第六章 四十三節「断罪者」
脈動がこめかみを圧迫したかと思うと、不意に弾けた。
目が眩むようなその感覚に握っていた手を緩めかける。オオスバメの鉤爪がそれを察知してしっかりをくわえ込み、落ちる寸前で意識の手綱を握ったリョウが、「……今のは」と顔の前に手をやった。
「ナツキ、か? いや、知らない感覚だった。じゃあ、誰かが行っちまったのか? またかよ、くそっ」
悪態をついても変わる事はない。空中要塞という巨大な盤面の上で己の生を賭して戦う姿は敵も味方も同じだった。今、全員がどこにいるのかまでは分からない。リョウの意識はそこまで拡張してはいないからだ。せいぜい、今のような大きなうねりを感じ取れる程度の技量しかない。その事実に歯噛みした。もし、ナツキのような力があれば。サキのような力があればと思う。しかし、彼女達にとってしてみれば、それは呪いなのだ。己の力に戸惑い、持て余してしまう呪い。それを解くのが仲間の役割のはずだ。無遠慮な羨望の眼差しを向ける事がどれほど他人を傷つけるのかぐらいは知っている。
今は、自分の戦いに集中すべきだった。リョウはオオスバメの足をしっかりと握り、顔を上げる。紫色の沼が、ビルの壁面を滑っていた。あれがゲンガーであり、あの中にルイがいる。ダークライの攻撃で少しは消耗してくれたように思えたが、一時的なものだろう。ルイの心もまた同じである。先程の、リョウを見た眼差しには感情が灯っているように思えた。思い出してくれた、と信じたいが希望的観測が通じるような状況ではない事も重々承知していた。見上げて、オオスバメに指示を出す。
「そろそろ降りないと持たない。ゲンガーも無限に移動出来るわけじゃない。近くのビルの屋上に下ろしてくれ」
オオスバメが応じる一声を返し、近くのビルへとゆっくりと降下した。背の高くない、廃ビルの屋上だった。ちょうどルイに声も届けやすく、ここならばゲンガーの動きも把握出来る。地上から追いついてきたリーフィアが、影の沼の前に立ち、全身の葉脈の毛を逆立たせた。威嚇に反応したのか、沼がねじれ、赤い眼が僅かに覗く。
メタモンのボールを繰り出しかけて、ふとその手を止めた。どうするというのだ。やわらかいものが必要と言いながらも、戦わなければ得られない事も知っている。ゲンガーを引き剥がすのならば、確実にやったほうがいい。だが、その時ルイの心は戻ってくれるのか? 脳裏に浮かんだ問いに、らしくないの一語を返してリョウはボールを握る手に力を込めた。
「もう少しなんだ。失敗は許されない。感情を示すためにも、戦わなきゃならない。だから、行ってくれ、メタモン」
緊急射出ボタンを押し込み、ボールが手の中で割れ、虹色のメタモンが地上でゴマのような目を凝らす。図鑑を開き、親指でスクロールさせる。あと二回しか変身出来ない。その二回で、どうやってルイとゲンガーを引き剥がす? そんな技を持っているポケモンはいたか? 何度も見慣れたポケモン図鑑のはずなのに、いざ使うとなると自分の技量の小ささに苛立ちを募らせるしか出来ない。もっとポケモンの技を熟知していればという今更に後悔に苛まれ、リョウは舌打ちを漏らした。紫色の影が屹立し、壁のような姿を作り出す。乱杭歯の並んだ歯を剥き、赤い眼を向けるゲンガーの姿がリーフィアを眼下に収める。リーフィアがたじろぐように一歩下がった。今のままではリーフィアを一人で戦わせる事になる。だが、決断が出来ない。ルイも救いたい。リーフィアや自分のポケモン達も無傷でいさせたい。仲間も守りたい。この身に不釣合いなほどの要求がせめぎ合い、狭苦しい脳内でぶつかる。頭痛と右腕の鋭角的な痛みがそれを中断させた。考えている暇はない。ゲンガーの前方の影から人型の影が立ち上がり、覆っていた影の皮膜を剥がしてその姿を現した。
「……ルイ」
