第六章 二節「真実の向こう」
視界に飛び込んできたのは、薄気味悪いほどに滅菌された白い天井だった。
ナツキは幾度目か分からぬ覚醒に目を擦りながら、上体を起こした。窓の外を見ると常闇が舞い降りている。まだ夜中だ。起きるには早すぎる時間だが、熟睡する事は出来そうになかった。瞼を閉じると、後悔が津波となって押し寄せてくる。自分がするべきだったことと、出来なかったことが鮮明に像を結び、そのせいか浅い眠りと覚醒を繰り返した頭は、もう眠りを欲してはいなかった。掛け布団をぎゅっと握り、ナツキは「どうして」と呻いた。
「私は動き出せなかったの?」
問いかけても答えが返ってくるわけではない。何よりもヨシノの前でもう後悔はしないと誓ったはずだ。なのに、どうしようもない現実に押し潰されそうになる。ナツキは脚を引き寄せて、腕で抱いた。寒さに震えているわけではない。だが、今は少しでも温もりが欲しかった。自分のものでも構わない。仮初めでも、知った事実にパンクしそうな心を支える何かが欲しい。ナツキはベッドから起き上がり、靴を引っかけて歩き出した。
ナツキは二階にいたために、出る途中一階で狭いスペースの中押し合いへし合いの状態になっているロケット団の人々の様子を窺った。どこか落ち着き無く寝返りを打つ者、動乱の今日を生き抜いた安息に熟睡している者など様々だった。ナツキはその中にヨシノとテクワを探しかけて、やめた。彼女らに甘えてしまうかもしれないと思ったからだ。現実を知り、真実を知った今、この痛みは背負わなければならない。背負った上で前に進む覚悟は、自分で抱かなければならない。ただ、狭苦しいベッドの上でその覚悟を持て余す程の強さもない。ヒグチ博士の研究所から出てナツキは、流れる風に耳を澄ませた。頭上に目を向けると青白い月が散りばめられた星をかき抱くように輝いている。自分が光らねば星が落ちてしまうとでも言うかのように。ミサワタウンは草原が多く、林が周りを囲っている。風力発電の風車が風をゆるやかに運んでくる。そのためか草のにおいが涼しい夜風に乗ってより鮮明に感じられた。今の頭には少しでも風が欲しい。そう思い、両手を広げて一層風に身を委ねようとした、その時、
「誰だ?」
背後から聞こえてきた声に、ナツキは振り返った。そこにいた影に笑みを投げる。
「リョウ。起きてたの?」
その言葉にリョウは「そういうお前こそ」と返した。今宵の格好はいつものようなポケモントレーナー然とした暑苦しい格好ではなく、大きめの白いワイシャツに、夏用の薄いズボンを穿いていた。
「どうしたんだ? もう夜中だぞ。勝手に外に出ると危ない。ロケット団の連中の足跡を追って来ている奴らだっているかもしれないんだ」
どこか棘のある言い方にナツキは表情を曇らせた。
「……リョウは、まだあの人達を」
「信用したわけじゃない。分かっているつもりなんだけどな。あの人達は戦う人間じゃないってことぐらいは。でも、ロケット団と俺は戦ったこともある。だから、余計に」
「信じられない。当然といえば当然、かもね」
リョウの言葉をナツキが引き継ぐ。現実を知って守る側についたナツキと、現実を知って戦う側についたリョウ。どちらがいいというわけでもなく、ただ「悲しい」という一語が心に突き立った。分かり合えそうなものなのに、あと一歩のところでお互いすれ違う。気心の知れた仲間でもそうなのだから、彼ら――ロケット団非戦闘員の人々はどうなのだろうと感じた。見知らぬ少女に運命を任せ、これからどうなるのか、明日も知れぬ身に不安を募らせる彼らの心情はただ推測することしか出来ない。だが、一つ言えるのは決して穏やかなものではないだろうということだけだ。彼らはロケット団という組織でしか生きられないと覚悟した時点で、既に穏やかな日々とは決別しているのかもしれない。
「――それも覚悟、か」
ナツキは呟いた。チアキの言っていたこと、そしてヨシノの前で誓ったこと。両方が自分の中でわだかまり答えを見出せそうな一歩手前で停滞する。ロケット団の総帥は停滞することは考えることに繋がると言っていた。ならば、考えるとは、成すべき事とは何か。今のナツキにはその答えを単純に導き出せるような方程式は存在しなかった。真実というものが否応無く立ちはだかり、答えを出し渋らせる。
リョウは草原に座り込んだ。「汚れるよ」と注意の声を出したが、「別に構わないって」と片手を振るって言う。
「今日はもう寝るつもりはないんだ。あんなことを聞かされた後じゃ、眠れねぇよ」
「やっぱり、リョウも」
口にしたナツキの声に苦渋の色が混じった。リョウはナツキの顔を見ずに頷いた。
「ああ。全て無関係じゃなかったんだ。博士だって、あれだけ隠し事をしていたんだ。そりゃ、誰だって隠し事の一つや二つあるもんだ。そういうことは分かる。ただ、どうしても割り切れない、許せないことってのはあるんだよ」
リョウは胡坐を掻いて、空を見上げた。その眼に星々はどう映っているのだろう。自分が見ているのと同じ光を他人が見ているとは限らない。答えは一通りではないのだ。きっと、リョウにはリョウの見る景色があるのだろう。
リョウは呟くように口を開いた。
「全ての糸は繋がっていたんだ。カイヘン地方、ヒグチ博士、ロケット団、それにルイ。……兄貴も」
リョウは痛みに耐えるようにその言葉を搾り出した。リョウにとっては一番他人事ではないのだろう。ナツキにとってもヒグチ博士が話した真実は他人事で済まされるものではなかった。なぜヘキサという組織が作られたのか。ルイとは何なのか。一言で説明するには難しく、整理する時間も欲しい。
――だが、とナツキは空を仰いだ。夜はいずれ明ける。そうなれば嫌でも決意を迫られるのだ。真実と現実を知った者のみが取りうる選択というものが目前にある。自分達はただそこから目を逸らしたいだけなのかもしれない。いや、目を逸らしたいのならば瞼を閉ざし、耳を塞ぎ、歩みを進めようとする足を停滞させればよかったのだ。ここまで来た覚悟を胸にしているのならば、後戻りは許されない。
――私も決意を固めなければならない。
地下で聞いた博士の言葉が不意に蘇る。覚悟は知った人間だけではない、知らない人間も巻き込んでしまう。それすらも自分の中で割り切れてしまえることが本当の覚悟なのだろうか。それとも、この言葉は責任なのだろうか。真実を知った責任。戦えるものの義務。いくらでも言い換えられる。ただ、ナツキの中にある言葉は換えようが無かった。
「チアキさんを救う。リョウには悪いけれど、私はルイさんや他の皆を助けてあげられる余裕はない。よそ見する暇なんてないと思う。ゴメンね」
「何謝ってんだよ」
リョウはナツキの顔を見据えて強い口調で言った。
「俺だって、お前の手助けは多分してやれねぇ。辛いことだけどな。だから、俺達でやるんだろ。一人じゃ何も出来ない。けれど、俺達なら、きっと」
その言葉には希望的観測も混じっているのかもしれない。だが、ナツキにとっては力強い言葉だった。自分達で戦う。誰のためでもなく、自分の目的のために。あるいは清算のために。
ナツキは冷たい風が草を吹き上げるのを視界に捉えた。草が頼りなく舞い上がる。翻弄されるだけかもしれない。この草のように。
――それでも。とナツキは眼に強い決意の灯火を宿す。眼差しを遠くに投げ、ナツキは真実を思い返した。
乾いた風が吹き抜ける。
首筋に嫌な汗が滲んだが、それすらも冷気として掻き消してしまうような、実体を持った風の感触に背後に誰かに立たれているのではとさえ思えてくる。かといって振り返ってもそこには誰もいない。
