第六章 四十二節「黒白の彼方」
カメックスと視界が同一化する。
ぶれていた世界の均衡がぴったりと取れて、再び視界の中に現れたのは白い炎を身に纏う魔人だった。バシャーモは「ブラストバーン」が凝縮した炎の刀を握り、身体の炎を揺らめかせ正眼に構えた。ちりちりと空気を焼くのは熱気だけではない。二匹の間に流れる緊張感と、ぶつかり合う主人の思惟だ。感知野がチアキの声を拾い上げる。
――しぶとい奴だ。ブラストバーンを身に受けてまだ生きているとは。
その声にナツキは返した。既に喉はほとんど意味を成さない。思考の会話だった。
――私は、あなたを救うためならば何度でも立ち上がる。
――救うだと?
バシャーモが滑るように動き、返した炎の刀の刀身が波のように揺れた。薙ぐように放たれた炎の刀を足の付け根から発したジェット噴射で辛うじて避けようとする。
だが、その瞬間、炎の刀は刀身を伸ばした。炎の切っ先が拡張され、腹部へと鋭利な一撃が見舞われる。神経を引き裂かれる痛みにカメックスとの意識のリンクがずれそうになる。それを必死に押し留めて、牽制の「ハイドロポンプ」を放った。水の砲弾をバシャーモは踊るように避ける。炎の中で乱舞する様はさながら悪鬼のようだった。返す刀が砲弾を気化させる。生半可な攻撃はもはや通用しなかった。
カメックスは着地と同時に声を拾い上げる。
――傲慢だな。今の力でどうやって救うというのだ。救うには力も覚悟もいる。易々と口にしていい言葉ではない。
――だからこそ、今の私は言えるんです。現実を知り、自分の力の及ぶ範囲を知ったから。
――それが傲慢だと……。
バシャーモが炎の刀を振りかぶり、足先から白い炎の尾を棚引かせて飛び掛った。
――言っている!
打ち下ろされる否定の意志を、ナツキは強固な意志で叫び返した。
――どうせ願うのなら、傲慢なほうがいい!
カメックスが両腕を振り上げる。その手が炎の刀を頭部に至る寸前で止めた。カメックスが炎の刀を白刃取りしたのだ。両手の爪を炎の刀へと食い込ませる。掌に電撃的な痛みが走り、視界が暗くなりかける。腕を根こそぎ奪われたような激痛にカメックスとナツキは雄叫びを上げた。凍結した指先から冷気が迸り、炎の刀の刀身から切っ先へと至る。一瞬のうちに氷の皮膜が包み込み、炎の刀はカメックスの握っている部分でぽっきりと折れた。まさしく本物の刀のように。
カメックスの砲門が狙いを定める。バシャーモは炎の刀から両手を離し、両脚と腕の力を使って、跳ねるように離脱した。寸前までバシャーモのいた場所を水の砲弾が通過する。バシャーモはカメックスから距離を取って着地したかと思うと、不意に片膝を落とした。見れば白い炎も色合いを失いかけている。限界時間が近づいているのだ、とナツキは察した。
――継続出来るのも限界か。
チアキの冷たい声音が感知野を響かせ、ナツキはぞわりと総毛立つのを感じた。カメックスの全身から蒸気を迸らせ、回転しながら後ろへと下がる。背後に人の気配を感じて肩越しに見やると、アスカやフラン、それに自分自身がいた。これ以上、後退は出来ない。緊張が走り、痛みがその現実を否が応でも訴えた。こちらも限界だ。
バシャーモは身体を開いた。すると、周囲で燃え上がっていた白い炎がバシャーモへと寄り集まっていくではないか。燻っていた炎の一欠けらまでも吸収したバシャーモは再び白い炎を身に纏った戦士だった。両手を上下にして合わせる。指と指の隙間から炎が迸り、白い炎の刀を構成した。先程よりも幾分か長いように感じられた。
――決着だ、ミサワタウンのナツキ。
その声にナツキは意識の中で目を瞑った。「ハイドロカノン」で相殺しきれなかった攻撃を、今度こそ防げるのだろうか。いや、防ぐだけでは意味がない。バシャーモとチアキを呪縛から解き放つには力がいるのだ。背後に意識を配る。息遣いでアスカとフランの考えている事が分かった。アスカは自分を信じてくれている。憧れ続け、曖昧にしか未来を視る事の出来なかった少女が描くその先を見つめてくれているのだ。フランの胸には恐怖がある。だが、それ以上に身体だけの自分を守らねばという強い意志が感じられた。自分も危ういのに他人の心配をする事の危険性はディルファンスで充分に学んだであろうに、それでも捨てきれないのはこの人の情か。優しさなのか。きっとそうなのだろう。優しいが故に、逃げられずに真正面から向き合う。不器用ながらも、光を湛えたその意志にナツキは心の奥から感謝した。
――決着です、チアキさん。悲しい戦いは、ここで終わらせましょう。
――言うじゃないか。ガキが!
