第六章 三十三節「父親」
モニターの光源だけが顔を照らし出す。
キシベは黙してただ待っていた。その時がやってくるのを。時は残酷と人は言うが、優しく慰撫もしてくれるのだ。ルナの死体は墓に埋めれば朽ちるだけだ。しかし、この空中要塞ヘキサと共に永遠になる。そうなれば、時など関係がない。しがらみから解放された肉体は永遠の大地の息吹となってカントー平原を時に猛り狂った嵐のように、時に母親のように抱き締めてくれる。その大地で自分はルナと共に永遠になる。永遠への道のりが長く険しい事は承知している。だが、キシベはその永遠の喉元に辿り着いたのだ。ヘキサを設立し、空中要塞でセキエイ高原に向かっている。
うまくいくはずがない、夢物語が現実の、手の届く範囲まで来ている。キシベは右手に視線を落とした。右には罪の重さがある。左手を上げる。左手には罰があり、両手は天秤のようなものだった。キシベの手は命の重さをはかるための天秤だ。そのためにあった雌伏の数年間。口元に手をやれば、偽りの笑みが張り付いている。
「いつまで、こうしてるのだろうな」
ふと過ぎった言葉が一点の染みとなって心に広がった。心というものはもう枯れているとばかり思ったが、存外にしぶといものだ。
「私も、あの少年と同様か」
モニターの一つにポケモンを自在に変化させるトレーナー然とした姿の少年が映り込む。R01Bと戦っているようだが、彼の心にも迷いはあるのか。どこかポケモンの動きがぎこちない。あの時仕留め切れなかった不実よりも、彼がR01Bと戦っている事がキシベには滑稽だった。人はそれを因果とでも言うのか。
その時、扉が開いた。振り返ると、「ああ」とキシベは感嘆したような声を上げた。
「待ちわびていた」
「お久しぶりです。キシベさん」
そこにはかつての部下であるヒグチが立っていた。
白衣の袖が薄汚れている事に気づく。それが自分の穢れか、と自嘲したヒグチ博士は目の前の男へと視線を向けた。
キシベ。この事件全ての糸が集約している人間。同時に全ての真実に繋がる扉を持っている。黒い服はヘキサ設立宣言の時と同じ服装だと知れた。胸にRの矜持はない。代わりのように白い縁取りで水色の六角形が刻まれている。キシベは肩を竦めて、「さん付けはよしてくれ」と昔のままの口調で言った。
「私は君の事を尊敬している。研究者として素晴らしい。――だったかな、私の常套句は」
「……よく、覚えてられますね」
「忘れるものか。君は最も信頼する部下だった」
キシベがゆっくりと歩み寄ってくる。博士はキシベの動きを注視した。その視線に気づいたのか、「ああ」とキシベが察した声を出す。
「ポケモンがあってはまともに話も出来ないか。いいさ、こうしよう」
キシベは懐からモンスターボールを取り出し、床に置いた。ごろごろと無造作に転がる。
「一個だけですか?」
「そうだよ。余計なものは出来れば持ちたくないんだ。知っているだろう」
「ええ。存じております。昔から、そうでしたね」
フッとキシベは皮肉の笑みを浮かべた。その笑みの意味をはかりかねて、博士は尋ねた。
「どうなさいました?」
「いや。君は変わらないんだな、と思ってね」
「キシベさんもですよ」
「私か? 私は変わったさ。変わらざるを得なかった」
キシベと博士が相対する。キシベはどこか余裕のある笑みを浮かべているのに対して、博士は緊張を隠せない面持ちだった。
「座ろう」とキシベが出し抜けに言い出した。
「ここに、ですか?」
博士のその言葉にキシベはフッと笑みを浮かべた。
「汚くはしていないつもりだ」
キシベはその場に座り込んだ。博士もそれに倣い、その場に座る。キシベが不意に笑った。
「酒も肴もないというのに、男が渋面をつき合わせるか」
「酒も何も、すっぱりやめました」
「それは、どうして?」
「娘がいるんです。その子が嫌がるもんで」
「そうか。私も娘がいる。って、知っているな。ルナはもうすっかり大きくなったよ」
その言葉に違和感を覚えないでもなかった。だが、博士は黙して聞いていた。キシベは上機嫌になって、言葉を継いだ。
「父親が嫌いになったのか。最近は色々と大変だ。そういう時期が必ずあると分かっていても、辛いものだな。母親がいないから私が世話をするしかないんだが、そういうところが嫌なようだ。喧嘩にはしたくないから、私がいつも折れるんだがね」
「そう、ですか」
