ポケットモンスターHEXA











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グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 四十一節「未来という名の答え」
「……何だ、これは?」

 思わず出た声に、アヤメが後ろから覗き込む。

「どうしたの?」

 博士は何度もスクロールする文字群と、端末に表示されている文字を確認した。だが、文字群は赤く表示されており、数字が点滅している。端末にはエラーの文字が赤い帯と共に表示されていた。博士は「信じられない事だが」と前置きしてから言った。

「さっきまでナツキ君のいた区画の温度が、今、モニター出来ない温度に変わった」

「モニター出来ない温度って、いくらなの」

「……いや、私の口からはとても」

 博士はゴーグルが示す温度を見たが、何度も頭を振った。こんな温度はありえない。もし、直撃を受けているとするのならばポケモンもトレーナーも無事では済まない温度だった。ポケモンが受けているのならば、確実に火傷を負っている。悪ければショック死だ。トレーナーが受けているのならば、焼け死んでいるであろう温度だった。

「こんな高熱の技を繰り出せるポケモンは、限られている。最初の三匹のうちの炎タイプのポケモンだ」

「最初の三匹というと、トレーナーが旅に出る前に渡されるって言う……」

「ああ。カントーではヒトカゲ、ジョウトではヒノアラシ、ホウエンではアチャモ、シンオウではヒコザル、イッシュではポカブ。この三匹のうち、どれかが相手。もし、敵がチアキさんなのだとしたら、アチャモの進化系、バシャーモという事になる」

「強いの?」

 アヤメの問いに博士は「分からない」と首を横に振るしかなかった。

「強いかどうかは主観だからね。ただ、最強の技というものがある。高威力の、最初の三匹しか覚えない技の一つ。炎最強の技、ブラストバーン。これが放たれたのだとしたら、エラー表示も頷ける」

「そんなに強力な技なの?」

「使いこなせば、の話だ。器でなければ、この技は習得できない。逆に器にさえなれば三匹はいつでもこの技をトレーナーのために発現する。ある意味、トレーナーの強さの証だね」

「その、ナツキさんを見にいきましょうか?」

 その声に博士はゴーグルを外して振り返った。ディルファンス構成員の一人が歩み出て口を開いていた。

「博士はここで空中要塞のハッキングを行わなければなりませんし、我々ならばいつでも行けます」

 どこか覚悟した面持ちだった。まさか死地を見つけようというのか。ありえない話でないだけに、博士は立ち上がった。

「だが、どうなっているのか見当もつかない。それに、この空中要塞の構造は複雑だ。案内がなければ、どうしようもない。端末を繋いでなければ、現在地など分からないからだ」

「では、端末を持って――」

「いや、この場所からハッキングしているからここまで情報が引き出せたのだろう。他の場所でハッキング出来るかどうかは分からないし、そう都合よく敵が運ばせてくれるとは思えない。進路上で敵を行き会えば、それこそまた殺し合いだ。……嫌なんだよ、私は。君達のような若者が命を潰し合うなんて」

 勝手な感情の押し付けだったが、誰も言葉を返そうとはしなかった。キシベと自分のように憎しみあってはならない。禍根を未来に持ち越してはならないのだ。ここで誰かを殺せば、その誰かの親しい人とまた殺し合う。憎しみの連鎖は断ち切れない。ようやく自分の因果を断ち切れたのに、また因果を増やすのは彼らのためにも自分のためにもあってはならなかった。

「では、どうすればいいのです? 敵を撃ってはならない。ならば、敵に撃たれろと?」

 違う、と叫び返したかったがその論理もまた正しかった。言葉が出ずに口を噤む。覚悟を抱けとは、言葉にすれば簡単だ。だが、いざ実行するとなれば様々な障害がある。ナツキ達のように誰もが真っ直ぐにいられるわけではないのだ。博士が言葉を選びあぐねていると、不意に背面の扉が開いた。思わず振り返る。それと同時に二匹のポケモンが扉から躍り出た。緑色で細い体躯なのは同じだが、片方は攻撃的で男性的なフォルム。もう片方は女性的で柔らかなフォルムだった。博士は頭の中にそのポケモンの名を思い出す。エルレイドとサーナイトだ。どちらもキルリアから進化するポケモンである。

「動くな」と放たれた声に、博士は「まさか」と呟いた。扉から現れた二人も博士を見て、目を見開いた。

「博士。……どうして」

 そこにはフランとアスカがいた。アスカの洗脳は既に解けているようだった。エメラルドブルーの瞳が正常な光を宿している。疑問の声に、聞き返したいのはこちらのほうだった。