バシャーモが炎の刀を振り上げる。瞬間、刀が膨張し何倍にも広がった白い刀が天を突き刺す勢いで燃え盛る。
カメックスは砲門を天に向け、空気砲を撃ち出して地面に足を食い込ませた。爪を立てて、衝撃に備える。砲門を正面に向けなおすと、全身から迸った水流と蒸気が混ざり合い、砲門の前で螺旋を描き始めた。水のドリルが高速で回転する。
――これで、さっきは勝てなかった。だから、もっとお願い。カメックス。
カメックスが身体を開き、さらに大量の蒸気を噴き出させ水流の勢いを底上げした。背中の甲羅が浮き沈みし、立体パズルのようになってそこからも蒸気と水を噴射する。砲門の先端が四つに開き、水流の回転に合わせて回転を始めた。カメックスは身体にある水分のほとんどを使いきろうとしていた。水分の失せた身体に毛細血管が浮かび上がり、パリパリに枯れた表皮がずるりと落ちる。
バシャーモの腕の筋肉が膨れ上がり、蒼い眼の輝きが最高潮に達する。炎が絡みつくように巨大な螺旋を描き、酸素を根こそぎ奪っていく。酸素を喰らった炎が白く煌き、視界を覆い尽す。カメックスはさらに「ハイドロカノン」を回転させた。高速回転する水流に巻き込まれるように何かが剥がれる。それはカメックスの黒い表皮そのものだった。表皮の色を引き移した水流が瞬く間に黒く染まっていく。カメックスの体表から色が失せ、黒かった身体は下にあった色へと変化する。
「黒かったカメックスが、青く……」
アスカの声が背後に聞こえる。カメックスは黒い表皮を捨て去り、幾度もの戦線の傷を負った身体でさえも今の攻撃の糧にしようとしていた。それは変わった事への証であり、ナツキの覚悟の結晶だった。
黒い「ハイドロカノン」の螺旋が激しく回転し、カメックスは手足をより大きく開くイメージを掴んだ。バシャーモが炎の刀を振り下ろすのと同時に、感知野の声が響き渡った。
――バシャーモ、ブラストバーン!
――カメックス、ハイドロカノン!
