第六章 三十七節「グッバイ・マイ・リトルデイズ」
「この空中要塞は元々、ロケット団の造ったものだった。カイヘン地方に勢力を伸ばし始めた時に、サカキ様が計画されていたのだろう。カントーの拠点が潰された場合を想定していたのだ。この空中要塞が新たな支配の象徴として空に君臨するはずだった。サカキ様という王を戴いて。……しかし、君の知っての通り、ロケット団は壊滅。サカキ様は行方不明となった。散り散りになった彼らは流れ着いたものの、この要塞の上には既にタリハシティが建造されており、カントーからの人間で知っていたのは私と総帥だけだ」
先行するペラップが嘴を開いてキシベの声で口にする。博士は足を引きずりながら、その言葉を聞いていた。ペラップは自分が死ねば誰かに伝えて欲しいとでも命令されていたのか、淀みない口調で続ける。
「その空中要塞が六角形だったのは皮肉としか言いようがない。私はそれを知り、この計画を実行に移そうとした時、運命すら感じたよ」
「ヘキサにディルファンスを取り込む事は想定内だったのか?」
その質問に、ペラップは急にポケモンの鳴き声を返した。答えるはずがない。ペラップは記録された音声をそのまま話しているだけだ。そこには何の感情もない。主人の遺した言葉を、伝えようとする意思だけがある。
「『R計画』はヒグチ、君が逃げ出してからフェイズ2に移行したんだ。ルナのクローンを生態調整するだけではシンクロはほとんど不可能だと判断した彼らは、その当時、まだ実験段階だった技術に手を出した。月の石による強化技術だ」
「もたらされたのはカントーか。月の石が最も採取できるのはカントーだからな」
ペラップは一度も振り返る事無く、ゆっくりと飛びながら言葉を発する。
「月の石をその当時残っていた最後の実験体、R02に投与した。その時に名称も変えた。R01の強化実験体、R01B。Bは裏側、B面のB。人とポケモンの垣根を越える、BEYONDのB。月の石の連続投与の結果、ルナとは似ても似つかぬ外見となった。あれは、もはや別物だ。骨格や脳細胞の配置も違う。そこから導き出すに、恐らくは人格も違うだろうという結論が出来た。以前のR01の記憶データをインストールはするが、幼くなるであろうという結果に私は愕然としたよ。その頃には、ルナはもうこちらに移していた。向こうでは死体同然の扱いだったからね。私は自分に言い聞かせた。ルナがいるのならば、偽者に感情移入する必要などない。ただの兵器として見ればいいと。幼かろうが欠陥があろうがどうでもいい。私の目的は他にあった」
「お喋りだな。贖罪のつもりですか、キシベさん」
堪りかねて発したその言葉に、ペラップが一瞬反応して顔を振り向けたが、すぐに元に戻して話し始めた。恐らく、贖罪なのだろう。これだけの事をやってきた人間の、唯一のはけ口が言葉を解するポケモンだったとは。最後までポケモンの感情を否定しておきながら、誰よりも真実を教えた存在がポケモンだというのは皮肉だった。
「ヘキサツール。知っていると思うが、これを元々組み込んだ最強のポケモントレーナーとポケモンの計画だった。しかし、資金繰りもストップしヘキサツール云々ではなくなった。そんな時だよ。ヘキサツールが完成し、カイヘン地方に持ち込まれたと知ったのは。情報源は言えないな」
「ここまで来て、隠し立てですか」
包帯代わりに巻いた白衣に血が滲んだ。ふらふらと落ち着きのない視点を矯正するように、顔を拭って視界をリセットした。
「ヘキサツールがあるのならば、利用すればいい。だが、ロケット団再興などに使われては面倒だ。ならば、と私はその情報を徹底的に伏せ、ただ時が満ちるのを待った。カイヘン地方で残党勢力が僅かながら力を発揮し、R01Bが目覚めるまで」
「そして、R01B、いやルイ君は目覚めた」
形式番号で呼ぶ事はリョウの気持ちを踏みにじる事だと咄嗟に思って、博士はその名を口にした。
「R01Bとゲンガーとの同調は成功。それは予想の範囲内だ。問題はその次だ。このR01Bがロケット団のために使われたのでは、私の目的は意味を失くす。私は不安定なR01Bの敵対心を煽り、研究所を破壊させた」