ナツキは最後尾にいた。リョウがフランの肩を借りて前にいる。リョウはディルファンスを毛嫌いしているのか、少しばかり不本意だと言うかのように顔をフランに向けようとはしなかった。フランは気にするでもなく、前を見ている。二人の前にはサキとマコとか言った少女がいた。マコは不安そうな面持ちでサキの手を握っている。サキは過度な接触は嫌がっていたはずだったが、マコだけは特別なのか、その手を強く握り返していた。いつもは気丈に振舞っているサキとて不安なのだろう。その不安の元は目の前にあった。ヒグチ博士が研究所から出て案内したのは、ミサワタウンの隅だった。家々の影になる部分に、さらに万全を期すように草木で覆い隠されている。草を払い、累積した泥をすくってようやく見えたのは鉄製の扉だった。取っ手が一つついており、その上にランプがついている。そのまま開けるのかに思われたが、博士はその前に懐から一枚のカードキーを取り出した。表面を撫でるように触れてから、扉の脇にある普通ならば見えない場所の認証パネルに通した。間もなく『認証しました』という電子音声が響き、ランプが青く灯った。
取っ手に手をかけて、博士は扉を開いた。今の今まで抑えつけられていたかのように黴臭いにおいが急に鼻をついた。サキが顔をしかめる。マコは扉の奥を見つめて、「地下ですか?」と問うた。ナツキも全員の後ろからそれを見ていた。月明かりなど消し潰してしまうかのような無辺の闇が広がっている。博士は頷き、懐中電灯を点けた。扉に入ってすぐのところにまた認証パネルがあった。今度はカードキーではなく、十個の数字が割り振られたパネルだ。博士は慣れた動作で八桁もの数字を入力した。すると、ガンという重たい音と共に扉の奥から徐々に明るくなっていった。
「照明なら中にもあるんだ。足元には心配しなくていい」
博士は扉の中の階段を降り始めた。その後にサキが続く。マコはおろおろしながらもサキに引っ付くようについていった。フランとリョウも階段を降りる。最後はナツキだった。
階段はぎりぎり二人分は通れるだけのスペースがあったが、それでも狭いことに変わりはない。地下に降りるということが余計に視界を狭めているような気がした。ナツキは夜の空気を吸い込んで、まるでダイビングするかのように一歩目を踏み出した。身体全部が扉をくぐると、まるで何か生物の喉元に入ったような感覚に襲われた。
「ナツキ君。扉を閉めてくれ。無いと思うが、誰かが入ってくると困る」
言われるままに、ナツキは扉を閉めた。月明かりが完全に断絶され、明かりは階段に備え付けられたものだけになった。風も感じない、かに思われたが不意に首筋へと吹き上げてくる風を感じてナツキは肝を冷やした。生暖かい風だった。どうやら下階から流れてくるらしい。その中に、先ほど嗅いだものと同じにおいが混じっていることに気づく。「ここは」と口火を切ったのは博士だった。
「もう使われていない施設だ。起源はロケット団がカイヘンに勢力を伸ばし始めたぐらいかな。その頃はロケット団の黄金期だった。カントーでの支配力を伸ばし、サカキという存在がチャンピオンを超えると言っても過言ではない勢力を持っていた時代だよ。君達が、まだ十歳にも満たない頃か。フラン君は、知っているかな」
博士は少しだけ首を後ろに向けて、フランの顔を窺った。フランは頷く。
「はい。一応は。ですが、当時カントーにいたわけではないので、詳しいことまでは」
「そうか。君はカイヘンの出身か」
「カイヘン生まれ、カイヘン育ちです。両親はジョウトとカントーの生まれなんですけれどね。どちらともディルファンスに入ったっきり絶縁状態みたいなもので、今はどうしているのか」
「……悪い事を訊いてしまったかな」
博士が目を伏せて陰鬱に呟く。その表情はいつもよりも翳っているように感じられた。折角、話の糸口を見つけたのに暗い話になってしまったからか。それを取り成すように、フランは「いいえ」と少し強い口調で言った。
「自分の道を自分で切り拓けたんですから、後悔はしていません。元々、親も放任主義なんです。だから、逆によかったんじゃないですかね。ディルファンスに入ったことでメディアの露出もあったんだし。息子の無事が分かる状態で」
「そうか。そう考えればディルファンスにいたことも」
「決してマイナスばかりではない、ですけれど。少し不安ですね。ディルファンス排斥の運動がどこまで伸びているのか分かりませんし。両親には心配をかけているのに、迷惑までかけてしまったらと思うと」
フランの言っているのは、ロケット団復活宣言直後に起きた暴動を指してのことだろう。ディルファンスの関係者に被害が及んでいないとも限らない。先程の話によれば、フランはその時には組織の中で死んだことになっていたために、断片的な情報しか得られなかったらしいが、それでも、いやそれだからこそ不安が募るのは分かる。その時、サキが振り返り、「難しく考えすぎるなよ」と言った。
「ただでさえ、お前は頭がすっからかんなんだ。あまり捻ると、無い脳みそが絞り出されて悲鳴を上げるぞ」
側頭部を指差しながら、サキは皮肉たっぷりの笑みを浮かべている。フランは苦笑を返した。マコが「サキちゃん。そんな言い方って」と苦言を漏らそうとするのを、サキの空手チョップが脳天を叩いて遮る。
「ちゃんとかつけるな!」
その言葉にいつものサキだ、とナツキは思った。皮肉屋で意地っ張りだが、今の言葉とて重たくなりかけた空気を軽くするために言ったのだろう。結局のところ、不器用なのだ。
そう思って、自分も、とナツキは顧みた。器用に振舞えていれば、チアキはもっとやりやすかったかもしれない。後悔はしないと誓った胸に浮かんだその疑念に、ナツキは首を横に振った。こんな陰鬱な場所で考えることではない。ナツキは考えを放り出した。時には頭をすっからかんにしてみよう。そう思ったのだが、先程から壁についた手が妙に湿り気を持っている気がして落ち着かなかった。一度、両手を合わせて見ると、壁についていたほうの手が妙に冷たいことに気づいた。雨水が沁み込んででもきているのか。本当に生き物の消化器の中にでも入ってしまったかのような感覚に、背筋を寒くした。考えないように努めながら階段を下る。階段は中々、終わりが見えなかった。重い沈黙が降り立とうとするのを制するように、リョウが口を開いていた。
「博士。どのくらいまで降りるんだよ」
「もう少しだよ。ものの五分もすれば終点が見える」
「ホントかよ」とリョウは悪態をついた。それもそのはず、リョウは怪我を負っているのだ。それも完治するかも分からない怪我である。ナツキはリョウの右腕に目をやった。ギブスで固定されているものの、その下はどうなっているのか聞きたくても聞けなかった。先程、研究所の二階で喋っていた時、棚の上に血の滲んだ包帯を見つけたことを思い出す。折れただけでは無いのだとしたら、それはどこで負ったのだろうか。もし、それにR01B――リョウがルイと呼ぶ人間が関わっているのだとしたら。そこまで考えてナツキは思考が白熱化するのを感じられた。
これは、怒りだ。身を焼いてしまいかねない、自分すら分からなくなるほどの激しい怒り。これに身を任せてはいけない。そう言い聞かせるように、ナツキはカメックスの入っているボールに手を添えた。カメックスを暴走させてしまったことを忘れてはならない。だが、もしまた戦うことがあればカメックス無しで戦うことが出来るだろうか。ジム戦はカメックス無しでしのいできた。だが、これからの戦いは公式戦とは違う。ポケモンバトルではない。これは正しさを証明するための戦争なのだ。壁についていた手を拳に変えて、ナツキは怒りを逃がそうとした。だが壁を殴りつけるわけにもいかず、結局怒りはナツキの中で燻り続けた。
そんな事を考えている間に、長い階段にも終わりが見え始めた。円形に切り取られた出口が見え始めたのだ。博士は落ち着いた足取りで階段を降り切った。サキやリョウ達もそれに続く。ナツキは出た瞬間、天井を仰いだ。
そこは信じられないほどに巨大な地下空間だった。
鉄骨の見えている天井がアーチ状に支えており、強い光を放つ照明がそこらかしこにつけられていた。地面に面した照明は緑色をしており、皆の顔を仄暗く照らしている。広さの次に驚いたのは、並んでいる異質なカプセルだった。どのカプセルも緑色の液体で満たされている。カプセルの脇に備え付けられている機器は埃を被っており、何年も放置されているかのようだった。
