ポケットモンスターHEXA - グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 四十節「因果」
 ポケモン図鑑の通信を切り、だらんと下げた手の中に収まった繋がり一つを感じる。

 もう使う事はないかもしれない。そう感じたのは目の前の巨大な扉の前にいる人間が放つ強大な気≠フせいか。越えられない壁、押し寄せてくる津波、どうとでも形容できるが、そのどれでも共通するのはその先に行くために超えなければならない障害だということだ。

 ナツキはその視界の中にその姿を認めた。赤く巨大な隔壁の扉の前に白い着物が幽鬼のように揺らめいている。白い布で長髪を結っており、しなやかな身体が影の如く屹立する。

「――チアキさん」

 発した声に、チアキは表情のまるで読めない顔を上げた。無感情の海の中、ぽつりと違和感が浮かぶ。それは眼だ。蒼い光を湛えた瞳が感情のない顔に相応しくない。チアキはようやくナツキに気づいたとでも言うように口を開いた。

「久しいな。ミサワタウンのナツキ」

 三日前と同じ言葉に、ナツキは何も言わなかった。チアキの時間はどこで止まっているのか。もしかしたらナツキと会った事が記憶から消されているのかもしれない。振袖の内側からモンスターボールが飛び出す。鎖が交差したボールを掴んで、チアキはそれを翳した。

「貴公とはもう一度、戦ってみたかった」

「……私は、チアキさんと戦いたくありませんでした」

 同じ言葉に対して、違う言葉を返す。チアキは眉根を寄せた。既視感を覚えてくれたのだろうか。それともただ単にナツキの言葉が気に入らないのか。ナツキはカメックスへと手をやった。カメックスはこの場所に来るまで充分に頑張ってくれた。立ち塞がる隔壁を水圧砲で破壊し、ナツキの全てに応えるように戦ってくれた。今ならば、カメックスを信じられる。戦いに臨む事に迷いはない。

「でも、取り戻すために戦います。もう、逃げたりしない。私とカメックスならば、それが出来る」

「それが、貴公の答えか。ミサワタウンのナツキ」

 頷いた瞬間、モンスターボールに絡み付いていた鎖が外れた。継ぎ目から赤い光が射し込む。全てを焼き焦がす紅蓮の炎の輝きが十字に煌き、緊急射出ボタンが押し込まれる。モンスターボールが手の中で割れ、炎を身に纏った人型が鋭い光の奔流と共に躍り出た。

 赤と白を基調とした身体。人に限りなく近い姿。嘴やV字型の鶏冠などの猛禽の特徴が色濃いその身体はまさしく鳥人と呼ぶに相応しい。V字型の鶏冠から火炎が弾き出され、手首と足首から飛沫のような炎が迸った。鋭い眼差しは、主人と同じ蒼い光を宿している。チアキの手持ち最強であり、カメックスにとっては因縁のポケモン――バシャーモ。喉をひりひりと焦がす炎の勢いに呑まれないように、ナツキは眼に力を込めた。カメックスが思わず一歩、踏み出そうとするのを、「まだ」と押し留める。

「戦いに呑まれるんじゃない。私達は、自ら戦いに赴く」

 そうしなければカメックスと繋がっている信頼の鎖が砕けてしまう。どちらかが憎しみで戦ってはならない。正しさや、間違っている事の証明ではない。決着をつけるための戦いだ。

「いい覚悟だ」

 ナツキの眼差しに応じるようにチアキは振袖を振るった。水色の六角形にHEXAの赤い文字が刻まれている。

「それが、今のあなたの答えですか、チアキさん」

 怒りではない。ただ確認の声を投げると、チアキは鼻を鳴らした。

「失望したか?」

「いいえ。私は答えを出しに来たんじゃない。答えを確認しに来たんです。誰でもなく、他でもない自分自身の答えを」

「言うじゃないか。この時を待っていたぞ、ミサワタウンのナツキ!」

 チアキの感情の昂りに応じるように、バシャーモが両手を振るい、雄叫びを上げる。手首の炎から上がった火花がバシャーモを彩った。叫びに相乗したカメックスが前に出ようとするのを、ナツキは「まだ駄目、カメックス」と制した。

「呑まれたら前と同じになる。あの時はチアキさんが私を救おうとしてくれた。今度は私達の番なんだよ」

 カメックスが燻るようなうなり声を上げる。分かっている。因縁の相手を前にして昂る気持ちは。だが、感情のままに戦えばそれは獣の在り方となる。自分達は人とポケモンとして、戦いに来たのだ。獣になれば、それは真の敗北となる。ナツキは息を長く吐いて、気持ちを落ち着けた。トレーナーの動揺はポケモンに予想外の大きさで伝わる。今は落ち着いて、チアキと向き合う時だった。

