第六章 一節「暗闇のけだもの」
レクリエーションルームに集まった数十名の顔と名前を覚えてはいなかった。
もとより興味はないのだ、とエイタは思い直して顔を上げた。皆、一様に固い緊張を孕んだ面持ちで立ち尽くしている。自分達の行くべき道を指し示して欲しい、命令さえあれば動ける、そういった不安に苛まれているように見えた。未来を他人の手に任せて、自分達の責任を放棄する。人間としては腐っているが、駒としては上等だった。エイタにとっても都合がいい。何も考えず命令通りに動く忠実な番犬は飼いならしやすい。首を巡らせて視線を真っ直ぐに据え、エイタは語り始めた。
「今回の騒動に対して、ディルファンスは取れる対応を取っていきたい。だが、そのためには皆の協力が不可欠だ」
まずは下手に出る。そうやって同情を集めていけばいい。今のディルファンスの構成員の意思を一つに持っていくのだ。今までだって散々やってきたじゃないか、と自分に言い聞かせてエイタは口惜しそうに下唇を噛んだ。
「分かっているんだ。今の組織を信じられないって言う皆の気持ちは。僕だって信じられない気持ちでいっぱいだ。まさか、あのアスカが裏切るとは思っていなかったのだから」
アスカのことを考えると脳髄が焼け爛れるような怒りを感じる。だが、それを言葉の表層にも出さずにエイタは続けた。
「アスカは、ロケット団との癒着関係を続けていた。僕を欺いていたんだ。気づくのが遅すぎた。あのカトウの襲撃さえアスカのシナリオ通りだったのだから。僕は副リーダーとしてアスカの近くにいつもいたつもりだった。でも少しも分かってやれなかったんだ。今にして思うと、アスカは組織が大きくなることにいつも怯えていた。制御できなくなるのがきっと怖かったんだ。だから、ロケット団に資金提供をして、こんな、たくさんの人を巻き込んだいたちごっこを……」
そこから先は言葉にならないとでも言うように、エイタは嗚咽を漏らして顔を俯かせた。構成員達がざわめき始める。口元を覆っていた手の下でエイタは笑みを浮かべた。こんなにも人間は騙しやすく出来ている。全ての元凶はアスカだという筋書きに、誰も疑問を抱きはしない。不穏分子であるサキやマコは始末した。今、この場でエイタの言葉に異を唱える人間などいるはずもなかった。
ディルファンスは新たなリーダーを欲している。ならば、自分は求められる地位に就くべきだ。不本意だったが仕方がない。裏から手を回すほうがやりやすかったと、エイタは痛感する。これからはアスカという張子の虎がいないぶん、用心しながらやっていくことになる。そんな考えを浮かべながら、エイタは目元に浮かんだ涙を拭い、「すまない」と詫びた。
「僕の監督責任だ。全て、僕が悪い。アスカとは幼馴染だったのに、止めてやることが出来なかった。これは僕の戦いでもある。だから、逃げられないんだ」
エイタは拳で目元を乱暴に擦って、顔を上げた。腹の底から声を張り上げる。
「皆も知っての通り、ロケット団に変わる新たな敵対組織が現れた。その名はヘキサ。その構成員には今までのリーダーと仲間がいる。僕にとっては大切な人でもある。だが、僕はもう迷わない。甘んじてしまえばそれまでだ。敵は今までのロケット団残党よりも強大だと考えてもらっていい。何せ、我々の内情を知っている人間達が敵になるのだから。甘えた戦いは許されない。総力戦だ!」
エイタは手を振り翳し、語気を強めた。
「各員、総力を挙げてヘキサの本拠地を突き止めるんだ。ロケット団本部襲撃で疲弊しているのは分かっている。その身体に鞭打ってでも、僕らは止めなければならない。これは義務だ。かつての仲間の目を覚ますため、そしてカイヘンの、いや世界の平和のためにディルファンスが再び立ち上がる時なんだ。今こそ、正義の剣はこの手にあることを、示す!」