ナツキは足をこすり付ける。すると、僅かに足跡が湿って残った。やはり階段に雨水か何かが沁みていたのだろう。足跡以外の部分は灰色がかっていた。埃か、とナツキは思いながら爪先で埃を蹴って、周囲を見渡した。見れば見るほど異質な事が際立つような造りだった。ミサワタウンの地下になぜこんな施設があるのか。何をするための施設なのか。博士は、かつてここで何をしていたのか。何を知っているのか。とめどなく溢れてくる疑問を解消する手立ては無く、ナツキは博士の背中に目を留めた。他の皆も同じようだった。周囲を見てから、一様に博士へと視線を向けていた。博士は後ろ手に組みながら、全員の視線を受け止めるように少しだけ反り返り、やがて長いため息をついた。
「説明してもらうぜ、博士。ここは何なんだ?」
リョウの問いかけに博士は熱に浮かされたような吐息と共に「懐かしいな」と言った。
「もう六年程経つのか。私自身忘れていた。忘れたかったんだ。だから、時は私の願いを聞き入れてくれた。ここを忘れさせてくれるような出会いをくれたんだ。サキ」
急に名前を呼ばれて、サキは少し戸惑ったようだった。ハッとしたように周囲を見渡し、「……ここは」と呟く。
「覚えていないか。無理もない。サキ、君にはいずれ言わなければならないと思っていた事だ。皆にも、そうだった」
「答えになってねぇぜ、博士」
リョウが怒りを露にして食いかかろうとする。フランがそれを取り押さえた。博士はどこか心ここにあらずといった風に、また「ここは」と口を開いた。
「罪の清算のための場所だった。懺悔のため、と言い換えてもいい。私は、私の協力者達がここを造ってくれたのは皆、己の罪を直視したくなかったからだ。いや、ある意味では直視しないために関わらざるを得なかったという皮肉な面もあるが」
「だから、答えになってねぇって言っているだろうが!」
リョウがフランに押さえつけられながら今にも飛び掛らんとするように叫んだ。博士はリョウに一瞥を向ける。その眼差しがどこか悲しげに見えたのはナツキの気のせいだったのだろうか。すぐに天井を振り仰いだので確認する事は出来なかった。
「リョウ君。君の怒りはもっともだ。私は今、この場に立っていても告白するのが辛くて仕方がない。何も言わずにやり過ごせたらとさえ思うんだ。笑うかい?」
博士は弱々しい笑みを皆に向けてから、ため息をついた。リョウは身体を揺すぶって精一杯抵抗しながら、糾弾の声を響かせる。
「あんた、さっき起源はロケット団だって言っていたよな。ここはロケット団の施設なのか。あいつらがやった非人道的な所業の名残なのか」
リョウは眉間に強い険を刻み込んだ。まるで心の底から嫌悪する対象に、罵声を浴びせるように。それを見て、ナツキは少し胸が痛んだ。いくら言葉で分かっていると言っても、やはりリョウにとってのロケット団は世界の敵なのだ。ナツキが新しい道を示そうと関係がない。リョウは自分の尺度で道を選び取っている。彼にとってのロケット団は忌むべき敵。ルイを奪ったというロケット団員、キシベ。恐らく、彼の頭にはその復讐しかないのだろう。博士は静かに目を閉じた。
「君の言い分は正しい。もっともだ。我々は悪魔の研究を結果的に引き継いでしまったのかもしれない。だが、私はその行為を悪だと言いたくはないんだ」
その眼差しがサキを捉えた。サキは突然博士から視線を向けられても、決して目を逸らさずに隣のマコの手を握って見返した。逃げない、という意思の現われに見えた。博士は照明に視線を向け、眩しそうに目を細めた。
「サキにはもう言ったが、私はかつてロケット団の兵器開発に従事していた」
その言葉はナツキにとっては初耳だった。サキとマコ以外の全員が驚いて目を見開いていた。
「博士は、じゃあロケット団と繋がりが?」
そう尋ねたのはフランだ。彼はディルファンスだったために思うところがあるのだろう。博士はゆっくりと首を横に振った。
「もう何年も前の話だ。カントーでのロケット団解体宣言から二年後に私はロケット団を抜けた。今はどんな組織になっているのか皆目見当もつかない。だが、ナツキ君が彼らを連れてきてくれたことではっきりした。今の彼らは戻れない人間の集まりだった。過去という重石を捨てきれずに、未来を見据える眼を奪われた人間達が今のロケット団を構成しているのだと分かった」
戻れない人々、というのはチアキの言葉だった。その言葉にヨシノやテクワの事を思い出す。彼らの居場所は望む望まないに関わらずあの場所しかないのだ。決して未来を選べたわけじゃない。不条理に選択された明日のない未来に、彼らは何を思って生きているのだろう。そんな考えが浮かんだが、自分が推測するのも気が引けてナツキは思考を閉じた。
博士は照明の一つに目を向けながら、言葉を継いだ。
「私にとってロケット団の兵器開発者であった期間は決して短くはなかった。ロケット団の裏金でポケモン群生学というマイナーなジャンルの学問も認められた。私がここにいるのはロケット団のおかげでもある」
「だからロケット団を責めるなって? そう言いたいのかよ、博士」
リョウの言葉にサキが睨む目を向けた。サキにとって博士は父親代わりだ。その存在を中傷されることは快いはずがない。
「そうは言っていないだろう。落ち着くんだ、リョウ君」
言葉を振りかけたのはフランだった。フランは冷静に博士の背中へと言葉を投げた。
「博士。あなたの後悔は僕達にとってはいいんです。過ぎたことだし、幼い時のことでもあるでしょうから。その時の博士の心情は推測する事しか出来ない。その推測だって、僕達に下手に勘繰られるのは嫌でしょう。博士、正直に、今必要なことだけを話してください」
フランの言葉に博士は肩越しに振り返った。フランと目が合う。博士はいつもより一層、目つきの悪い瞳を細めさせ、「そうだな」とため息を吐くように言った。
「遠回りしても仕方がないだろう。私も決意を固めなければならない。正直に話そう。私は兵器開発に従事していた時、あらゆる兵器を開発した。爆弾、狙撃銃、ポケモンを捕縛し制御するための外部骨格の装甲――あれはサカキが独自に使っていたと聞いたが。その中に開発チームが組まれた特殊プロジェクトが二つあった。一つは幻のポケモン、ミュウの研究班だ」
そのポケモンの名前は聞いたことがあった。図鑑番号151番。存在しないとさえ囁かれている幻のポケモンである。一説では全てのポケモンの起源であり、ミュウからの系統樹によって今のポケモンの生態系は成り立っていると言われている。全ての技を覚え、一部のポケモンにしか扱えない生体エネルギー――波導も使えると言われている。もちろん、これらの話は全て噂話、都市伝説の域を出ない。現にミュウを見た人間はいないのだ。海の向こうの巨大な大陸にいるとされているが、その姿は知らない。
「全てのポケモンの祖先とされるミュウの睫の化石から取れたDNAを解析し、最強のポケモンを造る。それが一つ。もう一つ、『R計画』と呼ばれる計画が同時進行で推し進められていた。私はそこの研究班に抜擢されたんだ。しかし、これは保険のようなものだった。もしミュウの計画が失敗した時のための予備だ。ほとんど真剣に研究されることは無かった。だが、ミュウを主軸とした最強のポケモンの製造計画、『プロジェクト・ミュウツー』は頓挫した。いや失敗したとでも言うのか。研究員全員が公式では死亡扱いになっている。その計画の産物がやったのか、そこまでは分からないがね。そこでロケット団内でプロジェクトが再編成され、『R計画』を主軸にした研究チームが新たに作られ、私は元々そちらの研究に従事していたから研究のチーフとして、『R計画』を管理するようになった。だが、私は……」
そこで博士は言葉を区切り、呻き声のようなものを一つ上げて頭を抱えた。サキが駆け寄ろうとすると、「来るな!」と今まで聞いたことのないような切迫した博士の声が響いた。
