ポケットモンスターHEXA











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グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 三十九節「距離」
 ゴーグルと眼との間を隙間無く文字が行き来する。その流れにばかり気を取られていると、手元が疎かになった。慌ててキーを打つ博士へと、声が振りかけられる。

「博士。周囲に敵はいないわ。安心して作業を続けて」

 アヤメが刃のように研ぎ澄まされた言葉を振り翳す。ゴーグルで視界が遮られているために分からなかったが、恐らくはエイパムと共に周囲を警戒してくれているはずだ。今の声も遠くで聞こえたわけではない。じくりと傷口が僅かに痛む。ディルファンスの面々から受け取った人間用の傷薬のおかげで、銃で撃たれた傷は大事には至らなかったが、顔の傷は治せなかった。だが、痛むのはむしろ治療したはずの銃創だ。これも因果の傷跡だと思えば、何とか我慢は出来るのだが、と博士は思った。

 ディルファンスがエイタの埋葬を行っている間、博士は出来うる限り、空中要塞の無力化に当たろうとしていた。地上に至る前に何とかして海上に着水するしか事を穏便に済ませる方法はあるまい。電磁浮遊機関にアクセスし、スクロールする文字群を目で追いつつ、全ての隔壁、ロックされた扉を無力化していく。ゴーグルは小型でありながら、高速演算コンピュータに匹敵するスペックを秘めていたらしい。手元の端末共々、電磁浮遊機関のシステムに直結しているがこれほどの性能だとは思いもしなかった。情報戦でロケット団の一手上にディルファンスがいられたのも頷ける。これだけの情報端末を一個小隊に配布できるほど小型化出来ているのなら、本部にはさらにこれの上を行く性能のコンピュータがあるのだろう。研究者として興味を引かれたが、今はそんな感情に耽っている暇はなかった。

「網膜認証、及び指紋認証、パスワードロック式の扉を全て解除。……すごいな、これは」

 思わず感嘆の息が漏れる。だが、本来の目的はシステムの奥深くにある電磁浮遊システムを掌握する事だ。それまでに無数のプログラムが壁となって立ちはだかる。博士は後から続く皆の手間を少しでも減らすためにそれらのプログラムにも介入を行っていた。キーボードを叩く手を休めない博士へとキシベの声がかかる。

「入り組んでいるだろう。ここは随分前のシステムを使っている。これだけの機構を完成させるのには優秀なエンジニアが多数必要になった。無論、ロケット団はそれらを廃棄処分してきたがね」

 声だけだと本当にキシベがまだ生きていて喋っているように感じる。だが、と博士は頭を振った。キシベは自分の手で殺した。過去の因縁は断ち切られたはずなのだ。ペラップがキシベの声真似をしているに過ぎない。しかし、この先回りする感覚は何だ? と博士は疑問を挟んだ。まるで全ての行動を予期しているかのようなペラップの声は不気味ささえ感じさせる。ペラップはキシベに、自分の行動パターン全てを伝えたとでも言うのか。多いにありうる話だという感覚に、背筋を怖気が走った。

「博士。今、どれくらい?」

「かなり深くまで来ているが、まだ底は見えないな。この空中要塞を支える見えざる足を掴むには至っていない。だから、ナツキ君達が動きやすいように今は扉や地下に通じるエレベーターのロックを解除しているが」

「ナツキ、ね。懐かしい名前」

 アヤメが口にした言葉に、博士は僅かにキーを叩く手を緩め、そちらに意識を向けた。

「そうか。君も、アヤノ君も、ナツキ君達とはしばらくまともに会っていないのか」

「ええ。誰とも会わなかったわ。それが幸か不幸か、こんな形になってしまったけれど。ナツキ達は、私の事、分かっていたと思う?」

「どうかな。私は君達を客観的に見てきたつもりだ。だから分かったのもあるが、実際に戦ってみればまた感触は違ってくるだろう。君の放つ、……なんと言うのか、気は――」

「殺気、でいいわ。気を遣わなくても」

 思わぬ言葉に博士は、これではどちらが大人か分からないなと感じた。言葉を慎重に選んでいるつもりが、それが逆にアヤメにとっては不愉快なのかもしれない。顔が見えないので窺いようがないが、声音からしてそうと知れた。

「そうか。君の殺気は、冷たい湖から立ちのぼる霧に紛れた幽霊のようだ」

「あら。詩的な言葉を使うのね、博士」

「感じた事をそのまま言っているだけだよ。本当に、不意に浮かんでくる幽霊のようで。気づけばそこにいるんだ。君の殺気はそういうものだ。リョウ君とも、ナツキ君とも、サキとも違う。凶暴な光、というよりは背後に知らぬ間に近づき、首を狙う獣に近い。狩られる側は君に気づかない。アヤノ君という、湖と霧が君を分からなくしている」