エイタが拳を掲げると、割れんばかりの拍手が弾けた。エイタに追随して拳を掲げるものもいた。これでいい、とエイタは内心ほくそ笑む。全ての矛先はアスカとヘキサに向かった。自分が疑われることは確実にありえない。問題はヘキサにかつての構成員がいることだ。迷いを断ち切れと言ってもそう簡単に割り切れるものではないだろう。火種がまた必要だ、とエイタは考えていた。だが、ロケット団との繋がりは完全に途切れた。ならば、やはりヘキサから動いてもらうのを待つしかあるまい。エイタは指示を飛ばした。
「各員、持ち場に戻れ。まだディルファンス本部施設は生きている。我々が諦めない限り、何度でも民衆を守り全ての悪を封じる五角形の盾は蘇るんだ」
その言葉にレクリエーションルームに集まっていた人々は合意の雄叫びを上げてから、それぞれの持ち場に戻っていった。レクリエーションルームから全ての人がいなくなってから、エイタは眉間に厳しい険を刻みつけ、壁を思い切り殴りつけた。自分のものだと思っていた女に裏切られた屈辱、それがエイタの心をどす黒い炎で焼き焦がす。奥歯を噛み締め、エイタは怨嗟の声を吐き出した。
「このままでは済まさない。アスカ。君は僕を裏切った事、後悔する事になる」
エイタは踵を返した。その足で自室へと向かう。カードキーを扉の脇にある認証パネルに通してから、踏み入る。部屋には既に先客がいた。少女だった。二つに結った緑色の髪に、童顔めいた顔立ちをしている。ディルファンスの制服に袖を通してはいるが、構成員ではないことは確認済みだった。この少女はエイタの旧友であるカリヤに会うためにロケット団本部襲撃に紛れて部隊の中に侵入し、カリヤを殺した自分を殺そうとしたのだ。普通に考えるならば危険な存在であり、真っ先に排除という言葉が思い立つものだが、エイタは落ち着いた素振りと柔らかな物腰で言葉を発した。
「アヤノさん。気分はよくなりましたか?」
その声に少女――アヤノが所在なさげにしていた顔を向ける。敬語を使うのは先程までが緊急事態であった事を印象付けるためだ。初対面、だという体を崩してはならない。少し強張った笑みを浮かべながら、アヤノは頷いた。
「はい。さっきまでよりは。でも、やっぱりあたし、何か忘れているような気がして」
アヤノは額を押さえた。疼痛に耐えるように目を瞑る。記憶が戻れば厄介になる。カリヤを殺したのがエイタだということを思い出せば、迷わずこの少女は自分を殺すだろう。額にやっていたアヤノの手を、エイタはそっと包み込んだ。アヤノが肩をびくつかせて、目をしばたたく。エイタはゆっくりと優しい声を出した。
「無理に思い出さないほうがいい。あそこは、戦場だった。生きて帰れただけでもありがたい。忘れてしまっているのなら、思い出さないほうがいいことなのかもしれない」
アヤノは少し顔を紅潮させながら、ばっとその手を離した。エイタが「失礼」と言って、ばつが悪そうに顔を背ける。
「あなたみたいな人を放っておけなくて。僕には二人、友人がいたんです。三人でいつも一緒にいて、旅をして、同じように傷ついて……。結局、別れてしまったけれど。アヤノさん。あなたはその二人にそっくりなんです。だから、痛みは隠さないで欲しい。痛いのなら痛いって言って欲しいんです」
エイタの熱の籠もった言葉に、アヤノは戸惑うように視線を彷徨わせた。エイタはハッと気づいたように、「すいません」と言って顔を俯けさせた。
「勝手な押し付けでしたね。ついつい重ねてしまって。よくないって分かっているんですけれど。駄目なんですね。忘れられないんです。忘れたほうがいいと思いながら、どうにも最後の一線を引けない。弱い人間なんです。こんな自分にこれからディルファンスの代表が務まるのかどうか、不安で……」
「ディルファンスの代表になったんですか?」
尋ねるアヤノの声に、エイタは弱々しい笑みを浮かべた。
「なし崩し的にですけれど。このままではディルファンスは組織としての形を失い、空中分解してしまう。アヤノさん。ニュースは見ましたか?」