呼ぶ声にルイが僅かに反応して赤い瞳を向ける。白いワンピースを濡らしていた傷へと目を向けるが、どうやらゲンガーが塞いでくれたらしい。やはり、宿主のダメージはゲンガーにとってのダメージになるのか。その代わり、ゲンガーを倒しても恐らく――。浮かんだ考えを振り払うように頭を振った。
「ルイ。お前を救いたいんだ。ゲンガーは、お前の意思で制御出来るんだろ? だったら、こんな戦いやめよう。俺とお前が戦う事自体、おかしいんだ。さっきの感覚、お前も感じたはずだろ。この空中要塞で、今も人が死んでいる。終わらせよう。馬鹿げているんだよ、戦いなんて。ヘキサはキシベの私物なんだ。キシベさえ何とかすれば――」
「キシベを殺すの?」
遮って放たれた声に、リョウは二の句を継げなくなった。そんな覚悟などあるのか。胸中に問いかける。キシベさえ押さえれば、全ての事態は収束すると思っていた。だが、頭に湧いた一つの疑問に答えられずにいる自分も確かに存在する。本当に、そうなのか? 本当の敵は誰だ? そもそも誰が敵で、誰が味方なのだ? 堂々巡りの思考に、リョウは額に滲んだ汗を拭った。決めていた事を心の赴くままに言えばいい。ルイには嘘をつかない自分でありたい。
「……ああ。ルイのためなら、キシベを殺すよ」
その言葉にルイはかすかに肩を震わせた。喜んでいるわけではない事は、鈍いリョウでも分かった。
「ルイ?」
「リョウは、平気なんだね。キシベと言っている事、おんなじだよ」
ルイの放った言葉にリョウは愕然とした。頭が揺れて、脳内に血が行き届かない。視界がくらくらと歪む。今、ルイは何と言った? 自分がキシベと同じだと言ったのか?
「……そんな、事は」
「自分と、守りたいもののためならば世界を敵に回す。キシベだって、ルナのためにやっていた事だった。かわいそうな、もう一人のボクのために」
何を言っている、と返す前にゲンガーの腹が裂けた。中から何十本もの影の手が這い出てきて、リーフィアへと襲い掛かる。リョウはすかさずリーフィアに指示を出した。
「リーフィア。ツバメ返し!」
額の葉っぱを角のように立て、刃の輝きを発した葉っぱごと身を翻し、リーフィアは射線上にある影の手を薙ぎ払った。だが、厳密にはその影の手はリーフィアを狙ったわけではなかった。
「……しまった。メタモンか」
虹色のメタモンを出したまま、まだ変身させていなかった。メタモンへと影の手が迫る。その先端が紫色に染まっていた。ただのゴーストタイプの攻撃ではない。あれは毒突きだ。それが半分、シャドークローが半分といったところだった。メタモンの耐久力は脆い。メタモンのまま攻撃を食らうなどあってはならないのだ。リョウは図鑑をスクロールさせ、勢いに任せて叫んだ。
「図鑑ナンバー486!」
その声が響き渡ると同時に、メタモンのいた場所の地面が捲れ上がった。影の手が突き刺さる。砂煙が舞い上がり、メタモンの姿を覆い隠す。ピンと張った糸のように影の手がメタモンを捉えたかに見えた。
しかし、その実、捉えていたのはこちらのほうだった。影の手が巨木の幹のような腕に振るい上げられる。ゆっくりとした動きでありながら、確かな威容が漂っているその手は三本の指がついていた。砂煙の奥で六つの眼が赤い光を灯す。砂煙が徐々に晴れていく。金色の接合部に、白い表皮があり、肩と足には森林のような木々が生えていた。首に当たる部分がなく、胴体部分へと金色の顔がある。その部分も顔があるというよりは、無数の小さな穴が開いているだけと言ったほうが正しかった。それはまさに顔のない巨人だ。寸胴体系で、横に広い身体は「壁」と形容するのが手っ取り早い。その壁のようなポケモンが毒突きもシャドークローもその身に全て受け止めていた。シャドークローは身体に触れるや否や霧散しているが、毒突きは身体に突き刺さっているにも関わらず、まるで動じない。顔と見える金色の部分の周囲にある六つの丸い眼が宿した光は無機質だった。シンオウの伝説にある、大陸を動かしたとされるポケモン――。
「レジギガス。寸前だったが間に合ったみたいだな」
