第六章 五十一節「祈り」
光が影を押し包んだのを、ワタルはその眼に捉えた。
自分という個が根こそぎ奪い取られるような衝撃に、ワタルはカイリューの上で両手を翳す。
光の中に、その先を目指す少女と背中から止めようとする少年を見たのは極度のストレスにおかれた幻想だったのか。確かめる術もなくこの手を滑り落ちた感触に、ワタルは目をしばたたき、「……今のは」と呟いた。
一瞬の事だったが、膨大なエネルギーが空中要塞の中心に注がれたのを見た。
いや、見たという言い方すら定かではない。感じた、というのがもっとも近い感想だったが急に何かが感じられるような神経に生まれた自覚はない。ドラゴンタイプの事ならばほとんど全てが分かるワタルといえども先程の現象を明確な言葉で言い表す術はなかった。何かが起こった。そして終わった。意味不明な脳裏に浮かんだ言葉が妙にしっくりと来て、ワタルは長く息をついた。その時、通信回線に割って入る声があった。
『ワタル。今の、何?』
どうやらカンナも同じように感じたようだった。言い表す言葉が自分の中に見つからず、どこか悔しさを滲ませているのは向こうも同じらしい。
『分からないの。急に光が広がって。そうしたら、あたしのポケモン達が大人しくなって、攻撃をやめて……』
「攻撃を?」
聞き返した声に、周囲を見渡した。先程までワタルの攻撃の意志を感じ取って、凶暴な光を眼に湛えていたドラゴンタイプ達は、一様に動きを止めていた。まるで何かを祝福するかのように頭を垂れ、目を閉じている。ワタルの乗るカイリューも同じだった。
「……祈り、か」
胸に結実した言葉を形にして、ようやく実感が持てた。今のは祈りの光なのだ。放たれた思惟にドラゴンタイプ達は敬意を払っている。恐らくは、空中要塞を攻撃していたドラゴンタイプ達も同じだろう。だがポケモンが何に祈るというのか。
「神でも見つけたのか?」
今の状況では冗談にもならない言葉に、ワタルは沈黙して空中要塞を見守るしかなかった。
身体の中には追いかけているイメージがあった。
そのイメージが先行したのか、身体が引っ張られる感覚に引き上げられるように、リョウはハッと目を見開いた。額に滲んだ汗を拭おうと手を伸ばして、ようやくこれが「リョウ」という人間の身体である事を自覚する。顎に伝った汗を右手で拭おうとして、その手が空を切った。見ると、右腕が肩口から根こそぎなくなっていた。それを見てさして驚くでもなく、納得したように「ああ」と口を開く。
「そうか。右腕はいらないって言ったんだっけ」
戦いの最中、昂揚した気持ちがそうさせたのか、あるいは最初からある程度の覚悟は決まっていたのかは判然としないが、右腕がない事にショックの一つもなかった。リョウは顔を上げる。ゲンガーの姿は最後、墨のような一滴になった。その一点に何かを見たような気がするが、何かは思い出せずリョウは額の疼痛に「……痛て」と呟いた。
「リョウ君」
背後から声がかかる。ルイを抱きかかえたヒグチ博士が心配そうな顔を向けていた。眼の隈もいつも通りだ。
「博士。俺、戻ってきたみたいだ」
呆然と放った言葉に、博士は深く頷いた。リョウは立ち上がろうとしたが、膝に力が全くこもらなかった。ポケモンへと意識を飛ばした反動かもしれない。赤子のように座り込み、リョウはフシギバナ達へと目を向けた。フシギバナは体表に砂埃を被りつつも、傷自体はなかった。リーフィアも影のマグマに晒されたものの、傷は浅かったらしい。すくっと立ち上がり、主人を栗色の瞳で見つめている。その他のポケモンも目立った外傷はない。リョウは次にルイへと視線を向けた。睫が何度か揺らめき、大きな赤い眼がゆっくりと開かれる。博士はその眼差しと自身の眼を交錯させた。
サキとルイは博士にとってどう映っているのだろう。罪の結晶。贖罪の証。しかし、今の博士はそれらでは括れない眼差しを送っていた。慈しみ、とも思える目に、ルイが喉からか細い声を漏らす。
「……目の下くまさん。どうして」
「そう、か。君と私とは、会ったのはあの時以来だったか」
まだ一週間も経っていないのに、随分と遠くに置き去りにした時間のように思える。博士は目を閉じ、ルイに頭を下げた。
「すまなかった」