アヤノは首を横に振った。エイタはそれで自分の部屋のものは何一つ触られていないことを悟る。この少女はどうやらサキ達よりかは扱いやすそうだ。自己主張しない。というよりも、自分というものが無いに等しい。エイタを殺そうとした時に感じた殺気が嘘のようだ。今目の前にいるのは、無防備極まりない少女である。手駒にしようと思えばいつでも出来る。だが、焦ってはならない。記憶がいつ戻るとも限らない。
エイタは部屋の奥へと進み出て、テレビのリモコンを手に取った。テレビの電源が点くと、ロケット団本部のあった場所、リツ山上空を映した映像が飛び込んできた。もうもうと黒煙がリツ山を囲む樹海から上がっている。ヘリからの映像が時折乱れる。もうロケット団本部としては機能していないはずだが、リツ山には元々強い磁場と突風が渦巻いている。そのため、人間はポケモンの力ではリツ山を超えることは出来ない。ヘリなどの文明の力に身を包まなければ、一瞬だって危ういのだ。そのヘリでだって、画面が安定せず音声が途切れ途切れになるありさまである。ヘリに乗った男性の特派員が声を張り上げてマイクに吹き込んでいる。
『今、私はリツ……、上空三千メートル、……に来ています。ご覧く……い、この惨状を。ディル……ンス、とロケ……団との激しい戦闘があった模様です。ディルファンスは、……時間前にカイヘン警察と、協定を結んでおり、……の戦闘はカイヘン警察の発表に、……よれば完全な自衛行為であり、……公式な発表がなされると共に……』
『イシダさん。よく聞き取れません。どうなっているんですか?』
スタジオの頭の禿げ上がったアナウンサーが質問する。特派員はインカムを耳に押し付けて、半ば叫ぶように返した。
『すいません。磁場の……、この周囲は完全な通信が不可能で、これ以上は……』
そこで特派員からの映像と音声は途切れてスタジオへと画面が戻った。アナウンサーが手元の紙に視線を落として状況を伝えようとする。そこでエイタはテレビを切った。アヤノへと振り返り、口を開く。
「情報は錯綜しているようだが、僕の口から一つ言えるとするなら、ロケット団は壊滅した。だが、脅威は去ったわけではない、というのが実情です。先程の報道では触れられませんでしたが、新たな組織が現れた。その名はヘキサ。ロケット団と、……悲しいことながら我々ディルファンスを離反した者達が作り上げた組織です。だが、組織といってもまだ出来てから日は浅いはず。つけ入る隙はあると考えています」
「あの、エイタさんはその組織と戦おうとしているんですか?」
アヤノが言いにくそうに言葉を発する。言ってから、しまったとでも言うように顔を伏せた。エイタはこの少女の性格の不均衡さに疑問を浮かべる。どうにもおかしい。自分を殺そうとした時の超然とした態度はまるで無い。というよりも纏っている空気は人並み以下だ。いつでも心の隙間につけ入られそうなほど危うく見える。いや、実際つけ入られていたのかと思い返した。カリヤのような不安定な人間を好きになったのだ。不完全でなければ、カリヤの異常さに気づかないはずがない。エイタは咳払いを一つして、思案するように顎に手を添えた。
「それは組織が決めることです。と言っても、今のディルファンスは決定権が彷徨っている。僕一人にあるように思えて、そうではない。あなたにだけは正直に言いましょう」
エイタはデスクの椅子に座り込み、アヤノと対面した。アヤノは少し顔を赤らめて、俯いた。「あなたにだけ」という言い回しが効いたのか。それとも元来よりのあがり性なのか。判ずるような確証も無く、エイタは片手にペンを握り、手の中でいじりながら言葉を選ぶ。
「ディルファンスは民間団体です。なので、もちろんスポンサーというものが存在する。それはポケモン群生学の権威であるヒグチ博士や、ポケモンリーグの事務官など多岐に渡るわけなのですが」
「……ヒグチ博士、ですか」
控えめに放たれた言葉にエイタは注目した。
「ご存知で?」
「あたし、元々はカントーの出身なんですけれど、小さい頃にカイヘンに引っ越してきて。ずっとミサワタウンで過ごしてきたんです。だからヒグチ博士はすごく近くにいる存在で。図鑑もいただいたし」