博士は額の汗を袖で拭った。そのせいで汚れてしまうのだと、今更に気づいた。
「君のところの娘は、いくつだ?」
「今年で十四になります」
「へぇ、十四。君は結構、若く見えるのにな。今は、ミサワタウンか?」
「はい。ポケモン群生学の研究を」
喋れば喋るほどに、首の裏に汗が滲む。均衡を破ろうかと何度か言葉を発しかけて、喉の奥で詰まらせた。
「そうか。研究、うまく行っているか?」
「はい。僅かながらカイヘン地方で成果を挙げました」
「そりゃ、すごい。もう私とは天と地ほどの差があるな」
「いえ。私はまだまだです。キシベさんは、研究は?」
口に出してなんていう馬鹿馬鹿しい質問だと思った。それが言いたいのではない。聞きたい事がある。言いたい事がある。だというのに、踏ん切りがつかない。その一線を越えたら、何もかも戻れなくなりそうで怖かった。
――結局、覚悟が一番ないのは私じゃないか。
ナツキ達の覚悟が博士には眩しく映った。真っ直ぐに自分のやるべき事と、心の赴く先を決められる。それを若さだけと断ずる事など決して出来ない。彼らなりの苦痛があったはずだ。その上に、今の行動が成り立っている。だというのに、大人である自分には示すべきものがない。
「私の研究は実を結んだよ。最強のポケモンが誕生した。あれにヘキサツールを持たせれば、最強の手札となってロケット団は生きながらえる」
その言葉の後、暫時、沈黙を挟んだ。今は亡きロケット団という組織。それを壊滅に追い込んだ張本人が、ロケット団の未来を語る。拭いきれぬ違和感に、博士は言葉を発しようと口を開いた。その時だった。キシベが忌々しく唇から言葉を紡ぐ。
「……違うな。そうではない。私が望んでいるのは、最強のポケモントレーナーでも、ポケモンでもない。永遠だよ、ヒグチ」
「永、遠ですか……」
「そうさ。そうと言っても私はね、時を制御したいとかそういう傲慢な考えではないんだ。時間も空間も、反転した世界の裏側も超えた先というものがある。それこそ宇宙の創造から、人類黎明期より信じられているものだ」
「この宇宙は、アルセウスという一匹のポケモンから発したという、伝説ですか」
見当違いも甚だしい。キシベはそういう事が言いたいのではない。だが、核心を突く言葉を発する勇気が未だに湧かなかった。キシベはゆっくりと首を横に振った。
「それは表向きだ。私が言っているのは、そう、魂のようなものかな。いや、それさえも分からない。タマゴとニワトリ、どちらが先に発生したのかが分からないように、同じ事だ。魂の世界が先に発生し、そこからアルセウスの魂がこの宇宙の平原に生まれたのか。それともアルセウスという意思から魂の世界は発生し、人間もまた生まれ出でたのか。いや、それもどうでもいい。シンオウの伝説などに興味はないんだ。私が言いたいのは、ヒグチ。命というものについての話だ」
思ってもみない言葉に、博士は黙りこくった。キシベは深淵に続いているかのような真っ黒い瞳を博士に向けたまま語り聞かせる。
「命とは、どうして限りがある? そもそも限りなど誰が作った? それは人が定義したものだ。命というものに上限を設けるのがいけない。魂さえも命とするのならば、限りなどない。魂ごと滅ぼされぬかぎり。しかし、どうやって魂を滅ぼす? このたんぱく質の器に込められた命を終わらせる方法を、人は絶え間なく開発してきた。だが、歴史上、どれだけ偉大な人物とて魂を滅ぼす術を持っている人間はいない。あらゆる苦痛と死が積み重ねられた歴史の中で、魂だけが永遠不滅の輝きを誇ってきた」
「……何が、言いたいんです、キシベさん」
耐えかねて出た言葉だった。ある程度、言っている事は分かる。理解出来ない話というわけではない。哲学的だが、キシベの言葉に宿る切実さが現実の問題のように突き立つ。しかし、キシベの理論の行き着く先が恐ろしくて直視出来ない。キシベは口元を歪めて、両手の指先を合わせた。
「つまりだ。ヒグチ。魂が永遠不滅ならば、それでいいではないか。こんな器に入っているから、死に囚われる。長いスパンでみれば、死など未来永劫、存在しないのだよ」
「……だから、ルナちゃんをあんな目に遭わせているんですか」
博士はここに行き着くまでに見た部屋にあったものを思い出す。脳裏に描くだけで吐き気がした。胃から灼熱がせりあがる感覚に、博士は思わず口元に手を当ててキシベを睨む。
