第六章 三十一節「childhood」
「アスカさん」
呼んでみても返事はない。アスカは虚ろな眼を向け続けるだけだ。エメラルドブルーの澄んだ瞳ではない。蒼い光が粘性のある炎のように燃え盛っている。相対するだけで、プレッシャーを感じてしまう。じり、とフランは一歩退いた。キルリアが不安げな表情を振り向ける。キルリアに不安と恐れが伝播してしまう。そうしないために、フランは退いた足を前に踏み込んだ。
「逃げないと決めた。僕は、死人であろうとも」
覚悟を決めた眼差しでアスカを見据えるが、アスカは黙したままだった。その唇が小さく言葉を紡ぐ。
「ヘキサに楯突く者。この階層に敵意を持って踏み込んだ者。全てを敵と認識し、攻撃する」
まるで機械のような口調に、フランは耐え切れずに叫んだ。
「アスカさん、あなたは――!」
「サーナイト。シャドーボール」
サーナイトの前にある空間が歪み、暗闇を取り込んでいく。漆黒の球体が回転し、電子を弾けさせる。フランはキルリアの名を呼んだ。
「僕の心には迷いがある。だけど、今は捨てねばならない。理解してくれ」
通じる道理はない。だが、キルリアほど敏感に人の意思を感じるポケモンならば、ともすれば、と思ったのだ。キルリアは回転し、光の壁を張り直す。金色の皮膜が三枚、重ねて展開された。
次の瞬間、シャドーボールが軌道上の僅かな光を消し去りながら弾き出された。光の壁に突き刺さり、一枚、また一枚と砕かれる。このままでは、と追い詰められた思考が口から出た。
「リアルタイムで光の壁の情報を更新! 出来る限り多く展開するんだ!」
キルリアはさらに舞い、赤い角を激しく明滅させる。光の壁が何重にも連なり、衝撃の干渉波で床や壁が焼け爛れる。シャドーボールがようやく霧散した頃には、残り二枚しか残っていなかった。
「この力……、話に聞いていた月の石の力か」
サーナイトが青い光を身に纏う。その光と同一のものがフランの身体を絡め取った。蛇のように締め付け、フランの身体を宙に浮かせる。
「サイコ、キネシス、か。僕を直接、攻撃して、どうするん、です?」
サイコキネシスの光が首筋に至り、喉を圧迫する。呼吸が困難になり、パクパクと魚のように口を開いた。アスカは答えない。黙したまま虚ろな瞳をフランに向けている。かつての仲間を殺す事や、今自分が何をしているかの自覚なんてものはその眼差しには感じられなかった。これでは、ただ敵を攻撃するだけの殺戮機械だ。
「アス、カ、さん。僕を、殺して、……も、構わない。だけど、あなたの心が、傷つく」
呼びかけにも応じず、アスカは唇を開いて同じ言葉を繰り返した。
「ヘキサに楯突く者。この階層に敵意を持って踏み込んだ者。全てを敵と認識し、攻撃する。どんな人間であっても」
身体が締め上げられ、フランは叫び声を上げた。フランは軋む身体に鞭打つように歯を食いしばって、腕を徐々に懐へと伸ばした。青い光がより一層光を増して、フランの身を締め付ける。肋骨に食い込んだのか、肺に穴が開いたのか、フランは吐血した。その血がキルリアにかかり、キルリアは赤い角を明滅させてフランを見上げている。キルリアの力ではサーナイトに勝つ事は出来ない。それは自明の理だった。懐にようやく指先が届く。そのまま力を振り絞って手を入れようとしたその時、突然に腕へと青い光が纏わりつき、あらぬ方向へと折り曲げた。フランは呻き声を上げた。意識が遠のいていく。だらんと垂れ下がった腕にはもう力が入らない。喉も締め付けられているせいか、気道が狭まり、声が出ない。ミシミシと身体が圧迫される感覚に襲われる。
押し潰される、と覚悟した脳裏が真っ白になった。何も見えない。血が行き渡っていないのだ。暗くなる寸前の視界に、誰かの影がちらついた。意識の中で手を伸ばす。振り返ったのはコノハだった。どこか遠慮がちに伏せられた目。自分に自信がないのか、目元を長い前髪で覆っている。フランはいつか言った事を思い出す。
――コノハ。君のために買ったんだ。これ。
そう言って紫のリボンを手渡したのだ。コノハにはいつも笑顔でいて欲しかった。自分に自信がなくても、笑顔を向けて欲しかったのだ。傍にいて太陽のように笑ってくれるのなら、自分はどんな汚い事でも出来た。
溢れ出る本音に、フランは自嘲の笑みを浮かべた。結局、自分のためじゃないか。あの笑顔に焦がれていたのは他ならぬ自分なのだ。誰かのため、なんていうお題目は本当のところ必要なかった。
「そう、だ。僕は」