白い炎の塊が視界を埋め尽くす隕石のように雪崩れる。黒い高速の水流が全てを打ち砕く鋭い光を携えて砲門から発射される。
黒と白は混ざり合い、巨大な力の瀑布となって、双方の視界をお互いの色で染め上げた。意識と感知野が消え去り、ナツキの目の前は真っ白に、チアキの目の前は真っ黒になって崩壊し、轟音だけが明瞭に響き渡った。
意識だけが海の表層を漂っている。
まるでクラゲのように、波に任せ、浜辺へと行ったり来たりを繰り返す。在り方としては単調だが、人類が今の形を形成する前にはこれが当たり前だったのだ。ポケモンとてどこから来たのか、どこへいくのかも分からない。人間と同じく、その祖は海にあるのか。それとも、と考えかけた思考を声が遮った。
「ナツキ。すまない事をした」
顔を向ける。自分と同じようにチアキも波に任せて海上に浮いていた。髪を解き、一糸たりとも纏っていない。それは自分も同じだった。意識の世界にまで服飾はいらなかった。しかし、ヨシノが見繕ってくれた服なのに、という思いもあった。海に浮かんだまま、ナツキは首を横に振った。
「いいんです。私が選んだ事ですから。それにあの時に逃げてしまった」
「あの時は、逃げるのが正解だった。私のほうがプライドに雁字搦めになっていたのかもしれない」
「いいえ。自分のポケモンが傷つくのが許せないのは、トレーナーなら皆、同じですから」
チアキが顔を向ける。眼は蒼くなかった。優しげに細められた瞳を見、ああこれが、とナツキは思った。ようやくチアキに柔らかい空気を出してもらう事が出来た。
「貴公は、優しいな。そして、強い。私の知る、誰よりも」
「私は弱いです。強かったならば、逃げなかっただろうしもっと早くにここまで来れた。時間がかかりすぎてしまったんですよ」
「そんな事はないさ」
チアキが手を翳す。天を仰げば、薄ぼんやりとした陽光が射し込んでいた。間接がじわりと温められ、身体の奥底から溶けていくような感覚にナツキは息をついた。
「以前、言ったな。天井が見えると。私はその天井を一時的にだが、越える事が出来た。しかし、それは仮初めだ。石の力を使った、実力ではない力に過ぎない。持続しない力はその者の実力とは言わない。貴公は、その私に追いついてきた。情けなくも、外的な力に頼ってしまった私に。私と違って、本物の実力者なんだ」
「チアキさんだって、私にとっては本物です。女性としても、トレーナーとしても追いつけない、目標なんです」
「私が、目標か」
自嘲気味に笑んだ口元は一瞬だけで、すぐに掻き消えた。翳していた手をそのまま額に乗せ、チアキはうわ言のように呟く。
「救うというのは何なのだろうな。あのキシベでさえ、救済を願っているように私には感じられた。だからといって、助け出したいとは思わなかったが、誰もが苦しみを抱えて生きている。この世が地獄なのか。それとも地獄はまた別にあるのだとしたら、酷だな。人間は苦しみ続けるしかない。ポケモンも人間と共にあるのならば、同じ事だ」
「でも、痛みの先に強さがある」
ナツキの言葉に、チアキは再び天を仰いだ。どこか遠くを見るように視線を投げた後、ぼそりと呟いた。
「……誰もが皆、その強さに辿り着けるわけではないよ」
残酷な事実かもしれない。しかし、真実ではあった。それでもチアキはナツキの信じる強さに辿り着けている気がした。強さに辿り着いた末に、何を見るのかは人それぞれだ。それを強制する事も、見たものを変える事も出来ない。そこにあるのは結果でしかないからだ。チアキはその末に天井を見たのだろう。そこから先の可能性を見られるかどうかは、人間の在り方次第なのだ。
「……可能性」
自分をここまで動かした原動力を口にする。ヘキサを壊滅させると言えたのも、空中要塞で戦えたのも一人の力ではない。可能性は一人から発するものではないのだ。志を共にする人間から自ずと生まれ出る言葉である。
「可能性は、戦うだけじゃ得られないんだ。貴公の強さに至ったのも、戦いだけではない出会いがあったはずだ」
