ポケットモンスターHEXA - グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 四十六節「最後の戦い」
 汗が頬を伝い、顎へと滴り落ちる。

 渇きを訴える喉がひりつくように痛い。上げた右手を下ろすと、もう何も感じなくなっていた。瞬きをして、視界の接続を確かめる。四分割された視界の内、上半分が掻き消えていた。下の内、半分の自分の視界で目の前を確かめる。

 ゲンガーの眉間に孔が開き、反対側の景色が見えていた。フワライドの群れが「ソーラービーム」で穿った孔に見える。リョウは息も絶え絶えに、喉の奥から声を搾り出した。

「……当たった」

 まともに攻撃が当たったのは初めてだ。しかも眉間を突き抜けている。ルイへと視点を落とす。上半分の視界が砂嵐のように乱れるが、徐々に回復していった。その視界の中に、ゲンガーへと振り返ったルイの姿が映る。ルイの眉間には今のところ孔が開いていない。か細く、ルイはゲンガーを呼んだ。ゲンガーは硬直したまま動かなかった。頭蓋を貫通する攻撃を放たれればほとんどのポケモンは即死だ。しかしガス状のポケモンに頭蓋など関係あるのか。だが、動けない今が好機ではあった。リョウは荒い息をつきながら後ずさる。まだゲンガーが死んでいないのならば、死の淵へと連れて行くまでだった。フシギバナと接続していた視界を解除する。同調の解除は視神経が焼け爛れるような痛みを感じさせた。眼が抉れれば、このような痛みを味わうのかもしれない。繋がっている右目を左手で覆う。右腕は最後の力を使い尽くしたかのようにだらんと下がって動く気配がない。リョウは後方へと思惟を飛ばした。この状況で使うポケモンは一体しかない。

「レジギガス。そろそろ身体が温まってきたんじゃねぇか?」

 レジギガスが、オォンと遠吠えのような呻り声を上げ、その身から煙を迸らせる。関節部を接合する筋肉が盛り上がり、レジギガスは両腕を交差させて四肢を広げた。瞬間、空中要塞を激震する雄叫びが轟く。レジギガスが遂に「スロースタート」の束縛から解かれたのだ。先程身に食らっていた毒突きの影の手を引っ張り込むと、ルイはゲンガーごと前につんのめった。ルイを引きずって動かないゲンガーの身体がレジギガスに引き込まれる。リョウは「傷つけるなよ」と声を上げた。

「ルイは傷つけるな。ゲンガーだけを引き込むんだ」

 左手を剥がすと、レジギガスの見ている風景と同一化していた。ルイが視界の中で苦しげに呻き、目の端に涙を溜めて「……ゲンガー」と呼ぶ。しかし、ゲンガーは応答しなかった。遂にゲンガーを殺せた。その喜びが突き抜け、レジギガスがさらに力を込める。ルイの身体が引きずられ、むき出しの腕にすり傷を負った。

「制御し切れねぇ。仕方がないか」

 レジギガスの思考の奔流が頭に流れ込んでくる。力の意志だった。「スロースタート」の特性も影響しているのだろう。束縛の解けたレジギガスは猛獣そのものだった。シンオウの伝説にあった通りならば、しかしそれなりの力は持っているはずだ。レジギガスがゲンガーの身体を掴む。しかし、ゴーストタイプにノーマルは触れられない。相手からの他属性攻撃以外では、だ。

「もう一度、操ってやる」

 右肩に力を込める。相変わらず右腕は上がる気配がなかったが、右手は辛うじて動いた。右手を内側へと捻りこむ。すると、ゲンガーの赤い眼に反応の兆しが浮かんだ。腹が裂け、内側から影の手が放たれる。