「チアキさん。私はあなたに救われました」

 ナツキの言葉にチアキは訝しげな目を向けた。記憶が欠落しているのか。それとも当人に救った自覚などないからか。そうなのだろう。救おうと思って救ったわけじゃない。ただ放っておけなかった。それが実情なのだ。

「戦いは失うばかりじゃない。得られるものがあるんだって気づけたんです。カメックスと共に、私はチアキさん、あなたを止めます。今のあなたは我を忘れている。生み出せる言葉もない。言葉を忘れた、獣と同じです。あなたを人間に戻します」

「必要ない。私はこの力に満足している」

 蒼い眼をぎらつかせたバシャーモが威嚇するように叫ぶ。火花が舞い散る中で、ナツキは目を閉じた。暗闇の中、一点の光を見つける。その光を掴み、輝きを灯らせる。それがポケモンと自分とを繋ぐという事なのだ。ナツキは思惟をカメックスへと送った。カメックスは全て理解しているとでも言うように小さく鳴くと、ずいと前に歩み出た。

「正義でも、悪でもない。私の道は、どちらでもない」

 ナツキはその言葉と共に目を開ける。既にカメックスの視界と同一化していた。バシャーモをその視界に捉える。繋がっている。温もりが、身体を満たしていく。これが真に信頼するという事。全てをお互いに委ね、お互いの力を相乗させる。

「いくよ、カメックス」

 カメックスが片足を踏み出し、戦闘態勢を取る。チアキは舞台役者のように両手を広げた。

「来い、ナツキ!」

 バシャーモが弾かれたようにカメックスに向けて走り出す。それと同時にカメックスも足の付け根から蒸気を噴出し、重機のように床を破砕しながらバシャーモへと真っ直ぐに猪突した。両者が突き出した腕を掴み、一歩も引く気のない視線を交差させる。

 みしり、と筋肉が軋み、どちらかの手が潰れるかに思われた瞬間、カメックスは両肩の砲門をバシャーモに向けた。それと同時にバシャーモの手首から迸った炎が腕を伝って肩に至り、身体を包む鎧となった。「オーバーヒート」の膂力に任せ、バシャーモが雄叫びを上げる。

 両腕が炎の鎧ごと膨れ上がり、カメックスの身体を持ち上げた。照準がずれた水の砲弾がバシャーモの足元を砕く。

 バシャーモは両手で掴んだまま、カメックスを振るい上げる。バシャーモの足元が陥没する。

 肩から迸った炎も得て、バシャーモはカメックスを渾身の力で投げ飛ばした。カメックスの身体が宙を舞い、無防備な身体が地面に打ちつけられる寸前、カメックスは四肢を甲羅に仕舞いこんだ。銅鑼のような甲羅が地面を滑ったかと思うと、表面から蒸気と共に水が迸り、回転も手伝って投げ飛ばされた力を相殺する。壁に激突する前に、カメックスは四肢の穴から水圧のジェット噴射を焚かせた。

 水圧がカメックスの身体を浮かせ、飛散した水を叩きつけられた床がたわみ、へこんだ。カメックスは俄かに逆回転を始める。やがてそれが高速ともいえる速度に達したかと思うと、カメックスは湖面を跳ねる石のように地面をバウンドし、やがて勢いを得た甲羅の周囲に水の刃を張った。

「アクアテール」だと即座に察したバシャーモがカメックスへと駆ける。「アクアテール」の刃がバシャーモにかかると思われた瞬間、バシャーモはカメックスを跨ぐように跳躍した。高速回転するカメックスが先程までバシャーモがいた地点を切り裂くのと、バシャーモが着地するのはほぼ同時だった。カメックスは甲羅の中から砲門だけを出して、鉄砲水を弾き出した。圧縮された水の噴射がカメックスの身に制動をかける。カメックスの回転が止まり、四肢を出したカメックスは足を着地させた。

 頭部を巡らせ、背中を向かい合わせた両者が振り返るのは同時だった。カメックスは片方の砲門をバシャーモに向ける。バシャーモは片手を振るった。身体を覆っていた炎の鎧が片手に寄り集まる。カメックスが弾き出した水の砲弾、「ハイドロポンプ」をバシャーモは棍棒のようになった炎の片手で打ち落とした。水の砲弾が弾かれ、天井や床に突き刺さる。着弾点から煙が上がった。