ヨシノやロケット団員達を思い出す。彼らに触れ合えたから、分かり合えるきっかけが持てたから、自分もまた変わる事が出来た。足踏みをせずに、前だけを見ることが出来たのは同じ道を進む人間がいたからだ。お互いの背中は決して見ない。誰かに牽引されるのではなく、背中合わせに守り合う。
「……仲間」
口にしてみれば陳腐な響きに思える。否定される要素も多く含んでいる。この世には、恐らく誰も信じない人間だっているだろう。だが、それは哀しいとナツキは感じた。誰だって何かを信じているのだ。信じるところから発生する思いを、人は「信念」と呼ぶのだから。その信念の呼ぶところを自身の心の求める場所と規定して戦うのだ。何一つ信じるもののない人間などいない。あのキシベでさえ、何かを信じているに違いない。それが理解出来ないものであったとしても、理解しようとするか否かは心持ち次第である。
「相手を受け入れる。言葉の上では簡単だ。だが、心ではそうはいかない。認めるという行為は、人間がもっとも苦手とする部分だ」
「それは、自分と他人が違うから」
ナツキの声にチアキはゆっくりと首を横に振った。チアキを中心に波紋が広がる。
「それだけじゃないさ。きっと心を混じり合わせるという事が嫌なんだ。心は自分のものでぴっちりと境界線が引かれている。皆、そう思いたいのだろうな。交わす事を、大事だとは思わないで」
「でも、私とチアキさんはこうして交じり合えた」
「ごく僅かなものだ。貴公が私の無理に付き合ってくれたおかげだ。最後の最後まで向き合う姿勢を取ってくれなかったら、私は自身の闇に没していただろう」
誰もが心に闇を飼っているのだ。その闇に飼い慣らされるか、それとも御するかは己の在り方を問いかけるようなものだった。自分は御することが出来たのか。確信はない。もしかしたら闇に呑まれた部分もあったのかもしれない。
「闇の中に、光を見出す……」
漠然と放った言葉にチアキは頷いた。
「それが理想だろうな。だが、誰もが闇を抜けられるわけではない。光にも闇にも終わりはあるんだ。それを皆、心の奥底では気づけている。ただ、認められる心がないだけだ。心を広く持てとも、闇を見つめろと言っているわけでもない。分かるな?」
問いかけにナツキは「はい」と返した。今までの自分の経験が物語っている。全てを肯定出来るだけの側面もあれば、全てを否定してしまいたい時もある。肯定よりも否定のほうが楽だから、そちらへと流れてしまいそうな時もあった。だが、両極端ではないのだ。それは単純に心が広い、狭いの話でもない。どう足掻いたところで人の心の広さなどたかが知れている。だからといって己が闇を見つめ続け、絶望を深淵に投げるだけでは何も収まらない。絶望を吸ったポケモンは、負の感情へと引きずり込まれ破滅する。そうなりかけた時も幾度となくあった。
「あるべき姿を描く事は簡単だ。しかし、そこに至ろうとする姿勢が無ければ、脆く崩れ去る虚構の城に過ぎない。妄信とも言える理想像を押し付けるのでは進めない。貴公のおかげで、私は虚構を掴むのでもなく、現実に絶望するでもない道が選び取れた。礼を言う。ありがとう、ナツキ」
その言葉に覚えず頬が紅潮した。視線を逸らし「……いえ」と謙遜の言葉を漏らす。今のチアキを直視出来なかった。目の前にいるチアキこそ、自分の描いた理想像に他ならなかったからだ。
「さて。そろそろ行こうか」
チアキが身を返し、漂うように浜辺へと泳いでいく。ナツキは慌てて身体を返した。そのせいでつんのめった身体が不細工に水を掻く。
「ど、どこへ行くんですか?」
チアキはもう浅瀬に至り、立ち上がっていた。濡れた身体に長い黒髪がかかる。均整の取れた砂時計のような身体は、同性から見ても美しいと思う事が出来た。ナツキは浜辺にある二つの物体に目を向ける。どちらも人の背丈より少し大きかった。砂と一体化した色は、風化したようにも見えるし、原初よりこの場所にあったようにも見える。
それはバシャーモとカメックスの姿だった。ただし、その身体は砂で出来ている。作り固められた砂のポケモンへと、チアキは生まれたままの姿で、寄り添うように歩み寄った。バシャーモもカメックスも動かない。この場所にポケモンは来られないのか。姿のみの抜け殻だけがそこにあった。バシャーモの抜け殻へと濡れた身体で包み込むように抱き締める。