博士なりの償いなのだろう。目の端から熱い雫が伝い落ちる。ルイは意味が分からず、ただ博士の頬に手を伸ばして小さく呟いた。
「泣かないでよ、目の下くまさん。ボクまで、悲しくなっちゃうよ」
ルイの眼も同じように潤んでいた。赤い瞳の揺らめきに、リョウは呼びかけた。足が自ずと立ち上がり、ルイの下へと辿り着くための原動力たる熱が胸の内から湧いてくる。右腕を失ってもまだ死んでない熱に押し出されるように、リョウはゆっくりと歩き出した。博士がルイをゆっくりと下ろす。ルイはきちんと二本の足で立っていた。影もルイの影だ。
「……リョウ」
その声にリョウは手を伸ばしかけて躊躇った。心に素直に向き合っていいのか。自分は一度、ルイを壊しかけたというのに。開いた手を拳に変え、リョウが歯を食いしばっていると、博士が声をかけた。
「リョウ君」
柔らかなその声音に、リョウが顔を上げた、瞬間身体に体重を感じた。ルイが駆け寄って、リョウに抱きついてきたのだ。リョウは思わず後ろに倒れそうになったが、寸前で踏み止まった。薄紫色の髪が揺れ、リョウの服に顔を埋めたルイはリョウの顔をなかなか見ようとしなかった。
お互い、相手を否定しようとした。殺そうとも思ったかもしれない。そうそう簡単に顔を見合わせて、何もかもを赦す事も出来ないのかもしれない。それでも歩み寄っていけたら、とリョウはルイの頭を撫でた。ルイが顔を上げずに、「子供じゃ、ないよ……」と抗弁の口を開く。半分掠れている声に、リョウは愛おしさに一も二もなく抱き締めたい衝動に駆られたが、博士達の視線もあってかそれは憚られた。代わりのように優しく言葉を紡ぐ。
「俺にとっては、ようやく生まれたばかりみたいなもんさ。お前は、ようやく自分の人生を自分の足で立てるようになるんだ」
ルイは人もポケモンもたくさん殺した。その罪は背負わなければならない。責を感じる必要はないとは言えない。それほど楽観主義者にはなりきれなかった。リョウがそっとその肩に手を置いて、熱を持った身体を離そうとすると、不意に声が弾けた。
「ナツキさん! ナツキさん!」
呼びかける声はフランのものだった。そちらに振り向くと、バシャーモとカメックスと共に、フランとアスカが必死に小さな身体を揺すっているように見えた。リョウは嫌な予感に、ルイから手を離し、そちらへと向かった。カメックスは、今は黒色を失い、通常の青い色になっている。バシャーモからも白い炎は消えていた。その二体が揺さぶられている影を見下ろしている。リョウは集まっていたディルファンス構成員を掻き分け、人垣の中心にいる少女を視界の中心に捉えた。
「……ナツキ」
そこにいたナツキはリョウと同じように放心した眼を中空に向けていた。だらんと両手が垂れ下がっており、眼の光もあってないようなものだった。力が全くこもっていないその光景に、先程「さんみいったい」の光の先へと手を伸ばしたナツキの思惟の姿が重なる。
呼び止めた声が届かなかったのか。ナツキはフランとアスカの必死の呼びかけにも応じず、鏡面のような眼を虚空に注いでいる。魂が抜け落ちてしまったかのように見えた。リョウは思わずナツキへと歩み寄り、その肩を引っ掴んだ。ナツキの頭部が傾ぎ、だらんと身体がリョウの側へと引っ張られる。これは抜け殻だ、と直感したリョウはカメックスとバシャーモへと目をやった。
「てめぇら、ナツキに何しやがった!」
叫ぶ声に二体のポケモンが同じ眼差しを向ける。知っているだろう、という眼だった。お前はその行く末を見たのだから。光の向こう、折り重なった累乗の先へと旅立ってしまったのだと。
理解した頭が白熱し、リョウは「ざけんな」と呻いていた。
「てめぇらが連れてったんだろうが。カメックス! お前がナツキと同調しなけりゃ、こんなところまでつれて来る事はなかったのに!」
意味のない恨み言だと自分でも分かった。ポケモンと人間は本来平行線なのだ。その境界を崩したのは、他でもない人間なのだということは博士の罪やルイの存在を見ても明らかであるはずなのに。賢しく考える頭が回らない。獣のように内側からの熱に押され、リョウはナツキの胸倉を掴んでいた。フランとアスカが止めに入ったが、構いはしなかった。
「戻ってこい、ナツキ!」