第六章 三十五節「凶兆」
氷付けの身体が横たわっている。
頭部と思しき部分の近くに全身傷だらけのダイケンキが仰向けに倒れていた。ゴーグルの内側でルナポケモンであると判定がなされたが、同時にもう生命活動を停止している事も判った。ゴーグルを外し、汗ばんだ額を拭ったエイタは、氷付けの遺体を見た。ルナポケモンではないと判定されたそれは伝説のポケモン、レックウザだ。構成員達が氷付けになった身体に恐る恐る手を触れる。そちらも生命活動の停止が確認された。当然か、とエイタは頭部を見やる。ダイケンキの持つ貝の大剣、アシガタナが頭部へと深く食い込んでいた。内部で肉が弾け、脳しょうが氷の内側で垂れていえる。あまり見たくないものだ、と思う。特に伝説のポケモンのものとなると。
「ルナポケモンとレックウザの戦闘……。周囲がこうなるとは、相当なものだったか」
エイタは首を巡らせて周囲を見た。焼け焦げたビルや、凍結した破片、飴のように曲がりくねった建築物の残骸、黒ずんだ地面、挙げていけばここは地獄かと問いかけたくなる。否、真実の意味で地獄なのだ。ディルファンスとヘキサが存亡をかけてしのぎを削る戦場。既に地獄と化している。そこらかしこで爆発の震動が起こっていたが、今は感じられなくなった。沈静化したのか、と思ったがそんなはずはない。
むしろ静かなのは凶兆だ。
ヘキサが障害を全て乗り越え、カントーに至ろうとしているのかもしれない。カントー政府に防衛権が委託されればそれまでだ。エイタは懐から情報端末を取り出す。カイヘン政府はまだ決定を渋っているようだった。恐らくはカントーの領空に入っているのは間違いないが、まだカイヘン地方は正式な見解を出さない。ハコベラの根回しが効いたか、それとも決断力のない責任者が多いのか。後者であろうと感じたエイタは、「例の出入り口は?」と声を張り上げた。
「こちらです」と応じた構成員が足元の石を蹴った。数人の構成員が力づくで、岩壁のような瓦礫を押し退けている。その様子はまるでスマートでなかった。無理やり押し入っているのは自分たちのほうだと無意識に訴えかける。誰の許しを得ているというのか。ただいたずらに戦闘状況に介入し、被害を広げている。この構成員達を見ていると、自分達が衆愚にも劣る存在に思えたが、エイタはその考えを打ち消した。博士達と決別したのだ。今更、考え方を変える事など出来ないし、それほど器用ではない。それよりも、と考えを巡らせる。
「……生きていた、か」
フランの顔を思い出す。憎しみも、怒りも超えたあの瞳。コノハを前線に投入した自分を恨みもしない。その先を視ていた眼差しに記憶の中で、何があった、と問いかける。感情を表に出す人間のほうがまだやりやすい。あの、善悪の彼岸を超えたような達観に、エイタは苛立ちすら感じていた。
「そんな眼で見て、僕をどうしたいんだよ、お前は」
殺したいのなら素直に言えばいい。しかし、そうしないのはどうしてか。ただ軽蔑だけを残した瞳が瞼の裏でちらつき、エイタは歯噛みした。アスカといい、フランといい、ヤマキとかいう構成員といい、何なのだ。どうして急にうまくいかなくなった。今までは面白いくらいに思い通りに回っていたのに。
その時、エイタの制服の袖を誰かが小さな力で引っ張った。怒りをそのまま引き連れたエイタは思い切り、腕を振り払った。
「あ……」
アヤノが虚をつかれたように、袖を摘んでいた手を彷徨わせた。エイタはアヤノだと知るや、眉間に寄せていた皺を和らげた。
「アヤノ。すまない。考え事をしていたんだ。ここからは先を、そう簡単に敵が通すとは思えないからね」