「聞こえているか、バシャーモ。お前はよくやってくれた。私の誇りだ」
バシャーモは返事を寄越さない。砂の像だ。当たり前の事に、チアキは苦笑した。
「もう苦しませる戦いはさせない。これからはずっと一緒に――」
その言葉尻が聞こえず、ナツキは不安に駆られた。このままチアキがいなくなってしまうのではないか。そんな考えが鎌首をもたげ、ナツキは意識の海を泳いだ。だが、全く浜辺へと近づけない。ポケモンのいる浜辺と人間のいる海。これが境界か、と無意識に感じたナツキは声を張り上げた。
「チアキさん。行かないでください! 戻って!」
手を伸ばし呼びかけるが、距離は縮まらない。水が粘性を持ち、ナツキの動きを阻害している。行ってはならない、と告げられているような気がしてナツキは水を掻く手を緩めかけた。
――君が行く事はない。
感知した声は誰の声なのだろうか。フランか、アスカか。意識の海に没した自分を引き上げようとしてくれた声だったのかもしれない。ナツキは開いていた手を、拳に変えた。
「……でも、チアキさんだって行く事はない」
心に誓ったその声に、ナツキは強く水を掻いた。取り戻すと決めた。そのための戦いだったのだ。だというのに、こんな幕切れはあんまりだった。届きそうなところまで来たのだ。ようやくここまで来られたというのに、別れなど断ち切ってやる。
浅瀬までやっとの思いで辿り着き、立ち上がってナツキは手を伸ばした。
「チアキさん!」
身も世も無く裸の身体から搾り出した声に、チアキが一瞬振り返った。その顔に浮かんだ安らかな笑みが視界に映った瞬間、光が弾け、景色がハレーションの向こう側に消えた。
「……キ……。……ツキ……ん。ナツ……さん」
薄ぼんやりとした聴覚を振るわせる声に、ナツキは僅かに目を開けた。眠りの皮膜がまだ自分を覆っているのか、どこか他所の国の出来事のように思える声が響く。
「ナツキさん!」
感覚の中で像を結んだ声が響き、ナツキは目を大きく開いた。ぼやけていた視界の中に二つの影が映り込む。
「……誰?」
喉を震わせたつもりの声は、実際には呼吸音と大差なかった。もう一度、身体が揺り起こされる。ナツキは今度こそ、視界の中にしっかりと二人の姿を認めた。フランとアスカだった。二人ともナツキの反応に顔を明るくさせた。
「よかった! ナツキさん。戻ってきてくれて……」
フランの目の端には涙が溜まっている。自分は何をしていたのか。何が原因でフランを泣かせてしまったのか、見当もつかなかった。アスカがナツキを抱き寄せる。突然の事に、ナツキは混乱した顔をアスカの後頭部に向けた。赤い長髪から心を和ませるような香りが漂う。
「……アスカ、さん。これ、どういう……」
発した声はかれていた。喉元を押さえようとすると、半分の皮膚がざらざらとした感触だった。疑問に思い爪を当てると、電流のような痛みが走り思わず声にならない叫びを上げる。それに気づいたアスカが身体を離し、「まだ、痛む?」と尋ねる。
「傷薬で応急処置はしたけれど、普通の傷じゃないから。気になると思うけど、あまり触らないほうがいいと思う」
普通の傷じゃない、という言葉にナツキはハッとして顔を上げようとした。引きつるような痛みが半身を刺激する。「無理しないほうが」と押し止めたアスカを振り切るような形で、ナツキは目を向けた。
そこにはもはや見る影も無く破壊された痕があった。床が抉れるなど当然の事で、壁が崩落し、黒かった床と壁は残らず剥がれ落ちている。焼け焦げた痕がそこらかしこに残っており、残骸という言葉を想起させるのには充分だった。その残骸の中、立っている背中を見つけた。
「……カメックス」
呼びかけた声に、カメックスが肩越しに視線を向ける。アスカとフランの助けを借りて立ち上がると、カメックスを頂点として三角に床が捲り上げられている。ちりちりと喉を焼く痛みは久方に使うからばかりではない。先程まで、周辺は火の海だったのだ。ちくりと疼痛が脈動し、記憶の海から映像を引き上げる。白い炎が乱舞する中でカメックスは戦っていた。誰と? という問いにナツキはゆっくりと歩き出した。カメックスにも治療がなされたのか、半身が焼け爛れているが今は白い粉末状の何かがかかっている。それが少しずつではあるが、カメックスの皮膚を修復しているのが見て取れた。火傷治しと、回復の薬だろう。
