第六章 四十五節「可能性が赴くもの」
密閉された中で血の臭いを嗅ぎ続けていたせいか、外の空気は思いのほか清涼だった。雨はもう上がっている。
それでもフワライドの浮く空には違いなく、博士は深く息をついた。先に地上に出たディルファンス構成員とアヤメは周囲へと注意を配っている。博士は抱えてきたノート型端末とゴーグルへと視線を落とした。これをまた使う時が来るのだろうか。来ないで欲しいと願いたいと思いながら、周囲を見渡し、背後へと振り返る。白亜の壁が眩しい百貨店だった。その一つに隠しエレベーターがあったのだ。下階から出なければ操作出来ない方式で、それにもこの端末が役立ってくれた。ビルの群れからどの地区にいるのか察知しようとしてもなかなかうまくはいかずに、博士は後頭部を掻いた。
「君達、ここがどの地区だか分かるか?」
全員が頭を振った。疲れた身では落胆を隠し切れず、博士は嘆息をついて顔を拭った。ペラップが「そろそろカントーに着く頃だな」と言葉を発する。予め録音したにしては精密なその言葉に、疑問を挟まないでもなかったが、適当にキシベが言ったのだろうと当たりをつけて博士は考えを打ち切った。
「何とかしてリョウ君へと追いつくんだ。彼が一番、苦戦しているだろうから」
「博士。サキはいいの? 自分の娘でしょう?」
アヤメの言葉に、見透かされているな、と博士は瞑目した。わざとサキの事は言わないでおいたのだ。私情が混じるからでもある。だが、それ以上に考えると冷静でいられる気がしなかった。本心では今すぐにでも捜しにいきたい。しかし、サキの実力とマコがいるのならばうまく立ち回って逃げる術ぐらいは心得ているはずだ。リョウは違う。彼は全てを受け止めようとしているに違いない。視界が遮られる一瞬前に見た影の刃。あれはゲンガーの「シャドークロー」だ。ルイを相手にして彼もまた冷静ではいられないはずだった。
「……どうして、こうも因果なのだろうな」
「え?」と顔を見返したアヤメから視線を逸らし、博士は思いを巡らせる。自分とキシベ、ナツキとチアキ、リョウとルイ、アスカとフラン、アヤノとエイタ。彼らは出会うべくして出会い、争う事など望んでいなかったはずだ。だというのに、こんな盤面で争い合わなければならない事が我が身の不実のように情けなく思えた。幾つかの戦いはもう決着はついただのだろう。因果を断ち切る事が出来たのだろうか。未来に因果を残す事はあってはならない。血塗られた場所でしか、それが消えないのは哀しいという感情以外浮かばなかった。他の方法は無かったのか、と考える自分もいて、それが余計に虚しい。
「博士。あれは……」
アヤメが声を振り向け、遥か先を指差す。博士は思考を中断し、そちらへと目を向けた。三人ほどの影だった。動きはとてもゆっくりだ。アヤメが肩に乗っていたエイパムに視線を送ると、エイパムが腕を伝って前に躍り出た。
「応戦するわ。もし、あれが敵ならね」
アヤメの言葉に、構成員達は身を強張らせ、各々のモンスターボールへと手を伸ばした。博士はまた血が流れるのか、とただ後ろで見ているしか出来なかった。その感情はどこか諦念すらあったのかもしれない。近づく影が明瞭になるにつれ、戦闘態勢に入った彼らの間にある緊張の糸が張り詰める。呼吸さえも殺して彼らは近づいてくる影を見据えていた。誰も戦闘に慣れていないのか。それとも人殺しにか、と思いかけた頭を揺さぶるように、出し抜けに声が放たれた。
「ディルファンスの制服だ」
一人が発した声に釣られるように、もう一人が言った。
「あれ、セルジさんじゃないか?」
ゆっくりと警戒を解いて、駆け寄ろうとする。人影の一つが手を振った。アヤメは動かず博士の前に立ったままだ。見ると、セルジと呼ばれた構成員は確かにディルファンスの制服を着ていた。彼が一人の少女に肩を貸している。もう一人は何かしら担がれている一人と言い争っていた。その声が博士にも届いてくる。
「大体、馬鹿マコはこれだから困るんだ。人影が見えたら、すぐに手を振る」
聞きなれた少女の声に博士も歩み寄ろうとした。アヤメが制するように手を伸ばす。しかし、もしそうだとしたら、と考えるといてもたってもいられなくなり、博士は駆け出していた。博士の姿を認めた少女が目を見開いて、「お父さん」と呟いた。
それはサキだった。血まみれだが、確かに生きている。博士はボロボロになった服を見て、白衣を脱ぎ捨てサキに被せた。サキは「ありがとう」と笑みを咲かせた。それだけで博士の心は救われた心地になった。後ろからついてきたアヤメが小言を言う。
