第六章 四十四節「沈黙のシナリオ」
額に感じていたプレッシャーの圧が変わった。茫漠とした感覚だったが、それは確信となり、ナツキの身体を貫いた。思わず天井を仰ぐ。その様子を怪訝そうにフランが見やった。
「どうかしたのかい?」
ナツキは言うべきか迷って、アスカへと視線を送る。アスカはナツキを見て、首を傾げた。赤い髪をかき上げる。憧れだった人物が目の前にいる。一ヶ月前の何も知らない頃ならば、素直に喜べたのかもしれない。
だが、今はそんな感情が微塵にも浮かんでは来ず、腰のホルスターにあるモンスターボールが重く感じられた。
バシャーモの入ったボールだ。
バシャーモはあの後、ナツキのポケモンになった。便宜上は、である。扱いきれるかどうかの保証はない。だが、チアキの遺志は継がねばならなかった。「テレポート」で覚えている座標まで来たのも、そのためだ。地上を目指す他、道はない。予備のボールをアスカから受け取ってカメックスも戻しているナツキは、先程の戦闘ほど周囲が鋭敏に感じられるわけでもない。
ただ当惑の眼差しを彷徨わせて、ナツキは頭を振った。
「何でもないです。それより、ここは……」
ナツキが周囲に視線を配る。黒い球体が中央に配されており、そこから四方へとパイプが渡されている。パイプの内部と黒い球体は透明な素材で覆われており、赤い電流がのたうった。
「ここは、空中要塞の中枢機関ですよね。だったら、ここを叩けば」
ナツキの声にフランがやんわりと首を振った。
「その段階はもう過ぎたんだ。ブリッジの人達、ヘキサの団員達は納得してくれたよ。この侵攻に意味はないって。キシベの独断で全てが回っていて、それを間違っていると思える心があったんだ。彼らは事態の収束に向かってくれている。今、やるべき事は」
「博士と合流する事。リョウ達の戦いに出来るだけ早く駆けつける事」
心得た視線を交わしあい、フランとナツキは頷いた。中枢機関室には三つの扉がある。一つは博士が来たであろう扉だ。血の滴った足を引きずった痕がある。壁を壊してディルファンスが入ってきた場所は論外として、恐らく地上に博士達が向かったであろう扉がその反対側にある。それと、もう一つ扉があった。ナツキはそちらへと近づいた。扉と言っても人が入れるような大きさではない。一つだけ明らかに空気圧式ではない扉だ。足元までもない。ちょうどナツキの首から腰までと言ったところだろう。体裁自体は扉だが、実際の大きさから鑑みて扉と呼ぶには相応しくない。
「これは、金庫か?」
フランが尋ねると、ナツキは手を伸ばした。触っただけでは扉は開かない。そういう風に出来ているのだろう。
「博士達も怪しいと思ったらしいけど、それのロックは厳重に閉ざされていて解除は不可能だったらしいわ。放っておきましょう。何かの仕掛けかもしれないけれど、博士の技量なら作動する前にどうにか出来るだろうし」
「楽観的過ぎませんか? もしかしたら自爆装置かも……」
フランの発した言葉に、二人は沈黙した。ありえない話ではなかったからだ。口にしたフランも失言だったというように顔を伏せている。
「もし、自爆装置の類ならヘキサは何を考えていたんでしょうか」
「何を、って?」と返したのはアスカだった。ナツキは金庫から目を離さずに表面をさすった。
「最初から、この中枢を爆破、または破壊する気なら結局、ヘキサの目的って何だったんでしょう。カントー政府を支配、または破壊するとしてもここを破壊してどうするというんです?」
「博士の話では、キシベはこの空中要塞自体を質量兵器とするつもりだったと聞いたけれど」
「だとしたら余計に不可解です。こんな巨大質量、電磁浮遊機関がなければすぐに落ちます。それでよしんば心中を狙ったとしても、政府中枢を破壊出来るとは限らない。確実な手を用いるのならば、最後の最後まで操るべきです」
「でも、それだと団員達にまで心中の覚悟があるように思える。けれど、私達の見た限りでは、彼らに心中の意思はなかった。質量兵器としてこの空中要塞を使うなんて、多分考えてもいないと思うわ」
アスカの言葉に、フランは顎に手を添えて考える。きざらしい立ち振る舞いだが、彼の性分なのだろう。
「そういえば、最初に僕達に接触してきたヘキサの団員もついていけないと言っていた。命令系統が万全ではないのか」
「ヘキサはディルファンスとロケット団を合わせただけの継ぎ接ぎの組織。そこに脆さがある。キシベは全てを分かっていたのかしら? 分かっていて、この組織でカントーに攻め込もうとした」
「でも、出来なかった。それとも、それすらも計算のうちなの?」
ナツキの言葉に全員が黙りこくった。そうだとするのならば、今の行動もキシベに読まれている事になる。しかし、キシベは死んだと博士は言った。出来すぎたシナリオ、で済ますには準備がよ過ぎる。死さえも計算に入れていたと考えれば、空恐ろしかった。フランが暗くなりかけた思考を察知したのか、指を鳴らして、「やめよう」と考えを打ち切った。
「ここで僕らが渋面をつき合わせても仕方がない。早く援護に向かおう。サキも、リョウ君も苦戦を強いられているかもしれない。そうでなくとも恐らく相手は実力者だろう。……リョウ君には、辛い相手だけどね」
その言葉にリョウがルイと戦っている事が感じ取れた。先程のプレッシャーの圧はそれなのだろうか。ナツキの思考を他所に、アスカ達は地上へと続く扉へと身体を向けた。
「行きましょう。座標を覚えていないと目視出来ない範囲はテレポートもまともに出来ないから、走るしかないわね」
アスカらしからぬ体育会系の発言に、何かが変わったのかとナツキは思った。この人もまた乗り越えてきたのかもしれない。完璧に思えていた一ヶ月前とは違う。彼女はもう、張子の虎ではないのだ。ディルファンスという組織の枠組みを超え、ようやく一人の人間であるアスカに立ち会えた気がした。
「急ごう。皆が待っている」
フランの声にナツキは頷いた。
「そのためにたくさんの人が死んだ。その死の上に、私達はいるから」
ナツキ達は走り出した。扉が閉まる直前、金庫が音もなく開いた気がしたが、振り返っている暇はなかった。
金庫は音もなく開き、中から白い蒸気が溢れ出した。誰もいない部屋で、その音だけが明瞭に響く。蒸気の水滴を浴びて中にあったのは、一個のモンスターボールだった。衝撃吸収剤の上に置かれたモンスターボールへと、金庫の上から伸びた部品が張り付いている。それは緊急射出ボタンへと指をかけているように見えた。鉄の指が緊急射出ボタンを押すのは、しかし今ではなかった。
金庫も、ボールの中にいるポケモンも、黙してその時を待ち続けた。