「それが、あなたの業というわけか」
「君は私の業だと言うだろうな」
見透かした言葉に、博士は口を噤んだ。まだキシベが生きていてどこからか自分達を見ているのではないかと思わせる。キシベの理論ならば肉体の死は完全な死ではない。魂を滅却しなければ死は訪れない事になる。だが、そんな方法を持つものがどこにいる。恐らくは神のような全能の力を持たねば、魂をどうこうする事など不可能だろう。ペラップは前を向いたまま、言葉を継いだ。
「業といわれればそれまでだが、ヒグチ、私は状況を長期的に見る事にしたのだ。短期的に見れば、ロケット団の『R計画』は失敗、実験体も逃げこのままではどうにもならない。しかし、私はR01Bに目的を与えた。このままならばただ人格のない兵器として運用されるはずだったR01B自身に憎しみを覚えさせ、殺しの中に快楽を見出させる。そして、あれは知るのだ。もう戻れないと。そのための道しるべがヘキサツールだったわけだ」
「キシベさん。あなたは、そのためにルイ君にヘキサツールの事を教えた。自身の、怨恨から発するものに任せて」
それは破滅の道だ。そう発しかけて、ではそれに関わったリョウは? という問いに口に出しかけた言葉を呑み込んだ。ただ朽ちていくだけの旅だったとは言えない。その中で得るものも確かにあったのだ。リョウはルイと知り合い、心を通わせる事が出来た。今まで兄の事しか頭になかったリョウに気づかせる事が出来たのだ。自分自身の大切なものを。
「ヘキサツールなど、手に入るわけがない。それを見越しての計画だった。思惑通り、R01Bは追跡するロケット団員達を殺しながら、振り切ってカイヘンへと渡ってきた。だが、一つだけ想定外の事があった。君が世話をしている少年だ」
リョウの事がまさかキシベの口から出るとは思えず、博士は伏していた顔を上げた。ペラップがいるだけでキシベなどいない。そうだ、この言葉は全て過去のものなのだという実感に、どこか物悲しさを感じた。
「リョウ君の、事。あなたは知っていたのか」
「私は一度会っただけだが、あの少年はR01Bを心から大切に思っているようだった。私がルナを愛する時と同じ感情だ。そこには輝きすら感じられたが、私には最早理解が出来なかった。金縛りを自力で解き、サイコキネシスを食らってもなお、R01Bのために動く。あの少年は、何故ああも真っ直ぐなのだ? 何故、人は偽りを信じる? それが紛い物だと分かっていても、愛を止められないのは何故だ、ヒグチ」
「……あなたには、分からないだろう。それが人の性なんだ。愛が過去で立ち止まったままのあなたには、未来の愛は眩しすぎるんだ」
言葉はもちろん過去のキシベに届くはずが無かったが、ペラップがどこか聞き届けたように見えたのは気のせいだったか。ペラップの口から録音されたキシベの声が再び発せられる。
「どうにもならぬ問いだな。やめておこう。だが、あの少年とR01Bが結ばれる事は決してない。それは、お前も分かっているだろう、ヒグチ」
その言葉は予想出来ただけに、返事に窮した。やはり、無理なのか。リョウとルイが交わる事などないのか。敵同士としてしか、もうお互いを認識できないのか。だが、リョウは歩み寄ろうとしている。その思いを無駄だと一方的に否定する事など誰が出来よう。
「未来は、決まっていないんだ。彼ら次第だよ、キシベさん」
「少しばかり、お喋りが過ぎたな。だが、君が歩みを止めていないのならば、ペラップは君を案内する。ペラップには私の生体データが組み込まれている。空中要塞内の全施設へのアクセス権があるはずだ。ペラップについてくるのならば、君には真実を見せてもいい」
「……真実、ですか」
先程までキシベの語っていた真理ではない。真実という言葉の重みに、博士は閉じかけた視界がぶれたのを感じた。危ないと思い、顔を拭うと強烈な痛みが痛覚を引き裂いた。十字に傷が走っている事を思い出す。ペラップが死なねば治らぬ呪縛のような痛みだ。だが、ペラップに対する敵意も殺意も湧いてこないのは何故だろう。やはり、最後の瞬間、ペラップは自分で判断を下したからか。主人を裏切るという苦渋の選択を。