リョウが肩で息をしながらレジギガスを見下ろす。レジギガスは指先をゆっくりと動かした。その間に影の手がレジギガスから離れていく。レジギガスはその恵まれた巨体と能力の代わりに欠点があった。
「特性スロースタート。しばらくはまともに動けないが、いいさ。俺はルイと話がしたくて来たんだ。戦いがしたいわけじゃない。その点で言えば、このデメリットの特性もプラスに受け止められる」
レジギガスはその場から一歩も動かない。指先も動いているかどうか怪しい。身じろぎさえしていないように見える。生きているのか、それすらも疑ってしまうほどだった。リョウは廃ビルの屋上からルイへと呼びかけた。
「ルイ。ここからの全ての攻撃はリーフィアとレジギガスが阻む。もう、戦う事なんてない。話し合おう、ルイ。思い出そうぜ、俺達の旅を」
「……旅」
「そう、旅だ。短かったが、一緒に行っただろ、ロクベ樹海を。待ってろって言ったのに、お前は待てなくて俺についてきた。湖であんなに楽しそうにはしゃいでいたじゃないか」
ルイが頭を押さえ、「やめて」と呟く。リョウはやめるつもりなどなかった。今こそ、ルイを取り戻す好機なのだ。
「フシギダネ追っかけて。シチュー食ってさ。酷い事も言ったし、お前も酷い目にあって来ただろうよ。でもよ、そんな過去に囚われてばかりじゃ前に進めねぇだろ! もう一度、あの旅の思い出を作ろう。二人なら、きっと……!」
ルイが呻き声を上げて一歩下がる。もう少しだ、と語気がさらに強まる。
「行けるんだ、どこまでだって。ヘキサツールなんかが終着点じゃない。俺とお前でなら、もっと遠くまで。そうだ。今度カントーを旅しよう。ホウエンもいいじゃないか。ロケットを見に――」
「それ以上はやめて!」
遮った声に、ゲンガーが歪曲し三つの影の背びれとなって屹立した。ルイが頭を押さえたまま、顔を伏せて首を横に振る。
「シャドークローで、全てを壊して! ゲンガー!」
叫んだ声に影の背びれが空間を疾走する。リーフィアが心得ているようにリーフブレードを展開し、一回転すると同時に影の背びれを縦一文字に切り裂いた。影の背びれはしかし、そこで消失せずに二つの背びれになってリーフィアの防衛網を抜けた。背びれが分裂したのだ。レジギガスが両腕を上げようとする。しかし、影の背びれに対してはあまりにも遅い。先程は相手の攻撃を食らう瞬間だからレジギガスによる無効化がうまくいった。しかし、レジギガスの特性「スロースタート」は、今は枷でしかなかった。空間を走る漆黒の刃が偏向し、レジギガスの腕の隙間を縫ってその背中を抜けた。廃ビルへとシャドークローが突き刺さり、斜線を走らせたかと思うと身を揺るがす轟音と共に廃ビルが傾いだ。ケーキのように切り分けられた廃ビルが崩れていこうとしているのだ。よろめいた足に力を込め、リョウはホルスターからモンスターボールを引き抜き、オオスバメを繰り出した。オオスバメの足に掴まり、辛うじて崩落する廃ビルに巻き込まれはしなかったものの事態は深刻だった。レジギガスはまだエンジンがかかるには時間がかかるだろう。リーフィアは先程からゲンガーの攻撃を受け続けている。本当に安全圏に行きたければもっと高いビルに行けば済む話だが、それではルイを説得できない。
「自分の身が大事で、誰かを救えないなんてよ……!」
リョウは歯噛みした。情けなかった。救えるはずの人間を救えないのは、敗北を喫するよりも心に深く刃の鋭さを伴って突き刺さる。
「……オオスバメ。俺は地上に降りる」
主の言葉にオオスバメは惑う挙動を見せた。今の状況で地上に降りても、主人を攻撃される可能性があると思ったのだろう。分かっている。それに降りたところでルイを説得できるとは思っていない。ただポケモン達に戦わせるだけ戦わせて、自分は安全圏からルイを説得するという在り方に疑問を感じただけだ。それではキシベと何ら変わりない。
「頼む。降ろしてくれ」