「来ないでくれ。特にサキは。……大丈夫だ。話を続けよう」
よろめく身体を真っ直ぐにして、博士は再び語り始めた。
「『R計画』とは、『プロジェクト・ミュウツー』とは違うと言っても目的は同じだ。最強のポケモンを造る。そのために『プロジェクト・ミュウツー』はミュウの遺伝子からアプローチした。一方、『R計画』はというと、これは随分と後ろ向きな計画だったんだ。この頃から総帥であるサカキは読んでいたのか、『ロケット団が壊滅、もしくはそれに等しい打撃を受けた場合に備えて』の計画だった。つまりロケット団が壊滅しても、いや、してこその計画だったのだろう。もしかしたらロケット団内の別働隊でこの計画を推し進めようという動きもあったのかも知れないが」
「博士。『R計画』とは一体何なんですか」
堪らずフランが尋ねていた。ナツキも博士の話しぶりでは先程から全体像をぼかそうとしているように感じていた。焦点が合いそうに思えた所を、すかさず別のものに論点を移し変えているような感じだ。本当に触れるべきところにはまだ一度も触れてはいない。
単刀直入なフランの問いかけに博士は暫時、沈黙を挟んだ。誰も言葉を発しようとしない中、リョウだけが忌々しげに口を開いた。
「……答えろよ」
博士の背中が強張る。白衣に皺が刻まれた。その背中へとリョウは叫んでいた。
「答えろよ! 博士!」
「『R計画』。Rはロケット団のR。RはリメンバーのR。そしてRは」
そこで博士は瞑目した。誰もが次の言葉を待っていた。「R計画」とは何なのか。その答えに至る鍵を持っているのは博士しかいなかった。
博士は躊躇うように唇を開きかけては閉じるのを何度か繰り返した後、言った。
「リペアチャイルドのR。ルナという少女の事だ」
「ルナ?」
聞きなれない名に、リョウが聞き返した。
「誰なんだ、それは?」
「この実験の被験者になった少女の名前だよ。私より上の研究者が連れてきた」
「被験者が少女、って、まさか」
リョウがハッとして博士へと視線を向ける。博士はゆっくり頷いた。
「君の考えは恐らく合っている。だが、物事はそう単純ではなかった。今、順を追って説明しよう」
博士の言葉にナツキは渇いた喉に唾を飲み下した。博士の顔はいつも以上にやつれていた。
「そもそもの発端は最強のポケモンを造る、その一事だった。だが、それには鍵が足りなかった。最強のポケモンがいても、それを扱えるだけのトレーナーがいなくては意味がない。『プロジェクト・ミュウツー』はそれを補うために実験体自身に人格を持たせ、テレパシー交信によって兵器としてだけではなく兵隊としての役目もこなせるように造られていた。『R計画』はそうではない。実験体が暴走した場合のリスクを考え、それを制御するための装置としてトレーナーが必要と考えていた。トレーナーは安全装置だったんだ。その代わりに、ポケモンの側には凶暴性以外の感情は必要なくなった。単純に強さのみを追い求めて研究が進められた。だが、実験体はそう多くいるわけではない。当然、替えも利かない。ポケモンならまだしも、人間はね。どうするべきか、思い悩んでいた。そんな時だ。『プロジェクト・ミュウツー』の失敗が耳に入ってきた。先にも言ったが研究員は全員死亡。だが直前に本部にデータは送信されていた。そのデータというのが、ここから先、重要になってくるんだ」
「それは、何のデータだったんですか?」
フランの声に、博士はひと息置いてから応じた。
「クローン技術のデータだった。ミュウツーを造るときに必要だったんだな。同時にヒトカゲ2、ゼニガメ2、フシギダネ2。それだけではない。もっとたくさんのポケモンのコピーが作られた。……こんな言い方は何だが、ポケモンだけならばまだよかった。それならばまだ引き返せたんだ」
「どういう、事です」
フランが硬い声で返した。博士が言わんとしていることが半ば分かっているような口調だった。ナツキにも察しがついた。他の皆も同様だろう。「R計画」にはトレーナーとポケモンの不足が問題だった。ならば片方だけを解決するのではなく――。
「人間をコピーする術も、その中にはあった。実験は失敗、とあったがね。それは死人から意識パターンだけを取り出して、人格を元に素体を組み上げて、徐々に人間を完成させるというものだった。神への冒涜だよ。いや、ポケモンも神が創りたもうたものならば、既に冒涜だが。それでもそこから先は人体実験になる。私は倫理的に許せなかった」
「だが、断れなかった、違うか?」
リョウが今度は口を開いていた。博士は頭を抱えて「ああ」と呻いた。
「断れなかった事が恥だったんじゃない。私には、研究者として好奇心もあったんだ。これこそが研究だ、とさえも思った。最強のトレーナーとポケモンを造る。『プロジェクト・ミュウツー』が出来なかった事を我々が成し遂げる。今思うと空恐ろしいよ。私は人間をやめる事を嬉々として望んでいたのだから。その頃から資金も『R計画』へと流れ込んできた。ロケット団は『R計画』に期待している。ならば、期待を裏切るのは研究者として決してあってはならない。私達はそのデータを基に、ルナという少女のコピーを無数に作った。簡単な話ではない。人間一人作るのに、どれほどの時間と労力がかかったか」
「ここは、その名残か」
リョウが吐き捨てるように言って周囲を見渡した。カプセルの中に、ナツキは少女の姿を見た。それを見たオリジナルのルナはどのような気持ちだったのだろう。自分の似姿が物言わずカプセルの中に入れられていることにどんな感情を抱いたのだろう。ナツキはカプセルを凝視した。その途端、カプセルの内部に自分自身が浮かんでいるのを幻視した。思わず、と言ったように目を逸らす。とてもではないが自分の精神では耐えられるものではなかった。
博士はリョウの言葉に首を横に振った。
「いや、ここは違うんだ。もうその研究所自体は存在しない。それにそこはカントーの研究所だったからね。ここは真似ただけだ。罪の清算のために」
「罪の清算、だと。この趣味の悪い空間が、悪魔の研究に手を染めた研究者の言い訳って事かよ」
リョウの言葉にサキが前に出ようとした。それをマコが手をしっかりと握って制する。サキはリョウを睨みつけた。父親を侮辱された事が許せないのだろう。リョウは殴るならば殴れとでも言うように飄々と続けた。
「博士。あんたは脅されていたわけでも、莫大な報酬のためにしたのでもない。ただの興味本位だと言ったな。それは一番性質が悪い。興味で人間を造って、ポケモンを造って、それで何なんだよ。あんたらはどうしたいんだよ」
「上の命令だったんだ。仕方がなかったんだよ」
その言葉にリョウは目を見開いて激昂したように叫んでいた。
「逃げるって言う選択肢もあっただろうが! 逆らうって言う選択肢もあっただろ! それをしなかったのは怠慢だ。あんたは、あんた自身に情けをかけたんだ。結局のところ、甘えた道を選んだんだよ!」
「では、君は違うと言いたいのか?」
「何だと?」
博士は肩越しにリョウを見やった。その眼が憐憫の色を湛えている。
「兄を捜し求め、そのためならばどんなことでもすると言いながら、結局のところ一歩踏み出せていない。いくらでもやれるだろう、君の実力なら。ポケモンリーグを制覇して、カントーに行ってもいい。チャンピオンになれば向こうから情報が来るかもしれない。それをしないのは恐れているからだ。その一線を踏み越える事に、君は怯えているんだよ」
「違う!」
リョウの声に博士は押し被せるように「違わないさ」と口にした。
「君はいつまで独りで泣いているつもりなんだい。私には、兄を捜して泣き喘ぐ君の姿が見えて仕方がない」
「俺は一度だって弱音を吐いた事はない!」
「そんな事が言い切れるのか。今回のルイ君の事だって、差し迫った問題から逃げているだけなのではないか」
博士の口調はあくまで淡々としているのに対して、リョウは喉に火がついたように叫んだ。
「違うって言ってんだろうが! てめぇ、いい加減に――」
「やめて」
