん感じている。それ以上に娘を傷つけたかもしれない事が博士にとっては心の奥底で重く沈殿していた。今までのように接してくれないかもしれない。
信頼も、誇りも全て失う覚悟で話したというのに、残ったのは後悔ばかりだ。これも時間が洗い流してくれるのだろうか、と博士は蛇口から流れる水を見ながら思った。両手で水をすくい、顔を洗う。眠気が少しは吹き飛んでくれたか、と思いながら今一度鏡を見た。顎に滴る水をそのままに、博士は鏡の中の自分へと問いかける。
「何が正しかったんだ?」
質問に対する答えは無かった。真実を打ち明けた事への懺悔の言葉にしては、救いようが無い。結局、問いを重ねる事しか出来ないのだから。
それとも問いかけ続ける事が答えなのか。考えて、「らしくない」の一語を頭に呼び出した博士はタオルで乱暴に顔を拭った。
「正しい正しくないの問題じゃないんだ。私は清算しなくてはならない。自分の罪を」
その言葉と共に、鋭い眼差しを鏡へと投げかける。その時、作業をしている部屋のほうで物音がした。まさか、こんな夜半にドロボウか? それともヘキサツールを狙ってか。そう判じた頭に博士は大急ぎで作業場へと戻った。すると、視界に飛び込んできたのはゆらりゆらりと頭の上の雑草を揺らして、博士を待ち構えているナゾノクサの姿だった。ナゾノクサは椅子に座り込むものもいれば、片足でバランスを取っているものもいる。それらが一斉に博士を好意の眼差しで見て、鳴き声を上げた。博士は後頭部を掻きながら、「まったく」と呟いた。
「一人で格好つけさせてもくれないのか? まぁ、私にはこういうのが性にあっているか」
微笑んで、ナゾノクサ達を一体ずつ抱き上げる。ナゾノクサは喜んで身体を揺らした。「暴れるんじゃないよ」と言ってから、「それにしても」と博士は口にする。
「重たくなったなぁ、お前ら。いつの間にこんな……」
その言葉に博士の視線は自然とテーブルの上に置かれた写真立てに行っていた。そこにはまだ幼いサキと一緒に撮った親子の写真があった。培養液からようやく出られるようになったばかりの頃だ。博士は遠くを見る視線を投げた。
「そうか。勝手に成長してしまうものなのか」
いつかこの手を離れていってしまう。それは止められない事なのだろう。ならば、それまでに大人として示しておくべき事がある。博士はテーブルに無造作に置かれた器具へと視線を走らせた。その中の鈍く黒い光沢を放つ物体を掴み上げる。
「私も決着をつけよう。サキのために。いや、何よりも自分のために」
それは一つの銃だった。この世の中にあってはほとんど無用の長物と化した、原始的な殺傷武器。それを顔の前に翳して、博士は目を閉じた。
「父親として、やっておくべき事の一つくらいはある」
博士は銃をテーブルに置いて再び作業を始めた。ヘキサツールの抽出が、今やらなければならない大人の義務だ。リョウ達は覚悟を示した。ならば、それに報いるのが大人だ。そう信じて、博士は黙々と作業をこなした。作業部屋の明かりはずっと点き続けていた。