「アヤノは湖なんて綺麗なもんじゃないわ。底なし沼よ。ずぶずぶと入っていって、お互いにどうしようもない状態になる。それがアヤノ」

「君も、詩的じゃないか」

 博士はエンターキーを打った。地下一階層分に通じる通路全てのロックが外れた。それを示す赤い帯に黄色い文字列が浮かぶ。博士はふぅと息をついた。アヤメが「終わったの?」と言葉をかける。

「いや、まだ全然終わっていない。ただ……」

 博士はゴーグルを外した。久しぶりに目を酷使したせいか、外した途端に視界がぶれた感覚がした。痛みが作業を妨害しないのがせめてもの救いだった。ペラップがこちら側に歩み寄ってきてくれているおかげか。それとも回復傾向にあるのか。それとも痛みの限界値を超過した神経が麻痺しているのか。三つ目だろうな、と当たりをつけて博士は目頭を揉んだ。

「ただ?」

 聞き返す声に博士は振り返った。アヤメは蒼い眼のエイパムと共に周囲へと視線を配っていた。ちりちりとした、熱のような殺気が博士の喉まで焼く。こんな殺気を纏う人間に誰がしたのか。訊こうとして、やめた。無神経だと思ったからだ。子供達には、彼らなりの痛みがある。その痛みを肩代わり出来ないという事はもう分かっているはずじゃないか。

「いや、ちょっと疲れただけさ。休憩、ともいかないが、目を休ませる」

「訊かないのね」

 そんな博士の思考を読み取ったようにアヤメが口にした。何の事か、などという問いこそまさしく野暮というものだ。正直に、博士は返した。

「君達の問題に私が立ち入ったとしても、解決出来る気がしない。ある意味で、私は君達から逃げている」

「その距離だけで充分だと思うけど」

「私はこの距離で二度、人を傷つけた」

 一度目はキシベを、二度目はサキを、だった。キシベから適当な距離を取って自分は彼の娘を実験に使う事に何の躊躇いも覚えなかったのだ。今思えば、麻痺していたのかもしれない。人が感じるべき部分。本当に大切な根幹が。サキに真実を打ち明けた時にも感じた。もっと近くにいられたら、と。だが、自分が近くにいる事でサキに真実の重さを実感させる結果になるのならば、傍にいるのは自分でないほうがいい。あのマコと言う少女が、その役目を充分に負ってくれている。サキにとってはなくてはならない存在になっているように見えた。人もポケモンもいつの間にか成長して手を離れていくものなのだ。

「それでも、距離を間違えるとアヤノのようになる。誰かの傍にいたいけれど、でもどちらも傷つきたくない関係に」

「傷つかない関係性なんてないんだ。それは心地よいかもしれないけれど、どこにも進む事も戻る事も出来ない。立ち往生、というわけさ」

「博士。ジジくさいわ」

「よくユウコ君にも言われているよ」

 博士は笑みを浮かべた。ゴーグルへと視線を落とす。ゴーグルの側面からケーブルを無理やり伸ばし繋いでいる様に、子供の頃に作った通信用のラジオ機器を思い出した。あの不釣合いさに似ている。不釣合いな関係で、この世は成り立っているのだ。それは、時に潤滑油として必要になる事なのかもしれない。世界を順調に回すために。キシベと自分のように。過去の清算を思わなければ今、自分はここにはいないだろう。そういう点でいえば遠いところに来たものだと、似合わぬ感傷に天井を仰いだ。

「でも、博士には感謝している。私とアヤノに、エイパムをくれたから」

「そうかい? 君達は、でも、もし私がポケモンをあげなくても道を切り拓いていただろう?」

 その言葉にアヤメは首を横に振った。

「いいえ。私達はそれこそさっき博士が言っていたみたいに立ち往生していたでしょうね。過去を引きずって、未来の光を閉ざして。他の方法で誰かを傷つけざるを得なかったかもしれない。私は、たくさんのポケモンを殺したわ」

 懺悔の言葉なのか、アヤメの声は小さかった。博士は黙って、ゴーグルに視線を落としたまま聞いていた。

「赦しを乞うつもりはないのよ。そうしなければ、私が死んでいた。でも、アヤノはいつだって言うのよ。『殺す事なんて無かったんじゃないか』って。馬鹿でしょ、あの子。死ぬのはあんたが先だって言うのに」

「だから君が、罪を被ったのかい?」

 博士の言葉にアヤメは息をついて、「どうかしらね」と濁した。

「多分、そんな高尚な理由じゃないのよ。罪だとか、罰だとか、そういうんじゃない。ただ、愚かしいまでに色んな人達を、ポケモンを愛するアヤノを、私は内心ボロボロにしたかっただけなのかもしれない。主人格になりたかったのかもね。私はそんなの、思った事はないけど。本当よ」

