第六章 五十節「累乗の先へ」
――何、これ……。
ナツキの感知野に響いたのは凶暴な否定の意思だった。邪魔する者を全て踏み潰し、亡骸を亡骸とも思わない狂気が極大した感知野にずんと重く染み渡る。ナツキは現実の小さな自分の身体を折り曲げて、首を振って叫んだ。
「やめてぇ! こんな事をしても意味はないのに!」
感知野の網が拾い上げる。破壊が跳梁跋扈する地獄絵図を。ドラゴンタイプの像を結んだ幾つもの否定の意思が集合し、破壊の光条を空に描く。その瀑布の波に呑まれていくのは何も知らぬ市民の声だ。彼らの声が、死の淵へと引きずりこまれる嘆きが、ナツキの中へと入り込む。ナツキは耳を塞いだが、頭に直接切り込む声には意味のない事だった。
ゲンガーが好機と見たのか、影の腕を引きずり出し、動きの鈍ったカメックスとバシャーモへと狙いをつけた。それすらも気づけないほどに、ナツキの頭の中には声がわんわんと残響していた。脳内が今にもパンクしてしまいそうだった。
舌打ちが漏れ聞こえたかと思うと、腹の奥底に響く音が現実の鼓膜を震わせていた。顔を上げると、先端を鎌とした影の両腕がカメックスとバシャーモのすぐ脇を掠めていた。二本の腕へと絡み付いているのはフシギバナから伸びる蔓だった。
――しっかり、しろよ!
舌打ちの主の声が明瞭に脳に響く。ナツキは現実で身体を動かして振り返った。リョウが眼に鋭い光を湛えて、歯を食いしばっている。その口元から血が滴り落ちていた。影の両腕が暴れるように動き、鎌の先端をドリルへと変形させる。影のドリルが凶暴に動き回り、フシギバナの身体があおられた。リョウはその場にしっかりと足をついたまま、現実の喉を振るわせた。
「俺を助け出してくれたろうが! 今更怖気づいてんじゃねぇよ、ナツキ!」
「でも、人が……」
「その人達を一刻も早く救うには、ここでゲンガーを倒すしかねぇだろ!」
フシギバナの身体が過負荷に耐えかね、蔓がドリルで断ち切られる。リョウは呻き声を上げて、両手を下げた。見えている右腕に赤い筋が幾重にも浮かび上がる。ポケモンからのダメージフィードバックだ。リョウは今にも膝を折りそうになりながらも、頬が震えるほどに痛みを殺して、「ナツキ!」と名を呼んだ。
「お前は、もう――」
そこから先の言葉を掻き消すように、ゲンガーが大口を開いて鳴いた。
フシギバナの蔓の呪縛を断ち切って、ゲンガーが再び腕を振り上げ、先端の影を練り直す。二つの腕が一つになり、巨大な鎌を形成する。ゲンガーの身の丈をゆうに超えるほどの全長を持つ鎌だった。
ナツキはゆらりと立ち上がり、後ろを振り返った。ここにいる全員、ナツキとリョウを信じている。最後の希望だと思っている。彼らの思惟が空間にたゆたい、ナツキの曇りかけた心に光の筋を射し込ませる。曇天と晴天の狭間で、今にも曇天へと転じてしまいそうな現実の空と、心の中の空を見つめる。
ゲンガーが巨大な鎌を振るい上げる。バシャーモとカメックスを薙ぎ払おうとしているのは明白だった。
首を狩られる。ゲンガーの赤い眼から戦闘の愉悦に浸る思惟が流れ込む。
これも一つの心。
最強のポケモンを求める人々が育んでしまった、歪んだ意思。鎌が空気を裂いて、カメックスとバシャーモの首を狩るために奔る。まずはカメックスだと、歪んだ思惟が告げる。地表面の粉塵を根こそぎ払って、鎌がカメックスの首を狙う。ナツキは瞬間、フッと笑みを浮かべた。
「そうよね」
顔を伏せたままのカメックスの腕がすっと上げられ、鎌を掴んだ。空気を裂いていた鎌の一撃を、カメックスは片手で止めた。刹那、カメックスへと覆い被さるように砂煙がバッと舞い上がり、その姿を一瞬掻き消したが、カメックスは健在だった。ゆっくりと顔を上げる。その眼差しは戦う者の光を湛えていた。
「決めたんだった。チアキさんにも誓った。ここに来るまでに死した魂達にも。私は、もう――」
