第六章 四十七節「器、失いし者」
メインスクリーンに映し出されたコンディションは「後退」を示していた。
街一つ分の空中要塞が前面から補助用の推進剤を焚いて出来うる限り陸地から離れようとする。しかし、慣性のせいか、ほとんどカントーの陸を掠めている空中要塞はちょっとやそっとでは海上には戻れなかった。
元より、罪も何もかもを洗い流して戻れる気などさらさらないと指揮官は頭に言い聞かせる。カイヘン地方からしても、カントーからしても自分達はテロリストだ。それも集団の意思ではなく個人の怨念に操られるだけ操られた道化である。道化の行き着く先は何だ? と胸中に問い返した指揮官は顔を振り向けたイタクラが声を上げたのに気づかなかった。
「指揮官。今のところ、カントー政府からの公式声明はありません。我々の立場は、どうなっているのでしょうか?」
その言葉が染み渡らずに、指揮官はぼんやりとメインスクリーンに視線を投じ続ける。不審に思ったのか、フクトクが「指揮官!」と柄にもない大声を出した。それでようやく気づいた指揮官は、「ん? おお」と寝ぼけたような声を出す。
「どうした?」
「カントーからの声明がないんですよ。我々の処遇がどうなるのだろうか、という話なんですが、聞いても無駄でしたか?」
口をへの字にした指揮官は苦い顔をした。顎に手を添えながら、「そうさなぁ」と口を開く。だが、何も考えてはいなかった。目的を失った組織の指揮は、想像以上に魂を削るものだ。ロケット団ならば、再興したロケット団員達が、胸を張って日の下を歩くという目的があった。しかし、私怨で動いていたに過ぎないヘキサにはそれがなく、夢から醒めた時のように思考の纏まりがつかないのは、目的を失った身体を持て余しているからに他ならないからであった。現場の指揮を預かる者として、命を預かる者としての責任というものならばある。だが、その責任もどこか押し付けられたように感じられて、指揮官は口を閉ざした。どうあるべきか。取りとめのない思考に塗り固められかけた脳へと、突然、叩き起こすようなアラームが鳴り響いた。
「警報?」と呻いたイタクラが座席を戻し、コンソールに向き合う。フクトクもキーを叩いて発信源の特定を急いでいた。指揮官が一拍遅れて声を上げる。
「何の警報だ? どこから?」
纏っていない質問に、団員達が言葉を返した。
「前方より、高熱源反応! 来ます!」
言うや否や、ブリッジを激震が見舞った。明らかにブリッジと機関部を狙った攻撃に指揮官はずり落ちかけた身体を留めるように肘掛を強く握った。
「複数の熱源を感知。メインスクリーンに最大望遠で出します!」
その声と共に、メインスクリーンに映し出された光景に指揮官は絶句した。数十体のドラゴンタイプのポケモンが空を舞っている。カイリュー、ボーマンダ、フライゴンなど見知った姿だけではない。長い首を持ち、両手もまた首となっている龍が黒い身体を広げて他のドラゴンタイプと同じように飛んでくる。紫と黒、青など暗色を基調とした邪龍としか形容しようがないポケモンが、これも数体だが三対の黒い翼をはためかせて向かってくる。ドラゴン・悪タイプのポケモン、サザンドラだった。空を埋め尽くさんばかりの無数のドラゴンタイプに団員達は気圧されたように言葉をなくした。
「これは……」と声を発しかけたその時、またも警報が響き渡った。
「今度は何だ?」
冴え渡った頭で指揮官の声を振り向ける。団員の一人がレーダーに視点を落として叫び返した。
「接近警報! 後方の海上から何かが来ます!」
「何か、だと」
曖昧な言葉の意味を噛み締める間もなく、またもブリッジが揺れ動く。イタクラがキーを叩き、「定点カメラで確認します!」とメインスクリーンに後方に位置するカメラの映像を呼び出す。それと同時に「推進装置に被弾!」という声が弾け飛んだ。推進装置のある後方へと思わず振り返りそうになって、「映像、出ます」という声に前へと顔を向けた。
そこにあったのは巨大な氷の手だった。海上から伸びた氷で構築された手のようなものが推進装置を覆いつくしているのだ。
「……何だ、これは」
茫然自失で呟いた声に、団員から言葉が飛ぶ。
「不明です! しかし、これでは下がる事も」
「推進剤を噴かして融かせ!」
「やってます!」とすぐさま返ってきた声に、指揮官は先程まで寝ぼけていたようになっていた顔を拭った。代わりのように嫌な汗が滲み出ている。前方から飛来するドラゴンタイプと退路を塞ぐ氷の手。何かが起こっているのは疑いようもなかった。
「これだけの事をやってのける戦力など……」