「ポケモン図鑑、ですか。そうするとあなたはポケモントレーナーだと」
最早、知っていることだったがその体で話せばぼろが出る。あくまで相手の情報はほとんど知らず、偶然にアヤノを助けたという前提を崩してはならない。
アヤノは小さく頷いた。エイタはペンに視線を落とす。トレーナーの相手は慣れている、はずだったがこの少女はどこか勝手が違う。プライドを刺激してやればいいわけでもなければ、劣等感を増長させてやればいいわけでもない。どうしたものか、決めあぐねてエイタはふと思い出す。カリヤを殺した後に現れたアヤノのあの立ち振る舞い。獲物を狩ることにかけては、天性のものを持つと思われる迷いの無い殺気。危うく牙にかかるところだった我が身を顧みて、怖気が走るものを感じた。獣に行き会ったのだ。そして、今、その獣を前にしている。殺されかけたことに、怯えているのか。ペンを握る手が僅かに震えていた。
「あの、大丈夫ですか?」
アヤノが小さく発した声に、エイタはハッとして顔を上げた。
「何がですか?」
「いえ。手が震えていらしたので」
「ああ」
慄くなどらしくはない。そう思い直して、エイタは震えていた手をもう一方の手で押さえつけた。
「つい数時間前まで戦闘の中にいたものですから。怖いんです。ポケモンを使って、人が殺し合うのなんて」
押さえつける手に力を込める。少女の形を取った獣の前で嘘を一つつくたびに震えが増しているような気がしたが、構ってはいられない。嘘はお手の物のはずだ。そう言い聞かせて、エイタは悲しみに濡れた瞳を伏せた。
「おかしいでしょう。人の憎しみにポケモンを使うなんて。尋常なことじゃない。本当は、嫌なんです。人は人、ポケモンはポケモンで争い合うべきだ。他人の喧嘩に割り込むようなものですよ。ポケモンバトルなら許される、と思っているわけじゃありません。ポケモンバトルだって争いだ。だから、嫌なんですよ、僕は。でも、ディルファンスは戦争をしているんです」
痛みに呻くように身体を折り曲げて、エイタは咽び泣いた。少々、演技が過ぎたかと思っていると、アヤノが立ち上がった。何をするつもりなのか、と思っていると屈んでエイタの手を優しく包み込んだ。不意打ち気味の温もりに、エイタが演技も忘れ驚いて顔を上げる。アヤノは目の端に涙を溜めて頷いていた。
「分かります。エイタさん。あたしも、嫌なんです。ポケモンバトルも、誰かがポケモンを使って殺し合うのも。だって、どちらも戦いには変わりはないから。あたしは、あたしのエイパムを道具にさせたくない。でも、戦わなきゃ何も変わらないって知っていて。だから、迷うんです。でも、それが人間らしいと思います。本当に優しい人の考えることだって。だから、こんなにも震えてらしたんですね」
アヤノが握った手を自分の頬に引き寄せる。頬を涙の筋が通った。熱いものが指にかかる。エイタは驚きながらも、内心笑みを浮かべた。この少女は、とんだ勘違いをしている。嘘がうまくはまったというべきか。エイタの言葉がアヤノの何かに触れたらしいことは分かった。心の奥底にあるものの糸口さえつかめれば後は一気にいける。そう確信したエイタはさらに演技を続けた。涙を目に溜めて頷く。
「すいません。僕は強くあらねばならないのに。ほとんど初対面のあなたにこんなに弱さを見せてしまった。リーダー失格ですね。こんなんじゃ、僕についてきてくれる人がいるかも分からない」
「……きっと、いますよ」
アヤノは微笑んで、言葉を継いだ。
「エイタさんなら、分かってくれる人はたくさんいるはずです。あたしも、エイタさんの気持ちが分かりましたから」
「でも、戦わなきゃならない」
エイタは強く目を閉じた。偽りの苦痛に顔を歪め、あたかも心の底から苦しみの中に身を置いているかのように呻いた。