「君達こそ、どうして……」

 フランとアスカはディルファンス構成員とアヤメと自分を見ている。ポケモン達の射程距離に入っている自分達は抵抗しようがない。たとえ、フラン達がヘキサに寝返っていたとしても。ありえない、と否定しきれない自分が悲しく、博士は黙したまま顔を伏せた。

「博士。ここからハッキングしていたのは誰です?」

 フランの問いかけに、博士は「私だ」と一歩踏み出した。

「博士が? どうして?」

「君達こそ、どうしたんだ? アスカさんは、その、キシベの洗脳は?」

 窺うように放った声に、アスカ本人が応じた。

「解けています。さっき、ヘキサ戦闘ブリッジでフランと共に交渉しました。ヘキサはカントー進軍を取りやめます」

「……ヘキサが?」

 寝耳に水の言葉に博士は状況が飲み込めずにいた。フランがそのままの位置で言う。

「今、反転用の推進剤を使って出来うる限り、カントー本土から離れようとしている最中です」

「何てことだ。私達は電磁浮遊機関を止めれば、と思ってここまで来たんだ」

 その言葉に二人は顔を見合わせ、ふぅと息をついた。構えていたモンスターボールを下げ、「なるほど」と呟く。

「お互いに同じ目的で、微妙に噛み合わなかったわけですか」

「……面目ない」

 何故だか申し訳ない気持ちになり、博士は頭を下げた。フランが顔の前で手を振り、「謝らないでください」と言った。

「勘違いしていたのは僕らも同じです。それよりも、博士。怪我を……」

「えっ? ……ああ」

 端末操作に夢中になってすっかり自分の怪我の程度を忘れていた。ペラップが敵意を持っていないせいか、平時ならばほとんど顔の傷は痛まない。銃で撃たれた傷も塞がっていて痛み自体は薄らいでいた。

「私は大丈夫。怪我ならフラン君、君だって」

「僕は、気合で何とかしてますよ」

 この青年には似合わぬ言葉だな、と博士は感じた。アスカが歩み出て、「それよりも」と言葉を被せる。

「今すぐにハッキングをやめてください。ブリッジの人々が不安がっています」

「ああ、でも、ナツキ君が……」

「ナツキさんが、どうかしたんですか?」

 フランの声に博士は端末へと視線を向けた。

「彼女の安否が分からない。今のままじゃ、安心できないんだ。端末で部屋の様子を見るしか方法がない」

 二人は博士から事の次第を聞いた。ナツキが恐らくチアキと戦闘中だという事。安否を確認できる人員がいないという事も。その言葉を聞いたフランが「だったら」と声を上げた。

「僕らが行きますよ」

「でも、君達はヘキサの団員との交渉が」

「彼らなら大丈夫です。裏切る事はないでしょう」

 アスカの声に博士は疑問を抱いた。今まで散々裏切り裏切られを繰り返してきた人間の言葉に、信憑性は無かった。アスカも沈黙からそれを察したのか、表情を曇らせる。

「……博士の、言いたい事は分かります。でも、これからは人を信じて、自分でやれる範囲の事をやっていこうって思ったんです。背伸びも卑下もせずに」

 アスカの言葉は嘘が混じっている気配はなかったが、承服しかねていると、アヤメが耳打ちした。

「この人は嘘を言ってないわ、博士」

 肩越しにアヤメを窺う。アヤメは横目でアスカを見ていた。アスカは不思議そうに首を傾げている。

「どうして、言い切れる?」

「私には分かるのよ。嘘かどうかぐらい。アヤノの中で散々見てきたもの。嘘つき達をね」

 その言葉には不思議な説得力があった。アヤメの言葉に結果的に押される形で、博士はアスカを見た。アスカは今までのように真っ直ぐな視線は投げてこない。きっと、これが本来の彼女なのだろうと博士は思った。

「分かった。座標を教える。サーナイトとエルレイドならば、複雑な場所も行けるだろう。よろしく頼む。傷薬を渡しておく。ナツキ君とポケモンの回復も」

 博士は端末の画面を二人に向けた。サーナイトとエルレイドに座標の詳細を告げる。構成員から回復薬を受け取り、二人に手渡した。二匹から青い光が立ちのぼり、二人を包み込むと足元からその姿が溶けていった。