すぐに指揮官の顔に戻り、エイタは告げて瓦礫が重い音を立てて転がった先にあった出入り口を見つけた。エイタはアヤノを無視して入り口に歩み寄り、手で触れる。五メートル四方の立方体と言えば早いか。銀色の立方体がしとしとと降りしきる雨を身に受けて、表面をてからせる。頬に引っかかる雨粒が煩わしく、エイタは顔を拭った。雨脚は随分と弱まったが、まだ降っている。焼け焦げた瓦礫と遺体が雨に濡れてすえた臭いを漂わせる。早々に地下に侵入したいものだった。エイタは入り口を手で触れた。恐らくエレベーターの類だったのだろう。ここだけ堅牢に作られているということは中枢に続く隠しエレベーターか。表面を撫でてから、エイタは構成員達へと振り返った。
「扉を破壊して、ケーブルを伝って降りる。当たり前の事だが、ポケモンを用意するんだ。アヤノ」
急に名前を呼ばれたせいか、アヤノがびくりと肩を震わせた。エイタはアヤノに近づき、肩にそっと手を置いた。
「エイパムのシャドークローで扉を切り刻んでくれ。ただし、奥のケーブルまでは切らずに。君なら、出来るね」
無条件に従わせる意味を含んだ声に、アヤノは一瞬の沈黙を挟んだ。逡巡するように顔を伏せる。エイタは「ああ」と察したように言った。
「模擬戦の事を気にしているのならば心配はない。あれは強敵を相手にした事と、見られているプレッシャーもあったのだろう。今は、大丈夫だと思う。君は強い女性だから」
殺し文句を添えた言葉に、アヤノは顔を上げた。その目をじっと見下ろす。数秒の間、視線を逸らさなかったアヤノは、少しだけ視線をずらして「……分かりました」と頷いた。
「うまくやってくれ」
エイタはアヤノの背中に手を回し、アヤノを前に導く。構成員全員の視線がアヤノに向けられる。緊張するな、というほうが無理か。そう思ったその時、アヤノがモンスターボールをホルスターから引き抜いて叫んだ。
「行け、エイパム」
モンスターボールが割れ、中から光に包まれた矮躯が飛び出した。手に見える尻尾を振り払い、猿のようなポケモン――エイパムは口元をにやりと緩めた。エイタは薄ら寒さを覚えつつも平静を装った。このポケモンに殺されかけた。緩んだ顔つきと黒々とした眼は何を考えているのか全く読めなかった。
「エイパム。シャドークロー」
エイパムが自身の影に尻尾を浸す。ずぶずぶと影の中に手の形をした尻尾が入り、影が蛇のように尻尾へと絡みついた。がっしりと鉤爪のように固定された影を吊り上げて、エイパムが尻尾を上げる。尻尾の先端の手には、影の鉤爪が三つ付いていた。エイパムが鉤爪を保持したまま、短い足で地を蹴りつけ、扉へと直進する。一足の跳躍で扉の真ん前へと辿り着いたエイパムは宙で身を翻して、鉤爪を一閃させた。三つの影の鉤爪が切れ目を生じさせ、扉がごとりと音を立てて落ちる。中の箱は既に下階に降りているらしく、暗闇の中にケーブルがあった。エイタはそれを確認し、「よし」と頷いた。
「各員、ポケモンでケーブルを伝って下に降りてくれ。油断するなよ」
半分は自分に言い聞かせるつもりで放った言葉に、構成員達は一斉にポケモンを出して走り出した。ポケモンにケーブルを掴ませ降りていく。兵器利用、道具、様々な言葉が浮かんだが、エイタはそれらを「何とでも言うがいい」という一言で打ち消した。
「僕らは戦って正義を示さなくてはならない。そのために、必要なんだ。ディルファンスは」
正義の象徴としてあり続けなければならない。ロケット団は混沌の象徴として世界にあったように、ディルファンスは世界正義の象徴なのだ。市民を守る盾こそが全ての悪を封じる。胸元のバッジを握り締め前を見る。構成員全員が降下し、残すはアヤノと自分だけになった。エイタは柔らかな口調でアヤノへと振り返った。
「アヤノ。僕らも降りよう。先に行った彼らが道を開いてくれているはずだ」
歩みかけたその時、小さく「……どうして」という声が聞こえ、エイタは立ち止まった。アヤノは顔を伏せて、言葉を継いだ。