「危機感がないわね。欺くための敵だったらどうするつもりだったのかしら」
いつもとは違う様子にサキが反応し、じっと見つめてから、「アヤノじゃないな」と言った。
「ご明察。私はアヤメ。アヤノの第二人格。さすがはサキね。理解が早くて助かるわ」
「理解しているわけじゃないさ。ただあまりにも纏っている空気が違うからな」
博士はポケモン用と人間用の傷薬を三人に与えた。手渡されて頭を下げたのはマコだった。
「これでウォーグルの傷もよくなります」
「カブトプスは、傷薬で治るような傷じゃない。応急処置程度は出来るだろうけど」
サキが残念そうに顔を伏せる。ヘルガーに続いてまた手持ちを失う恐怖を体感したのだろう。その肩が震えていた。セルジはぎゅっとその肩を握ろうとしている。それに気づいた博士はサキを自分の側に引き寄せ、そのまま抱き締めた。意味が分からないとでも言うように、サキは目を白黒させる。察したセルジが息をついた。
「……俺の役目はここまでかな」
後頭部を掻いて呟いた声にサキが問いかける視線を向ける。博士はより強くサキを抱きとめた。サキが博士へと顔を振り向ける。
「お父さん。心配させてごめんなさい」
「いいんだ、サキ。子供は勝手に大きくなっていくものなんだ。いつまでも父親面はしていられない」
キシベとの会話が思い出される。彼は結局、理解せずに行ってしまったのだろうか。子供は親の所有物ではないと。身勝手に奪われた事には同情を覚える。責任も感じる。だが、その呪詛を他人へと撒き散らすのは違う。それは世界を闇に染める行為だ。
「……本当に、ごめんなさい」
博士の心が伝わったのか、サキは目を潤ませた。一も二もなく抱きしめたい衝動に駆られたが、博士はぐっとそれを押し殺して頭をそっと撫でた。
セルジがアヤメへと歩み寄り、「無事で、よかった」と声をかける。アヤメは笑みを浮かべた。
「アヤノが嫌っていた男ね。私はまだあなたのほうがマシだと思うけど。でも期待しないで。どちらにせよ、タイプじゃないわ」
ぷいと顔を背けたアヤメにセルジは「手厳しいな」と笑ってみせた。彼は事態が飲み込めているのだろうか。もしかしたら予感ぐらいはしていたのかもしれないと思った。
「サキ。あなた達はリョウとは?」
尋ねる声に博士から身体を離したサキが首を横に振った。マコがおろおろと言葉を発する。
「どうしよう。リョウ君達がもし、やられていたら……」
「縁起でもない事を言うな、マコ!」
サキから飛んだ怒声に、マコはしゅんとして俯いた。今は泣き言を言えるような状況ではない。判っていてもマコの性格では出てしまったのだろう。仕方がないと博士は感じた。戦うには彼女はまだ優しかったからだ。
「リョウは生きている。そうだ、お父さん。図鑑の通信機能でリョウに連絡は出来るの?」
サキの言葉に博士は「そうだった」と思い出した。端末を開いて操作するが、通信網が遮断されているタリハシティではこちらからシステムへと働きかけない限り通じない。「回線遮断」の表示に博士は自分でも覚えず悪態をついた。
「くそっ、駄目だ。通信機能は生きているはず。それを使えば、システムに侵入して空中要塞内の位置も割り出せると思ったんだが……」
「どこかにシステムへと介入する場所がないと駄目ですね」
構成員の一人が呟く。やはり中枢機関室から離れるべきではなかったかと今更の後悔が脳裏を過ぎる。リョウの存在が感知出来なければ、どこに向かって走ればいいのかも分からない。
「何も、出来ないのか」
拳を爪が食い込むほどに握り締め、わなわなと震わせる。ようやくここまで来られたのに、誰かを失うなどあってはならなかった。だが、自分には力が無い。その現実に歯噛みし、叫び出したい衝動に駆られたその時だった。
「方法はあります!」
不意に聞こえてきたその声に全員が目を向けた。ナツキがアスカとフランを引き連れて百貨店から飛び出してきた。火傷の痕が顔の半分に色濃く残っていたが、それでも強い光を湛えた瞳に博士は安堵の息をついた。
「無事だったのか」
「はい。ご心配をおかけしました、博士」
ナツキの口調は凛として鋭い。だが、表情は喪失の痛みを隠しきれていない。ナツキもまた、近しい人を亡くしたのだろう。通信が途切れる前の会話から考えれば、それはチアキだったのかもしれない。因縁を断ち切り、自らの手で終わらせた心境は推し量るよりも自身の境遇と重なる部分があり、何よりも胸に響いた。
