ポケットモンスターHEXA - グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 三十二節「男の戦い」
 ゲンガーの腹が弾け、中から無数の影の手が伸びる。

 その目標が今、四足に力を込めて跳躍した。空中で反転し、ビルの壁面から出っ張っている僅かな塀の上を疾走する。それを追いかけるように、影の手が襲い掛かった。影の手が塀に触れた途端に、部分ごとに影に呑み込まれ、バラバラと砕ける。

 追い立てられているのは水色のポケモンだった。紫色の長髪のような体毛を纏い、白線が棚引く。額からは結晶を象った角が生えている。スイクンと呼ばれるジョウト地方の伝説のポケモンだった。スイクンの背後へと菱形の水色の皮膜が張られている。リフレクターだ。スイクンは防御力と特殊防御の高いポケモンである。リフレクターを使う事でそれをより高められる。スイクンが塀から跳躍した。影の手を待ち構えるように、その場で立ち止まる。塀を伝っていた影の手が偏向し、スイクンへと一直線に向かった。スイクンは再び跳び上がった。先程までいた地面が凍結し、結晶が突き出していた。絶対零度だ。影を誘い込んだスイクンは絶対零度で敵の追撃を止めようとしたのである。しかし、目論みは外れた。絶対零度の網にかかる前に、影の手はするりと向きを変え、跳び上がったスイクンに襲い掛かった。空中でかわす策がさすがにあるわけもない。スイクンは攻撃を腹に受けた。瞬間、スイクンの身体が断ち切れた。上半身と下半身が生き別れになる。だが、出血はしなかった。下半身が磨き上げられた鏡面のように輝いて消えたかと思うと、上半身が粘土のように姿を変えた。足が生え、マフラーのような豊かな体毛と狼のような体躯が明らかになる。地面へと軽やかに降り立ったのはスイクンではない。二本足で直立する狼だった。額に三つ巴の文様がある。赤い鬣が風に揺れた。赤い爪を備えた手を振るう。

「図鑑ナンバー571。ゾロアーク。よく引き付けてくれた」

 リョウが図鑑から視線を外して、言い放つ。

 先程のスイクンはメタモンから直接変身したわけではない。ゾロアークとなって化けていたのだ。ゾロアークの特性「イリュージョン」である。少しでも長く持たせるための策だった。ゾロアークが、影の手の絡みつくスイクンだった下半身を見つめる。すると、絡まっている下半身が急に黒くなり、内側から紫色の光を発した。

「ゾロアーク。ナイトバースト」

 その言葉と共に、下半身が黒い衝撃波を同心円状に広げながら爆発した。影の手が砕け散り、バラバラになって舞い落ちる。「ナイトバースト」は悪タイプの技。ゴーストタイプには効果抜群のはずだった。

「そして、リーフィア!」

 その言葉を発した時には、既にリーフィアはゲンガーの懐に横合いから潜り込んでいた。それにゲンガーが目を向けようとするが、もう遅い。

「リーフブレードで影と影の繋ぎ目を切り裂け!」

 リーフィアの額の葉っぱが鋭く屹立し、刃の鋭さを帯びる。リーフィアが飛びかかろうとした瞬間、ゲンガーが影の中に沈んだ。直後、鮫の背びれのようなものが影から現れた。一つではない。三つの背びれが一斉にリーフィアを射程に捉えた。しかし、今更戻れなどと言う事は出来ない。

「突っ切れ! どんな技を使ってもいい!」

 一つ目の背びれが刃となってリーフィアに襲い掛かる。リーフィアは宙に踊り上がり、リーフブレードを返してそれを弾いた。二つ目の背びれも、同じ射線を斜めになって走る。リーフィアは空中で身体ごと翻り、ツバメ返しで打ち落とした。しかし、三つ目の背びれが防ぎきれない。命中するかに思われた瞬間、背びれの動きが止まった。背びれに亀裂が入り、割れて赤い眼が覗く。その先には中天から落ちてくるゾロアークの姿があった。掌から漆黒の波導が渦を巻き、迸っている。「あくのはどう」だ。ゾロアークが悪の波導を保持している手を引いた。それとほぼ同時に、背びれが砕けそこから幾つもの影の手が伸びてきた。しかし、ゾロアークに当たった先から弾けていく。

