第六章 最終節「夢の痕」
「ならば、どうする? 私を破壊するか? 簡単だろう。カプセルに収まっている私を破壊する程度は」
「それでは、何も解決出来ない」
口から出る言葉の一つ一つが自分のものであって自分のものではないような感覚がする。今まで戦った者達や生きたいと願う人の心がそうさせているのか。胸を透過する熱は冷める事無く、言葉としてついて出る。
「たとえこの空中要塞と共に心中する結果になったとしても、私達は最後まで諦めない。あなたを止める。あなたを生かしたまま」
ヘキサの団員達も、ディルファンスも、全員が黙ってキシベとナツキを見つめていた。沈黙が降り立ち、ペラップがポケモンの声を出す。決意に気圧されたのかどうかは分からない。それでも、キシベにだって熱は通じているはずだった。沈黙はその証だ。これからキシベはどう出るのか、それを全員が固唾を呑んで見守る中、ペラップが口中から嘆息のようなものをついた。
「……なるほど。だが、元より君達を巻き込んで全てを終わらせようというつもりはない。王を目にしてはっきりと分かった。私の心はどうやら随分とぬるくなったらしいとね」
瞬間、青い光が部屋を満たした。オーロラのように揺らめく光の中に絡め取られた全員が戸惑うように首を巡らせる。ナツキも同様に周囲を見渡し、「何を」と口にした。
「フーディンに君達を転送させる。カントーに落下しても恐らくは被害の出ない沿岸へと。しばらくは宙を彷徨う事になるだろうが、我慢してくれ」
「それがあなたの罪滅ぼしのつもりなの」
「この程度では満足出来ないかね? それとも私との決着を望んでいたか? 残念な事に、私は王に歯向かうほど命知らずではない。目的を遂行するためならば、君達とて相手をしている場合ではない」
消え行く景色の中、リョウがルイを引き寄せて肩に手を置く。博士がサキの手を握る。サキの手をマコが握っている。アヤノへとセルジが手を伸ばした。アヤノは渋々と言った様子でその手を取る。ディルファンス構成員達やヘキサの団員は寄り集まった。誰もが大切な者達を守ろうとしていた。
「君は、いいのか?」
誰とも手を取ろうとしないナツキへとキシベは声を振り向ける。すると、ナツキは手を前へと差し出した。
「私の取る手は、あなたよ。キシベ」
その言葉にペラップの口から笑い声が漏れた。打算も何もない、真実に可笑しいとでも言うような笑い方だった。
「私を救おうというのか。そんな酔狂な人間がいるとは思わなかった。だがな、王よ。君のその手は数多の人のためにあるのだ。私のような過去の牢獄に繋がれた人間のためにあるのではない。未来のためだろう、ナツキ」
ここに来て初めて名前を呼ばれ、ナツキはハッとした。直後、カプセルはオーロラの向こうへと消え去ろうとしていた。ナツキは足を踏み出し、手を伸ばしかける。その背へと声がかかった。
「何してるんだ、ナツキ! 早く、こっちへ来い!」
リョウの声だった。続けてサキの声が弾ける。
「お前が来なければ、誰が来るんだよ!」
「君はちゃんとやるべき事をやったんだ、ナツキ君」
博士の声に続けて、フランとアスカの声が重なる。
「ナツキさん、手を!」
「早く!」
アヤノも手を伸ばし、ナツキの名を呼んだ。
「ナツキ。アヤノも心配してくれてありがとうと言っているわ。私も同じ気持ちよ」
全員がナツキへと手を伸ばした。消え行くカプセルと未来へと繋がる手。ナツキは逡巡を浮かべながらも、導く手を選んだ。身を翻し、差し出された手へと重ねようとした瞬間、背後で声が響いた。
「さよならだ。王よ」
刹那、オーロラ揺らめく中へと消えたカプセルの残滓も残さぬような爆光が煌いた。振り返ると、空中要塞のビルの谷間から青い光が漏れ出していた。
ドラゴンタイプがビルを切り裂き、なぎ倒していく中、次々と上がっていく青い光は火柱と形容するよりも墓標のように見えた。