カメックスが腕を膨れ上がらせ、付け根から迸った水蒸気を鎧のように身に纏う。腕に水の鎧が装着され、カメックスは雄叫びを上げた。それに呼応するように、ナツキは現実の喉と、思惟を重ね合わせた。
「変わっている!」
轟と空気が震えると同時に、カメックスが掴んだ鎌へと亀裂が走った。ゲンガーが驚愕するかのように目を見開く。
直後、白い閃光が鎌を横切った。鎌が崩れ、通り過ぎた閃光がその姿を影の合間に現す。
「フレアドライブ」の白い炎を纏ったバシャーモだった。片手には「ブラストバーン」が凝縮した刀を提げている。
バシャーモが残像を引きながら、影の腕に乗り移り、伝ってゲンガーへと腕を振るい上げて猛進する。
ゲンガーは咄嗟に影の海からもう一本腕を突き上げた。黒い水の槍の影の腕がバシャーモに突き刺さりかける。
それを制するように、水の砲弾が槍の腕を弾き飛ばした。ゲンガーが赤い眼を向ける。カメックスが砲口から煙をなびかせて、そこに立っていた。忌々しげに鳴き声を上げ、ゲンガーが鎌だった腕をコンセントに変化させる。コンセントの腕が蛇のようにのたうち、カメックスへと突き刺さる前に、バシャーモの刀がゲンガー本体の額へと刀の切っ先を向ける。
ゲンガーは、止めか、回避かを迷い、迫られた挙句に、回避を選んだ。コンセントの腕から勢いが消え、ゲンガーの身体が影の海へと一瞬にして沈みかける。
――逃がすかよ。
感知野に響いた声に、ナツキはカメックスの目を向けた。フシギバナが足を踏み鳴らしている。足の裏から緑の波紋が地面を伝い、捲れ上がった地面から蛇のような何かが現れた。それは巨大な蔦だった。塵芥をも吸収し、巨大化した蔦がゲンガー本体へと纏わりつき、沈みかけた本体を引きずり出す。ゲンガーの影の身体の両手を縛り上げた蔦へと、影の海から発せられた影の刃が切り裂こうと空間を奔るが無意味な事だった。蔦に触れても、切り傷一つ負わせる事が出来ない。
――とっておきの技だ。フシギバナ、ハードプラント!
「ハードプラント」とは草タイプの持つ究極の技だった。「ハイドロカノン」、「ブラストバーン」に並ぶ攻撃力を備えている。今までのような細く脆い蔓ではない。巨体のポケモン二体分に相当する太さの蔦が次々と地面から上がり、ゲンガーを拘束していく。ゲンガーは瞳孔を収縮させ、ぐるぐると回転させながら影の腕へと攻撃を命じた。火炎放射器の腕が二本、躍り出て蔦を焼き切ろうとするが蔦にはまるで効果がなかった。表面が赤らむ事もない。
――言ったろ。とっておきだって。
リョウは右腕を差し出した。その腕が捩れ、亀裂が走っている。ナツキは思惟の声と眼でそれを見つめていた。
――リョウ……。
――右腕一本犠牲にすりゃ、フシギバナだって踏ん張ってくれるだろ。
――でも、そんな事、あなたのポケモンは……。
――望んじゃいないだろうって? だろうな。でもよ、それしか方法ないんだよ。
再び地面が捲れ上がり、蔦が三本舞い上がる。フシギバナの雄叫びに奮い立てられたかのように、脈動を額に感じた。どくんどくんと脈打つそれは、この状態でも熱を失う事はない。それどころかより強く、感じる。自身を突き上げる熱に任せ、ナツキは二体のポケモンに思惟を飛ばした。
カメックスが両足を踏ん張って、砲門を突き出す。全身から迸った水が砲口で螺旋を描き、加速する螺旋は体表の色をも奪っていく。黒い濁流は、しかし本当の意味では濁っていない。清らかなる心を持って、悪しき心を振り払う浄罪の砲だ。
バシャーモの全身から白い炎が迸り、炎の刀が巨大化する。それに従って地面から塵や埃が舞い上がり、渾然一体となった白い奔流が闇を引き裂いていく。それは受け継いだ魂だ。闇を断ち、その先にある光を導く紅蓮の剣。
ゲンガーの下半身が溶け、形状が変化する。影が弾け、現われたのは一対の翼を持つ戦闘機のような影の塊だった。そこから影の火炎が幾つもの筋となって吐き出される。
――逃げる気か!