「気をつけるんだぞ」

 そう言うと、フランは白い歯を見せて笑った。彼らしい仕草だ、と思った。アスカはというと、弱々しく笑んだだけだった。まだ本当の彼女を知らないが、きっとその一歩なのだろうと思った。

 二人の姿が完全に消え去ってから、端末を抜き取り、ディルファンス構成員達とアヤメに向き直った。

「さぁ、私達は地上を目指そう。彼らも戦っているはずだ」

 その言葉にぞろぞろと歩き出す集団の最後尾で、博士はアヤメに尋ねた。

「どうして、嘘じゃないと分かったんだい?」

「あれは、嘘よ」

「え?」と聞き返した博士へとアヤメは冷ややかな視線を投げた。

「ああしなければ、どうにもならなかったでしょう。嘘も方便、という奴ね」

 肩を竦めてみせるアヤメに呆然としていると、アヤメは博士の目をすり抜けるように歩き出した。しばらく、博士は開いた口が塞がらず、ペラップの「早くしろ」と急かす声にようやく我に帰った。

















「テレポート」は天地が逆転したような感覚に襲われる。

 実際に上も下もない空間を行き来しているのだから当然ではあるが、その感触にフランは未だに慣れていなかった。不意に足裏に感じる地面の感触や押し付けてくる重力でようやく正気に帰れるといった具合だ。「テレポート」の間は酩酊状態に近い。今、その状態から引き上げたのは重力や地に足をつけている感覚だけではなかった。鼻をつく強烈な異臭に顔をしかめる。隣に降り立ったアスカもその臭いを感じたのか口元に手を添えた。その仕草はただ単に臭いに嫌悪感を催しただけではないのだろう。目の前の光景に、二人は目を戦慄かせた。

 一面が黒だと思えた床や壁が剥がれ落ちている。白い炎がそこいらで燻り、生物の如くのたうった。黒と白の対比が眼前に広がり、パチッと何かの弾けた音でようやく全体の把握にかかった。見たところ奥の巨大な隔壁を守るための部屋であるらしい事は分かる。広大な空間だったのだろうが、見る影もなかった。床が残さず捲れ上がり、壁も片側が崩落している。喉がひりひりと痛む。それは視界を埋め尽くす白い炎の津波が証明した。壁のように屹立した炎の波が黒かった景色に鮮烈な白を添えている。炎熱地獄と化したこの場所で生きている人間がいるとは到底思えず、フランは唾を飲み下した。

「ナツキさんは……」

 濁した語尾に、アスカの顔色にも苦渋が浮かんだ。遅かったか、と言いかけた口を噤み、アスカは一歩踏み出そうとした。

 その時、肌を粟立たせるプレッシャーの波を感じた。圧が額を貫いたような感覚に、フランはアスカへと手を伸ばした。不意打ち気味の行動にアスカが面食らって尻餅をつく。アスカを守るように踏み込んだフランが、エルレイドと共に前を見る。灼熱の炎が揺らめく中、立っている影があった。

 猛禽の特徴を引き移した嘴と鉤爪、V字型の鶏冠。だが、他の部分は鳥というよりも成人男性に近い。まさしく戦士と呼ぶに相応しい相貌が垣間見えた。その身体から白い炎が迸っている。バシャーモだった。フランは身構える。フランの感情を読み取ったエルレイドがくの字の定規のように曲がった肘を翳す。肘から手へと紫色の残像が伝った。戦闘態勢に入っている事を見抜いているのか、こちらへと振り向くバシャーモの動きには隙というものが全く無かった。右手に提げている獲物に目が行く。炎の刀だった。今も腕から伝った白い炎が波打ち、刀身を白く煌かせる。揺らめく炎の波の中に、バシャーモが身体をゆらりと傾がせた。

 好機、と取ってエルレイドに命令を出そうと口を開く。

「エルレイド、サイコ――」

 その言葉を言い切る前に、バシャーモの姿が白い残像を引いて眼前にあった。突然の事に反応が追いつくはずもない。エルレイドが「サイコカッター」の腕を振るう前に、虫でも振り払うかのように放ったバシャーモの左手が、エルレイドの身体をゴミのように吹き飛ばした。エルレイドの身体が地面に数度叩きつけられた後に、壁に激突する。白い煙を棚引かせたエルレイドは一撃で瀕死に近い重傷を負ったのだと知れた。フランが「……エルレイド」と声を出す前に、炎の刀が首筋へと突きつけられる。息が出来なくなった。これほどの実力差を見せ付けられたのは初めてだった。命令どころか反応すら追いつかない。タイプ相性や素早さの能力値などまるで無視した目の前の圧倒的存在にフランはなす術も無くへたり込んだ。