「その眼はなんだ? ルナは永遠になるんだよ。カントーの人々だってそうだ。全ての罪を洗い流し、未来に繋げるにはこの方法しかない」
「……そんな事のために」
博士が顔を伏せて小さく発した声に、キシベが「何だって?」と聞き返す。拳を握り締めた博士は、それを振り上げた。
「そんな事のために、大勢の人々の未来を奪ったのか! お前は!」
立ち上がり様に振り下ろした拳がキシベの頬を捉えた。人生の中で初めて人を殴った罪悪感がこみ上げ、博士は殴った手を彷徨わせる。自分のものとは思えない熱が、内側で燻っている。
キシベの唇から血が伝い落ちる。その雫に視線を取られていると、不意に立ち上がったキシベと目が合った。その眼は何も見ていなかった。この時、ようやく気づいた。この男は何も見ていない。未来などとのたまうが、この男にあるのは過去だけだ。口元を拭ったキシベが、「痛いじゃないか」と言葉を発する。博士はぎりと奥歯を噛み締め、キシベへと掴みかかった。
「自分のした事が、これからしようとしている事が分かっているのか! 大勢の命を自分勝手な理屈でこの世から消し去ろうとしているんだぞ!」
「自分勝手? 私がか?」
キシベはまるで自分の事など一言も言われていないような口調で言った。
「私は、永遠を求めているだけだ。全て、永遠に還るんだよ、ヒグチ。分かっていないのは君のほうだ。ルナの魂はその時こそ、浄化される」
「浄化だと! あんな風になってまでこの世にくくりつけてやる事が救いだというのか!」
「あんな風になってまで、だと……」
その時、キシベの表情が変わった。眉がピクリと動き、博士は思わず手を離しかけた。その鳩尾へと、拳が食い込んだ。鉄球を打ち込まれたような鈍痛に、意識が飛びそうになる。博士は肺の空気を全て吐き出した。
「誰のせいだ!」
緩んだ手を振り解き、キシベが斜めから拳を振るい落とす。博士は額に鋭角的な痛みを感じてよろめいた。ふらふらと傾ぐ視界に、キシベが映りこむ。構えを取る事も出来ずに、博士は振るわれた手が頬を打ち据える音を聞いた。
「ルナをあんな風にまで追い込んだのは貴様らだ! それを、今更他人事で済ますつもりか!」
その言葉が心の奥底に刃の鋭さを持って突き刺さった。肯定も否定も出来ずに、ふらついているとキシベが両手を組んで振り上げたのが視界の隅に映った。ハッとしたその時には、脳天へと全体重をかけた拳が打ち込まれた。脳が揺さぶられ、視界が危うくなる。思わず手をついて、首を振った。まだ、倒れるわけにはいかない。その気持ちとは裏腹に今にも、視界は閉じようとしていた。
「……他人事で、済ませようとは、思っていない。私も、けじめは取るつもりだ。娘に対して……」
「あの少女の事か?」
キシベが急に落ち着き払った口調で、モニターへと振り返った。博士もキシベの視線の先を追う。画面の一つにサキが映っていた。血まみれで倒れている。傍らにはディルファンスの制服を着た男が立っていた。
「ルナの紛い物が生きていたとは思わなかった。だが、あれは作り物だぞ、ヒグチ」
キシベが博士へと顔を振り向ける。博士は痛む頬を押さえながら、立ち上がろうとするが腹の重い痛みが邪魔をする。
「本当の意味で、生きてるわけではないのだ。私も、最初は投影していたよ。ルナの姿をね。しかし、本当のルナは永遠になる。だとすれば、紛い物はただの駒だ。君の娘、R01も、R01Bもな」
「……R01じゃ、ない」
腹の奥底から搾り出した声が頭を白熱化させる瞬時の熱さとなり、博士は顔を上げた。平時を忘れ、獣のように叫ぶ。
「あの子は、サキだ! 私のただ一人の娘だ!」
博士の様子に、キシベはほとほと呆れたとでも言うように、首を横に振り、ため息をついて見下ろした。
「ヒグチ。君は冷静に、物事を客観的に見れる男だと思っていた。だが、私の認識が間違っていたようだ。まさか、人形と親子ごっこをしていたとはな」
「なんとでも、言え! 私は、私は……」
懐へと手を伸ばそうとする。白衣の中にある銃を掴もうとしたその時、キシベの足元にモンスターボールが転がっているのが見えた。既にボールは開いている。いつの間に、と思った瞬間に肩口を焼き付けたような熱が貫いた。痛みよりも熱さが先行し、博士は肩を押さえて蹲った。グリップを握りかけていたせいか、懐から銃が転がり落ちる。しまった、と思った瞬間、キシベの足が銃を取ろうとした博士の手を踏みつけた。忌々しげに顔を上げると、キシベの肩へと音符のような頭部をした鳥ポケモンが降り立っていた。色とりどりの羽根に、血がついている。「残念」とキシベの声でそのポケモンが喋った。ペラップだ。