リョウの声に被せるように、ナツキは叫んだ。
――逃がさない!
バシャーモが炎の刀を振り翳して地面から跳躍する。カメックスがゲンガーへと照準を合わせる。フシギバナが蔦をより強く絡めつかせ、ゲンガーを一秒でもその場に留まらせようとした。影の刃が再び海面から上がろうとする。その時、蔦を伝って、何かの影が躍り出た。リョウとナツキはそれぞれのポケモンでその姿を認める。
リーフィアだった。リョウの命令なしに、リーフィアが額の葉っぱの刃を展開させている。影の海へと飛び込み、今まさに形成されようとしている影の刃を流星のように断ち切った。代わりのように噴き出した影のマグマにリーフィアは晒され、泥のような衝撃波が広がり、視界の中を飛んでいった。
――リーフィア!
ゲンガーが裂けた口を開いて、哄笑を浴びせる。
勝ちだ、とでも言うように。
濁り、澱んだその声を断ち切るかのように、三体の声が同時に響いた。白と黒の光が巨大な力の奔流となって、カメックスとバシャーモから放たれる。その声に乗せるように、リョウとナツキは現実の声と思惟の声を重ね合わせた。
「「――三位一体!」」
究極の技が全て合わさり、敵を討つ技、「さんみいったい」。
ヘキサツールにも刻まれていないその名を叫んだのは無意識中の出来事だった。黒い砲と白い刀の光に押し潰されるように、ゲンガーの影が巨大な光のうねりの中へと集束し、小さな一粒となった。
その一粒の中に、リョウとナツキは人の深淵を見た。
全てを求めるが故に、全てから見放される人の姿。欲望の赴くがままに争い、何もかもを巻き込む人の業。人生という何本もの糸が複雑に絡まりあい、その行く先を見ようとナツキは手を伸ばした。
この影を裂いた光の先に、何があるのか。
何が待っているのか。
人の未来とは何だ?
ポケモンの未来とは何だ?
そのあるべき形へとナツキは光を掻き分けた。リョウの制止の声が背中にかかるが、構ってはいられなかった。闇と闇を掛け合わせれば、より深い暗闇に身を浸すわけではない。闇は光の始まりなのだ。指先が答えに触れかける。
全ての答えのある累乗の先へ。
それを目指すためならば、この個体の身体と魂など惜しくはない。ナツキの熱に駆られたような思いに、不意に差し込んだ声があった。
――それは違うよ。
その声に振り返る。浮かんでいたのはチアキの思惟だった。残留思念か、それとも本物のチアキなのか。判ずるような頭もなく、差し出された手をナツキは見つめた。
――帰ろう。お前には戻るべき場所がある。
帰るべき場所、と自身の中で反芻し、ナツキはたゆたう思惟の海の中にまだ入ってきていない魂達を見た。その中に自分という個体の身体はある。集団として、あるいは個として存在する自己を繋ぎ止めるのは、他者に他ならない。他者の存在に依拠しなれば、自己もありえないのだ。
――答えを求めるあまりに、先走りすぎるなよ。同じ歩調で歩めばいいんだ。生きているんだから。
その声に、ナツキはそっと手を重ねた。