 棍棒の腕を引いてバシャーモが駆け抜ける。カメックスは絶え間なく水の砲弾を放つが、もう片方の手を炎の刃と化したバシャーモに死角はなかった。炎の刃が水の砲弾を切り裂き、蒸発させる。炎の刀身で弾いただけで水の砲弾が逸れ、欠片も残さずに消えていく。

 カメックスは引いているほうの手から冷気を発生させた。空気が凍りつき、カメックスの手が凍結して水色の輝きを帯びる。カメックスの懐へと肉迫したバシャーモが炎の刃を振り上げる。カメックスはその刃に向けて、氷の拳を叩き込んだ。白い煙が上がり、炎と氷がぶつかり合った時に生じる蒸気が二体の姿を覆い隠す。

 バシャーモが煙を引き裂き、棍棒の腕を真下から振るい上げる。カメックスはその一瞬前に身体を沈ませていた。棍棒がカメックスの身体に食い込み、炎の衝撃波を同心円状に広げる。カメックスが痛みに呻き声を上げた。甲殻に皹が入る。カメックスが押さえつけていたもう片方の手が緩み、バシャーモはその拳にも炎を纏いつかせた。酸素を奪いつくす炎の拳がカメックスへと叩き込まれるかに思われた刹那、突然に身体に襲い掛かった衝撃にバシャーモは身をよろめかせる。

 だが、よろめく間もなく、その身体はカメックスに押されるように地面を滑る。バシャーモが目を向ける。カメックスは両足を仕舞い、そこから大量の水流を噴射させているのだ。床が削れ、黒い破片が舞う。バシャーモは逃れようとしたが、食い込んだ拳が仇となり逃れる事すらかなわない。カメックスの砲門がバシャーモの頭部を捉える。

 避けねば、という思考が走る前に、「ハイドロポンプ」の砲弾がバシャーモの頭蓋に激震を見舞った。ほぼゼロ距離で放たれた砲弾の威力は推し量るまでもなく強力であり、バシャーモはまさしく視界が暗く閉じそうになる感覚を味わった。際限なく放たれる砲弾にカメックスが勝ちを確信したのも束の間、バシャーモは口腔内へと赤い粒子を吸い込み始めた。幾つもの赤い筋となり、バシャーモの喉の奥が赤く光る。カメックスは咄嗟に離脱しようとしたが既に遅かった。

 口から放たれた「かえんほうしゃ」の奔流がカメックスをまともに襲ったのだ。全てを焼き尽くしかねない熱がカメックスの体表から水分を奪っていく。からからに乾いた表皮に亀裂が走り、そこから血飛沫が舞った。カメックスが痛みに呻きながらもバシャーモの頭部へと狙いを澄ませる。水の砲弾が届く前に気化するが、火炎放射も届く前に水で消火される。拮抗した戦いは二体が壁に激突した事で終わりを告げた。壁が抉れ、黒い鉄の壁が崩れ落ちる。

 カメックスは四肢から水圧の噴射を行い、回転しながら先に離脱した。着地点の床に皹が入る。バシャーモは現れなかった。崩落した壁の瓦礫から砂煙が舞っている。炎の勢いはない。

 ――勝ったのか。

 胸に湧いた一瞬の感覚を打ち消すように、瓦礫から白い炎が帯となって迸った。炎の帯はまるで巨大な剣のように瓦礫を切り裂いたかと思うと、瓦礫を吹き飛ばしてバシャーモの姿が顕現した。全身に白い炎を身に纏っている。「フレアドライブ」だった。白いバシャーモが戦意を微塵にも失っていない眼をカメックスへと向ける。

「これからが、本番だ、ナツキ」

 今までバシャーモと同一化していたチアキが告げる。ナツキもカメックスと同一化していた意識を小さな自身の身体に戻してチアキと対峙した。白い痩躯と黒い巨躯が向かい合っている。三日前の戦いの再現に、ナツキは口を開いた。しばらくの間使っていなかったかのように、喉の奥で言葉が詰まりかけた。掠れながらも途切れ途切れに口にした。

「……私は、あなたを倒す。ここで、超えられなければ、意味がない」

 思惟を再びカメックスに飛ばす。ピタリと合わさった視界の中に、白いバシャーモが全身から炎を滾らせている。その姿が一瞬にして掻き消えた。どこに、と探す前に肩口に鋭角的な痛みが突き刺さる。いつの間に接近していたのか、バシャーモの手刀が肩を貫いていた。