ナツキは思わずそう言っていた。リョウがフランに押さえつけられたまま首を巡らせる。他の皆も同様だった。博士以外の視線がナツキへと集まっていた。ナツキは顔を上げて、真っ直ぐに皆を見返した。
「今はそんな事を言っている場合じゃない。憎しみ合っていたら、ヘキサには勝てない。何も取り戻せやしない。復讐の波に呑まれるだけだよ」
その言葉に全員が沈黙した。重く降り立った沈黙の中、ぽつりと言葉を発したのはサキだった。
「ナツキ。お前の言う通りだ」
サキの赤い瞳がナツキを見返す。その眼に宿る強い光にナツキは、同じだと感じた。サキもまた同じく憎しみで我を忘れそうになった事があるのだ。だから、見つめ返してくれた。サキは全員の顔を見渡しながら、
「こんな陰気な場所で罵り合っても仕方がない。私も早く真実が知りたい。お父さん、偽りのない言葉を、どうか皆に」
娘からの切実な願いに、博士は顔を伏せた。苦痛に耐え忍ぶように目元を強く手で拭い、奥歯を噛み締めた。
「『R計画』は、あるポケモンのコピーを作り、厳選する事で完成まで残り僅かだと思われた。だが、頓挫した。ロケット団が解散したんだ。ある一人のトレーナーに、リョウ君、君のお兄さんによって」
その言葉に驚いたのはフランとマコだった。無理もない。この場でそれを知らないのはフランとマコだけだ。驚愕の眼差しを向けるフランに対して、リョウは無表情に言った。
「ただの兄貴だ。それ以上でも以下でもない。俺の強さには関係ない」
「そうか。だから、捜しているのか」
フランもリョウの兄の噂は耳にした事があるのだろう。シロガネ山の戦闘を最後にぱったりと途絶えてしまった消息。リョウはその兄を捜すためだけに強くなろうとしている。それは、どこか歪なあり方だと思ったがナツキはここでは言わないでおこうと思った。言っても場が混乱するだけだ。
「計画が消えたせいで、資金繰りがストップした。稼動停止したカプセルも少なくは無かった。その中で一つだけ、本当に奇跡的に生まれたものがあった。それがR01」
「ルイの事か」
博士はリョウの言葉に応じず黙したまま、周囲のカプセルへと視線を向けた。
「最初に見つけたのは私だった。驚いたよ。まさか完成するとは思ってもみなかったからね。すぐに研究員達を呼びつけ、その時既にカイヘンへの敗走を考えていたロケット団の幹部へも報せた。君達も見たことがあると思う。幹部は、今のロケット団の総帥だ」
「あのテレビ中継の」
マコの声に博士は頷いた。まさかそんな部分で繋がっているとは思いもしなかった。ならば博士はあの復活宣言をどのような気持ちで見ていたのか。
「その後、すぐに実験が開始された。最強のトレーナーと最強のポケモンの顔合わせだった。『R計画』には、その時にはまだ一部の学会でのみ取り上げられていたポケモンとの同調を視野に入れた計画だった。だが私は、同調は危険だと反対した」
同調、という言葉に胸の中心がちくりと痛んだ。カメックスとの同調した時の感触が蘇る。ポケモンと意識がシンクロし、脳の処理速度がギリギリまで高められていくあの感覚。加速、と言えば話が早いような気もするがそれだけではない。ポケモン側に魂を引っ張られるあれを人為的に起こそうとしたのか。そう考えただけで怖気が走る。
「しかし聞き入れられなかった」と博士は苦々しく呟いた。
「同調実験は強行された。その結果、その日のために用意したポケモンによって研究員のほとんどが殺された。同調しようとしたR01までも巻き込んで」
博士が発した言葉に全員が慄くような目を向けた。世にもおぞましい真実に凍りついた空気を取り払うように、リョウが「だが」と声を喉の奥から搾り出す。
「ルイは死んでなんかいない。博士、あんた何かしたのか?」
その言葉は僅かな望みを感じさせた。地獄の中に射し込んだ一筋の光明があったのだ。現にリョウはR01と呼ばれている少女の事を知っている。ナツキも直接対峙した。ただ事故が起こって、それで事が済んだわけではないのだ。博士が仄暗い視線をリョウへと向ける。リョウは奥歯を噛んで、負けじと睨み上げた。
「R01は巻き込まれたんだ。死んではいなかった。ショックによって一時的な仮死状態に陥っていたようだった。それでも彼女は重態だった。私は実験中止を打診したために、その場にはいなかったからすぐの経過は分からなかった。だが、医療班が最善を尽くしたのは事実だ。何人もの研究員が死んだのも事実。そして、リョウ君。これは辛い宣告かもしれないが……」
博士が言葉を濁す。リョウは「構わないさ」と強く言った。
「辛い事実なら慣れている」
博士はその言葉に何か言いかけて、口を噤んだ。目を閉じて首を振り、屈み込んでリョウの顔を真っ直ぐに見据えた。
「R01は不適格と判断され、あの場で一度廃棄された」
その言葉にリョウは何も言葉を発する事が出来なかった。何度か口を開こうとするが、声になる前に喉元で消えるようで、意味のない呻きを発した後、リョウは俯いて博士から顔を逸らした。
「何言ってんだ。ルイは生きている。だったら」
リョウは顔を上げた。その顔は見るのも痛ましいほどに苦痛に歪んでいた。
「だったら、俺の会ったルイは何なんだ。幽霊だとでも言うのかよ。え? 博士!」
また暴れ出そうとしたのをフランが押さえ込む。リョウは狂犬のように喚いた。その声にナツキは自身の胸元に手をやって掴んだ。痛みが伝わってくる。リョウのどうしようもない、訳の分からないものに対する憤りと、自分には何も出来なかったという諦念。それが螺旋のように絡み合い、ナツキの心を針のように突いた。リョウは今すぐにでも確かめに行きたいに違いない。だが、博士の言葉にナツキは半ば納得をしていた。
あれは人間ではない。そう思う感情が胸のどこかにあったからだ。幽霊だと言われた方がまだ説得力がある。
博士は立ち上がり、リョウを見下ろして言った。
「落ち着きたまえ、リョウ君。話はまだ終わってはいないんだ。……もっとも、ここで終わったのなら、まだよかったかもしれない」
「よかったって何だよ! ルイが死んで、それで皆が幸せになるって言うのか?」
食ってかかるリョウに対して、博士は押し殺した声で、「だから、落ち着くんだ」と言っていた。
「早合点が過ぎる。R01は廃棄された。不適格の烙印を押されてね。だが、そこで終わりじゃないって言っているだろう。ここからは、私が自身の業の深さを語る事になる」
博士はまた背中を向けた。その目を一つのカプセルに向けて、過去の光を見るように細める。
「廃棄処分されそうになったR01を私は引き取った。もちろん、極秘裏に」
その言葉に全員が呆気に取られていた。繰り出された言葉のあまりの意外さに、何も言えなくなっていた。
「それと同時に決意した。ロケット団を抜ける事を。数人の研究者と共に、私はロケット団の手を逃れた。幸いにして追っ手は来なかったよ。ロケット団が瓦解していた事も理由にはあるのだろうが、不適格の実験体を取り戻す意味も無かったのだろうね。私はカイヘン地方へと渡り、ここ、ミサワタウンに研究所を置いた。表向きの仕事の甲斐もあってね。ポケモン群生学の専門家が研究所を構える事を不審に思う人間はいなかった。その裏で、ここの建設を進めた」
博士はドーム状の天井を仰いで、首を巡らせた。
「最初は研究所の中でR01の応急処置をやっていたんだが、いつまでも隠し通せるわけもないし、専用の培養液に入れなければ命が危うかった。いつ絶命してもおかしくない、切迫した状況だったんだ。ここが完成したのはその三年後だよ。それまでR01がもってくれたのは奇跡としか言いようがなかった」
博士は腕を上げて、指でカプセルの一つを示した。そちらへと全員が視線を移す。緑色の液体を湛えるカプセルがそこにはあった。
「あれがR01を入れておいたカプセルだ。おかげで今までの経過が嘘のように回復した。ここを造ってくれた研究員のほとんどは散り散りになってしまったが、それでも感謝してもしきれない」