「カメックスはじきによくなる。君のほうが心配だ」
右肩を担いだフランが眉根を寄せて目を向ける。反対側のアスカも同じような顔をしていた。どうやら相当に心配をかけたらしい。声がほとんど出せないために、「すいません」と口中に謝り、ナツキは正面に顔を向けた。
巨大な赤い隔壁へと二つの傷があった。どちらもドリルのように回転しながら食い込んだらしい。片方は遮られた向こう側の景色が垣間見えるほどだった。そこでようやく、「ハイドロカノン」を命じた事を思い出し、カメックスへと再び振り返った。カメックスの色は今までのような黒ではない。誰もが持つ普通のカメックスの青色になっていた。その視線を読み取ったアスカが応じる。
「色の変化で何かが変わったという事はないみたい。それに、ほら。見て」
アスカがカメックスの膝を指差した。視線を向けると、膝頭から滲むように黒くなっている。浸透するような黒は怪我の類ではない。皮膚の色に違いなかった。
「黒に徐々に戻りかけているのよ。時間はかかるでしょうけど。何が起こっているのか、私には全然分からないし、博士に聞かないとどうにもならないけど」
「……博士、無事なんですか?」
ようやく掠れながらも声をまともに出すことが出来た。いがらっぽい声は、まるで自分の声ではないように思えた。アスカが頷く。
「どうやら無事みたい。今は地上を目指していると思うわ。私達が代わりに見に来たんだけど、どうやら意味は無かったみたいね」
「そんな、事、ないです」
詰まりながら言葉を発する。だが、どうにも思考がぼやけているために確信を持って喋る事が出来ない。アスカは微笑んで、「強いのね」と言葉を発した。
その言葉にナツキの思考にある人物が浮上した。その人物とつい先程まで話していた気がする。今までにない近さで。ようやく辿り着けた場所で。ナツキは「ハイドロカノン」の着弾点へと目を向けた。巨大な赤い隔壁に亀裂が走っている。その前に、横たわっているポケモンと女性を見つけた。白い着物を認めた瞬間、記憶が洪水のように溢れ出した。どうして意識の埒外に置いていたのだろう。視界に入れないようにしていたのだろう。ナツキは二人から手を振り払い、走り出した。その背中に声がかかる前に、倒れ伏している人物へと駆け寄った。膝を崩し、「ああ」と呻く。白い布が解けて髪を乱しているが見間違えようが無かった。
「……チアキさん」
呼びかけてもチアキは答えなかった。身体を揺すってみるが起きる気配はない。ナツキはチアキの名を呼びながら揺すぶり続けた。
「チアキさん。そんな、そんな……」
「チアキさんは、私達も手を尽くしたわ。バシャーモには生体反応があった。でも、チアキさんには……」
濁した語尾が、最悪の事態を想起させた。思わず揺する手に力がこもり、急いたような口調になる。
「チアキさん。あの時、笑ってくれたじゃないですか。なのに、どうしてです? 戻ってくる場所ならありますから。帰れるんですよ、チアキさん。だから、目を開けて。目を……」
ナツキの頬から熱い雫が伝い落ち、チアキの額にかかった。ナツキは目元を拭って必死に押し止めようとするが、溢れた思いは涙になって容赦なく降り注ぐ。
「ハイドロカノンの一撃は当たっていない。だが、バシャーモに掠りはしたはずだ。それまでにもフレアドライブの酷使や、ブラストバーンの反動があった。そのための、ショックで――」
「やめてよ!」
フランの言葉を遮り、ナツキは頭を振った。何も聞きたくない。何も信じたくなかった。現実を許容するにはあまりに重過ぎる。先程まで心を通い合わせられたのに。意識の海でたゆたったのは何のためだったのだ。これから分かり合うためのはずだ。何もかもこれからなのだ。チアキの人生も、自分の人生も。だというのに、こんなところで終わらせたくなかった。ナツキはチアキの頬へと手をやる。氷のように冷たかった。首筋へと指を向かわせるが、脈動の一つも感じられない。それ以上に、自分の感知野がここに生きている人間はいないと物語っている。今のチアキは空っぽの肉体だった。