「全て、毒タイプの技、毒突きにしてある。掴めるだろう」

 レジギガスは影の手を巨大な手で鷲掴みした。ルイが短く悲鳴を上げ、腹を押さえる。痛いのだろうか。顔を苦痛に歪めている。

「……でも、すぐに終わるから。待っていてくれ、ルイ」

 レジギガスが毒の手を引っ張り、無理やり引き剥がそうとする。ルイが身の裂けるような悲鳴を上げた。しかし、リョウの感知野はそれを意図的に拾おうとしなかった。悲鳴は次への糧となる。ルイが幸せになるためには多少の痛みは仕方がない。それよりもレジギガスから送られてくる思念で脳内がパンクしそうだった。力が命じる。もっと壊せ。もっと何もかもを滅茶苦茶にしてしまえ、と。

 レジギガスが両手で手を引っ張りこもうとする。影の手はそれこそ内臓のようにゲンガーから溢れ出していた。ルイが痛みでのた打ち回る。

 ――視えない。

 リョウの視界はゲンガーと対峙するレジギガスの視点へと完全に切り替わっていた。目の前にいるのは敵だ。ルイを犯し、キシベの放った最後の敵。これを倒さなければ故郷のカントーが消える。ルイも消えてしまう。レジギガスの視界と同一化しているせいか、視界が赤く染まっていく。赤い眼がレジギガス越しに自分を睨む。

「世界の敵が!」

 その顔を踏みつけ、レジギガスの腕力で引き裂こうとする。レジギガスの腕には黒い靄がかかっていた。ゴーストタイプならば、ゴーストに触れる事が出来る。レジギガスは異様な形状へと変化していた。身体が波打ち、背面が逆立つ。木々が枯れ、白い身体が淀んでいく。どんなポケモンにも変身出来るのならば最初からこうすればよかったではないか。

「俺は馬鹿だったのか? そうだ、全てのポケモンになれるのならば、全てのポケモンになればいい。固定観念に縛られる必要なんてない」

 図鑑を持つ手に喜びが走る。

 レジギガスの身体はそのままに、様々なポケモンの特徴を合わせた異形へと変化していた。肩から鳥ポケモンの嘴が伸び、白かった体色が赤黒く変化していく。片腕がどろどろに崩れ、膝頭が裂けて龍の口と化した。逆立った背中から触手が伸び、ぬめぬめとした身体がてかった。顔に開いている無数の穴から様々なポケモン達の眼が覗く。赤い六つの眼も崩れ、眼球が浮き出ていた。腕にぴしりと亀裂が走り、そこから鉤爪と鋼の爪を有した手が二本生えてくる。今のレジギガスはもはやその身体を失いつつあった。レジギガスと呼ぶのも憚られる奇形のポケモンはリョウの思惟を受けて凶暴な叫びを上げる。特性もごちゃ混ぜになり、頭に流れ込んでくる意思も複数の思考の混合体だった。

 みしみしと頭が蝕まれる感覚が逆に心地いい。

 全て、ポケモンの力の赴くままに任せる。

 リョウは快楽物質が分泌されている脳内で実感した。これがヘキサツールの真の力なのだと。

 奇形のポケモンがゲンガーの腕を引きずり出し、次に頭を掴んだ。地面が捲れ上がり、奇形のポケモンから怨嗟の声が発せられる。もっとだ、もっと破壊に身を任せろ、と。リョウはありったけの思惟を送り込んだ。影に亀裂が走る。もうすぐルイを解放出来る。至上の喜びがリョウを満たそうとした。その時である。

 鋭い思惟がプレッシャーの刃となって空間を走り抜けた。馴染みのある感覚に、知っているという一語を出す前に、プレッシャーが言葉を伴う。

 ――ハイドロポンプ!