 ――勝てない。

 その感覚が思考を支配し、何も考えられなくなる。白い炎を纏う炎熱の悪鬼が蒼い眼をぎらつかせてフランの首を狙う。バシャーモは炎の刀の刀身を返し、それを振りかぶった。一撃で炭化する。その未来が容易に浮かび、フランは思わず目を瞑った。

 その時、出し抜けにバシャーモが苦しげな呻き声を上げた。目を開けると青い光がバシャーモの身体に纏わりついている。それがバシャーモの関節の動きを制しているのだ。振り返ると、蒼い眼の光を宿したアスカが手を前に翳している。サーナイトから青い光が発し、バシャーモを絡め取っていた。

「――サイコキネシス。月の石の力を与えてくれた事、今だけ感謝するわ。おかげでバシャーモを封じられる」

 バシャーモの筋肉が軋みを上げる。「サイコキネシス」で締め付けているのだと分かり、フランはそのまま後ずさった。

「早く、下がって! サーナイトでもこのバシャーモは長い間押さえつけきれない」

 フランは立ち上がり、アスカと並ぶようにバシャーモを見つめた。改めてみれば、バシャーモは手傷を負っている。V字の鶏冠には皹が入っているに加えて、白い炎も噴き出してはいるが満身創痍の部分もある。今ならばうまく事が運べるか、いや、それよりもナツキの身は――。

 考えている間にもバシャーモはミシミシと筋肉を軋ませ、炎の刀を振り下ろそうとする。アスカは歯噛みして叫んだ。

「このバシャーモ、生半可な強さじゃない! トレーナーが近くにいるはずだわ。そうじゃなければ、こうも強い思念が送れるはずがない」

「……ナツキさんの求めていた目的、チアキさんか」

 チアキの姿を必死に探そうとするが、炎の壁に隔てられてまともに対岸の景色を見る事すら困難だった。フランはエルレイドへと手を伸ばし、叫んだ。

「エルレイド、テレポート!」

 エルレイドのよろめきながらも起き上がり、その場で光の余韻を残して掻き消える。次の瞬間には、バシャーモの背後にエルレイドが身を躍らせていた。余力はほとんどない。一撃で決めるしか、この状況を打破する方法はない。エルレイドの肘から手にかけて紫色の波動が残像のように幾重にも重なり、エルレイドは腕を振り上げた。

「エルレイド、サイコカッター!」

 振るった腕の残像がそのまま相手を切り裂く波動の刃となり、エルレイドは「サイコカッター」を纏った手を打ち下ろした。バシャーモの背中に命中した「サイコカッター」が鋭く食い込む。「サイコカッター」はエスパータイプの技だ。格闘タイプを持つバシャーモには効果抜群のはずだった。加えて「サイコキネシス」で動きは封じられている。「サイコキネシス」もまた、効果抜群の技だ。エスパー攻撃の猛攻に普通のポケモンならば耐えられるはずがない。

 だが、バシャーモは足に力を込めて踏ん張った。足元の床が抉れ、食い込んだ爪が破片を飛ばす。バシャーモは一瞬よろめいたが、その眼差しから蒼い輝きが失せる事はなかった。攻撃の隙が出来たエルレイドの身体を引っ掴んだと思うと、バシャーモはエルレイドの身体を床へと叩きつけた。エルレイドの華奢な身体が折れ曲がり、何かが砕ける嫌な音が響く。骨盤が砕けたのかもしれなかった。「サイコキネシス」の呪縛を、バシャーモは雄叫び一つで掻き消した。青い光が霧散し、破られた衝撃がサーナイトとアスカを襲った。アスカが短い悲鳴を上げて、その場に膝を落とす。サーナイトの眼から蒼い光が失せた。バシャーモは炎の刀を両手で握り締めた。エルレイドへと必殺の一撃を叩き込もうというのだ。その衝撃波で自分達もろとも消し去る算段なのかもしれない。バシャーモの眼は正常ではなかった。狂気に沈んだ瞳が小さなトレーナー二人とポケモンを睥睨する。