数々の人々の魂を慰める光が噴出し、フワライドに乗った人々をすくい上げる。フワライドを残し、市民が一人また一人とオーロラの中へと消えていく。キシベはフーディンの持てる力全てを使って人々を救おうとしているのだ。それが分かった瞬間、ナツキは叫んでいた。
「キシベ! あなたは――」
その言葉の先を引き裂くように、破壊光線の光条が空中要塞の地面を焼き払う。崩落するビルが灰色の煙の海へと沈んでいく。オーロラの皮膜に包まれて上昇するナツキ達は空中要塞がカントーの陸地へと濃い影を落とすのを見た。白い屋根はマサラタウンだろうか。リョウは故郷をこんな形で見るとは思いもしなかったのだろう。故郷の上を六角形の要塞が赤い稲光を走らせながら浮遊していく。
ワタルもカントーの上空では攻撃を躊躇っているのか。破壊光線が走らない代わりに、空中要塞に乗り移ってきたドラゴンタイプが全身の内部骨格から燐光を迸らせ、建物を破壊していく。残像を引く爪がビルを切り裂き、出力を絞った破壊光線の光条がビルに孔を開けた。焼け爛れたビルが蜜のように滴る。ドラゴンタイプはしかし、機関部へと直接攻撃する事はなかった。もうカントーの陸地に入っているのだ。出来るだけ質量を減らすか、破砕するしか方法はない。推進機関を破壊すれば、今すぐに落ちる可能性もある。そうなれば被害ははかり知れないからだろう。遠く、海上を飛ぶ一体のカイリューの上にワタルの姿をナツキは感知した。彼もまた、どうすればいいのか判らないようだった。今更破壊をやめる事など出来ない。自身の役割が行動を雁字搦めにし、歯止めが利かなくなっている。
空中要塞は緑色のトキワシティを超え、横っ腹から新たな推進剤を噴かした。真っ直ぐに飛べばオツキミ山に至る。そうなった場合、高度すれすれにオツキミ山の頂上がぶつかるからだろう。空中要塞はシロガネ山を掠める形でセキエイ高原を目指しているようだった。吹き荒れる磁気嵐が木々をなぎ倒し、民家から出てきた民衆が空を覆う空中要塞を仰いでいる。今更になって事態を把握したのか、と思わせるほどに彼らの心に意識を飛ばしたナツキはその穏やかさに驚いた。徐々に雪が吹き荒れるシロガネ山へと近づいていく。ナツキ達はどんどんと上空へと昇っていった。ナツキは感知野の網を広げ、空中要塞で起こっている事の把握に努めた。これからどうなるのか。キシベは結局どうするつもりなのか。本当にセキエイ高原へと空中要塞を質量兵器として落とすつもりなのか。空中要塞は先程とは反対側から補助推進剤を噴かして、シロガネ山に横っ腹を見せようとする。
瞬間、何者かの思惟が刃のように切り込んできた。研ぎ澄まされた意識が針のようにナツキの感知野を突き刺す。ナツキは疼痛を覚えながらもシロガネ山にあるその意識に目を凝らした。感知野の網を極大まで広げ、架空の眼を使ってそれを見た。
シロガネ山の頂上に人影が揺らめいていた。赤い帽子を被っており、赤いジャケットに緑色のズボンをはいている。見慣れた服装に思わず現実に意識を戻してリョウを見やった。リョウはその場にいたが、ナツキと同じくシロガネ山に意識を飛ばしているように見えた。リョウにも視えているのだろうか。
それを問いかける前に、人影が動いた。ホルスターから四つのモンスターボールを抜き放ち、真上に放り投げる。それぞれから放たれた光が、人影の周囲に展開した。
重機のような砲門を持つ青い身体のカメックス。それ自体が森林のようにどっしりと構える緑の身体に極彩色の花を持つフシギバナ。両脇を構える二体の後ろには、オレンジ色の翼竜の姿を持つポケモンが尻尾の先から炎を燃え上がらせ立っていた。ヒトカゲの進化系、リザードンだ。
そして前衛をつとめるのは見た事のないポケモンだった。まるで人間のような姿かたちをしているが、白い身体と丸い指先は人間とは異なる。しかしポケモンとも呼びがたい有機的な姿のそれは紫色の尻尾を動かしながら、空中要塞を見上げた。鋭い目つきのそれがまるでナツキの感知野の眼を察したかのように細められる。どきりとしたナツキは感知野の網を収めようとしたほどだった。あれは何なのか。ルイを見た時に感じたのと同じものを感じる。ゲンガーとルイのような、ポケモンでも人間でもない存在――。