 カメックスがもう片方の砲門を向ける前に、白い残像を引きながら横っ腹に蹴りが放たれた。炎の蹴り技、「ブレイズキック」に、カメックスの身体が床を滑る。制動をかけようと、足の付け根から蒸気を噴き出すが、その時には既に先回りしていたバシャーモがカメックスの頭部を掴んだ。焼け付くような痛みが顔に広がっていく。このままでは頭蓋が捻り潰されかねない。カメックスは足を仕舞い込み、蒸気のジェット噴射を点火した。

 カメックスの身体が押し出されるように浮き上がる。バシャーモは頭部を引き付け、拳をカメックスの腹部に放った。カメックスは呼吸すら儘ならず、砲門をバシャーモに向ける。

 それに気づいたバシャーモが引いた手の力をそのままに、カメックスを投げ飛ばした。カメックスは投げ飛ばされたと知った直後、全身の隙間から蒸気を噴出し、落下時の衝撃を減衰する。足を再び展開し、カメックスは空中のバシャーモに視線を向けた。

 すると、バシャーモのV字型の鶏冠から光が伸び、青白い輝きがまるで翼のように展開されていくではないか。

 攻撃の予感に、カメックスは身構え、砲門から水圧を押し付ける事によってその場に足を食い込ませた。バシャーモの身体を青白い光が覆っていき、一瞬後には、鋭い嘴のような形状になった。嘴の端から青い翼が左右に伸びる。光の翼がはためき、轟、と空気を揺らした。

 青白い嘴の先端にバシャーモが光を纏って突っ込んでくる。閃光の中に、白いバシャーモの姿が大写しになり、十字の瞬きが空間を切り裂いた。刹那、床が砕け空間が振動した。黒い床の破片がバラバラになって宙に舞う。

 光が晴れた地点でカメックスはバシャーモの蹴りを交差した腕で真正面から受け止めていた。衝撃を減衰しきれなかったのか、爪を立てていたにもかかわらず大きく後退している。カメックスの身体には純粋に衝撃による傷だけではなく破片で切ったような傷が無数にあり、黒い表皮から血が滲み出していた。飛行タイプの諸刃の剣の技、「ブレイブバード」を放ったバシャーモにもダメージがないわけではない。「フレアドライブ」も驚異的な膂力の変わりに体力を大きく消耗する技だ。そう何度も放てる技ではなく、長時間の戦闘は不向きだった。

 カメックスが腕を開こうとする。

 バシャーモはカメックスの身体を蹴りつけ、空中でひらりと身を翻して距離を取った。着地したバシャーモの身体から白い炎が削げ落ちる。カメックスは身体を開き、砲門をバシャーモに向けた。まだカメックスには戦えるだけの体力がある。対してバシャーモは攻撃した側にもかかわらず大きくダメージを受けていた。

 ――今ならば。

 ナツキの思惟を受け取り、全身から蒸気を迸らせたカメックスの砲門へと水が集まってゆく。水はやがて渦をなし、螺旋を描いて削岩機のようになる。水のドリルが砲門の前で回転する。「ハイドロカノン」を放つのは今しかないと思ったのだ。

 バシャーモはカメックスの様子を見ると、両拳を合わせた。白い炎が再点火されたように燃え盛る。「フレアドライブ」かに思われたが、そうではなかった。白い炎が波打ち、バシャーモの両手に集まってきているのだ。白い炎が身体に纏わりつく分は必要最低限になり、代わりに手首から迸る白い炎が大幅に増える。手首を包み込み、白い炎が両掌を行き来する。次の瞬間、バシャーモの両手から炎の帯が迸った。それはすぐさま形状を変え、ある物体を作り出した。カメックスの中のナツキがその光景に目を見開いた。

 刀だ。

 炎で出来た刀をバシャーモは両手で握り締めている。刀身が揺らめき、酸素を根こそぎ奪っていく。炎の刀をバシャーモが振り上げる。呆然としていたカメックスの中のナツキへと、感知野が拾ったチアキの声が揺さぶった。

 ――食らえ。

 その声に我に帰ったナツキはカメックスに避ける指示を出そうとする。しかし、既に攻撃態勢に入っているカメックスが「ハイドロカノン」を中断して回避行動へ移るのには無理があったし、遅すぎた。チアキの声がナツキの感知野に響き渡る。

 ――ブラストバーン!

 バシャーモが炎の刀を振り下ろした。瞬間、刀から発せられた灼熱の剣閃がカメックスの視界とナツキの思考を覆い尽くし、全てを炎熱の彼方へと追いやった。


オンドゥル大使 ( 2013/05/10(金) 21:19 )