「本当に、残念だよ。ヒグチ。君は感情論で動く人間ではないと、信じていた。だからこそ、非道な実験に手を染めたのだと、半ば割り切っていたのに。あまつさえ、私の娘を模した存在と親子の関係にあったとは。奪った側でありながら。それは許しがたい、罪悪だ」
キシベが足に力を込め、手を踏みにじった。博士が思わず呻き声を上げる。それは肩口の痛みも影響していた。今更のように血が滴り落ち、深く切りつけられたのだと知る。キシベが足元の銃を手に取った。玩具でも眺めるようにあらゆる角度から見つめる。
「銃など、原始的だな。熟練したポケモントレーナーならポケモンで銃弾程度は弾き落とせる。しかもこれは、本当に人を殺すためだけの銃だ。ポケモンに対して何の対抗策もない。つくづく、君は愚か者だよ。おめでたいと、言い換えてもいい。私と真っ向勝負するつもりだったのか。馬鹿な」
キシベがグリップを握り、安全装置を解除した。立ち上がりかけた博士は頭頂部にこつんと冷たい感触が当てられたのを感じた。銃口が自分に向けられているのだ。悟った瞬間、ぞわりと肌が粟立った。
「もっと賢いと思っていたよ。ヒグチ。残念だ。君には永遠を見せたかったのに」
「……永遠だと? このタリハシティをどうするつもりだ。セキエイ高原を支配して、兵器で人を殺して――」
「矮小だなぁ。そんなもの。私が受けた痛みと苦しみに比べれば」
遮ったキシベが強く銃口を押し付ける。博士は顔を上げる事も出来ずに、喉の奥で声を詰まらせた。
「教えてあげよう、ヒグチ。セキエイ高原の支配などではない。そんな事をしても、世界がすぐに変わるわけではない。そうだ。唐突だが、君は終末論を信じるか?」
「終末論、だと。そんなもの」
「信じないか。この世界は、神のいない不均衡な世界だ。いつ、誰が終わらせても不思議ではない。アルセウスなど神ではない。モンスターボールなどに入る神など、神であるものか。いや、神とは元々視覚化出来ないものなのだ。だからこそ、偶像として成り立ってきた。そして、神を見る事の出来ない人々は悟る。神などいない。それでも永遠を信じている。馬鹿げているとしか言いようがない。ならば、誰が救う? 誰が永遠を形にする? それこそが私の役目なのだ。神に代わり、人々に鉄槌を下す。神の代弁者。いや、私が神として、永遠を与えようというのだ」
「……傲慢な」
博士の声にキシベは高笑いを上げた。無機質なモニタールームに声が反響する。モニターの光を背にして立つキシベが口角を吊り上げた。
「君の尺度に照らし合わせれば、そうかもしれない。だがさっきから言っているだろう。何も、支配しようというのではない。むしろ、今の状況こそ支配に甘んじているのだ。永遠を与える。然るべき報い、身体からの脱却による永遠。それこそが、私の願いであり、ルナの願いでもある。永遠が訪れる時に、天が落ちてくるのはまさしく終末の風景に相応しい」
「……貴様、この空中要塞そのものを質量兵器にするつもりか」
だとすれば、早く止めねばならない。この空中要塞がカントーの沖に辿り着くまでに。博士は顔を上げようとするが、押し付けられる銃口のプレッシャーがその意思を押し潰す。
「抵抗するなよ。私とて殺したくて殺しをしているわけではないんだ。必要な犠牲なのだよ。永遠の前に、彼らに旅立ってもらう事は、全て」
「そのエゴが、ロケット団を操り、死者を出し、たくさんの人を巻き込んだ!」
思い切って顔を上げると、キシベが屈んで顔を覗き込んできた。その手にある銃が額へと突きつけられる。キシベが小さく口を開いた。
「エゴがあって何が悪い。私はまだ、この身体に縛り付けられた人間だ。その業を断ち切ろうというのだぞ。人間が生きている限り、繰り返される悲劇を、ここで、一つのピリオドを打とうというのだ、ヒグチ」
「馬鹿な考えだ! カントー一つで人間が変わるものか!」
「そうだな。だが、戒めにはなろう。そして気づく者達もいるはずだ。これが来るべき未来への第一段階だと。我々の犠牲を勝手に解釈して、きっと世界中で人間同士が殺し合う。火種だよ、我々はね」