四体のポケモンから凍てつく風を逆流させるほどのオーラが放たれる。リザードンからは赤の、カメックスからは青の、フシギバナからは緑の光が迸りシロガネ山の大気を揺らした。前に佇むそれからは紫色のオーラが立ち上り、十字の光が何度か瞬いた。
刹那、ナツキの感知野を揺るがす轟音と共に四つの光を集約させた光芒が放たれた。光は空中要塞を貫き、ナツキ達の眼も刺激した。空中要塞の内奥にあったキシベの思惟が消え去り、声と共に一人の少女の姿が像を結んだ。青い髪の少女だった。白いワンピースを着ており、サキかそれともルイか、と思ったが振り返った碧眼にどちらでもないという事を知った。
「もしかして、あなたが――」
その声を続ける前に少女が微笑み、キシベと共に手を繋いで光の向こうへと消えていく。自分が辿り着こうとして行けなかった。累乗の先の光へと。網膜の裏を引き裂くような光は留まる事無く、現実の眼を思わず閉ざしかけた時、リョウの声が感知野に響く。
――兄貴、なのか……?
その声にハッとする前に、空中要塞の核を貫いた光が意識を呑み込んでいった。びりびりと空気が震え、「さんみいったい」の光の先のような眩い光の海へと誘われる。その光に押し潰されると思われた瞬間、圧迫感が消え去り、同時に腹の底から下降感が押し寄せてきた。
気づいた時には地面に両手をついていた。何が起こったのか。顔を上げ、身体を起こす。そこには白い屋根の並び立つ家々があった。少し行くと巨大な研究所があり、オーキド研究所という立て札がしてある。
立ち上がると、その視界にはシロガネ山が映った。シロガネ山に覆い被さるように空中要塞がバラバラと崩れていく。噴かそうとした推進剤が仇となったのか、横腹からシロガネ山にぶつかった空中要塞はそのまま身を擦りつけた。キシベが消えた事で全てのシステムがダウンしたのか、赤い稲光が一際強く光ったかと思うと、下腹部にある黒い浮遊機関がブロックのように崩れていった。背部の推進機関も死んだように光をなくし、なだれかかった空中要塞はシロガネ山の中腹までその身を滑らせると、やがて何かに引っかかったように止まった。鳴動する空気が収まり、静寂が訪れる。何事も最初からなかったかのように鳥ポケモンの声が聞こえ、白い煙を棚引かせる空中要塞はもはや原型も分からぬ瓦礫となって、シロガネ山の一部のように佇んでいる。
「……終わったのか」
背後でリョウが呟いた声に、ナツキは頬を熱いものが伝うのを止められなかった。泣くまいと決めたはずなのに、涙がとめどなく溢れてくる。それは夢の後の悲しさなのか、夢破れた者の末路なのか。
「最後、笑ってた。あの子も、キシベも……」
誰にも伝わらないかもしれない。それでもナツキの口から出た言葉に、リョウはナツキの肩へと手を置いてただ一言だけ発した。
「帰ろう」
その言葉にナツキは声を上げて泣いた。民家から異変に気づいた人々が飛び出し、次いでディルファンスやヘキサの制服を着た者達を訝しげに見つめる。その中心でナツキは子供のように泣きじゃくった。その場にいた誰もが慰めの言葉一つも発しなかったのがナツキにとってはありがたかった。涙の痕が、幼き日の傷跡のようにじくじくと傷む。きっと、これが幼き日との決別の痛みなのだと、ナツキは感じその痛みを噛み締めた。
泣き顔に沁みるマサラタウンの晴天が、この日ほど憎々しいと思った事は無かった。
誰もが無言のまま、夢の痕を見つめ熱狂の後に身を浸していた。復讐の向かう先にあったのはどうしようもない虚無だった。その虚無をこの場にいた全員だけは逃げずに直視した。その先にある光を信じて、お互いの肌の温もりを感じ、彼らは黙祷を捧げるように瞑目した。