ペラップの先にある扉が自動的に開く。生体データを組み込んであるという話は本当なのだろう。先程から、扉に突き当たった事がない。全ての鍵はペラップの前では無力のようだった。
「どこへ、向かっているんだ?」
「私は最初からロケット団総帥を殺すつもりだった」
見当違いの言葉に、やはり過去の声なのだなと博士は胸にちくりと痛みを感じた。手が急に重くなる。人を殺した重みだった。この手で娘を抱きしめる事が出来るのだろうか。湧き上がった疑問に答える声はなく、代わりのようにペラップが言葉を発する。
「あの男が全ての元凶だと感じていたからだ。だがな、ヒグチ。全てが終わり、ヘキサがカントーへ進軍した今となっては、本当に憎むべき相手が分からないんだ。迷子だよ、私は。永遠に帰り道を忘れた、ね」
「帰り道を知らぬのは、私も同じだ」
寄る辺のない自分達は魂の導くがままに進むしかない。祝福の道など望んではいない。この世に産み落とされた時点で茨の道を強いられてきたルイや、兄を捜す事に人生をかけたリョウに比べれば、自分の痛みなど大したものではない。
「だけど、サキが待っている。道は分からないが、行く先は知っているんだ」
その言葉を知ってか知らずか、ペラップがぼそりと呟いた。
「羨ましいな」
「えっ」と顔を向ける。今の返事はまさか、と言いかけた声覆い被さるようにペラップが言葉を響かせた。
「君の道はまだあるだろう。一方的な羨望かもしれないが、そう思っただけだ。他意はない。忘れてくれても構わない」
「……忘れませんよ、あなたの言葉は」
ようやくキシベの人間らしい面を見られた。だが、それはもう過ぎ去ったものなのだ。今更、という感触と、ようやく、という感触が入り混じり、博士はどうにもならない感情に顔を伏せた。
「そろそろ着く頃だと思うのだが」
ペラップが言うと同時に扉が開き、博士は急に開いた視界に目をしばたたかせた。今までとは比べ物にならないほどに高い天井がある。中央には黒い球体があり、四方から太いパイプのようなものが伸びていた。パイプに覆い被さるように透明なパイプがあり、その隙間を赤い電流が走っている。黒い球体の表面がざくろのように皹が入り、内側から赤い光を瞬かせた。それは一瞬で収まったが、すぐに同じ現象が発生する。黒い球体の下には巨大な穴があり、そこへと集約された赤い稲光が吸い込まれていた。
「電磁浮遊の中枢機関か。これを叩けば」
「これを叩けば、などと安直に考えるな、ヒグチ」
またも見透かされた自分の言葉に博士は身を固くした。ペラップが翼をはためかせて滞空している。その眼は中枢機関を見ているようで見ていないように思えた。
「どうやってやるというのだ? 爆薬でもまさか持ってきているのか? ならば、なるほど、可能ではあるだろう。しかし、何が起こるか予想など出来ない。これだけの質量を電磁浮遊させたのは恐らく世界で初めてだろうからな」
その言葉は尤もだった。連鎖反応で爆発が起こるとも限らない。それに、破壊するだけの力も無い。ペラップ単体で破壊するには力不足だろう。キシベはこれを見せ付けたかったのか、と不意に思った。贖罪の末にどうしようもない現実を突きつけ、奈落の底に突き落としたかったのか。キシベを殺す前の博士ならば、その術中にはまっていただろう。だが、今の博士に迷いはなかった。奈落を見るよりも目の前の希望の光を見た。
「それでもやるしかない。ここが分かったんだ。どうにかして、援護を――」
言いかけた言葉を遮るように、轟音が中枢機関室を揺さぶり、博士はよろめいた。壁に幾筋もの亀裂が走る。次の瞬間、巨大な漆黒の盾が視界に広がった。暗闇の中から盾がゆっくりと歩み出してくる。それは実のところ盾ではない。中央部分に鼻と思われる突起があり、側部からは角が突き出している。眼のすぐ下に牙があり、太く短い四足で歩く様はまさに重機を思わせた。博士は咄嗟に思い出す。化石から復元されるポケモン、トリデプス。今、どうしてそんなポケモンが目の前にいるのか。答えは一つしかない。それを裏付けるように、トリデプスの背後から垣間見えた顔に、博士は渋面を向けた。
「……エイタ君」