博士は言葉を返そうと口を開きかけて、喉元に至った言葉を呑み込んだ。キシベの言う事は間違っているが、真理だ。この醜い世界の裏側を直視していると言える。ならば、自分は何だ? 青臭い理想論と若い覚悟に押されてここまで辿り着き、全てを否定される。キシベの言葉は終わりを望むものからすれば神の啓示だろう。しかし、その言葉は同時に可能性を潰す言葉だった。人間は醜く殺し合う事が予定調和のように決められており、世界はその中で回り続けるしかない。終わりのない回転運動に、キシベは歯止めをかけようとしているのだ。それを、借り物の理想論で砕けるのか。逡巡を読み取ったキシベは銃口を僅かに逸らした。それに気づいた瞬間、身体を衝撃が見舞った。車に追突されたような衝撃と、一点に固まった灼熱が痛覚を貫いて博士の口から叫びが飛び出した。左腕に風穴がいくつも開いており、そこから血が白衣を濡らした。それを見たキシベは銃を一度見やった後、嘆息をついた。
「醜い、醜い、醜い。人を殺す道具に、殺されるものの断末魔。そんなもので世界は回っている。誰かが、無意味な回転を止め、永遠として静止するきっかけを作らなくては。そのためならば」
キシベが再び銃口を向ける。博士が左腕を押さえて立ち上がろうとした瞬間、獣のような銃声と共に右脛に激痛が走った。脛を根こそぎ奪われたような痛みに、膝をつく。博士は額に浮いた脂汗を拭う事も出来ずに、顔を伏せた。荒い息が口から漏れる。
「私は悪でも構わない。元より、善悪など、つまらぬ諍いだ。畜生に食わせてしまえばいい」
「……貴様は、それで、どうする、のだ。この空中要塞を、質量兵器としてカントーに、ぶつける。だが、その先はどうする? 永遠など、ないかもしれない。人は、また火種を抱え込むかもしれない。いや、確実にカイヘンとカントーの関係は悪化する。永遠など程遠い、地獄絵図が待っているだけだ」
息も絶え絶えに口にした言葉に、キシベは口元を歪めて肩を竦めた。
「そんなものなど知らんよ。永遠に成れぬ者は、不幸にも脱落した者なのだ。脱落者達には地獄がふさわしい。この世の生き地獄がな」
キシベの言葉に博士は目を剥いて、獣のように叫んだ。
「貴様は、それでも人間か……!」
「人間だと? ヒグチ。つまらないな」
キシベが手を開き、銃を手放した。硬い音が響き、銃が足元に落ちる。それと同時に、キシベは銃をゴミのように蹴った。博士の手前へと銃が滑って、視線が吸い寄せられる。キシベが博士を見下ろしながら、命ずるように言った。
「取れ、ヒグチ」
博士はその言葉に様々な憶測を頭に描いた。どうして、この場でキシベが自分に銃を渡す。唯一の対抗手段を相手に返す意味などあるのか。それとも、先程キシベが言った通り、ポケモンで銃弾を弾き落とすなど造作もないのか。博士は痛みに堪えながら、ゆっくりと手を伸ばした。その指が銃身に触れる直前、声が振りかけられた。
「それは支配の象徴だ」
その声に指先が硬直した。呼吸さえも忘れて銃を見つめる。支配の象徴。相手を縛り、時に自分をも縛る諸刃の剣。手にしたが最後、日常には戻れない混沌の武器。
「支配を手にするという事は、今のままで世界は正しいという事なのか、ヒグチ。世界なんて、流動的だ。価値観の押し付けも、右向けば右向く衆愚も、全て勝手なものだ。呆れるほどに貪欲なくせに、それを恥とも思わない。恥の末に、刺激を求め、支配を望み、ロケット団は誕生した。しかし、ロケット団は自らを正しいと規定している。悪などと、大っぴらに言われたのはシルフカンパニーの汚職が明らかになってからだ。それまで、ロケット団は犯罪組織だが法の目をかいくぐっていた。いや、上はロケット団の存在と研究を黙認していた。どうしてか。それは、いずれ得をするのは自分達だと知っていたからさ。ロケット団が造り出した兵器、技術は民間転用され莫大な利益を生む。捨て駒だったのだ。大きなうねりによってロケット団は駆逐された。そこにも支配の力がある。大小の差はあれ、お前が今取ろうとしているのも、無条件に相手をねじ伏せる力の一端だ」