「……勝てない」

 短く呟いた声を掻き消すように、炎の刀をバシャーモが身の裂けるような叫びと共に振るい落とした。

 その瞬間、空気を割る音と共に水の砲弾が炎の海の中から弾き出された。バシャーモが即座に反応し、振り返ると同時に薙いだ刀で蒸発させる。直後、蒸気が炎を呑み込むようにわき上がり、高速で空気を巻き込む音が聞こえてきた。アスカとフランに完全に背中を見せる形で、バシャーモが刀を正眼に構える。まるで眼中になどないように。

 サーナイトに指示を飛ばそうとした、刹那、空気を巻き込む音源が飛び上がった。

 それは銅鑼のような形をしていた。

 蒸気を四肢の部分から噴出しながら飛んでくるのを見て、ようやくそれが甲羅だと判ったアスカ達へと真っ直ぐに突っ込んでくる。甲羅が水の刃を出して竜巻のような勢いを伴い、猛進してくる。バシャーモが炎の刀を振り上げ、甲羅へと打ち下ろした。鋭い音が反響し、炎の刀と水の刃がぶつかり合った事を、まだ状況理解の追いついていない頭に分からせる。甲羅は失速し、弾かれてバシャーモと向かい合うように四肢を開いて頭を出した。カメックスだった。だが、その半身には異様な傷跡があった。カメックスの身体の半分が焼け爛れて、顔は醜く引きつっている。甲羅には所々に皹が入っていた。血が滲み、隙間から蒸気と共に血飛沫も舞う。肩を荒立たせ、罅割れた砲身を突き出している。満身創痍、という言葉を想起させるのには充分だった。

 その時、小さな声が聞こえてきた。後方からだ。二人が同時に目を向けると、小さな影が横たわっていた。フランが先に立ち上がり、影へと歩み寄る。そこにいたのはナツキだった。苦しげな呻き声を上げ、うつ伏せになっている。片手を必死に伸ばそうとしているが、痛みが走るのかその手が震えた。

「ナツキさん!」

 フランはナツキの身体を抱え起こした。瞬間、うっと呻いた。アスカが駆け寄ると、口元に手を当てた。ナツキの身体の半分をカメックスと同じ、火傷の痕が侵食していた。顔まで至った火傷に思わずアスカが目を逸らす。フランはナツキの肩を抱えたまま、「どうして、ここまで……」と呟いた。

「どうして、こんなになるまで戦ったんだ! ナツキさん!」

 その声に瞑りかけていた瞳を僅かに開いて、ナツキは喉から声を搾り出そうとした。片目は開いてはいるが、どこかあらぬ方向へと視線を注いでいる。視えていないのか、と判ったフランは、ナツキの肩を揺らした。

「ナツキさん! なんでこんな事に……」

「……な、んで、でしょ、うね……」

 途切れ途切れに掠れた声を漏らす。それはほとんど呼吸音と大差なかった。瞳が閉じかけ、フランは再度、ナツキの身体を揺らし「気をしっかり持つんだ」と言った。

「今ならばまだ間に合う。応急処置ならばエルレイドとサーナイトで運んで――」

「駄目、です」

 はっきりとした口調でナツキは言い放った。フランが目を剥いていると、ナツキはフランの身体に手を当てた。押し退けようとしているのだ。フランは覚えず手を緩めていた。

「駄目、って……」

「私、は……。自、分で、決めたん、ですか、ら……」

 ナツキの眼に光が宿っていく。活力の光とも、未来を切り拓く強さの象徴とも取れる強い眼差しに、たじろいだのはフランだった。

「だが、君の身体はカメックスと同じ部位に傷が」

「傷、なんて……」

 力を入れかけて苦しげに身体を折り曲げたナツキは火傷の部位を押さえた。歯を食いしばり、目を強く瞑ってその痛みに耐えている。眼の端には涙が溜まっていた。それを見て、フランはかける言葉を見失った。この少女はどこまで戦うつもりなのか。カメックスと同調し、これだけ不利な形勢になっても諦めないのは何故なのか。自分にはない何かに、恐れすら抱いた。