エイタの肩にはエイパムが乗っている。しかし、そのエイパムは確かアヤノのもののはずだ。アヤノはというと、トリデプスの後ろから出て来ようとしなかった。エイタが両手を広げ、部隊役者のように大げさに言った。
「これは、ヒグチ博士。ボロボロじゃありませんか。ここまで来るのに、さぞかし苦難が待ち受けていたのでしょう。救護班がいます。今から傷を――」
「私はいい。それよりも、君達はどうしてここに来た?」
遮った言葉にエイタは目に見えて不愉快そうに顔をしかめた。以前まではこうも顔に出る青年ではなかったはずだ。何が、彼をこうしたのか。
「どうして? おかしな事を訊く。僕達はこの空中要塞を壊滅させる。他でもないディルファンスの手で」
「ディルファンスが今更事態を収拾させても何一つ解決しない。協力は構わないが、君達が我が物顔で再び台頭しても、混乱が広がるだけだ」
「おや、博士。そんな口がきけるとは、随分と偉くなったものですね」
「それは君もだ、エイタ君。自分一人でここまで来たような言い草じゃないか」
高圧的な態度に屈せずに博士が言い返すと、エイタは舌打ちを漏らし、指を鳴らした。トリデプスの背後にいた物体が腕を振るい上げてトリデプスを跳び越し、エイタの傍らに侍る。ゼリー状の体内に胎児の姿、ランクルスだった。
「……僕の力じゃなければ、誰の力だと言うんだよ」
怒りを滲ませた口調に、博士は元来の癖で相手を宥めようとしたが、それは今の状況では逆効果だと感じた。今は、へりくだっている場合ではない。
「そこにいる全員の力と、今は亡きディルファンスの構成員の人々の力だ。犠牲の上に今がある」
博士の言葉にエイタはフッと口元に笑みを浮かべて頬を引きつらせた。
「ロケット団総帥と同じ事を言っていますよ。まぁ、仕方がないか。かつてロケット団の技術者だったんだから」
エイタから放たれた意想外の言葉に、博士は目を見開き硬直した。どうして、という呟きが漏れそうになって気づいた。ディルファンスを支援していたのだ。当然、過去や前歴は洗われている。ロケット団とのいたちごっこを完遂するだけのネットワークがあったのならば簡単だろう。
「人の過去を漁るのは、趣味が悪いね」
「過去が汚れているのが悪いんですよ。そしてあなたは過去の汚れを今に持ってきた。復讐ですか? それとも清算ですか?」
「生憎、人の心はそう簡単じゃないんだよ」
博士は懐に手を伸ばしかけて、はたと気づいた。銃は先程の部屋で全ての弾を使い尽くした。今、自分は丸腰である。懐の手を気にしていたエイタが身を強張らせたが、何もないと気づいたのか、余裕の笑みを崩さない。
「人の心、ですか。簡単ですよ、そんなもの」
「それは錯覚だ」
博士は出来うる限り会話を引き伸ばそうかと思ったが、そうこうしているうちにカントーに上陸してしまう。今は、一体どこまで進んでいるのだろう。地下にいる博士には見当もつかなかった。カントーに着いてしまえばそれまでなのだ。その前に浮遊機関を殺すか、何らかの方法で浮遊させ続けなければならない。今、推進装置で進み続けているのならば推進装置を叩くべきだった。だが、ペラップはここに案内した。それには理由があるはずだ。考えを巡らせている間に、エイタが片手を上げて声を振り向けた。
「博士。あなたは愚かなんだ。この世にはあまたの数式、方程式がある。あなたは、それがいとも簡単に解けるでしょう。それと同じですよ、人の心なんて。必ず、開くための方程式があるんだ」
「その方程式を使って、アヤノ君達を利用したのか」
博士の言葉にエイタはナンセンスだというかのように肩を竦めた。
「利用とは人聞きが悪い。彼らはここまで付いて来てくれた優秀な仲間達です。彼らを侮辱しないでもらいたい」
「侮辱しているのは果たしてどちらかな」
「何ですか、その物言いは」
「君は、人の心を侮辱している」
博士が眼光鋭く発した声に、エイタは何も言わなかった。博士は視線を走らせる。トリデプスの後ろに、アヤノ、他七名といったところか。つまり計九名。自分達とそう変わるところのない人数だったが、少数精鋭と考えれば突破するのは簡単ではない。トリデプスはペラップ程度では倒しきれない。エイパムも、ランクルスもそうだ。相性が悪かった。それにペラップが懐いてくれるのかも分からない今、ペラップを当てにするのもお門違いだった。