博士は掴みかけた手を彷徨わせた。キシベの言っている事は真理だ。嘘などはない。誇張も、ほとんどされていないだろう。だが、その言葉の節々に、憎悪が滲み出ていた。ロケット団のせいでもなく、黙認した上のせいでもなく、全てを諦めと利己主義に動いていた人間達をこそ、罰せられるべきだとキシベは言っているのだ。だから、キシベはポケモンも、人間も許せない。言われるがままに隷属するポケモン。隷属させるためにあらゆる犠牲を払う人間。どちらの業も深い。結局、自分にどうにかできる根ではないのではないか。根深さがそのまま罪深さだ。罪深きは罰せられなければならない。しかし、自分は誰に罰を与えようとしていたのか。研究に加担していた自分自身か。それとも今、破滅を導こうとしているキシベか。だが、愚者が誰なのか判らない。本当の正しさとは何なのか。自分は、何をしに来たのか。
「終わりだな」
博士の思考が終点に行き着いた事を見透かしたようにキシベが口にした。顔を上げた瞬間、斜めに傾いだ光の刃が音もなく、博士の顔に突き刺さった。仰け反り、顔を押さえて口をあらん限りに開いて叫び声を上げる。掌をすぐ血が濡らす。だが、すぐに傷口が塞がった。
それでも、ペラップの「エアカッター」が視界を斜めに断ち割っていた。ポケモンの技を人間が受けるとどうなるか。博士は熟知していた。それを代弁するかのように、キシベが口を開く。
「ポケモンの技を食らえば、その部分は一生消えない傷となる。外科的手術によって外面的に治す事は可能だが、そのポケモンが生きている限り、痛みが付き纏う。ヒグチ。考えている事が分かるぞ。愚者は皆なのだ。この事態に至るまで、静観した、全ての人間が罪人だ。フレア、コルド、ゲイン。この三人は殺す事に迷いがない。そういう点で彼らは衆愚の上を行っている。殺す事へのためらい、いや畏怖というべきか。それを中途半端に持っている民衆こそ、この時代の恥なのだ。人間は、この時代をどう生きるのかまでは知らない。興味などない。永遠になった者達だけが次の場所へ行く事が出来る。いわば箱舟だよ、この空中要塞は。そこに乗れた事の感謝をすべきだ」
「……感謝、だと」
落としかけた銃のグリップを握り直し、博士はよろよろと立ち上がった。視界は今にも暗幕が下りてきそうだ。意識も強く持てそうじゃない。博士は一度、銃身を額に押し当てた。熱しきった頭を人殺しの武器で冷ます。人間とは冷酷に出来ているものだ、そう自嘲しながら、博士は銃をキシベへと突きつけた。ペラップが威嚇の声を上げる。キシベは肩に乗っているペラップを宥めるようにその翼を撫でた。
「撃てるのか? ヒグチ」
「……お前を殺す。そのためだけに私はここまで来た」
「撃てやしないさ。戻れなくなるぞ」
「退路など、私は消し去った。覚悟だ。私の……」
銃口を真っ直ぐにキシベの頭部に向ける。使った事などない武器で頭を正確に狙えるのか。しかし、キシベと向き合って話し続けるにはこのような形しかなかった。
「私の、娘のためにも後には退けない!」
その声にキシベは怒りを滲ませた表情で、食いかかるように叫び返した。
「その紛い物の本当の姿がルナだ! 偽者の親子が、図に乗るな!」
紛い物。それは今までのサキとの思い出も否定されているようだった。偽者の関係など意味はなかったのか。血が繋がっていなければ、親子という証明も出来ないのか。胸に湧いた感情に、博士は奥歯を噛み締めて言葉を詰まらせた。しかし、抗弁の口を挟まなければ全てが消えてしまう。迷いを掻き消すように、声を張り上げる。
「親子に、偽者も本物もない! 私はサキのためならば……」
「娘のために私を殺すか。だが、それは君の責任逃れだ」
キシベの手が銃身を握った。震える銃口を自分の額へと押し当てる。ペラップが喧しく鳴く。主の危険に興奮しているのか、誰の声真似でもなく、ペラップ自身の声だった。
「撃てるものならば、撃て」
キシベの行動に博士は鼓動が早鐘を打つのを感じた。胸を引き裂かれるような痛みだ。それは物理的でも、比喩的でもある。かつての上司を殺し、未来を守るか。それともこの男の言葉に踊らされるがまま、答えを保留し、命を投げ捨てるか。選択権は委ねられてはいるものの、博士には撃つだけの覚悟などなかった。胸に覚悟を抱けていない自分は、ナツキ達の期待にも応えられていない。ここまで、誰か一人でも辿り着けるように皆が戦っている。キシベの肩越しに、博士はモニターを見やった。全員が、己と向き合い、覚悟を再認する戦いをしている。誰のためでもなく己が変わるために。だが、自分にはもう一歩が踏み出せない。博士は頭を振った。
「……撃ちたくないです、私は。出来得る事ならば、あなたを、撃ちたくなどない」
「だが撃たねばならぬのだろう? 違うか?」