「信じるよ」

 博士の言葉に、アヤメは「優しいのね」と返した。

「博士は、嘘は言わない。そういう大人だって思ってる。だから私は、自分の事を喋れる」

「そう思ってもらって、光栄と感じるべきかな?」

「どちらでもいいわ。そう。本当に、どっちでもいい。私の言葉をどう捉えても、それは博士の自由。裏人格の戯れ言と取るか、アヤノの本音と取るかは、博士次第だもの」

 自分次第と思われている事に、誇りを感じるでもなく引け目を感じるでもない。彼女達は恐らく託すしかないのだ。自分の行く末を誰かに預ける事で今まで均衡を保ってきた。依存、という言葉は正しくない。そうせざるを得なかった彼女達に、居場所を作ってやれなかった自分の不実が悔やまれる。そんな後悔など、彼女達を侮辱しているようなものだというのに。彼女達は誰かに寄り添いながらも、一人で道を切り拓いてきたのだ。胸を張っていい、と言おうとしたが喉元でその言葉は消えた。軽々しく言うものじゃない。

「私は、君達の判断は間違っていないと思う。常に、自分達にとって最良を示してきたはずだ。それがたとえ罪に塗れた道でも、君達は進んできた」

「でも、誇るような道じゃない。博士、今、ちょっと遠慮したでしょ」

 図星をさす言葉に博士は、見透かされているな、とフッと口元を緩めた。

「したよ。悪かった」

「いいのよ。そう言って、謝ってくれるだけで。博士には博士なりの価値観がある。大人の価値観ね。子供の私達には、それが見えない。フィルターでもかけられているみたいに、どうしようもなく」

「子供、大人なんて括りはなしにしよう。今は、私という一個人と、アヤメ君という個人が話しているんだ。そこに上下も優劣もないよ」

「綺麗事ね。でも、博士は本気でそれを言っている。判るから、嫌いじゃない」

 その時、扉が開きディルファンス構成員達が戻ってきた。誰も未来への希望などその眼差しに宿していなかった。これからどうするのか、その不安だけが彼らの頭を苛み、不安の影を落としている。博士は振り返り、その中にトリデプスとランクルスがいない事に気づいた。

「彼のポケモンは……」

「エイタさんの墓穴をトリデプスに掘ってもらいました。ランクルスは彼の身体がこれ以上傷つかないように、念力の膜を張って。カクレオンはエイタさんに寄り添いました。エイタさんのポケモンは、彼の下を、最後まで離れようとはしませんでした」

 愛情があったのだろうか。それとも無理やり従わせていたのか。エイタが死んだ今となっては、答えは闇の中だ。だが、ポケモン達は主人を信じていた。これだけは確かだろう。主人の事を第一に思っていたから、最期の瞬間まで寄り添いたかったに違いない。その在り方が正しかったのか、間違っていたのかなどは誰にも口出しする事は出来ない。ポケモンと人間の関係など、千差万別だ。幸福の形が人それぞれ違うのと同じように、彼らは人間には推し量る事すら出来ない思考体系で動いているのかもしれない。研究者としては興味の引かれる題材であったが、研究する事は無粋だった。

 ただ、主人に寄り添うポケモンがいる。彼らは信じている。主人の心を。それだけでいいではないか。ペラップのように主人の間違いを正そうとした意思もあった。ポケモンには感じる心があるのだ。人とポケモンが交わったのは、決して不幸ばかりではない。そう思えただけでも、博士はよかったと感じられた。

「そうか。君達は、これからどうする?」

 保留にしていた問題を眼前に引き出す。構成員達は胸のバッジに手をやった。それが彼らなりの矜持なのだろう。しかし、矜持を守るべき存在はもういない。ディルファンスは壊滅するしか道がないのか。バッジをぎゅっと握った構成員が顔を上げる。先程、ノートパソコン型端末を与えてくれた構成員だった。華奢な身体の構成員の女性が、唇を噛み締める。

「悔しいですよ、私達も。だけど、進むべき道は無茶苦茶になってしまった。誰のせいでもない事は判っているんです。静観していた私達にも、非はあります」

「ならば、どうする? ヘキサと戦うか」

「ディルファンスという戦闘単位でしかなかった私達が生きられる場所が戦場だけならば、私達は戦場の火の中に己を投げ込みます。それがここまで来た覚悟です」

 博士にはその生き方は不器用だと感じた。いくらでも人生を選べる。狭苦しく考える必要などないのだ。だが、それを今の彼らに説いたところで何になろう。覚悟を宿した人間が強情だという事は一番知っている立場だろうに。

「火に投げ込むのは感心しないな。もっと自分を大事にするんだ。自分を救う事が誰かを救う事に繋がる。自分すら助けられなければ、感情の溢れるがままに行動する獣だ。獣に、人間は助けられない」