「僕が侮辱、ですか。それは何に対して?」
「心だよ。君は人の気持ちを考えた事があるか?」
「気持ちとは抽象的で流動的な言葉だ。どこにも確信などない。そんなものを信じられるというのですか。信じて、痛い目を見るのは自分です。最後に自分がよければいいわけではありませんが、気持ちや主張などをいちいち考えていれば、戦いなど出来ませんよ」
「そうかもしれない。だが、軽視している。違うか?」
「博士」とエイタは短く呼びかけ、額の汗を拭った。博士も顎へと滴り始めた汗を袖口で拭き取る。緊迫感とこの部屋の熱気で、嫌な汗が伝った。
「あなたは感情論に走りすぎだ。もっと、理知的だと思っていました。このような問答、意味のないことだと思いますが」
「それは先程も言われたばかりでね。どうやら私は、研究者失格らしい」
自嘲しようとして果たせず、博士は頬を引きつらせた。エイタは腕を組んで、首を僅かに傾げた。
「分からないなぁ。あなたは何をしているのか。時間を引き延ばしてどうするのです? まさか、ヘキサに寝返りましたか?」
「そんなわけがない。私は、彼らを裏切りはしない。君とは、違う」
「違いませんよ。あなたはここまで一人でやってきた。ポケモンもなしに。いや、そのペラップですか。ですが、その程度の戦力でここまで来れたとは到底思えない。つまりは仲間とやらを切り捨ててきたという事です」
「違う。私は、意志を継いできたんだ。そして、ここまで辿り着いた。邪魔立てするのならば」
博士は懐から銃を取り出して、エイタへと構えた。しかし、分かっている。この銃は弾切れの銃だ。それでも、エイタが怯んだ事に変わりは無かった。モンスターボールに手を伸ばしかけた構成員たちに対して、博士はゆっくりと足を進め、「動くなよ」と呟いた。
「私は穏便に済ませたい。君達のリーダーが間違っていると言えば、全て収まるんだ」
「脅迫ですか」
「事実を言っているまでだ。君は大勢の人を騙してきた。どうしてアヤノ君のエイパムが君の肩に乗っているのかは分からないが、それもその結果だろう。君は、利用出来るものは全て利用しようとしている。ヘキサと何が違う」
「よしんば同じだとしても、あなたに僕は裁けません」
その言葉は銃に弾がこもっていないと見透かしているかのようだった。もう一度、しっかりと両手で構え、「嘗めるな」と口にする。先程、キシベに撃たれた傷が痛み始め腕を上げる事すら困難になってくる。呼吸が荒くなり、額を脂汗が伝う。
「私は撃てる」
「撃てたとしても、空砲では」
その言葉に、どうしてそれを、と呟いたその時だった。しまった、と感じた瞬間、エイタは口元を歪めた。
「ランクルス。サイコショック」
ランクルスの身体がピンク色のオーラに包まれる。波打つようなオーラの波長が、どくんと脈動し、その動きに合わせたように博士の眼前の空気が歪んだ。両腕が引っ張られそうな感覚に思わず手を離す。博士の一歩先の床がたわみ、幾条もの皹と共に砕けていた。床だけではない。突き出していた銃も同じように砕け散っていた。内部部品が潰された蛙の死体のように虚しく横たわっている。
「トリデプス、突進」
トリデプスが盾のような巨大な頭部を振るい、身体を小刻みに震わせて重機のような声で鳴いた。その丸い眼が博士を捉えている。このまま押し潰す事は自明の理であった。博士は思わず蹲り、耳に指で栓をしてやけになったように叫んだ。
「ペラップ! ハイパーボイス!」
ペラップが嘴を突き出し、それを裂けるほどに開いた。すると、口の中から吐き出された音の波長が青い波紋となって空気を伝わる。その場にいた全員が、がなり声のようなその音に耳を塞いだ。「ハイパーボイス」は強烈な音波で敵を攻撃するノーマルタイプの技だ。波紋はトリデプスへと吸い込まれるように何度か円を刻んだ後に、命中した。トリデプスは当然の事ながら、突然の爆音にたじろぐはずだったが、トリデプスは意に介さずとでも言うかのように、首を軽く振るっただけだった。驚愕を浮かべる前に、片耳を塞いだエイタが言った。