キシベの言葉は己が死を悟っているのではない。撃てないと判っているのだ。引き金を引けるものならばとうに引いている。それが先延ばしになっているのは、覚悟の不足に他ならない。肩口から滲んだ血が白衣を濡らし、床へと滴り落ちて血溜まりを作っている。視界もくらくらと安定しない。限界か、と浮かびかけた思考に博士は歯止めをかけるように口を開いた。
「しかし、私には責任がある。送り出してくれた、皆の気持ち。それを未来に繋げる、責任だ」
「責任で雁字搦めになるのか、ヒグチ。ならば、ルナを実験に使ったのも責任か?」
「責任、などでは――」
「なかった。単純な知的好奇心だろう。そんなもので他人の人生を陵辱したお前が、どうして自分の人生を正当化しようとする。今更、戻れないのだ。ならば、引き金一つで決着をつける今の状況。安いものだと私は思うが」
安いものか。命に貴賎などない。そう言い返したかったが、この男の前では全て無意味な事だ。鏡に向けて問いかけて、返しているのと何が違う。答えの違う問答の迷宮に落ちていく感覚が意識と連動し、今にも落ちてきそうな視界を保つために博士はキシベの額に銃口を押し付けた。
「やれ。銃を持ったのならば、引き金を引く事も想定内だったはずだ。何を迷う。まさか良心の呵責か? それとも娘に顔向け出来ないか? あの紛い物は君のやった事を知っていないのならば、なるほど、確かに軽蔑するかもしれない。では、君は娘のご機嫌取りのために、命を見捨てるのか? 君は思ったはずだ、命に貴賎はないと。だとすれば、ご機嫌取り程度で見捨ててしまう事こそが、よっぽどの冒涜だと私は思うのだがね」
抗うだけの言葉もなく、博士は喉の奥で声を詰まらせた。何のためにここに来たのか。それを失念しかけている。足掻くために来たのかと問いかけても答えは出ない。元々、子供達のような真っ直ぐな動機ではないのだ。過去の清算。つまりは後ろを向いている。子供達は前を向いて戦っているというのに、自分だけ背中を向け、キシベという存在を超えられずにいる。振り解けていないのだ。過去のしがらみから。それを超えるのが未来の子供達であり、守るべきものだ。しかし、そちらに責任を押し付けているのか。結局、逃避なのか。
堂々巡りの思考を引き裂くように、ペラップが甲高い一声を上げ、キシベの肩から飛び上がったかと思うと、翼がこの部屋の中で僅かに流れる風を纏い、渦が光の刃と化す。片翼を振り上げたペラップの動きに連動するように、光の刃は博士へと断頭台の刃の如く、振り落とされた。避ける間もなかった。刃が再び顔へと突き刺さる。熱を伴った刃の鋭さが痛覚を貫き、顔に交差した傷を作る。博士は銃を取り落とし、両手で顔を押さえて仰け反った。先程と同じように、一瞬のうちに傷口が固まる。それでも痛みが燻り続ける。まるでキシベの怒りをその身に受けたかのように。ほとんど、視界はほとんど闇に没していた。痛みで一時的に視界が奪われているのだろう。喉の奥から搾り出す呻き声が我ながら下劣な声だと自嘲しようとして果たせず、代わりのように頬を痙攣させた。
「ヒグチ。引き金とは、こう引くのだ。迷い無き一撃。敵意と殺意の塊を、吐き出すように」
その声と共に銃声が鳴り響き、右の大腿部を灼熱が貫いた。膝を崩し、博士は傷口を押さえて蹲る。熱い液体が傷口から漏れ出し、手をねっとりと濡らしていた。回復し始めた視野には、その色は映らない。どうやら色を感じる部分がショックで抜け落ちたようだった。モノクロの世界で、漆黒の王のようなキシベが銃口を向ける。
「民間の護身用だな。残り一発。賭けるか? この一発がジャムるか、どうか」
博士は呻き声を返す事しか出来ない。博士の間近に歩み寄り、キシベが嗤った。
「言葉も忘れてしまったか。ポケモンと人間というのはそういうものなのだ。今、君と私はポケモンと人間の縮図だ。相反しているつもりで、どこか妥協点を見つけようと必死なんだ。でも、分かってくれ。ポケモンと人間が真に分かり合えないように、分かり合えない人間同士がこの世にいるのだという事を。文字通り、同じ子を持つ父親として、君は失格の烙印を押された。真理は私にある」
キシベが照準をゆらりと博士の脳天に定める。博士は動こうとはしなかった。どこかそれは、赦しを乞う者と、赦す者との対話にも見えた。だが、誰が赦す? いつかリョウとした会話を思い出す。誰が裁けばいい?