切迫したリョウの声に、オオスバメが翼を傾いでゆっくりと降下する。レジギガスとリーフィアの間に降り立ったリョウは、ホルスターから残り二つのボールを同時に引き抜いた。真上に投げると同時に叫ぶ。
「行け、マルマイン、フシギソウ!」
二つのボールが空中で割れ、光が落雷のように地上に向けて放たれた。二つの光が晴れ、身を回転させたマルマインともう一体。巨大なつぼみを背負った蛙のような形状のポケモンがいた。フシギダネの進化した姿、フシギソウだ。しかし、二段進化の一段階目であるこの姿では、さほどの戦力は望めない。それでも、今の状況に持てる全てを注ぎたかった。
「これが俺の手持ち全てだ。こいつらでゲンガーを引き剥がす」
リョウの声にルイは赤い瞳を悲しそうに伏せた。
「……リョウは、何も分かってないよ。自分の理想を押し通したいだけ。ボク、知っているんだよ。ルナの事を」
「……ルナ」
その名は博士から聞いた事があった。確か「R計画」の被験者の少女の名前だ。だがルイとは別人だと聞いていた。だというのに、何故その名前がルイの口から出るのか。
「ルナはかわいそうな子だった。身勝手な大人達のために利用され、切り刻まれ、骨の髄までしゃぶりつくされたのは、ルナのほう。キシベはそれが憎くて、それをやった人類全ての罪悪だと思っている」
暗闇に引っ張り込まれそうなルイの言葉に、リョウは振り解くように手を振るった。
「勝手なこじ付けだ。キシベの闇に呑まれるな。キシベはお前を利用しようとして、そんな事を吹き込んで――」
「嘘じゃない。事実だよ」
遮って放たれた声はルイのものとは思えない冷たさを含んでいた。操られているようにも見えた先程よりも、より暗い光を瞳に湛えてルイは側頭部を指差した。
「見たんだ。ボクは、ルナの記憶を。ロケット団に捕まった時に」
「……何だって?」
言っている意味が分からなかった。ルナの記憶を見た? だが、ルイはルイであるはずだ。クローンであろうとも、オリジナルの記憶を見させられる事なんて出来るのか。自我の境界があるのならば、それぐらいは阻めるはず――と考えて、ふと気づいた。ルイはそんなもので受け流せるほど賢しくはない。全てありのままに受け入れてしまうのが、ルイなのだ。
「ロケット団の意思じゃない。キシベの意思。ボクの意識を崩壊させる電波の中に混じらせて、ルナの記憶が送り込まれた。ホウエンに行くのを、お父さんであるキシベと約束したけれど、果たされなかった子供。それでボクは気づいたんだ。本当に憎むべきは誰なのか。裁かれるべきは誰なのか」
少し前に博士とした会話が思い出される。ポケモンと人間、その罪を誰が裁く? 誰が罰する? ルイならば適任ではないか。ポケモンと人間が融合した新たな存在ならば。だが、その意思は歪められている。キシベによって、私怨を混ざらせたまま人殺しをさせるわけにはいかない。ルイの手をこれ以上汚させるわけにはいかないのだ。
「……それでも、俺はお前を止める。確かに醜く争う人間も、それに加担させられるポケモンも、裁くべきだろうよ。けどよ、いい奴だっているんだ。何も知らない奴だっている。今日が来て、陽が沈んでも、当たり前のように明日が来ると信じている奴らばかりなんだ。そんな奴らの上に影を落として、無理やり終わらせる事が本当に正しいのかよ!」
判ってはいる。正しい、正しくないの問題ではない。許せるか、許せないかだ。ルイは許せなかった。ルナの事を知る者も知らない者ものうのうと生きているこの世界が。キシベも同じ気持ちだっただろう。ならば、全ての罪の象徴として裁こうとするルイを誰が許すというのか。そんな事はしなくてもいいと言えるのは誰なのか。
「どうしてもというのなら、俺が、お前の前に立つ」
決意が言葉として溢れ出し、リョウはルイを見据えた。リョウの手持ちポケモン達もゲンガーと相対する。ゲンガーから底知れぬプレッシャーを感じているのだろう。身体を震わせているポケモンもいた。しかし、今は恐れに足を取られている場合ではない。