「それであんたはルイを、戦いの道具としてロケット団に献上したのか」
リョウの言葉に博士は顔を翳らせて首を横に振った。
「違うよ。リョウ君。君は先程から勘違いをしているようだ。言っておこう。R01は君の知っているルイ君ではない。別人なんだ」
その言葉に衝撃を受けたのはリョウだけではなかった。誰もが言葉を失った。今までルイの事だと思って聞いていただけに、一瞬、博士が何を言っているのか分からなくなったほどだ。
博士はカプセルへとゆっくりと歩み出した。誰もその歩みを止める言葉を持っていなかった。博士がすることをただ見ていることしか出来ない。リョウは困惑したように博士をじっと見つめている。フランはリョウを押さえ込んだまま、それでも鋭い視線を博士に向けていた。サキはマコの手をより一層強く握り締め、側頭部に手をやっていた。痛むのだろうか、とナツキが思っていると博士はカプセルへと近づき、その表面に優しく触れた。忌まわしい記憶に触れるのではなく、まるで愛しいものでも撫でるような触り方だった。
「私はルイ君がどういう経緯で生まれたのかは知らない。だが、一つ、私の罪だとするのならばこの研究に携わってしまった事だ。そして情を抱いてしまった。研究者としてそういう感情は捨ててきたつもりだった。君達には言っていなかったが、私には妻がいたんだ。だが、それもすれ違いとでも言うのか。いつの間にか関係は希薄になって繋がりは消滅していた。私にとって研究だけが生きがいだった。腐ってゆくような毎日だったよ。だが、腐敗する中に一つだけ、もう一度人生をかけてもいいと思えるものを見つけたんだ。R01。彼女の顔を見ているとそれが分かった。これこそが愛情なのだと」
博士は決心するかのように顔を伏せた後、こちらへと振り返った。
「私はR01を育てた。培養液にいる必要もなくなってから、本当の娘のように。普通の娘として。ただ生きてくれる事だけを願って。――サキ」
博士の言葉にナツキはサキへと目を向けた。サキはマコから手を離し、両手で頭を抱えた。まるで自身の内側からの記憶の奔流に耐えるように。苦しげな呻き声を上げて後ずさる。床に流れる配線に踵が引っかかり、サキはよろけた。博士は「サキ!」と叫んで、サキへと駆け寄った。間一髪でサキは倒れる前に、博士に抱きとめられた。皆、それを見つめていた。そして導き出される答えに戦慄してもいた。ならば、サキの正体は――。
誰も核心に触れる言葉を発する事はなかった。仲間だと思っていた人間がロケット団の生み出した兵器だったなんて言えるはずがない。マコはおろおろするばかりで、口を開く事すら儘ならないようだった。
「……お父、さん」
サキは小さく呟いた。博士は「どうした?」と心底心配している声を出した。
「私は、ロケット団の――」
「何も言わなくていい。お前は私の娘だ」
その言葉にサキはしゃくり上げて泣いた。サキが人前で泣いたのをナツキもリョウも初めて見た。大粒の涙が赤い瞳から零れる。その眼を見て、ルイも同じ色の瞳だった事に気づいた。
ならば、ルイとは何者なのか。その問いが鎌首をもたげてくる。
「博士」と言葉を発したのはリョウだった。博士はリョウへと視線を向ける。リョウは俯いたまま言葉を発した。
「だったら、ルイは一体何なんだ。博士。あんたは……R01と、ルイとが別人だと言った。なら、どうしてあいつはその名前で呼ばれているんだ? あいつは一体誰なんだよ」
博士はサキを立ち上がらせて、その肩に手をやって応じる声を出した。
「私にも詳しい経緯は分からない。ただ、一つ言えるのは、ルイ君はサキと同じか、または調整した遺伝子データから作り出されたクローンの可能性があるということだ」
「ルイが、クローン?」
「サキは感応能力を高められている。ポケモンと同調するためだ。だが、それは『R計画』のポケモンとの同調までには至らなかった。ならばロケット団残党は、それを改良したに違いない。現総帥か、またはキシベの考えかまでは分からない」
「また、キシベかよ。くそっ」
リョウは床を思い切り殴りつけた。ナツキもロケット団本部で対峙したキシベと言う男の事を思い出す。見れば見るほどに掴みどころのないような男ではあった。チアキと今まさに殺し合いをしようというのに、あの飄々とした態度は何だったのか。そしてヘキサの首領もキシベである。全ての糸はキシベへと繋がっている。だが、その張本人の顔が全く見えない。
「だが『R計画』の全貌なら話す事が出来る。リョウ君。ルイ君は探している物があると言っていたね」
「ああ。博士に調べてもらおうと思っていたんだが、その時にロケット団の襲撃を受けて。確か、ヘキサツールと言ったか」
博士は嘆息するように首肯して、再び歩き出した。サキはマコへと目を向ける。マコがサキに近づくが、サキは少し距離を取った。博士は全員の視線が集まる中心で立ち止まり、振り返った。
「それこそが、『R計画』の謎を解く鍵だ。ヘキサツールと言うのがね」
「どういう事なんだ。ヘキサツールと言うのは何なんだ?」
リョウの声に博士はあえてすぐには答えず、天井を見やった。ナツキも博士の視線を追う。無骨な鉄の骨組みがあるだけだった。一体何なのだろうか。
「六角形とは、自然界でどういった意味を持つ形か知っているかい?」
唐突な問いかけに全員が言葉を発し損ねた。博士は何を言っているのか。尋ね返す前に、博士は言葉を次ぐ。
「六角形とは完全な形だ。平面充填形とも言う。六角形のパネルを用いればどのような図形も作れる。蜘蛛の巣の構造、ハニカム構造、雪の結晶の形、様々なものに六角形は宿る」
「だから、何が言いたい?」
焦れたようなリョウの声に博士は「隠語だよ」と答えた。
「あ? 何だって?」
「隠語なんだ。我々ポケモンの研究者にとっては、六角形――即ちヘキサとは完全なる形≠示す隠語なんだよ。その言葉が用いられる事は非常に稀だ。なにせポケモンの分野で未だに完全と言うものを極めた人間はいないからね。ポケモンは未知な部分も多い。カントー地方、ジョウト地方、ホウエン地方、シンオウ地方、イッシュ地方、そしてカイヘン地方。ポケモンリーグが置かれているこれらの地域だけでも現れるポケモンは千差万別だ。だが、共通しているのは彼らが生き、戦う。そしてその傍らには必ずトレーナーがいる事だ。だからヘキサツールは生まれた。ヘキサツールとは完全な形を示すもの。それ自体は、ポケモンに持たせる道具さ。だが、その効力は他の道具とは比べ物にならない」
博士は真っ直ぐな視線を向けた。その眼で硬直したように動けなくなる。重要な事を話される時にはいつもこうだ。身体が動かない。乾いた唇を舐め、ナツキは博士が発する次の言葉に意識を集中させた。
「ヘキサツールとは、ある特定のポケモンのみに効力を発揮する道具だ。そのポケモンは持たされるだけで全てのポケモンの姿に変身し、全てのポケモンの技を使う事が出来る」
放たれた言葉は予想を遥かに上回る言葉だった。「嘘、でしょう」とナツキは思わず漏らす。だが、博士は頭を振った。
「これは真実だ。だからこそ完全な道具という名を冠している。『R計画』の真の目的は、ヘキサツールを導入したポケモンと同調したトレーナーによる敵対勢力の排除にあった」
「たった一人のトレーナーとポケモンでですか? そんな馬鹿な話が……」
フランが信じられないと言ったように首を振る。その眼にはいつものような軽い光は宿っていなかった。目の前に突きつけられた現実に、ただ狼狽するばかりであった。博士は息をつき、ぽつぽつと話し始めた。
「それが、あるんだよ。先程も言ったが『R計画』はロケット団壊滅すら視野に入れたプロジェクトだった。壊滅してなお、また再建できるだけの力が求められていたんだ。もちろん、最強のトレーナーとポケモンだけではどうにもならない。優秀な指導者がいなければね。その役目は今の総帥だろう。復活宣言までしたんだ、間違いない。ロケット団は『R計画』を実行に移すはずだった」
「何のためにだ。これ以上ロケット団が汚名を被っても仕方がないだろう」