「……誰にも、裁けないんだ。人間も、ポケモンも」
「しかし、裁く者は決めねばならない。それが有史以来、人のやってきた事だ」
引き金に指がかかる。
――ああ、終わったな。
そんな感傷が過ぎった瞬間、キン、と空気を裂く音が耳に届いた。思わず顔を上げる。キシベの左半分の顔が断ち切られていた。その眼は驚愕に見開かれている。眼前にいるのは、ペラップだった。
「どう、してだ……。ペラップ……」
キシベの手から銃が滑り落ちる。博士は歯を食いしばり、渾身の力を足に込めた。今まで上げた事のない雄叫びを上げ、キシベへと体当たりをかける。完全に力を抜いていたキシベの身体は思ったよりも簡単に突き飛ばす事が出来た。床に落ちた銃を拾い、立ち上がりかけたキシベへと突きつける。キシベの額から左顎にかけて一直線の傷跡があった。博士と同じものだ。ペラップがやったのだと、容易に知れた。キシベは博士よりもその先にいるペラップを見つめていた。
「何故、私を攻撃した。まさか、いかれたのか?」
「いかれちゃいないさ」
博士が穏やかな声を差し挟む。キシベは銃口を向ける博士に目をやった。ようやく、その存在に気づいたとでも言うように。
「ペラップは、本能的に分かったんだ。これ以上、主人に道を踏み外させるわけにはいかないと。そのための汚れ役を買って出たわけさ。ポケモンが人間に逆らい、攻撃する。本当ならば最もやってはいけない事をやった。どうしてか、分からないだろうから教えてやる。ポケモンは、お前の都合のいい道具じゃない。皆、意思があるんだ。そして、成長もする。何が正しいのか、何が間違っているのかぐらいは分かるんだ」
「私が、間違っているというのか! 私は真理を――」
「真理には違いない。だが、真実ではなかった。そこには心がない。だから、ペラップは逆らった。心をなくした主人についていく事は出来ないと」
だが、この問答は間違っている事や正しさでは片付かないのだ。誰もが皆、間違いと正しさに平等に気づけるわけではない。そういう点で言えば、今の状況には善悪など無く、ただ向かい合っているのは同じ子供の父親というだけだった。
「サキのためだけじゃない。私自身が、過去を断ち切り未来に向かうために引き金を引く。さよならです。キシベさん」
その言葉と共に、博士は引き金にかけた指に力を込めた。最期の瞬間、キシベが今までの仮面の笑みが嘘のように、穏やかに笑ったのは、見間違いだったか。
だが、間違いでも本当だと思いたい時がある。少なくとも、今の博士にとってそれは本当になった。
「真実も、真理も、本当かどうかは人の心次第なんだ」
その言葉を切り裂くように銃声が鳴り響いた。それは過去という雁字搦めの鎖を解き放つ音だった。
急に視界が曇り出す。
限界だと知れた。博士は銃を捨てようかとしたが、捨てる事も出来ず、これも自身の痛みの一端だと思って懐に入れた。どうするべきか。博士は白黒の世界で、痛みの元すら定かではない身体を持て余した。どうやって地上に上がり、合流するべきか。ブリッジに押し入っても、一発も入っていない銃で脅されるような連中ではない。力が必要だった。
――何か、と探しかけた博士の眼にペラップが映った。キシベのポケモンであり、全ての業を背負う覚悟をしたポケモンだった。ペラップは飛び上がり、嘴を開いた。
「こちらに来い、ヒグチ」
キシベの声だった。因縁を断ち切った相手の声がまた聞けるとは思ってもみない事だった。もしかしたら、キシベは自分が死ぬ事も予期していたのか、という考えが脳裏を過ぎったが、そうだとすれば出来すぎているとその思考を打ち消した。
ペラップがゆっくりと博士を導くように扉へと飛んでいく。博士は白衣を引き千切り、とりあえず足の止血をしてから、痛む足を引きずりつつペラップの後に続いた。それは魂に導かれているように思えた。