「今だけでいい。お前ら、俺を信じてくれ」
薄っぺらい言葉かもしれない。信じろなんて言葉は、モンスターボールに刻み込まれた催眠装置がかく乱させる幻想とさして変わりはない。モンスターボールに入れば、否が応でも主人として服従の道を定められる生き物、ポケモン。彼らとて悲しい生き物だ。それを操り、戦う自分は惨めでもっと悲しい。仮初めの絆に、本物を求める事など出来ない。どうあっても偽りだろう。しかし、今だけは偽りでもいい。ルイを取り戻すための戦いをして欲しい。
その思いにリーフィアとフシギソウが一歩、前に踏み出した。兄の使っていたポケモンと、自分の相棒であるポケモンが前に出る。最後はやはりこの二匹が要か、とリョウは堂々巡りの思考に決着をつけた。
「ボクは、自分でもどうしようもないんだ。止められないんだよ。ボクはリョウの下に行きたい。でも、ルナの事を考えると全てが憎い。リョウでさえも」
両手で頭を抱え、苦痛に顔を歪めたルイの言葉に、リョウは「ああ」と返した。
「その憎しみを、断ち切れとは言わない。背負わされたのなら仕方がないとも俺は言わねぇ。ただ自分のしたい事から、目を背けるなよ、ルイ」
肩代わりは出来なくとも、分け合う事ならばあるいは、と思う。ルイは手で顔を覆った。今もルナの憎悪とルイの感情が内面でぶつかり合っているに違いない。どちらを選択するのか、と考えた直後だった。ゲンガーが生えている影から無数の手がゆらりと持ち上がった。紙のような影の手が海草のようにたゆたい、動きを一斉に止めたかと思うと、その手が傾ぎ、リョウへと向いた。
瞬間、リョウは叫んでいた。
「マルマイン、煙幕!」
マルマインが回転して継ぎ目から黒い煙を吹き出すのと、影の手が槍の鋭さを持って襲い掛かってきたのは同時だった。影の手がリョウのいた場所へと突き刺さる。煙幕を円形に切り取ったそこにはしかし、リョウの姿はなかった。既にリョウはレジギガス以外のポケモンと共にゲンガーへと直進していた。マルマインが回転して煙幕を振りまきつつ、その球体状の身体に電気を纏いつかせる。影の手の一つが蛇のように首をもたげ、Uターンしてリョウへと不意打ちを食らわせようとする。振り向き様に手を振るい、リョウは指示を出した。
「マルマイン、エレキボール!」
マルマインの身体が電気の残像を帯びたかと思うと、回転し様にその残像を放った。残像は電気の球体となって影の手へと空気を巻き込みながら着弾した。影の手がのたうち、痺れたのか速度が緩んだ後に指先から霧散する。
「エレキボールは素早ければ素早いほどに強い。マルマインの素早さならば、高威力で撃ち出せる」
リョウは後衛に煙幕を張ってもらいつつマルマインに任せ、ルイとゲンガーに向けて駆けた。新たな影の手が前方で揺らめく。リョウは「オオスバメ!」と叫んだ。オオスバメが先行し、風を翼へと纏いつかせる。風が水色に輝き、十字に光を投げた瞬間、リョウが叫ぶ。
「エアスラッシュ!」
オオスバメが身体を翻し、翼から水色の光芒を発射した。弾かれたように飛び出してきた影の手が「エアスラッシュ」の光でバラバラに切り裂かれていく。この攻撃がルイにどのように影響するのか、今は考えまいとした。エアスラッシュの残滓がゲンガーに命中する寸前、ゲンガーは影から壁を屹立させた。防御壁を破壊しなければならない。リョウはゲンガーを指差し、リーフィアに命令を下す。
「神速で近づいてリーフブレード!」
並んで走っていたリーフィアの姿が掻き消え、次の瞬間には額の葉っぱを「リーフブレード」にして突き出したリーフィアの姿が影の防御壁の前にあった。壁から手が無数に伸びて、リーフィアを押さえ込もうとする。リーフィアは四足で地面を蹴りつけ、その手をかわすと同時にくるりと身を返した。すると、壁に一閃が走り、影の壁が音もなく崩れた。しかし、壁の断面から新たに伸びた手が空中のリーフィアを絡め取る。だが、それは同時に好機でもあった。手持ち全てのポケモンに注意が注がれている。さしものゲンガーとて四体を同時に相手にすることなど出来ないはず。