尋ねたのはリョウだ。博士も答えあぐねて、目を閉じて神妙に首を振った。
「きっと、守るためだったんじゃないでしょうか」
その言葉に全員の視線が集まった。声を発した当のナツキは少しうろたえながら、それでも言葉を続けた。
「今のロケット団は戻る場所を失った人達の集まりだって、チアキさんから聞きました。きっと『R計画』の発動によって、少しでもそういう人達が表を歩けるようにしてやりたいという気持ちがあったんじゃないかって思うんです。……もちろん、私の推測ですけれど」
最後は消え入りそうな声で言った。その言葉に「だが」と返したのはサキだった。まだショックから立ち直れていないかに思えたが、サキは赤くなった鼻を擦り、目元を強引に拭って
「ロケット団の悪名は変わらない。あの制服を着て表を歩けたのは過去の話だ。もうどの地方でもロケット団がいていい場所はない。奴らは奴らの仲間同士で傷口を舐めあうだけしか出来ない、弱い連中だ。庇うなんて意味がないぞ。守っている側は、正義の味方を気取っているのかもしれないが、それは傍から見れば単なる暴力だ。悪名と暴力が混ざり合えば帰結する先は見えてくる」
その言葉はいつものように舌鋒鋭く迷いを含んでいなかった。ナツキは自分とチアキを全否定された気持ちになって返す言葉も無く、顔を伏せようとするとサキは同じ口で「だが」と今度は幾分か穏やかな口調で言った。
「私達もそれは同じか。暴力に対して暴力で解決しようとした、ディルファンスもだ。誰もそれを正義だと信じて疑わなかった。正義なんて、流動的なのにな」
皮肉を言ったのだと分かった時には、博士が厳しい目を向けた。そういえば、とナツキは思い返す。サキが博士の前で毒舌を吐くのは初めてではないか。先程の真実でこの親子は傷つきながらもお互い近づけたのかもしれない。
「でも、ナツキさんの言う事はもっともだ」と言ったのはフランだった。
「非戦闘員の人達を見ただろう。彼らは本当に酷い仕打ちを受けたんだ。社会から抹殺されかけた。それを救えるのは、やはり痛みを知っている人間だけだったんだよ。救いの手だって、傷だらけなんだ。いつだってそうなんだよ。綺麗な手を差し伸べられれば、迷いが生じる。その裏に潜む何かを感じ取ろうとしてしまう。だから他人が信じられない。嫌な因果だよ」
「きざったらしいぞ、お前」
サキがフランの言葉に暴言を吐き捨てる。フランは苦笑しながら、
「いい加減名前覚えてくれないかなー」
「名前だと? お前の名前なんてお前で充分だ。どうでもいいだろう」
サキは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。フランは「参ったね、どうも」と言いながらもリョウを押さえつける手を緩めたりはしなかった。リョウはというと、先程からの会話に煮え切らないものでも覚えているのか、眉間に深い皺を刻んでいた。
「『R計画』は結局、発動されたのか?」
リョウの言葉に博士は「いや」と強く否定した。
「発動できるわけがない。ヘキサツールは見つかっていないのだから」
「そのヘキサツールだ。どこにある? あんた、さっきからまるでどこにあるのか知っているような口ぶりじゃないか」
博士は惑うように目を伏せた。やはり博士は知っている。ナツキもそう確信した。だが、どうしてこうも本論に触れることを拒むのか。ナツキの疑問は言葉になる事も無く、博士は顔を上げて頷いた。
「分かった。それも話そう。さっきも言ったが、ヘキサツールとはポケモンの完璧なデータの集合体だ。持たせるだけで、全てのポケモンに変身できる上に、全ての技も使う事ができる。もっとも、今明らかになっているポケモンだけだがね」
「646種類か」
「さすがだね。世界で最初の、完成したポケモン図鑑を持っているだけはある」
「だが、さっきあんたはある特定のポケモンのみだと言っていた」
「よく覚えているね」
博士の言葉は無視して、リョウは強い口調で尋ねる。
「条件があるんだろう。でなきゃ、ロケット団はとっととそれを量産して、全ての団員のポケモンに持たせればいい。それが出来ないのには理由があるはずだ」
「理由、か。まず一つは、脊椎動物系のポケモンは不可能だ。既に形が決まっている。同じ理由で外骨格系のポケモンも無理となる。そうなるとあとは残り少ない。不定形のポケモンであるのが第一の条件。第二の条件としては、改良が可能な種である事が必須となる」
「改良、だと」
「そうだ。現存している中で、形が不定形でなおかつ、改良可能なポケモンというとほとんどいない。ここで言っているのはタマゴグループではない。形状が不定形だという事だ。私が思いつくのは二体くらいしかない」
「ミュウツーか」
「あれの所在は今のロケット団は掴めていない。それにあれは脊椎動物系のポケモンだ。改良が可能と言っても、変身する時に身体が砕けてしまっては意味がない」
「じゃあ、元のミュウとか」
マコの放った言葉に、サキは横殴りのチョップをお見舞いした。
「ちょっと、痛いってばサキちゃん!」
「お前はアホなのか。ミュウの睫の化石を手に入れることすら困難なのに、それを全員に持たせられるわけがないだろう。あれは幻のポケモンだ。いるかどうかも怪しい」
「だったなら、答えは絞られてくるね」
博士の言葉に、リョウはハッとして口を開いた。
「そうか。メタモンと、ガス状のポケモンなら」
リョウの言葉に博士は首肯する。
「そうだ。メタモンならば広く分布している。だが改良が難しい。変身しか逆に覚えないからね。戦闘用にするには心許ないという結論だった。そこで注目したのがガス状のポケモンだ」
「ゴース、ゴースト。……それに、ゲンガーか」
忌々しげにリョウが呟く。本来ならばあの強さに、さらにヘキサツールを持たせて配備するつもりだったのかと考えて、ナツキは怖気が走った。そんな怪物じみたポケモンなど、誰が相手をすることが出来るというのか。
「不幸中の幸いというべきか。ヘキサツールを持たされていないゲンガーならば倒す手立てはある」
「だが、ルイが……」
リョウが言葉を濁したのはルイとゲンガーが明らかに普通のトレーナーとポケモンとの結びつきではないことを知っているからだろう。リョウの話を信じるならば、ゲンガーとルイは一体化しているという。ならば、どうやって倒すというのか。まさかルイを巻き添えに、と考えたのはナツキだけではないようで、フランも口を挟んだ。
「博士。ゲンガーを倒せばお終いというわけでもないでしょう。ルイさんも助けなきゃいけない。彼女は被害者だ。悲しい実験の……。それにヘキサにはディルファンス構成員とロケット団員がいる。まともに戦って勝ち目があるとは思えない。我々全員でゲンガーを止めようにも、敵の戦力だってゲンガーだけじゃない」
フランの言葉に博士は、承知しているとでも言うように頷いた。
「ああ。だが、ゲンガーをたった一人で止める手立てならばある」
「一体、どんな手なんだ?」
顔を上げたリョウは博士の目を見据えた。博士はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ヘキサツールを、使うんだ」
その言葉に全員が息を呑んだ。意想外に放たれた言葉に、一番に返したのはやはりリョウだった。
「そんな。あるかどうかも分からないもので出来るもんかよ!」
「あるんだ。リョウ君」
淀みなく返した博士は嘘を言っているようには見えなかった。気休めではない。本当にヘキサツールがあると言っている。博士は屈んでリョウと同じ目線になり、リョウの肩に手をやった。真っ直ぐにリョウの目を見つめて口を開く。
「君が持っている」
その一言にリョウが「……俺が」と茫然自失の状態で呟いた。
「言ったはずだ。ヘキサとは完成した形の隠語だと。君は完成したものを持っているだろう?」
博士の言葉にリョウは呼吸困難に陥ったように荒い息をつきながら、それでも瞠目してゆっくりと言った。
「……まさか」