「何か。変なんです。あたし。だから、行けません」
「どうして。君は立派な女性だ。僕の誇りだよ。ディルファンスの、平和の象徴と言ってもいい」
エイタが一歩近寄ると、アヤノは一歩退いた。
「違うんです。エイタさん。エイパムが、見ているんです」
その声にエイタは振り返って扉の前で首を傾げているエイパムを視界に捉えた。エイパムは口元を緩めて、尻尾を振っている。奈落にも通ずるように見えるその眼差しに、エイタは一瞬吸い込まれそうになったがかろうじてそれを押し留めた。
「エイパムは、君のポケモンだろう。恐れる事なんてないんだ」
肩に触れようとしたその手を、アヤノは振るった手で弾いた。「アヤノ……」と発する声に、アヤノは首を横に振る。
「――違うんです! エイタさん! アヤメが見ているんですよ、あたし達を!」
その言葉はアヤノが前にも口にしていた。アヤメ。人の名前のようであるが、周囲を見渡しても誰もいない。空も仰いだが、雨が降りしきるだけだ。どこからも、監視の眼が注がれているとは思えない。エイタはそっと耳打ちした。
「気にしすぎだよ。最後の戦いの前で緊張しているんだ。大丈夫だよ。いざという時は、僕が守るから」
「――嘘」
冷たい刃のようなその声に、エイタは目を見開きアヤノから離れた。アヤノは口元を押さえて、エイタの行動を驚愕の表情で見つめている。
「どう、したんですか、エイタさん。何か、言いました? あたし」
「いや……」
エイタは額に滲んだ汗を拭う。今の感覚は何だったのか。問い返す勇気がなかった。気にしているのは自分のほうかと独りごち、エイタは扉へと身体を向けた。ホルスターからボールを引き抜き、
「行こう。皆が待っている」
「はい」
アヤノは頷いてエイタと共に駆け出した。ちらりと盗み見たその顔が、一瞬、愉悦の笑みに緩んでいるのは気のせいだったのだろうか。
意識の表層が一瞬、暗闇に閉ざされた。次に目を開けると、エイタが自分から離れていた。その眼に浮かんだ拒絶の意思に、思わず口を開く。
「どう、したんですか、エイタさん」
エイタはそれでも何も言おうとはしなかった。ただ黙って、化け物にでも行き会ったかのように固まっている。アヤノは手を伸ばしながら、言葉を継いだ。
「何か、言いました? あたし……」
「いや。行こう、皆が待っている」
エイタは慌てて視線を逸らし、身を翻した。その瞬間、確かに見た。慄くような色が眼に浮かんでいるのを。どうして、そんな顔を。と続けかけた声を遮るように、エイタは歩き出した。アヤノはその背中に何も言葉をかけることは出来なかった。エイタは自分に何を見たのか。問い質したい衝動に駆られたが、アヤノはぐっとそれを押し留めた。問えば戻れなくなる。その確信が胸に突き立ち、アヤノは短い言葉しか吐き出せなかった。
「はい」
肯定の意味で発したわけではない。ただ間を埋めたかった。それだけだ。エイタはボールからランクルスを繰り出した。緑色のゼリーに包まれた腕がケーブルをがっしりと掴む。ランクルスに覆い被さるようにエイタは掴まった。しかし、アヤノまで背負い込むほど馬力もない。エイタがするするとケーブルを降りていく。アヤノはエイパムと顔を見合わせた。底知れぬ黒い眼差しに、そうだと思い出す。この眼を見た瞬間の記憶が抜け落ちたのだ。果たして、エイパムを信用していいものか否か、という問いはこの場では無為だった。エイパム以外、手持ちなどいない。エイパムに頼るしか、畢竟、道などないのだ。
「エイパム」