 奇形のポケモンを背後から水の砲弾が打ち据えた。背中へと鉄球をぶつけられたかのような痛みが走る。際限なく打ち付ける水の砲弾にリョウは呻き、よろめいた。奇形のポケモンがゲンガーから手を離し、振り返る。視界に映った集団に、リョウは息を呑んだ。ナツキが先行し、「ハイドロポンプ」を発射するカメックスとバシャーモが追随する。その後ろから制服もバラバラな集団が駆けてきた。ディルファンスにヘキサであるはずの人間も混じっている。どういう事なのか、整理がつかずにその脳内へと声が振りかけられる。

 ――今のリョウは我を忘れている。同調を解いて。そのポケモンは危険なのよ。

 ナツキの声が傲慢に自分の中へと入ってくる。リョウは今にも割れそうな頭を押さえて、獣のように呻いて仰け反った。

「何が判る! 判った風な口を利いて……!」

 同調を経験したナツキから呑まれるという感覚の事は聞いていた。しかし、自分が呑まれるはずがない。ナツキよりトレーナーとしての実力が上であり、何よりもルイを大切に思っている自分が。

 ――リョウ。今のあなたは視界が狭い。見たくないものから目を背けている。メタモンの変身を解いて。その姿は災厄を招く。

 ――リョウ君! そのポケモンは……。

 ――リョウ! 目を覚ませよ!

 博士とサキの理路騒然としない声が続き、他の集団の声も割り込んでくる。誰も彼も、リョウの中へと無遠慮に分け入ってくる。リョウは頭を振り、喉を焼けつくすように叫んだ。

「うるさい! うるさいんだよ! ようやくこの力を得たんだ。ルイを救える力を! 邪魔するんなら、お前らも!」

 奇形のポケモンが腕を上げる。瞬間、腕から鳥ポケモンの嘴が飛び出した。空間を走り、博士達へと迫ろうとした槍の勢いを持つ嘴を、カメックスが立ちはだかり両手で受け止めた。カメックスが脚の付け根から蒸気を噴出し、衝撃を殺す。この程度のポケモンとトレーナーに止められる事に、リョウの自尊心が爆発した。

 この程度ではルイは救えない。

 ルイを救うにはもっと強くあらねばならない。

 奇形のポケモンがリョウの思惟に反応し、もう一本の腕を振るい上げる。肘から伸びて拡張した二本の腕が絡まりあい、泡のように膨れ上がって、巨大な手として彼らの天上に覆い被さろうとした。その手を受け止めたのは横から滑り込んだバシャーモだった。足首と手首から炎を迸らせ、巨大な腕を渾身の力で受け止める。その二体ともにナツキの思惟を感じた。

「……ナツキが、二体とも操っているのか」

 驚愕よりも、いつの間にか下になってしまった屈辱が勝り、リョウは憎悪に濁った視界の中でカメックスとバシャーモを見据えた。奇形のポケモンが片腕を振り払う。カメックスが受け止めていた嘴の軌道が逸れ、カメックスごと持ち上げた。レジギガスの腕力はまだ生きている。カメックスの腹部へと嘴が食い込む。確かに肉を抉った感触が伝わったが、カメックスの眼から闘志は消えなかった。砲門を奇形のポケモンに向け、水の砲弾を矢継ぎ早に繰り出す。胴体へと直撃した砲弾に、奇形のポケモンはよろめいた。一瞬、砲弾の蒸気で視界が遮られる。

「ちょこざいな! そんな技で!」

 嘴の腕を力の限り振り上げる。カメックスの巨躯が舞い上がった。嘴を一度戻し、もう一度無防備な空中のカメックスを貫こうと狙いを定めかけて、反対側の腕に走った痛みに顔をしかめた。白い炎を全身に纏ったバシャーモが片手から迸らせた炎で何かを形成していた。波打っていた炎が和らぎ、その全貌を現す。それは刀だった。巨大な腕を切りつけて一瞬引き剥がしたかと思うと、両腕で握って振るい上げた刀が腕へと突き刺さり、返す刀で切り裂いた。断面から煙を棚引かせた腕が転げ落ちる。

 バシャーモは目視出来ない速度で掻き消えた。どこに、と探す前に眼前に現れたバシャーモの足裏が大写しになる。

 奇形のポケモンでは避ける間もなかった。直線に放たれた蹴りが胴体に食い込み、奇形のポケモンは地面へと身体をしこたま打ちつけた。鈍い痛みと腹部から同心円状に広がった痛みが相乗して、今にも視界が閉じそうになる。僅かに顔を上げると、片手に炎の刀が握られていた。その刀で切りつければけりがついたのに、そうしなかった。嘗められている、という感情に思考が赤黒く染まっていく。