「そして、俺にはこいつがいる!」
リョウがゲンガーの眼前で立ち止まった。ルイが手を伸ばせば届く距離にいる。しかし、今はゲンガーを倒さなければ。「R計画」の象徴。ルイの負の部分を凝縮させた存在。ゲンガーさえ倒せば止まるという保証はない。ヘキサも、キシベも転がり始めた石だ。しかし歯止めをかける意味にはなるだろう。自分なりの決着にもなるかもしれない。
リョウは額に脈動を感じた。フシギソウのつぼみから光が溢れる。その身体がメキメキと音を立てて大きくなり、未成熟だった身体が成熟の時を迎えようとしていた。それにつれて額に疼痛が走る。瞳を閉じ、リョウは呟いた。
「……これが同調かよ」
出来るとは思っていない。だが、兆しはあった。ミサワタウンにいた時、感知野で気配を探れた時があったからだ。
その可能性を生かすも殺すも自分次第。開花させずに生きるのも、トレーナーとしては間違っていない在り方だろう。現にナツキは過ぎた力だと言った。博士も踏み込んではならない領域だと言っていた。だが、それがどうしたと言うのだ。ルイを救うためならばこの身など炎に投げ込んだとしても惜しくはない。脈動が激しくなり、脳内に緩やかに回転する光のイメージを見た。その回転を早めると、光からさらに幾筋もの光条が漏れ、亀裂が走る。亀裂が全体に回った瞬間、リョウは目を開いた。それと同時に光が弾け、フシギソウの姿が変わっていた。
フシギソウだった頃よりも一回り大きくなり、体色の緑が濃くなっている。つぼみは花開き、巨木で持ち上がった花はどこか毒々しい。大きな葉っぱが四方に広がっており、フシギダネの頃からしてみれば別格の威厳を放っていた。
「――フシギバナ」
その名を呼んだ直後、視界がぶれた。半分が人間の肉体に収まる自分の視界、半分がフシギバナの視界となる。半々なのは同調が未だに不完全だからか。しかし、今はそれでも充分だった。ゲンガーの腹が再び弾け、手を繰り出そうとする。その全ての動きがスローに見えた。
「今なら……」
リョウは右手の包帯を乱暴に解き始めた。固定具を外し、歪んだ右腕を突き出す。その腕に僅かながら感覚があった。普通に動いていた時と寸分変わらぬ、いや、それ以上の鋭敏な感覚だった。リョウが右手を内側へとゆっくりと捻る。すると、ゲンガーの身体の動きが鈍った。
「ゲンガー?」とルイが振り返って声を上げる。リョウの視界が四分割され、上半分の視界で腕を突き出す自分を見下ろしていた。ゲンガーとも同調しているのだ。どうやらポケモンの攻撃を受けたのが影響しているらしいが、詳しい事など今のリョウには判らなかった。ただ、ゲンガーの動きを制御できるだけでもリョウにとっては僥倖だった。
フシギバナが花弁の中央をゲンガーへと向ける。ゲンガーは腹から手が出せないのならば、背びれの刃に転じる事を思いついたのか、身体をねじる。
「――無駄だ」
リョウが右手をゆっくりと握ろうとすると、ゲンガーの動きが中断された。制約を受けているのは間違いない。視界の様子ではフシギバナに飛ばせている思惟は四分の一だが、今が好機だった。フシギバナが花弁の中央に光を取り込み、砲の筒先のように光が眩く迸る。ゲンガーは本体の両手を伸ばして攻撃しようとしてきた。リョウが一歩踏み込むと、その手へとゲンガーの伸びた両手が絡みついた。ねじられた時よりも鋭い痛みが走り、今にも右手が引き千切れそうになる。だが、ルイを一度奪われた時の痛みに比べれば、と奥歯を噛んで踏ん張った。
光を充填したフシギバナの筒先が鋭く光る。リョウは身が裂けるような勢いで叫んだ。
「フシギバナ、ソーラービーム!」
光が放射線状に広がり、次の瞬間、ゲンガーと同一化していた視界を鋭角的な光芒が貫いた。