「……カ、メック、ス」

 その声に呼応したようにカメックスが雄叫びを上げた。両手を開き、天に向かって吼える。バシャーモがその咆哮に共鳴したように叫び、刀を振り落とす。カメックスは腕から噴射させた水流と蒸気で、半身になって刀を間一髪で避ける。その勢いを殺さずに、さらに蒸気と水流を噴射し、カメックスはバシャーモへと突っ込んだ。凍結した片手を突き出している。バシャーモは凍結した拳に片手を乗せ、カメックスを跨ぐように跳び越えた。背後に回られたと察知したカメックスが即座に突き出していた腕の側からと、砲門から水流を噴出し、反転した身体の真正面にバシャーモを捉える。バシャーモは炎の刀を片手に鉤爪を突き出していた。その鉤爪も灼熱の白い炎に包まれている。凶暴な光を宿した一撃がカメックスの肩口から胸元へと切りつけた。

 ナツキが仰け反り、口を開いて声にならない叫びを上げる。見ると、ナツキの肩口から赤い傷跡が新たに生まれていた。今しがた刻まれた傷跡はナツキの身体へと深く食い込んでくる。それがカメックスとの同調によるものだと理解したフランはナツキの肩を掴んだ。

「カメックスとの同調を切るんだ、ナツキさん! そうじゃなきゃ、食い殺されてしまうぞ!」

 フランの言葉にナツキは荒い息をついて、首をゆっくりと横に振った。フランは理解出来ないとでも言うように激しく首を振る。

「何故だ。何故なんだ、ナツキさん! どうして君はそうまで強くあれる? 一体、誰のためなんだ!」

 ナツキはその言葉に、掠れた呼吸音を漏らした。フランがナツキを抱き、耳元を口に寄せる。その耳に、今にも消え入りそうな声が届いた。

「誰の、ためでも、ない。私、自、身の、ために……」

 フランが身体を離してナツキの顔を見る。ナツキはカメックスへとゆっくり顔を向けた。視線の先を追うと、カメックスがバシャーモの猛攻から逃れきれずにいた。動きが鈍くなり、炎の刀を紙一重で避けるものの飛散した火花が体表を焼いていく。バシャーモが片手を伸ばし、カメックスの身体を引っ掴んだ。逃れようと砲門を向ける前に、地を蹴って前進したバシャーモの膝蹴りが鳩尾へと食い込んだ。

 ナツキが咳き込み、唇の端から血を垂らす。フランはナツキの姿に首を横に振った。こんな姿になってまで戦うものじゃない。勝ったとしても自己犠牲だ。どうして、という思いが突き立ち、フランはエルレイドに指示を出しかけて、立ち塞がった影に口を噤んだ。アスカだった。掲げかけた指をアスカが握り、頭を振った。

「私達に手出しは出来ない」

「どうしてですか、アスカさん。だって、彼女はもうこんなにも傷ついて」

「傷ついていても、彼女は歩む足を止めない。ここで手出しをして勝てば、彼女は永遠に敗北してしまう。誰でもない。己自身に。私にも、分かる。かつて彼女のようにしゃにむに進んだトレーナーだったから。無謀も、無茶も、甘んじて受け入れた。全て自身の誇りのために」

「……矜持を胸に抱いて死ねたら、満足だと言うんですか」

 フランは顔を伏せてナツキを抱いた。ナツキの眼はカメックスとバシャーモとの戦いを見据えている。その眼差しすら、すぐ目の前の風景を見ていないように見えた。これでは月の石で同調した人間と同じだ。我を忘れて、暴走する。

 フランの言葉にアスカは「いいえ」と言い、目を瞑って一呼吸置いた。

「誇りと矜持は違うわ。誇りは自分のため。矜持は自分以外の誰かのため。彼女は今更、どうでもいいプライドを振り翳したりはしない。未来への希望を全て一身に受けている。その姿は、そうね、自己犠牲の精神にも見えるわ。でも、それだけじゃない。きっと、もっと別の何かが」

「別の、何か……」

 漠然とした言葉に、フランは顔を上げた。カメックスが全身から蒸気を迸らせ、膂力を増したバシャーモと同等に戦っている。炎の刀が直上から打ち砕く一撃を与える寸前、砲門と腕から水流を撃ち出し、カメックスは後退した。だが、その後退した距離は炎の刀のリーチのギリギリのところだ。もはや床とは呼べない地面を抉り、炎の刀が燃え盛る。カメックスは背面の甲羅からも蒸気を噴き出し、距離を詰めると、凍結した拳をバシャーモの胸元に打ち込んだ。バシャーモがよろめき、白い炎の勢いが落ちる。

 灼熱地獄の中、二体のポケモンがお互いの主の思惟を受けて向かい合った。


オンドゥル大使 ( 2013/05/15(水) 22:17 )