名を呼ぶと、エイパムは跳び上がって尻尾をケーブルに絡みつかせた。アヤノはエイパムの身体に掴まる。小さな身体だがアヤノ一人分くらいならば抱えられるだけの力は持っている。エイパムはするりとケーブルを伝って降下した。下を覗き込むと、既に明かりが点けられているのかぼんやりと明るかった。一足先に降り立ったエイタがランクルスを連れ立って四角く切り取られた箱の上に立つ。エレベーターの非常用ダクトだろう。そこから明かりが漏れているのだ。中には既に数人がいるようだが、扉が開けられずに四苦八苦しているのがエイタの指先のサインで知れた。
アヤノはエイパムから手を離して箱に飛び降りる。もし、エレベーターが途中で止まっていたのならば大惨事になっていただろうが、幸いな事にエレベーターは最下層まで降りていた。振動が身体に伝わるが、大事はない。アヤノとてポケモントレーナーだ。サキほどではないが、それなりの運動ぐらいは出来る。ミサワタウンから共に旅に出た仲間達のことを思い返し、アヤノは暗い影が胸中を過ぎったのを感じた。これは、後悔か。それとも懺悔の心か。この道を選び取ったのは自分自身だというのに、まだ迷う心があるのか。博士とリョウに説得された。ナツキも心配している。それでもエイタと共にいる事を選んだのは他でもない、自分のはずだ。自分の選択に疑問を感じている間は、真実に辿り着く事も出来ない。カリヤの真実を知らなかったように。
そういえば、と思い返してアヤノはエイタを見やる。エイタは下の構成員と何やら打ち合わせをしていた。その背におどおどと言葉をかける。
「エイタ、さん。カリヤさんがいる場所に心当たりはあるんですか?」
その言葉にエイタの動きが止まった。エイタが半分だけ顔を振り向ける。笑っているように見えたが、半分は分からない。まさか、という感情が宿ったのも一瞬、疑念が膨らみ、アヤノは歩み寄っていた。
「エイタさん。どうなんですか? 答えてください」
「アヤノ。今は扉を開ける事が先決だ。エイパムを早く寄越してくれ」
あまりにも無骨に放たれた言葉に、アヤノは一瞬、言葉をなくした。エイパムがケーブルを伝い、アヤノの肩に飛び乗ってくる。エイタは半分だけ明るい顔で、手を差し出した。
「早く。時間がないんだ」
「話を逸らさないで。エイタさん、カリヤさんは……」
「……カリヤ、カリヤって、うるさいんだよ! 君はもう、僕のものだろうが! 喚くなよ!」
エイタが近くにあった鉄骨を叩く。アヤノは理解出来なかった。エイタの叫びの意味も。どうしてエイタの顔に怒りが滲んでいるのかも。エイパムがアヤノの肩から飛び降りて、前に出る。いつかのようにアヤノを守るわけではない。エイパムは一度、アヤノへと一瞥をくれたかと思うと、エイタの差し出した手に乗った。手を伝い、肩まで上る。その瞬間、アヤノは今まであった全てが瓦解した音を聞いた。エイパムだけは裏切らないと信じていた。たとえどんな事があっても。だが、エイパムはエイタの肩にいる。アヤノ以外には決して懐かなかったエイパムは今、エイタの命令を聞いた。
「エイパム。シャドークローで扉を破壊してくれ」
エイパムは頷き、四角いダクトへと吸い込まれていった。「シャドークロー」で扉を破壊する音に混じって、エイタの呟き声が聞こえた気がしたが、アヤノはそれを認めなかった。
「女の臭いがするくせに」と言われた気がしたのだ。エイタはしかし、直後に笑顔になって、
「行こう、アヤノ。急がなくっちゃ、カントーどころかカリヤも救えない」
アヤノへと手を差し出した。アヤノは逡巡を浮かべたが、どちらにせよ退路は無かった。空は遠く、地も遠いこんな場所では誰も助けに来てくれない。唯一の希望であるエイパムが他人の命令を聞いてしまった。それだけでアヤノは身の引き裂かれる思いだった。
「アヤノ?」
エイタが不思議そうにアヤノの顔を覗き込む。アヤノは不安に翳らせた顔を見せまいと顔を背け、そっとその手をエイタの手に乗せた。
「中枢に辿り着き、空中要塞の動きを止める」