「戦って、勝たなきゃいけないんです。ロケット団は許せない。カリヤの正義の心を利用したんだ。ヘキサはアスカの不安を煽った。二人とも囚われているんだ。自分の弱さに。だから、救い出したい。でも、戦うのは嫌なんです。怖くて仕方がない」
「だったら」
アヤノはより一層、エイタの手を強く握り締めた。
「だったら、あたしが戦います。あたしは、一度覚悟をしたんです。でも、逃げようとした。だから、今度は正面から向かい合いたいんです。そのために、あたしは出来ることはやります。エイタさんの苦しみはあたしにすごく似ている。勝手かもしれないけど、エイタさんの苦しみを背負わせてください」
勝手なものか、とエイタは思った。むしろ願ってもない。思わず嗤いそうになるのを抑えながら、エイタは顔を上げた。頬を流れる涙が煩わしい。だが、これも重要な舞台装置の一つだと割り切れば我慢できた。
「本当に、いいんですか? あなたが傷つくんですよ」
もう一押しだと感じて、エイタはここで一歩引いた。そうすることでアヤノが自分自身で決断したのだと思い込ませる必要があるからだ。アヤノは強く頷いた。
「構いません。あたしは、どうせもう駄目だから。いくら戦いを否定しても、駄目なんです。今はなんともないけれど、アヤメがいつ出てくるか分からないし」
その言葉にエイタは疑問符を浮かべた。アヤメとは何だ? それを尋ねる前に、アヤノは首を横に振った。
「そんなこと、言ってられませんよね。逆に今のあたしなら、自分の意思で物事を決められる。あたし、分かったんです。自分がどうするべきなのか、どうしたいのか。初めて、自分に近い人を見つけることが出来たから、踏み出すことが、変わろうとすることが出来たんです。あたしはカリヤさんを助け出したい。それにエイタさんも助けたいんです」
「……僕も、ですか?」
「エイタさんもすごく苦しかったんだと思います。あたし、見たことがあるんです。カリヤさんの屋敷で。エイタさんと、カリヤさん、それにアスカさんが並んで写っている写真を。三人ともあの時がすごく楽しそうだった。だから、こんなあたしの力であの時が取り戻せるなら、って」
あの写真を見たのか。エイタはそれと同じものが仕舞ってある棚に視線を向けた。アルバムの中に挟まっているが、あれはアヤノの言うような楽しかった時間などではない。お互いの腹の探り合いばかりをしている時だった。信じようとして信じられず、欺くことに慣れていった頃の写真だ。そんなものにアヤノは期待して、あまつさえ取り戻そうとまで言っている。それは幻想だと一蹴してやりたかったが、エイタはアヤノの心を操るためにその言葉に乗っかった。瞳を潤ませて、滲んだ視界の中にアヤノの顔が映る。
「あの時を、取り戻してくれるんですか。本当に」
嘘に塗れた言葉が口からついて出る。頭の中は不可思議なほどに醒め切っているというのに、熱い吐息と涙がそれを本当のように演出した。
「ええ。あたしは、あなたとなら」
アヤノはその涙と瞳に自分を見ていた。自分の事を心の底から分かってくれる理解者にようやく巡り会えた。そのための受難であり、苦しみだったのだと理解した身体は自然とエイタを抱き締めていた。少女のものと思える爽やかな香りがエイタの鼻腔を掠める。
いや、今この瞬間に少女の香りは女の香りになった。優しくされたいと願う魂が、腐敗臭のようなにおいを漂わせる。エイタは思わず顔をしかめた。このにおいは何度も嗅いだ事があった。使い古した雑巾のようなシーツのにおいがフラッシュバックする。そのにおいが鼻から脳の奥底まで入ってきて、エイタの記憶の扉を開けようとしたその時、悪夢から唐突に醒めた時のような叫び声を上げながらエイタはアヤノの身体を押し倒していた。ディルファンスの制服を引き剥がそうとする。アヤノはされるがまま、虚空に視線を漂わせていた。アヤノの脳裏にモノトーンの部屋と打ち捨てられたピカチュウのぬいぐるみが瞬きと共に描き出される。それらが鮮烈なイメージを結ぶ前に、アヤノの意識は闇に没した。
あとには、ただ絡まり合う二体のけだものだけが残された。