 全身から蒸気を噴射して着地したカメックスが砲門をこちらへと向けていた。詰みだ、とでも言うように。

 ――リョウ。もう一度言う。そのポケモンとの同調を解いて。それは危険よ。

 弾けたナツキの声に意識が食い潰されそうになる。

「冗談、じゃない。ここで退けば、ルイを助ける力が――」

 腕をゆらりと振り上げ、もう一度身体を起こそうとすると、その腕に何かが絡みついた。そちらへと視線を向ける。

 フシギバナだった。蔓の鞭で自分の腕を縛っていた。フシギバナの傍らにはリーフィアやオオスバメ、マルマインが自分を見つめている。その眼差しに宿る感情を感知野が読み取った。「哀しい」だった。

「……何だよ。哀れんでんじゃねぇよ!」

 叫びと連動したように蔓の絡まった腕が溶解し、新たな形状を出現させた。三つの鋼の爪だ。それが噛み合い、ドリルになって回転する。

 蔓を断ち切った奇形のポケモンは背中から脚を生やし、俄かに立ち上がった。その容積を支えるには二本の脚では不充分だった。

 肘から生えていた腕を嘴の生えている腕で切断する。血が迸る前に、傷口が泡立って塞がった。片腕にドリルを、もう片腕からは嘴の刃を備えており、四肢を開くと奇形のポケモンは轟と空気を震わせて鳴いた。

 そのあり方はもはやポケモンとは言い難かった。だが、何とも言えない。この地上に生まれ出てはいけない存在だったが、当のリョウにはそんな意識はなかった。今すぐにナツキを叩き潰し、ルイを救わねばならない。その一心だった。その時、アスカとフランが歩み出て二人同時に手の中のボールを開いた。中から現れたのは緑色の細い体躯のポケモンだった。片方が尖ったフォルムなのに対して、片方は柔らかな立ち姿だった。エルレイドとサーナイトだ。サーナイトの眼が蒼く輝く。アスカの眼もそれに追随するように蒼くなり、感知野を騒がせる声が響いた。

 ――リョウ君、と言ったわね。あなたは間違っている。そんな形でルイさんが救われて、喜ぶと思っているの?

 脳髄に差し込まれる声がわんわんと鳴り響き、リョウは頭を抱えた。

「人の中に初対面でずけずけと……! お前ら全員で、俺を否定しようって言うのかよ!」

 サーナイトがずいと前に出る。エルレイドとフランが惑うような挙動を見せたが、カメックスが手で制し、バシャーモがサーナイトを守る騎士のように付き従った。サーナイトが青い光を身体から発し、前面で円形に固まっていく。

 リョウは怒りと憎しみを奇形のポケモンへと流し込んだ。

 リョウの感情を吸い上げて、奇形のポケモンが天に向かって嘴を発射する。嘴は幾何学的な軌道を描いてサーナイトへと空気を裂いて突き進んだ。バシャーモが躍り出て、片手で嘴へと繋がっている触手を掴む。奇形のポケモンは背中から蒸気を噴射し、ドリルの片手を突き出した。空気を巻き込んで回転するドリルの音が鳴り響く。バシャーモが歩み出ようとするが、嘴の腕を振るうとその手に引っ張りこまれるようにバシャーモは体勢を崩した。大陸を引っ張った膂力は伊達ではない。そのままバシャーモを引きずり、手を振るい上げる。バシャーモの身体が浮き上がった。刀を振り上げて触手を斬ろうとするが既に遅い。

「射程距離だ!」

 ドリルが凶暴な回転音を響かせ、今にもサーナイトを貫かんとした、その時だった。サーナイトの前面で構成されていた青い光が一際強い輝きを放った。覚えずドリルを止めて、その動きを見やる。反射攻撃か、と身構えた眼に映ったのは、磨き上げられた鏡面だった。ドリルの先端が突き刺さっているが、何も反射されない。ただの鏡だ。しかし、そこに映っているのは――。

