第六章 三節「硝子の心」
「マコ。皆と行かなくてよかったのか」
階段を上る音が遠ざかってから、サキが不意に口を開いた。マコは少し俯きがちに答えた。
「うん。だって、サキちゃんだけ一人にさせられないから」
「馬鹿マコだな。私なら大丈夫なのに」
サキはすっと歩き出した。マコはその場に立ち止まったまま、サキの背中を見つめていた。きっとサキには辛すぎる真実だったろうに、毅然としている。いや、そうせざるを得なかったと言うべきだろうか。ヘキサを打倒するために、今考えるべき事はサキの出生の事ではない。
理屈では分かる。必要なものではない。
だが、それでも知ったからにはそれ相応の覚悟がいる。マコはカプセルの表面に触れているサキを見つめながら思った。あの小さな身体に、抱え切れないほどの重みが圧し掛かっている。その手助けができるのは自分だけなのだ。弱さを見せないサキが唯一本当の自分を見せてくれたのだから。報いるべきだった。だが、どんな言葉をかければいいのか分からず、マコはただ沈黙を貫くばかりだった。
サキはカプセルに手をついたまま、「この場所は」と口を開いた。
「覚えていない事はないんだ」
予想外の言葉にマコは「えっ」と返した。だが、よくよく考えてみれば何十年も前の記憶ではないのだから覚えていても不思議ではない。
「カプセルの中からお父さんの顔を見ていた事も、さっきまでほとんど忘れていたけれど、時々それが脳裏を掠めることはあった。私はお父さんの言葉が本当なら、死んでいるはずだったんだ。なのに、今も生きながらえている。悪魔の研究の結果として。それが私は恐ろしい」
サキはカプセルに触れていた手を拳に変えて、カプセルを殴りつけた。培養液で満たされたカプセルが僅かに揺れる。マコは「サキちゃん」と声をかけるが、そこから先の言葉が無かった。自分自身の存在が人間への冒涜の結果だと知れば、誰しも自分の存在に疑問を覚えるだろう。そしてこう思うはずだ。自分なんていなければいいのに、と。サキは振り返ったが、顔を俯けたままで表情は窺えなかった。
「怖いんだ、マコ。どこかに私と同じ顔の人間がいて、同じような性格をしているのかもしれない。そいつがオリジナルで私はコピーで。……私は、どう生きればいいのか分からないんだ。生きていることが恐ろしい。こんな気持ちは初めてだ。今まで自分の生に何の疑問も抱かなかった。それがこんなに簡単に崩れてしまうなんて。マコ、私は……」
「サキちゃん!」
マコは思わず叫んでサキの身体を抱き締めていた。サキの肩は静かに震えていた。その震えを静めるように、そっと背中に手を回した。
「もういいから、サキちゃん。一人で抱え込まないで。私達、友達でしょ」
マコの言葉にサキは目を見開いて、そっとその目を閉じた。目の端から涙が頬を伝って零れた。
「でも、私は生きているのが怖いんだ。お父さんにここにいる意味を言ってもらえても、皆に認めてもらえても。それでも、この不安は拭えない。いつか、生きてちゃいけないって言われそうで」
「大丈夫だから。サキちゃん。そんな事、私が絶対言わせない」
小さなサキの身体をしっかりと抱きとめる。今にもこの場から消え失せそうな小さな命の灯火。それを消してはいけない。消させはしない。その決意により強く抱き締めた。それと同時に痛いほどに感じた。これが自分の覚悟なのだと。サキを守る。サキを否定する全てから守り抜く。力は無くても、サキの味方であり続ける事は出来るはずだから。
「マコ。私が嫌にならないのか? 紛い物かもしれないのに」
「なるわけないじゃない。私にとってサキちゃんは大切な人だから」
マコの言葉にサキは声を上げて泣いた。仲間の誰にも見せた事のない、もしかしたら親であるヒグチ博士にすら見せた事のないかもしれない程に。サキはマコの胸の中で幼子に戻ったように、泣いている間、マコは決して抱き締める手を緩めはしなかった。
サキは親指で鼻を拭った。
もう涙は見せない。そう誓ったような凛とした背中に、マコは余計な言葉をかける事はしなかった。サキは強い口調で言った。
「マコ。私はこれからわがままを言う」
「うん」
「もしかしたらお父さんの厚意を踏みにじるような事かもしれない。がっかりさせるかもしれない。それでも――」
「いいよ。サキちゃんの決めた事なら」
マコの言葉にサキは肩越しに見やって、「ちゃんとかつけるな」と言った。穏やかなその声にマコは笑みを返した。サキは一瞬浮かんだ笑みを掻き消すように、またカプセルへと視線を向けた。
「ここを破壊する。私は自分の生まれに縛られたくない。ここから先は、自分の足で歩いていきたい。決別するんだ、この場所から。私にはもう揺り篭はいらないから」
サキの言葉にマコは何も言わずに頷いた。サキがホルスターからモンスターボールを抜いて、緊急射出ボタンに指をかけた。
「行け、カブトプス」
サキの手の中でボールが二つに割れ、中から光を纏った物体が射出される。巨大な両手の鎌で光を振り払い、水蟷螂を思わせるカブトプスの姿が現れた。
「カブトプス。分かってくれるな」
サキの声に、カブトプスは強い鳴き声を返した。サキは頷き、言葉を発する。
「やってくれ」
カブトプスは巨大な鎌を振るい上げ、カプセルへと飛び掛った。一つ、また一つとけたたましい音を立ててカプセルが破壊されてゆく。培養液は空気に触れるとすぐに気化した。それはまるでサキと博士の思い出のようだった。儚く消えてゆく穏やかだった日々。ずっとあのままのほうがよかったのかもしれない。だが、サキは一人の人間だ。そして博士もそれを望むだろう。だから、もう思い出はいらない。これからは未来へと目を向けるのだから。
カプセルが割れて、カブトプスの鎌が機械部分も断ち切った。マコは不意に視界が滲んだのを感じて、目元を拭った。まるでサキの代わりのように涙がとめどなく溢れてきた。サキが今どんな顔をしているのか。それは滲む視界と背中を向けているせいで分からなかった。