「トリデプスの特性、防音。音声系の技は全て無効化される。残念でしたね、博士。ペラップが得意とする音波系の技、全て通用しませんよ」
「……馬鹿な」
呻いても結果は同じだ。ポケモン研究者の端くれならば、特性ぐらいは分かっている。だが、そう考えたくなかった。相対したのが最悪の相手だったとは。ハイパーボイスが徐々に枯れていく。ペラップは元々戦闘用ではないのだろう。攻撃は二分にも満たなかった。耳から指を外したエイタが、博士へとゆっくりと歩き出した。博士は退こうとするが、ハイパーボイスが思ったよりも堪えたらしい。身体が軋んで言う事を聞かなかった。
「空砲だと言ったのはブラフですが、はまってくれたので助かりました」
博士は舌打ちを漏らす。その姿すら、まるで腰が砕けているように見えるのだから間抜けなものだった。精一杯の自尊心を滲ませた瞳をエイタにキッと向ける。エイタが顎をしゃくると、ランクルスの腕が博士の頭部を掴もうと伸びる。ランクルスの腕は岩をも砕く、そんな図鑑の説明が脳裏を過ぎり、博士は目を閉じようとした。その時である。
「待ってください! エイタさん!」
弾けた声に、エイタも博士も目を向けた。アヤノが両手をぎゅっと胸の前で握り締めて、前へと歩み出た。
「博士は殺さないでください。もう、こんなにも傷ついているじゃないですか。早く、救護班に……」
「そんなものをくれてやる必要はないよ、アヤノ。ヒグチ博士は罪人だ」
「それは、昔の話でしょう? 博士はたった一人でここまで来たんです。それなのに、分かり合えないなんて」
「アヤノ。いいかい」
エイタは諭すように柔らかな口調で静かに言葉を発した。
「今、博士は僕に銃を向けた。その時点で敵なんだ。撃たなければやられるんだよ。逆に問おう。どうしてアヤノは、博士を庇える?」
予想外の言葉だったのだろう。アヤノが一瞬固まったが、拳を強く握って声を搾り出す。
「博士は、いい人だから。それにあたしにとっては恩人でもある――」
「だったら、僕は恩人じゃないのかい?」
遮って放たれた言葉は続きかけたアヤノの言葉を霧散させた。無理やりにでも従わせるような声音だ。アヤノは顔を伏せ、「それは……」と言葉を濁す。博士は何も言わなかった。言ったところでアヤノの気持ちだ。そこに介入する事など、自分には出来ない。アヤノが決める局面なのだ。本当に、自分達とは袂を分かつか、否か。
「アヤノ。君は聡明な女性だ。何が正しいのかぐらいは、分かるはずだよ」
誘導的な言葉と思えたが、博士は黙したままアヤノの目すら見ようとはしなかった。今、決断すべきアヤノに、自分が影響を与えてはならない。決断も、覚悟も自分でするものだからだ。
「あたし、は……」
エイタが口元を歪める。博士は終わりを悟った。ここまで来て、誰に報いる事も出来なかった。戦いに赴いた若者達の背中が眩しく映るばかりで、曇った眼では輝きを見据える事すら出来ない。ようやく、その曇りが晴れるかに思われた矢先にこれだ。ついていないな、と自嘲しようにもその笑みの一欠けらすら出てこなかった。瞼を閉じ、全てを闇の中に消そう。
「あたしは、博士を信じます」
その声に一番驚いたのは博士だった。構成員達が遅れてざわめき始め、エイタが目を見開いてアヤノを見つめていた。一言、「冗談だろう?」と発した声に、アヤノは気後れしたようでありながらも首を横に振った。
「エイタさんは恩人です。それにあたしにとってはなくてはならない存在。でも、エイパムもあなたの下に行ってしまって気づいた。あたしは、ただ依存するばかりで一つも答えを自分の奥から出していない事に。いつも出し渋って、結局、そんな自分に嫌気が差してばかりだった。エイタさんと出会って、変われました。でも、あたしには覚悟と戦った皆のほうが眩しく思えるんです」
「眩しい、だと……。カリヤに会えないぞ。いいのか?」
エイタは頬を怒りに震わせた。アヤノはゆっくりと頭を振った。
「もう、分かっているんです。全てを忘れたつもりになっていました。でも、カリヤさんは、エイタさんがもう……」