 ――自分の姿を見なさい。

 アスカの声が脳に響き、リョウはそこに映った姿を凝視した。そこにあるのはどのポケモンにも分類されない異形の存在だった。顔の穴から無数のポケモンの眼が覗き、赤い眼が溶けて眼球が今にも転がり落ちそうになっている。肩が裂け、様々なポケモンの意匠がごっちゃになった頭が突き出している。膝頭がドラゴンタイプのポケモンの口になっており、全身が赤黒く濁っていた。

「……これが、俺、だと?」

 ――今のあなたは力への探求を焦るあまりに何も見えなくなっている。目を凝らしなさい。ナツキさんも、皆、あなたの事を心配しているのよ。

「……ナツキ。皆……」

 ナツキ達へと目をやる。先程まで強烈な否定の意思しか感じられなかった集団が今はただただ自分の身を案じてくれていただけだと判った。空中で嘴を切り裂いたバシャーモが傍らに降り立つ。よくよく目を凝らせば、敵意など微塵にもない。敵意を振り撒いていたのは、自分のほうだった。自身のポケモン達へと視線を送る。今なら、感知野で彼らの思いも伝わってくる。どうして「哀しい」と感じたか。主人が変わってしまう事は、間違った道に進んでしまう事は当然、哀しいだろう。当たり前の感情だった。

 アスカが呻き声を上げて蹲る。ハッとしてリョウは手を引いた。ドリルの先端がサーナイトの腹部に突き刺さっていた。フランが歩み寄り、傷の程を確かめている。リョウはいやいやをするように、首を振った。

「俺は。……そんな、俺は……」

 感知野が僅かな声を拾う。そちらへとリョウは奇形のポケモンの眼で振り向いた。ルイが仰向けに倒れていた。全てを抜き取られたように虚ろな目をしている。ゲンガーの身体には亀裂が走り、赤黒い血が漏れ出ていた。ゲンガーの傷口がルイにも及び、ルイの身体も生傷だらけだった。傾いだ顔の眼がリョウを見つめ、「どうして」と言葉を搾り出して血の涙を流した。

 その瞬間、リョウの理性が弾け飛んだ。極大化した感知野が崩壊し、ヘキサツールを組み込んだメタモンとの繋がりがぶちぶちと音を立てて切れていく。

 神経を引きずり出される痛みに似た鋭敏な感覚が全身を貫き、強制的に小さな身体に意識を戻されたリョウはそのまま倒れそうになった。それを素早く駆け寄ったバシャーモが抱きとめる。バシャーモの身からはもう白い炎は上がっていなかった。敵意など感じられない。ナツキの温かみを移した手に、冷たくなってしまった自身の手を重ね合わせた。

 メタモンは形状を維持できなくなったのか。虹色に身体が変化したかと思うと、どろりと溶け出した。

 元の紫色のメタモンの姿へと戻ると同時に、異物を排出するようにその身から何かが吐き出された。小さな四角い板だ。ヘキサツールである事は容易に知れた。もうメタモンは変身可能な回数を超過したのだ。メタモンは本物の水溜りのように力なくその場に蹲った。駆け寄ってきたナツキ達がリョウを見やる。リョウは口元に自嘲の笑みを浮かべた。

「ヘキサツールの力に呑まれた、か。……軽蔑しただろ?」

「誰だって、一度は力に呑まれる。本当に大切なのは、呑まれても自分の意思を失わない事。そうすればいつだって、信頼関係は取り戻せる。この世に、完全に修復不可能な関係性なんてないから」

「……誰だって分かり合える、か」

 理想論だよ、と切り捨てる事も出来ずにリョウは俯いた。バシャーモがここにいるという事は、ナツキはチアキと戦い、分かり合ったのだろう。博士もサキもマコも、アスカとフランも全員が決着をつけていたのだ。自分だけ引き延ばして醜態を晒してしまった。恥ずかしさよりも申し訳なさが先に立ち、リョウは「すまない」と呟いた。