その言葉尻を引き継ぐように、メインスクリーンの映像が乱れた。砂嵐を発生させたメインスクリーンが暫時の沈黙の後に、中年の男の顔を映し出す。その男の顔には見覚えがあった。カントー政府の中枢にいる議員の顔だ。議員は重々しく口火を切った。
『こんな形になってしまって本当に残念です。ヘキサの諸君』
呼びかける声に指揮官は狼狽を隠せずに尋ねた。
「この通信はどうなっている。直通なのか?」
「広域通信です。カントー全域に放送されている模様。しかし、こちらの通信網はジャックされています」
『本日明朝、カントー政府はイージス艦二隻を失いました。他ならぬヘキサの手で、乗組員百名以上の尊い命が消えました。これについて、カントー政府は持てる戦力の全てを投入し、ヘキサを根絶する事を宣言いたします』
ヘキサ根絶。予想できた事とはいえ、目の前に突きつけられた言葉に身体が思うように動かず、イタクラがメインスクリーンを見やって「何故、今更……」と当然の言葉を発した。
「カントーは、きっと嘗めていたんですよ。それで今になって躍起になった。そうとしか思えない。この宣言はあまりにも遅すぎる。または、保険を使う気になったか」
保険、という言葉に先程までメインスクリーンを埋めていたドラゴンタイプの姿が過ぎる。全て仕組まれていたのか。こちらからイージス艦を沈める事も。その後の報復攻撃も。
「カントーは今まで後手後手に回って来ている。今回は、後手に回ると見せかけてとんだスケープゴートを差し向けられたというわけですか。同じ人間を、何と思ってやがるんだ」
フクトクの怒りを滲ませた声に、指揮官は軽い眩暈を覚えた。自分達もまた人間爆弾を使っている。文句は言えそうにない。そして、カントー側はその事実を知らない。その事が急に恐怖となって指先から這い上がってきた。カントー政府はフワライド全てをヘキサの戦力として迎撃する。
「いけない。市民を戻すんだ」
考えて発した言葉ではなかったが、団員達も懸念していたらしい。ヘッドセットを持った団員がすぐさま呼びかけるが、通信網がジャックされているのならばそれさえも伝わるかどうか分からなかった。それに市民は通信手段があるのか。
『テロリストを野放しには出来ません。カントーは軍を保有しませんが、特例として四天王が率先して事態の収拾に乗り出します』
「これが、事態の収拾というわけか」
呻いた声に、指揮官はカントーだけが嘗めていたわけではないと痛感した。ヘキサもまた、カントーを嘗めていた。兵力を集中させるといっても、カントー及びジョウトは海に囲まれ他国からの侵略行為をほとんど受けた事のない地域だ。内々のいざこざは慣れっこかもしれないが、外からには脆い。そう思っていたのがそもそもの間違いだったのだ。カントーは思った以上に過剰反応していた。四天王を差し向けて、空中要塞を沈めるつもりなのは明白だった。
「戦時特例をちらつかせて、一時的に軍を保有するわけですか」
吐き捨てるように言ったイタクラはメインスクリーンに映る中年の議員の顔を睨み据えた。指揮官は漠然と、この中年の考えた事ではない、と感じた。恐らくはもっとリベラルな誰かの発案だろう。この事態を客観的に眺めつつも最終的な利益を得ようとする誰か。すぐには思い当たる顔が出てこずに、指揮官は振り切るように手を振り翳した。
「通信を切ってメインスクリーンに敵を映し出せ。全レーダー、熱源などの感知の網を張り巡らせろ。空対空戦闘準備。出来る限り、市民には呼びかけ続けるんだ」
「しかし、指揮官。人工破壊光線の砲身は左右あわせても残り三発です。防ぎきれるかどうか……」
不安を漂わせたブリッジの空気に指揮官は言葉を飲み下した。今の空中要塞ではそう長くは持たない。だが、アスカやフランなどの若い意思が今もこの上で戦っているはずだった。市民を守り、若い意思を未来に繋げる。両方やるのは困難かもしれない。しかし、やらねばどうする? もはや退路も防がれた身に、ロケット団の矜持が蘇り、指揮官は顔を上げて声を腹腔から張り上げた。
「不安は後にしろ! 我々には守るべき責務があるのだ!」
堅苦しい言い分かもしれない。それでも、「了解」と続く復誦を聞いて指揮官はまだ通じる部分もあると自身に言い聞かせた。
メインスクリーン上のドラゴンタイプが翼をはためかせ、空気の尾を引いて向かってくる。来るならば来い、と指揮官は腹に力を込めた。
「今、ですか。……はい。ありがとうございます。これからのカイヘンの発展のために助力いただければ幸いです。……はい。これからもどうか」
使った事のない言葉遣いで電話をしているハコベラを見やり、秘書官は眉根を寄せた。遠く海上に目をやるが、もうタリハシティは見えない。