「……でも、こんなの。呆気なさ過ぎるよ、チアキさん」
もっと叱って欲しかった。もっと教えて欲しかった。強くなる術を。戦いだけではなく、本当の意味で、トレーナーとしても女性としても強くいられるために。しかし、何も出来なかった。悔しさに拳を握り締める。その時だった。
――ナツキ。
不意に差し込んだ声に、ナツキは首を巡らせた。今の声は聞き覚えがあった。耳を澄ませて、もう一度その声を聞き取ろうとする。すると、感知野の網がその声を拾った。
――ここだ。
ナツキが振り返る。すると、バシャーモが俄かに起き上がった。その眼差しは蒼くない。正常に戻っている。その眼がナツキを見下ろす。戦闘の眼ではない。初めて見る、穏やかな眼差しだった。
――ナツキ。私はここだ。
鼓膜ではなく全身を震わせる声にナツキは口元に手をやって立ち上がった。
「……嘘、でしょう」
――本当だ、ナツキ。私はここにいる。
その声はバシャーモからのものだった。バシャーモの内奥からチアキの声が響いているのだ。ナツキはよろめく足でバシャーモへと歩み寄った。
「チアキ、さん、なんですか。どうして、バシャーモに」
――私の意識はバシャーモと同一化したらしい。月の石の力だな。だが、そう長くはない。
「えっ」と発した声に、バシャーモがゆっくりと手を持ち上げた。その手でナツキの頭を優しく撫でる。心強さを感じさせる意思が指先から感じられ、ナツキはチアキが本当にバシャーモの中から対話している事を確信した。
――今の私は、言わば残留思念だ。行くべきところがあるらしい。ここに留まっていてはならないようだ。
「そんな……! チアキさん。嫌です。私を一人にしないで」
――一人じゃないさ。貴公には誇れる仲間がいるじゃないか。私など必要ないくらいに貴公は強い。もっと、胸を張るんだ。
「私、まだまだなんです。もっとチアキさんと一緒にいたかったんです。チアキさんと話したかった。まだ、本当のポケモンバトルもしていない」
――その事は、心残りだ、ナツキ。だが、バシャーモには貴公の言う事をきくように伝えておこう。貴公のポケモンとして、共にあることを。
「チアキさんがいいんです!」
ナツキはバシャーモにすがりついた。バシャーモじゃない。チアキだからこそ、自分はここまで来られたのだ。だというのに、目標を見失ってしまう。
――ナツキ。貴公はもう充分な強さだ。それで救うべき人もいる。いいんだ、ナツキ。私はあるべきところに行くだけ。それに、もう満足なんだ。貴公の、宝石のような覚悟を見られた。それが何より嬉しかった。
チアキの言葉にナツキは頭を振った。違う。そういう事じゃない。もっとチアキと共にいたい。それだけなのだ。この人は強さなんかに話をすりかえて、自分をただ褒めてから、行ってしまうに違いない。不器用なのだ、この人は。ただ一言だけ言ってくれればいいのに。
「――チアキさん。私はチアキさんの事が大好きでした」
女としてもトレーナーとしても。チアキはその言葉を受け取ったのか否かは分からなかったが、フッと笑ったように感じられた。
――私もだ。貴公の……いや、お前のような奴に会えた事が、私の人生の僥倖なのだろうな。さよなら、ナツキ。
その言葉を最後に、感知野はバシャーモの意識しか捉えなくなった。バシャーモが惑うように天を仰いだ。カメックスも同じ方向を見上げている。アスカは今のやり取りが聞こえていたのか、沈黙の後に顔を伏せ静かに泣いた。フランは今の邂逅が聞こえていないはずだったが、感じるものはあったようで二体のポケモンと同じ方向を見ていた。
ナツキも顔を上げる。戦いという楔から解放されたチアキの魂は、青い輝きの翼を得て、どこまでも飛んでいくのが意識の眼でなく本物の眼でしっかりと映った。ナツキは目元を拭い、その言葉に応じた。
「さよなら、チアキさん。そして、どこかで、また」
別れではない。いつはまた会える。永遠の別れは、また会える事の兆しでもあるのだから。
その言葉にチアキが振り返って笑みを返した気がした。