「ナツキ君。方法はあると言ったね。それは、一体」
「お見せします」
ナツキは腰のホルスターからモンスターボールを両手で二つ引き抜き、緊急射出ボタンを押し込んだ。片や光に包まれた巨躯が弾き出され、片や光を振り払う痩躯が弾き出される。同時に光を払ったのは、対照的な二体のポケモンだった。カメックスとバシャーモだ。バシャーモはチアキのポケモンであったはず、という記憶に間違いがなければ先程に胸を掠めた感傷は間違いではなかったのだろう。しかし、ナツキはそんな感情などおくびにも見せずに、両手を広げた。長く息を吸い、瞳を閉じる。瞑想しているかのような沈黙の後、瞳を開けた。だが、その眼はどこか正面を見ていないように見えた。もっと遠くへと向けられている眼だ。
「私がバシャーモとカメックスに同調します。同調している時は周囲の感覚が鋭く感じられる。きっと、リョウの気配を感じる事も出来るはずです」
ナツキの言葉に構成員達やセルジが信じられないという眼差しを送る。無理もなかった。同調による意識圏の拡大など前例がない。そもそも同調を科学的に証明する手立てもないのだ。
「だが、それが正確とは限らない」
博士の発した声にナツキは顔を伏せた。この場にいる全員を納得させる根拠がナツキだけでは不充分だった。
「お父さん。私はナツキを信じるよ」
サキが一歩踏み出して、博士へと顔を振り向ける。博士と構成員達が戸惑っていると、マコも声を上げた。
「私も! サキちゃんの友達のナツキさんを信じます!」
胸の前で両手を組み合わせたマコがサキと並ぶ。どうするべきか、博士が悩んでいる間にアスカとフランが共に歩み出た。
「博士。僕達はそれを目の当たりにしている。今更、否定もないでしょう。それに、今の僕らにはナツキさんの感覚に頼るしかない」
その言葉を補強するように、背後から言葉が投げかけられた。
「博士。迷っているんでしょうけど、ナツキは嘘を言っていない。エイパムが反応しているもの。同調はしているわね」
肩越しに見やると、アヤメの肩にいるエイパムの眼が蒼く輝いていた。どこか表情の読めない眼差しに、不安が過ぎる。迷いが払拭しきれずにいる博士へと全員の視線が注がれる。博士は折れたように、ため息をついた。
「分かったよ。疑っているわけじゃないんだ。ただ、確実な手が取りたい。ナツキ君。出来るな?」
確認の声に、ナツキは「はい」と頷いた。まだ事態を訝しげに見つめる眼差しを払いのけるように博士は手を振るった。
「信じられない、って顔だけど、私も信じる事にした。だが、君達にまで無理強いする事は出来ない。異議あるものは、ここに残ってもらっても構わない」
残酷な選択を迫っていると言えた。残ったところで、彼らは状況に取り残されてしまう。頭目を失ったディルファンスに存続の未来はない。ここで今までのプライドを振り翳して潰えるか、と思われたが構成員の一人が一歩踏み出した。先程から率先して声をかけてくる女性の構成員だ。彼女はナツキの前まで来ると、じっと見下ろした。真剣な眼差しに気圧される事無く、ナツキも見返す。交錯する視線を逸らす事無く、構成員は口を開く。
「信じてもいいんですね?」
その言葉にナツキは首を横に振った。
「無理やり信じてもらおうとは思いません。でも、私の力が役に立つのなら。それでリョウを、仲間を救えるのなら、賭けていただくだけの価値は保障します」
ナツキの瞳は一ヶ月前からは想像出来ないほどに研ぎ澄まされた刃の輝きを帯びていた。それがチアキから譲り受けたものなのか、それとも過酷な運命がそうさせたのか。思いを巡らせている間に、構成員はフッと口元を緩めた。
「信じろ、とは言わないんですね」
「はい」
「結構」
構成員はナツキの肩に手を置いた。何をするのかと思う前に、肩を優しく二度叩いた。
「この双肩に背負うには重い。私達も背負わせていただきます」
構成員はナツキへと敬礼を返す。ナツキは呆気に取られたようにそれを見つめていた。構成員が笑みを浮かべ、
「私はサヤカ。ディルファンス構成員を代表して、あなたの勇気に敬意を表します」
敬礼を下ろしたサヤカはナツキと暫時、再び向き合った。その時間は両者にしか分からない何かがあったのだろう。ナツキも緊張を幾分か緩めたように見えた。サヤカが博士へと向き直り、「行きましょう」と告げる。
「私達は自分の意思で進むべき道を決めます」
その言葉に博士は頷き、ナツキは歩き出した。その歩調はやがて速くなり、意志を固めた足が戦場を駆けた。