そこから先は言葉にならないともで言うように、アヤノは顔を伏せた。
その時、エイパムが不意にエイタの肩から転がり落ちた。頭を床に打ちつける前に宙返りしたエイパムが手も使って床を蹴り、アヤノの下へと戻っていく。エイタが手を伸ばしたが、エイパムは身体を伝ってアヤノの肩に上っていた。「……エイパム」というエイタの声に、エイパムはアヤノの肩の上で口元を緩ませ、尻尾を軽やかに左右に振った。まるで別れの挨拶のように。
エイタは伸ばしていた手を拳に変え、「そうかよ」と燻りを形にしたように呻いた。
「ディルファンス全構成員に告げる。アヤノは裏切った! この局面で、ディルファンスを! 背信行為だ! 処刑しろ!」
手を振り翳して叫んだ声に、構成員達は戸惑うばかりで今の言葉を確認するようにエイタに視線を向ける。エイタはその視線を振り払うかのようにもう一度手を振るった。
「何やってる! お前ら! 僕の、リーダーの言う事がきけないのか!」
構成員達はモンスターボールに手を伸ばしかけて、一様に手を止めた。自分達が正しい行いをしようとしているのか、疑問を挟むかのような沈黙が降り立つ。エイタは焦れたように舌打ちを漏らした。
「お前ら、出来ないのかよ。なら僕が――!」
「エイパム。シャドークロー」
短く放たれた声に、エイパムが跳躍したかと思うとくるりと身を返し、尻尾の先から影の鉤爪を三つ、音もなく飛ばした。誰もが息を呑む間もなかった。博士は顔を上げた。エイタの身体に三つの傷跡が刻まれている。その傷跡から影が揺らめいたかと思うと、バッと血飛沫が舞った。生暖かい血が顔にかかり、その時になってようやく反応が追いついてきたのかエイタが呻き声を上げた。
「なっ、なっ……!」
慌てて傷口を塞ごうとするが、その身体が急に傾いだ。博士の目には、エイタの身体が三分割されるのが大写しになった。ごとりと重い音を立てて転がったエイタの身体の一部が、博士に寄りかかる。博士は思わず後ずさった。しばらく何が起こったのか判らなかった構成員達がようやく事態を把握し、「貴様!」と声を上げてモンスターボールを振り上げる。
「やめなさい。私はアヤノみたいに手加減できないから。殺してしまう」
その声に凍りついたかのようにピタリと動きが止まった。構成員達は気圧されたようにボールを握った手を震わせる。それを見たアヤノが鼻を鳴らした。
「いい子達ね。飼い慣らされていて、聞きわけがいい。それに、分も弁えているみたいね。私に敵わないと、一瞬で判った事は褒めてあげてもいい」
アヤノが歩み出すのを、誰も止めようとはしなかった。ただ黙ってそれを見つめていた。博士が歩み寄ってきたアヤノをその視界に捉える。肩に乗ったエイパムの眼が蒼く輝いていた。
「……エイパムが、月の石のポケモンに」
「ええ。ごめんなさい、博士。最初にもらったポケモンなのに、こんな風になってしまって」
その口調も先程までのおどおどとしたアヤノの様子とは一線を画していた。戦闘に慣れた獣の眼が博士を見下ろしている。その眼差しの先に、エイタが映っている事に気づいた。どこか寂しげに細められたように感じたのは気のせいか、それとも――。答えは出ずに、博士はゆっくりと立ち上がろうとして、脚の痛みにまた膝を崩した。アヤノが近づいて手を差し出す。博士はその手に掴まり、痛みをおして立ち上がった。白衣には血がこびりついている。エイタの血とキシベの血、両方を吸った白衣は最早元の関係には戻れない事の象徴に思えた。博士はアヤノへと視線を向け、慎重に口を開く。
「……君は、アヤノ君ではないね」
アヤノは博士へと顔を向け、緊張の面持ちを少しだけ緩めた。微笑んだようだった。それが何よりの肯定に思えた。
「いつから、気づいていたの?」
「私は、これでもトレーナーだって大勢見ている。君が戦う時に、人が変わったようになる事くらいは知っていた。戦闘後には何一つ覚えていない事も。まるで誰かに任せているかのように。君は、もう一人のアヤノ君だね」
「アヤメよ。はじめまして、じゃないけど、人に知られるのは初めてね」
アヤノの姿を取ったアヤメが手を差し出す。博士はその手を見やったが、握ろうとはしなかった。