「ゾロアークは悪タイプだ。ゴーストタイプの攻撃は半減する」

 その身に影の手の一斉掃射を全て受け止めて、ゾロアークはゲンガーの本体部分の影へと悪の波導を撃ち込もうとした。

 しかし、その直前、本体の影から影の手がまたも伸びてきた。たった一本だ。かわすまでもない、と思ったのかゾロアークが雄叫びを上げて一直線に落下する。瞬間、その手がゾロアークの腹部に突き刺さった。ゾロアークの手にあった悪の波導が霧散する。ゾロアークは目を見開いて、突き刺された部分を凝視した。リョウも信じられずにそれを仰ぐ。

「シャドークローじゃない。あれは……」

 刺さった箇所が紫色に変色する。それで攻撃されたタイプと技の名前が知れた。

「毒突きか! 畜生っ。リーフィア!」

 リーフィアが影を切断しようと、リーフブレードを振り翳す。しかし、本体の影から伸びた細長い刃がそれを弾いた。本体から幾条もの影の手がゾロアークへと伸びる。このままではなぶり殺しだ。リョウは図鑑に視線を落とし、番号をスクロールさせた。急く気持ちで適切な状況判断が難しくなる。毒を含んだ影の手がゾロアークへと直進する。命中すると思われた瞬間、リョウは叫んだ。

「図鑑ナンバー376に変身だ!」

 ゾロアークの形状が崩れ、姿が変化し始める。影の手が目標にぶつかった瞬間、重い金属音と共に何本かが弾かれた。命中した手も毒を発する事がない。形状変化を終えたメタモンが紫色の皮膜を弾き飛ばす。

 現れたのは青い光沢を放つポケモンだった。土台のような本体の顔の前面にX字の意匠があり、そこから赤い眼が覗く。身体から四足が生えており、それぞれに鋭い爪を備えていた。その実、足が全て手になる奇異なポケモンだ。鋼・エスパータイプのポケモン――。

「メタグロス。間に合ってよかった」

 メタグロスは四足を折り畳んで飛んでいた。毒突きの猛攻が襲うが、メタグロスを揺さぶる事すら出来ない。

「メタグロスは鋼タイプ。毒タイプの攻撃は通用しない」

 リーフィアに目をやると、まだ手こずっているらしかった。影の刃が度々現われては、リーフィアの攻撃をことごとく防ぐ。リョウははやる気持ちを抑えるように奥歯を噛み締め、落ち着け、と口中に呟いた。

「メタグロス。コメットパンチ!」

 メタグロスがゲンガー本体へと前足を向ける。影の表面にゲンガーの眼が現れ、次いで現れた口が嗤った。そこに向けてメタグロスは両腕の照準を合わせ、次の瞬間、ロケットのように発射した。後ろ足の掌に開いている穴から熱された空気が放射され、メタグロスを冷却する。メタグロスの両腕、「コメットパンチ」はゲンガー本体へと吸い込まれるように直進する。影の手がのたうち、止めに入るがコメットパンチは自在にかわした。それ自体に、進化前のダンバルだった頃の意思が宿っているのだ。コメットパンチが影の手の迎撃を抜け、ゲンガー本体に命中した瞬間、眩い光がその場にいた全身の網膜を貫いた。コメットパンチがゲンガーの内側で爆発したのだろう。ゲンガーの表面が泡立ち、影から剣山のように針が飛び出した。凶悪な叫び声が上がる。ゲンガーの声だろうか。リーフィアを下がらせる指示をしなければ、と思うが全く見えなかった。うまく避けてくれている事を願いつつ、リョウは視界が回復するのを待った。白んだ視界が徐々に戻ってくる。その中に、リーフィアを見つけた。リーフィアは咄嗟に飛び退いたのか、ゲンガーから距離を取って佇んでいる。見たところ怪我はないようだが、栗色の瞳は開かれていなかった。人間よりも今の光はポケモンに強烈だったらしい。リーフィアにボールを向けて、中に戻した。今のままではただの的だ。

「メタグロスは……」

 リョウは空を仰いだ。すると、メタグロスの姿を認めた。ルイは、と視線を向けると蹲っている。今の攻撃はゲンガーにしたものだが、同調率の高いルイにもダメージを与えてしまった結果になったのかもしれない。駆け寄ろうと足を踏み出しかけた、その時だった。

「ゲンガー」

 ルイが小さく口にすると同時に、影の針が飛び出しメタグロスを貫いた。リョウは立ち止まり、メタグロスへと視線を向ける。影の針に射止められたかのように、メタグロスが動けなくなっている。

「馬鹿な。ゴーストタイプは効果抜群じゃない。普通の威力のはずなのに」

 そこまで言ってからハッと気づいた。普通ではないのだ。毒タイプの攻撃は確かに通用しない。だが、命中してしまえばそこまでなのだ。ゲンガーが生体調整を受けており、普通ではない事など充分に熟知していたつもりだったのに。メタグロスへと影から生成された針が向けられる。ゲンガーは健在だった。屹立したかと思うと、赤い眼を見開き口角を吊り上げた。