「功を焦るあまり、俺は――」

「気にかける必要はない。リョウ君」

 博士が歩み出て、リョウの肩を掴んだ。リョウはどこか夢見心地に博士の顔を見やった。博士はリョウの眼をしっかりと見据えて、一言だけ言った。

「よくやってくれた」

 それだけで救われた気分だった。間違っていると言ってくれたほうが、気が楽かもしれない。だが、それを言わなかったのは博士なりの戒めのつもりなのだろう。誰だって間違いを犯す。それに気づけるかどうかなのだ。リョウは声もなく、熱いものが頬を伝うのを止められなかった。これだけの人に心配をかけてしまった。いや、今までだってそうだったのかもしれない。独りだと、ずっと感じていた。それが余計に孤独を深める道だとも知らずに。見渡せば、こうも世界は明るいのに、自分から暗いほうへと行ってしまっていた。

「ありがとう、博士。皆も」

 嗚咽が混じりながらも口にする。全員、どこか安堵したように息をついた。サキが「本当だぞ。はた迷惑な奴だな」と憎まれ口を叩く。こういう時でもそう言ってくれるのが逆にありがたく、リョウは「感謝してる」とサキの目を見て言った。サキは面食らったように目を見開いてから、「……まぁ、受け取ってやらんでもない」と顔を逸らした。その様子にマコが笑いを堪える。それを察したサキがマコへと睨みを飛ばした。

「馬鹿マコ。私を馬鹿にしているな?」

「し、してないよ。ただ、可愛いなぁって」

「それが馬鹿にしていると言ってるんだよ!」

 マコの脳天へとチョップがかまされる。マコが頭を押さえて、「痛いよー!」と喚いた。サキは憮然とした態度で腕を組んだ。こんな時でも、誰も責めずいつも通りの光景が展開される。これがどれほどに得がたいものなのか。間違った身には染み渡った。

 笑顔を浮かべようとしたその時、突き上げてくるプレッシャーの波にその場にいた全員が笑顔を掻き消し、戦闘の光を眼に湛えた。

「――来る。でも、この状況で誰が?」

 ナツキの言葉にリョウはまだ呆然とした身体を引きずり、周囲を目視で見渡すしか出来ない。同調は失敗したばかりで使いたくなかった。自分の眼で現実を見つめる。すると、視界の端に黒い糸が垂れているのが見えた。その糸はメタモンへと続いていた。どこから伸びている? と糸を辿っていく。それはゲンガーからだった。リョウは一も二もなく叫んでいた。

「皆、見ろ!」

 指差して全員が視線を向けた瞬間、糸は落ちていた何かを先端で包んだ。メタモンの近くに落ちていたものならば判る。

「ヘキサツールを、取り込んだのか」

 博士の重々しい声に、誰もが息を呑んだ。何が起こるのか。未調整のポケモンであれだけの戦闘能力を顕現させたのだ。ならば、ヘキサツールを組み込む事が前提とされているポケモンならば何が起こるというのか。

 ゲンガーの亀裂が見ている端から綺麗に塞がっていく。身を起こしたゲンガーはルイの身体を引き上げたかと思うと、口角を吊り上げて嗤った。瞬間、ルイが前に投げ出された。

「バシャーモ!」と命じた声に、瞬間移動を思わせる速度で駆けたバシャーモがルイの身体を抱きとめる。見れば、ルイの影とゲンガーの影が断絶していた。ゲンガーはビルから射し込む影を吸い上げ、その身を二倍三倍と膨れ上がらせる。積乱雲のようなプレッシャーの圧が今にも身体を押し潰しかねない強さで圧し掛かる。これから何が起こるのか。誰にも予想がつかなかった。

 ただ一つ、ナツキが口にした。

「……これが最後の戦いになる」

 その言葉が頭の中に、重く暗く残響した。


オンドゥル大使 ( 2013/06/04(火) 21:47 )