「そうだ。そのまさかだよ」
博士がフランに押さえつけていた手を離すように促す。リョウは立ち上がり、ポケットから本型の赤い端末を取り出した。それはナツキ達も持っている代物だった。ポケモントレーナーを志したものならば、持つ事が許可される旅の最初の道標。
「兄貴の、完成したポケモン図鑑。これが」
博士はポケモン図鑑を開いているリョウを見て頷いた。
「そう。それこそが、ヘキサツールだ」
「これが……?」
リョウはポケモン図鑑を持つ手を震わせながら呟いた。今まで自分が持っていたものがヘキサツールだったなんて思いもしなかったのだろう。ルイが追い求めていたものだったなんてことは考えつかなかったに違いない。ナツキはリョウの手にあるポケモン図鑑を見つめる。旅の前に、リョウは全てのポケモンの情報が入っている完成された図鑑だと言っていた。それはリョウの兄によってもたらされたという。ならば、リョウの兄はそれを知っていたのか。知っていて弟であるリョウに託したのか。その疑問は喉元まで至りかけて霧散した。兄の事をリョウは語りたがらない。当事者でないナツキに割り込める余地などないと思ったのだ。今、この場でその問題について語る口を持っているのは博士とリョウだけである。
「正確にはオーキド博士が作り出した第一世代のポケモン図鑑。そのデータカードの事だ」
「図鑑自体じゃないって言うのか?」
「ああ。例えばナツキ君やサキが今からポケモン図鑑をコンプリートしても、ヘキサツールにはならない。ある機能が削除されているからだ」
「ある機能、ってのは?」
博士は図鑑を指差して目を鋭く細めた。
「ポケモンの情報を完全に読み取る機能だ。第一世代の図鑑はまだ実験段階だった。そのために多数のバグもあったが、そのバグの一つがそれなんだ。見つけたポケモン、捕まえたポケモンの情報を全て読み取る。体長、生息地、重量なんていう基本情報だけじゃもちろんない。覚える技、体細胞の配置、どのようにしてこの姿になったのか。そういった事まで分かったのは、それが完成した図鑑だからだ。完成した、という意味、君ならば分かるだろう」
「ああ」
リョウは図鑑の項目をスクロールさせて、目的の項目を呼び出した。
「これのせいか」
図鑑の画面を博士の側へと向ける。博士は目を閉じてゆっくりと頷いた。サキが声を上げる。
「そうか。ミュウのデータがあるから」
「その通りだ。完成したポケモン図鑑ということは当然、ミュウのデータがあるということになる。先程も言ったが、ミュウは全てのポケモンの祖先だと言われている。そのデータがあるのならば系統樹を辿る事は、そう難しい話ではなかった」
「だから、全てのポケモンの姿と技のデータがある、って事か」
リョウが自分の側に画面を向けて、ぼそりと呟いた。その手はもう震えてはいない。代わりに、力がこもっているように見えた。リョウは顔を上げて、
「博士。ヘキサツールがここにあるというのなら、何とかする手はあるんだよな」
その眼には強い決意の光が宿っていた。ヘキサツールを使ってルイを助ける。その覚悟がありありと伝わってくるような気迫だった。その眼差しに博士はどこか暗い光で応じた。
「リョウ君。君がやるというのか。確かにヘキサツールには全ての技が記録されている。その中にはもしかしたらポケモンと人間の融合を打ち消す技もあるかもしれない。だが、無かったら、その時はどうする?」
覚悟を問いかける言葉だった。リョウはその言葉の決断を彷徨わせるように片手に視線を落とした。その手で本当に救えるのか、傲慢ではないのか、それを自身へと問いかけているようだった。
「その時は、俺がルイを殺す」
その言葉に博士を除く全員が驚愕の表情を浮かべた。博士は静かにその覚悟を問いかけるような口調で尋ねる。
「いいんだね?」
「いいも何も。あいつを止めるのは俺の役目だ。俺だけがあいつを止める事が出来る。戻れなくなって欲しくないんだ、ルイには。まだ迷う心があるのなら、ルイを止める事は不可能じゃない。だが、それでも無理な時は俺がやる」
リョウの言葉に暫時、沈黙が流れた。軽々しく言葉を発せられる雰囲気ではなかった。今、一人の人間が覚悟をしたのだ。その覚悟に口を挟める人間には同じだけの覚悟がなければならない。
博士が後頭部を掻いて、「分かったよ」と言った。
「元より止める気はないんだ。ただ忘れないで欲しい。君一人の問題ではない。抱え込むのはやめるんだ」
「そうだぞ」
そう言って進み出たのはサキだった。サキはリョウを横目で見て、鼻を鳴らして腕を組んだ。
「リョウだけでは心許ない。ルイの問題は任せるにしても、私だって無関係じゃない。解決するのは全員でだ。ここに来て一人だけいい格好をするのは卑怯だぞ」
にやりと笑みを浮かべる。それにリョウも軽口を返した。
「お前らじゃ不安なんだよ。特にサキ、お前はな。独断が過ぎるからな」
「誰にものを言っている」
サキの言葉にマコはおろおろしながらも、はっきりとした口調で言った。
「わ、私も。サキちゃんのためならやれるよ」
「ちゃんとかつけるな」というお決まりの突っ込みと共にサキがマコの顔をはたいた。マコが顔を押さえて蹲る。それを見たフランが吹き出した。
「いい感じじゃないか。ここに来てまた皆、共闘を誓い合うなんて。僕も男だ。話を聞いてなよなよと戦意喪失では情けない。やろうじゃないか」
「――私も」
ナツキも一歩進み出る。リョウほどの覚悟があるのかは分からない。自分の中でもまだ整理のつかない事が多すぎる。それでも進むための一歩を踏み出すのは自分の力なのだ。その力を出し渋っていては、何にもならない。現在から未来を掴み取る者の意思表示として、ナツキは強い口調で言った。
「救いたいものがある。でも、一人じゃどうにもならない。私も覚悟を決めて立ち向かう。未来のために。これからを決めるのは私の力だから」
その言葉に全員が頷いた。真実を知ってもなお、そこから先に進むための力。未来を変えるだけの覚悟をここにいる全員が持っている。それを再確認しただけでも充分だった。
「仕方がないな。君達は」
博士が呆れたように息をつく。リョウへと歩み寄り、手を差し出した。
「私も出来る限りの事をしよう。リョウ君。明日までに図鑑からデータを抽出し、ヘキサツールとして完成させる。それまで預からせてくれないか」
「そんなすぐに出来るのかよ」
リョウの言葉に博士は口元に笑みを浮かばせた。
「君達のような若者がやろうというんだ。とんでもない事をね。それなのに大人が何もしないでどうする? 私に出来る事なら、一つでも多く手伝いたい」
博士はリョウの目を真っ直ぐに見つめた。リョウもその目を見返して、
「当てに、していいんだよな?」
問いかけられた声に博士は自分の胸を叩いた。
「任せてくれ。期待に添えよう」
リョウは笑みをこぼし、博士へとポケモン図鑑を手渡した。リョウが振り返り、
「さぁ、皆。こんな辛気臭い穴倉からおさらばして、明日に備えようぜ。やるべきことは多いんだからな」
その言葉にフランとナツキは頷いた。博士を先頭にして踵を返そうとする集団の中、サキが「ちょっと、待ってお父さん」と呼びかけた。博士が振り返ると、サキは博士の顔を見ずに背中を向けたまま言葉を発した。
「ちょっと私、まだ用があるから。先に上がっておいて」
その言葉に博士が心配そうな顔を向け、言葉をかけようとする。それを制するように「大丈夫」とサキは言った。
「私は大丈夫だから。二十分もすれば戻るよ。だから、少しだけ一人にさせて」
博士は口から出かけた言葉を彷徨わせて、それを押し留めるように頷いた。
「気をつけるんだぞ。……帰る場所はあるんだからな」
それだけを父親の口調で言い置いて、博士は階段を上り始めた。リョウとフランがその後に続く。ナツキは足を止めて、サキの背中を暫く見ていたが、その隣にマコがいる事に気づいて再び歩き出した。
あの二人ならば大丈夫だ。不安よりも胸に湧いたその確信に、ナツキは何も言わずに地上を目指した。