『それはいいんだ。ただし、この件についてカイヘンは責任を負わねばならない。分かっているね』
有無を言わさぬ口調が電話口から聞こえ、秘書官は背筋を寒くした。ハコベラは低姿勢でそれに応じているが、彼が柄にもなくハンカチを持ってしきりに額の汗を拭っているのを見ると、らしくないという感情が湧いてくる。彼にとっても緊張する相手とはどのような相手なのか。興味はあったが、軽々しく聞くのは憚られる気がした。
「我々といたしましては、今回のヘキサの一件は全てカイヘンの責任だと思っております。それだけに事態の収拾をカントーに委譲しなければならなかったのは心が痛みます」
本心なのだろうか。それともまた偽りか。ハコベラは読めない笑顔を浮かべている。しばらく同じような口上が述べられた後に、ハコベラは携帯端末の通信を切った。途端に無表情になったハコベラは「参ったね」と言った。
「カントーはこの一件を大きくするつもりだ。貸しだと、こうもはっきりと言われれば逆に清々しささえ感じるが、これから先、何が起こるかは分からない」
「それはチャンピオンでも止められないのでしょうか」
「止められないだろうね。チャンピオンが僕でなくなっても同じ事だ。中堅議員辺りがこの椅子を狙ってくるかもしれない。誰であろうと同じ事さ。カイヘン地方は暗黒時代を迎える事になる。予想出来るのはカントーによる独立治安維持部隊の創設、軍の配備、警察勢力の強化。今までディルファンスに丸投げしていた部分が全てカントーに挿げ変わるだろう。カントーの属国を選んだわけさ」
チャンピオン自らの苦渋の選択だったのだろう。秘書官はそうと信じたかった。全て計算通りだとすれば、ヘキサの首領とハコベラの意思だけで回っていた事になる。民意などない。これでは独裁と同じではないか。そんな心境を知ってか知らずか、ハコベラは秘書官へと振り返らずに言葉だけを投げた。
「この一件が片付いたら、旅行にでも行こう。シンオウがいい。あそこは少し寒いから、厚着をしていかないとね。君はスノースポーツが得意そうだ」
「誰も、行くとは申していませんが」
秘書官の言葉にハコベラは息をついてから、「だろうね」と呟いた。彼自身、この数時間で少しやつれたように見えるのは気のせいだろうか。チャンピオンという重責を今までまるで感じさせなかった青年の横顔ではなかった。飄々とした空気は失せ、どこか退廃的な気配すら漂わせる。
「君は正直者だ」
ハコベラの言葉に秘書官は無言を返事にした。気にせずハコベラは続ける。
「そして、誰よりも正しい在り方を模索しようとしている。僕よりも政治家に向いている。……でも、誰かがいないと生きていけない」
ハコベラは振り返り、携帯端末を持った手を向けて「違う?」と尋ねた。秘書官はいつも通りの返答を寄越す。
「違いませんね」
「だろう。僕の人物分析は当たるんだ」
ハコベラは少し笑ったが今までのような笑い方ではなかった。どこか諦念の混じった笑みはこの青年には似つかわしくなかった。ハコベラは海の向こうを見やる。その眼が見据えているのは、タリハシティか、カントーか、それともカイヘンの未来か。どれも別々のようで繋がっている事柄だ。きっと一つではないのだろう。
「傍観者には傍観者なりのやり方というものがある」
ハコベラはそう言って少し歩いた後に、不意にその場に座り込んだ。秘書官がぎょっとしていると、「君も座りなよ」とハコベラは肩越しに声をかけた。
「芝生だから汚いわけじゃない」
いつも革製の椅子に座っている人間が芝生に座って、海を眺めている。ようやくこの青年は人並みの視点に立てたのかもしれない。そう思うと、秘書官は同じようにハコベラの横に座った。同じ目線にいても彼の見ているものは分からない。彼はもしかしたらそのずれにいつも悩んでいたのかもしれなかった。ずれているが故にチャンピオンになり、今までうまく立ち回ってこられた。それがここに来て、どこへ行けばいいのか分からない迷子になっているのかもしれなかった。いつでも人より高い視点にいたせいで、急に地面に立つとどこにいるのかも分からなくなった迷子へと、秘書官はそっと口を開いた。
「行きましょうか、シンオウ」
海を眺めたままそう言うと、ハコベラは「うん」と頷いたまま余計な言葉を発する事はなかった。その手へと自身の手を重ねる。きっと誰とも触れ合わずにここまで来たのだろう。ならば、これから彼の行く道を導くのは自分なのだ。その手が思いのほか冷たいのを感じ、秘書官は強く握り締めた。王の器を無くした青年は遠い眼差しを海の向こうへと投げていた。