「まずい、このままじゃ……!」

 すぐさま図鑑番号をスクロールさせる。今、攻撃されている状況を打開できるポケモンはいないか。ゴーストタイプの技を無効化し、ゲンガーをルイから切り離せるだけの威力を持ったポケモンは――。

「こいつで、どうだ。図鑑ナンバー491!」

 メタグロスの身体が溶け、どろりと垂れる。メタグロスに向けて放たれるはずだった針が一斉に空間を貫いた。間一髪で逃れたメタグロス――メタモンが形状を変化させる。頭部が逆立ち、いかり肩となり、全身に黒い身体を押し広げる。赤い牙のような顎と、白い幽鬼のような頭部の間に水色の鋭い眼が覗く。全身が影のようなポケモンだった。まさしく悪夢を体現したかのようなその姿は見るものに威圧感と恐れを与える。

「ダークライ」

 その名を呼ぶと、ダークライは浮き上がった。黒い衣が風に揺らめく。ゲンガーから発せられた針がダークライへと真っ直ぐに伸び、その身を貫いた。しかし、ダークライは全く動じない。それどころか針を苗床にしたように、自身の影の身体を伸ばし始めた。針を伝ってゲンガーへとダークライの攻撃が流し込まれる。黒い霧のような攻撃だった。避ける事などかなわず、ゲンガーは本体に初めて効果のある攻撃を流し込まれた。屹立していたゲンガーが影の中に沈む。針がささくれ立ったかと思うと空気に溶けていった。ダークライは指を立てて腕を掲げた。すると、天に黒いラインが円を描き、内側へと闇が染み渡った。寄せては返す波のように、闇が蠢き脈動する。ダークライはゆっくりとその指を下ろした。すると、黒い円が徐々に降りて来るではないか。ルイは手を振るい、ゲンガーを屹立させるも、ゲンガーとてその攻撃に戸惑っているようだった。

「シャドーボール」

 ルイの声にようやくゲンガーが動き出し、口腔を開いて電子を収束させた。影の中から凝縮した暗闇を球状に練り、回転し始めたシャドーボールはさらに巨大化する。通常のシャドーボールの三倍はある質量が次の瞬間、ゲンガーの口から放たれた。シャドーボールは軌道上の光を奪いながら、黒い円へと真っ直ぐに向かい、円の中央を貫通した。しかし、円は崩壊するどころか、さらに闇を深くしてゲンガーへと迫る。ルイとゲンガーが怯むように下がった。

「心配するな。攻撃技じゃない」

 リョウの声にルイは敵を見る眼を向けた。赤い瞳に今は光がない。だが、ゲンガーさえ倒せば元に戻るはずなのだ。闇の円がゲンガーへと覆い被さる。円が収束し、回転しながらゲンガーを囲い込んだ。次の瞬間、ゲンガーは音もなく影の海に没した。ルイがゲンガーを呼びかける。しかし、ゲンガーは反応しなかった。

「無駄だ」

 その声に赤い瞳が憎しみに染まった。リョウは逃げずに直視した。

「今の技はダークホールだ。ポケモンを無条件に眠らせる技さ。そして、このダークライは」

 ダークライがリョウの傍らへと降り立つ。ダークライの周囲の空間が歪み、紫色に脈動していた。それはルイの影にも及んでいた。手を振り翳すもゲンガーは出てこない。

「ナイトメアという特性を持つ。眠っている相手の体力を奪う技だ。暫く、ゲンガーは出てこない」

 リョウはボールの緊急射出ボタンに指をかけた。手の中でボールが割れ、中から状態が回復したリーフィアが躍り出る。その額の葉っぱが刃の鋭さを宿した。

「悪いがゲンガーの回復を待ってやるほどお人よしじゃない。お前とゲンガーを断ち切るチャンスだ。有効に使わせてもらう」

 ルイがゲンガーを再び呼ぶが、ゲンガーは現れない。今しかない、という思惟がリーフィアに届いたのか、リーフィアは駆け出した。影を切り裂けば、ルイは自由になる。

「ゲンガー。お前も哀れだが、悪く思うな」

 リーフィアのリーフブレードがルイを避けて横合いから影へと至り、リョウの思いを受け取った刃を迷いなく振り落とした。


オンドゥル大使 ( 2013/04/10(水) 21:37 )