「私怨で動くなと、言いたいのですか?」

「恨みはあるだろう。だが、怨念返しが全てでは無いと言っているんだ。何か、もっと別の――」

 その時、開いていた端末の液晶が赤く点滅した。博士はすぐさまゴーグルをつけ、状況を確かめる。どうやら隔壁の前に侵入者がいるらしい。博士が開いた扉をくぐってきたようだった。だが、その侵入者はたった一人だ。もしや、と思い博士はキーを手早く叩く。音声通信のシステムに介入し、その領域の無線通話システムにアクセスした。的を絞り、侵入者の熱源へとアプローチする。仲間の誰かならばポケモン図鑑を持っているはずだ。それを用いた交信を狙ったのである。数回の接続音の後、ピッと短く音が鳴り、張り詰めたような静寂が耳に届いた。その中で、湖の波紋のように声が響いた。

『……誰、ですか』

 掠れているが聞き覚えのあるその声に博士は声を返そうとしたが、マイクの位置が分からなかった。構成員に助け舟を出してもらい、ようやく交信できた事に喜びを感じつつ、博士は、まずはと尋ねた。

「今、どういう状態だ?」

『今は、カメックスと共にいます。すごく大きな、赤い扉があって、その前にいます』

「なるほど。それは第三隔壁だ。そこを超えれば地上に出る事も出来るし、中枢へと向かう事も遠回りだが可能だ。今、ロックを解除しよう」

 いくつものウィンドウを同時に処理させながら、博士が言うと声の主は、『今は不可能です』と返した。

「どうしたんだ? 何かトラブルでも?」

『博士。決着をつけなければならない相手が目の前にいるんです』

 その言葉に博士はチアキという名を思い出した。まさか幹部クラスと遭遇するとは。ペラップをちらりと視線を送る。見えるわけではないが、それすらもキシベの予測のうちにあったのではと思わせる。

「ナツキ君。駄目だ、危険すぎる。気持ちは分かるが応援を待って……」

『待てません。私も、チアキさんも、両方救わなくっちゃならない。そういう戦いなんです』

 断じた声に、迷いなど微塵にも感じられなかった。既に戦いの気概を纏っている戦士に、安全圏からの物言いなど無意味だ。

「ナツキ君。隔壁は解除する。無駄な消耗は避けて――」

『無駄じゃありません。博士。私の目的はチアキさんを助ける事。今度こそ、逃げずにです。意味、博士なら分かりますよね』

 当たり前だ。ここで隔壁から合流しろというのはナツキのプライドを踏みにじる事になる。どうすべきかの逡巡を浮かべた後、「なら」と口を開いた。

「そのロックは解除しておく。そこから先の行動までは口を出さない。君の、心から願う事をするといい。そうする事で自分も救えるのなら」

 慰めにもならない言葉だったが、それでも『ありがとう、博士』と返してくれるのが逆に辛かった。彼らばかりに痛みを押し付けている。これが正しい大人の在り方なのか?

『切ります。もう、戦わなくっちゃ』

 その言葉を最後に、ナツキとの交信は途絶えた。息をつく博士へと、アヤメが「心配ないわよ」と声を振り返る。

「ナツキは強い。今のナツキなら、多分、負けない」

「私は、そういう事が言いたいんじゃないんだ。君達に痛みを押し付けている気がして……」

「痛みは得てこそ、生の意味があるものよ。痛みがないのは、それは死んでいるのと同じ。博士、私達は生きているからこそ痛みを自分のものに出来る。なくしたり肩代わりしたりしてもらうもんじゃない」

 アヤメの言葉も正論の一つだった。答えなど無数にあるのだ。その中で何を選び取るかは、個々人に委ねるしかない。

「選んだ答えに自信が持てるか。きっと、それだけなのよ」

 アヤメの放った言葉は、博士の中に残響した。キシベに銃を突きつけた事も、自信の持てる日が来るのだろうか。殺人に、自信などない。正しい事も間違っている事もないのだ。だが、行動した事に対する自信ならば別だ。行動に移した事で、変われたのならばそれは意味のある事などだ。そう考えて生きていくのが人間である。

「……誰一人として死なせない。私の出来る事、全てを捧げよう」

 博士は再びキーを叩き始めた。スクロールする文字群に視線を据えながら、何重にも張り巡らされたロックを解いていく。一人でも生き残らせるために全力を注ぐ。それが小さな自分に出来る最善の事だ。

 ペラップが「気負うなよ」とキシベの声で言った。

「気負ってなどいませんよ。私にはやるべきことがあるんです」

 胸の内から湧き上がる熱に押されるように、博士はその言葉を口にした。


オンドゥル大使 ( 2013/05/05(日) 21:27 )