「君は強い。私の助けなどいらないだろう」
「それは過大評価よ。私はアヤノでもある。支えてあげて」
どこか切な声に、博士は息を漏らしてその手を握った。握り返す力は強かった。何も訊くまい、と博士は思った。彼らは皆、痛みを引き受けているのだ。その痛みを肩代わりする事は出来ないし、背負うには重過ぎる。覚悟のない口を開けるほど、博士も分かっていないわけではなかった。
「アヤメ君。それでも君は殺したんだ。罪は――」
「分かっている。償うべき時に償う」
その眼は倒れ伏しているエイタの骸を見つめていた。彼女は、どれだけの悪を背負ってきたのだろう。いや、それを悪と一方的に断ずる事も出来ない。自分とて人を殺した。大局的に見れば、それは正義をなしたのかもしれない。だが、人殺しは人殺しだ。どう足掻いても、その事実は消えない。胸にある重石も、同じ事だ。
「でも、今は」
「分かっているさ。ヘキサ打倒が最優先だ。既にカントーの領空には入っているだろう。このままではまずい」
「私とエイパムとアヤノに出来る事は限られているけれど」
「なら、私の護衛を頼む。これから私は、電磁浮遊機関の停止作業に臨む」
アヤメは少し面食らったように目を見開いた。博士は笑みを浮かべ、「信用してくれよ」と言った。
「私だって出来る事があるはずなんだ。キシ――いや、ペラップもいる」
ペラップを肩越しに親指で指すと、ペラップが嘴から声を発した。
「ヒグチ。電磁浮遊機関はマニュアルで止められる。用意がいいのならば、端末くらい持っているだろう?」
「生憎ですが、持っていないんですよ」
持っていたがバックパックの中だった。アヤメが振り返り、構成員達に呼びかける。
「この中で端末を持っている人くらいいるでしょう。そうでなくとも、ルナポケモン識別ゴーグルならば、それなりの代用にはなる。半分は博士のバックアップ。半分は、……こいつを埋葬してあげて」
アヤメはエイタの遺体に一瞥をくれた。しばらく、誰一人として動こうとはしなかった。殺した人間の言い分など聞けるか、というのもあったのだろうが、それ以上に彼らの中に蔓延していたのは戸惑いだ。彼らもまた依存していたのだ。エイタというリーダーに。その前からならば、アスカに。そもそもはディルファンスという組織に。そんな彼らに状況を推し量れというのは酷な判断かもしれなかった。永遠とも思える沈黙に、堪りかねて身を翻しかけたのを、小さな声が呼び止めた。
「……あの、一応、簡易端末くらいは持っていますが」
構成員の一人が衣服に張り付くような鞄からノートパソコン型端末を取り出して、博士へと歩み寄りそれを差し出した。博士が思わず、「いいのかい?」と尋ねる。構成員は頷いた。よく見れば、まだ歳若い少女とも取れる顔立ちの構成員だった。
「はい。ヘキサを止める。それが、今、やるべき事ですから」
その言葉に続くように、ゴーグルを外した構成員が「……俺、も」と言葉を続けさせた。
「やれる事があるのなら、やります。ただその前に一つだけ」
構成員の目がエイタの遺体に向けられる。黙祷を捧げるように少しの間、目を閉じた後に彼は博士を見つめて懇願するように言った。
「エイタさんを埋葬させてください。俺達、全員の手で」
見れば、エイタの遺体を見ているのは構成員ばかりではない。トリデプスやランクルスも同様だった。主人を失った悲しみか。その感情は推し量る事しか出来ない。キシベの言っていた通り、ポケモンと人間は平行線で結局のところ分かりあえていないのかもしれない。今の光景だって、人間が曲解しているだけだろう。だが、そこに感情を見出すかどうかは人の心一つなのだ。それが無ければ、人同士でさえ分かり合えず平行線になる。
「分かった。トリデプスに遺体を運ばせる。私は、ゴーグルと端末でどうにかならないかやってみよう」
博士の言葉に構成員達は頷き、端末とゴーグルを博士へと手渡した。ゴーグルを嵌める直前、遺体をトリデプスに載せる光景を見ているアヤメの姿が目に入った。アヤメはその唇から小さく言葉を紡いだ。
「……さよなら。幼かったあたしの日々。そして――」
誰に別れを告げたのか。その先は聞き取れなかった。