左手をジャケットのボタンへと伸ばす。もう抵抗する意思などないと感じたのが、その動きは阻まれなかった。ボタンを掴み、フランは一気に引き抜いた。ジャケットがはだけ、内ポケットに仕舞っておいた白い布に包まれた物体が転がり落ちる。そこから水色の光が交差して弾けた。あまりの眩さにサーナイトとアスカが眼前に手を翳す。青い光が緩み、フランの身体を床に投げ捨てた。フランは片手で身体を起き上げさせつつ、口を開いた。
「僕、は、コノハのために戦うんだ。随分と、格好つけて、もったいぶった理由で、ここまで来た。でも、コノハのためなら、アスカさん、僕は――」
アスカが蒼い瞳に敵を映す光を宿した。サーナイトの周囲の空間が歪み、四つのシャドーボールを形成する。空気をねじりこみ、紫色の電子が表面で弾ける。キルリアが水色の光が布の隙間から漏れる物体に近づき、小さな手で布を剥がした。瞬間、光が放射され水色の光がキルリアを包み込んだ。
「サーナイト」
呼ぶ声に、サーナイトはシャドーボールを全弾発射した。それぞれ一発ずつでもキルリアの光の壁では防ぎきれなかったものが四つ同時に襲い掛かる。光に包まれたキルリアの姿が変わっていく。フランは全身を声にして、血を口から飛ばしつつ叫んだ。
「僕は世界とだって戦える!」
シャドーボールが着弾し、その言葉もろともフランとキルリアの存在を押し潰した。はずだった。だが、シャドーボールが着弾したのはフランの背後にあるエレベーター周辺だった。四つのシャドーボールが一点へと狙いを定めたはずなのに、それが八つに砕けてエレベーターを瓦礫で完全に塞いだ。砂煙が上がる中、屹立する影があった。
緑色の身体はキルリアの面影を残してはいたが、二本の白い足でしっかりと地を踏みしめる姿は別物だった。身体に節があり、赤い眼が射抜く光を湛えている。胸元をサーナイトと同じく三角形が貫いている。攻撃的に尖った肘を突き出しており、それが刃のように輝く。肘から手にかけて鎌のようになっていた。腕が紫色の残像を帯びている。その残像こそが、シャドーボールを防いだのだ。エスパー・格闘のタイプを持つ攻撃に特化したポケモン――。
「エルレイド」
フランがそのポケモンの名前を呼び、ゆっくりと立ち上がる。真っ直ぐにアスカを見つめる眼差しには迷いはなかった。ようやく守るべきものを見つけた瞳が輝き、エルレイドはその意志を感じ取ったように鋭く鳴いた。
「……目覚め石。使う事はないと思っていたけれど、博士には感謝しなくてはならない。僕は今、ようやく戦う意味を知った。エルレイドがあなたを倒し、目を醒まさせる」
エルレイドが身体を深く沈ませる。アスカが手を振り翳すと、サーナイトはシャドーボールを目の前で編んだ。光を吸い込むブラックホールのような球体はサーナイトの手で凝縮され、空気を巻き込んで弾き出される。それを真正面に捉え、フランは叫んだ。
「エルレイド。サイコカッター!」
エルレイドの肘から手にかけて、紫色の残像が浮かび上がり、粒子が細かく震える。光線の類とは違う。エルレイドの腕そのものに力が宿っている。エルレイドは足を踏み込み、腕を大きく引いた。エルレイドの肘から紫色の残像が点火する炎のように迸り、シャドーボールが着弾する直前、その腕を振り切った。シャドーボールが真っ二つに割れ、勢いを殺された断面同士が落下してエルレイドとフランの前で爆発する。床から砂煙が上がった。
その煙を引き裂き、エルレイドがサーナイトへと肉迫する。サーナイトがそれに気づいた時には、既にエルレイドは腕を後ろに引いていた。肘から噴射された思念の炎が勢いをつけ、サーナイトの身体へと振るったそれは突き刺さった。
しかし、その攻撃はあと一歩のところで阻まれた。青い皮膜がサーナイトの前面に覆っている。「リフレクター」だった。「サイコカッター」はエスパータイプでも珍しい物理攻撃だ。リフレクターの前では半減される。加えて、相手は月の石の力を得たポケモンとトレーナーだった。リフレクターの内側でシャドーボールが形作られる。エルレイドは赤い瞳に力を込めた。瞬間、エルレイドの姿が掻き消えた。サーナイトが視線を巡らせる。アスカが動こうともしないのはサーナイトと視界が直結しているからだろう。
「……だが、それが逆に命取りになる」
光が瞬き、エルレイドが空中に身を躍らせる。「テレポート」を使い、出てきた位置はアスカとサーナイトの背後だった。サーナイトと意識が直結しているという事はサーナイトが感知しなければアスカもまた感知出来ないという事だ。
「食らえ、インファイト!」
エルレイドが腕を振り上げる。リフレクターの皮膜が展開されようとするが、既に遅い。懐に入ったエルレイドの拳がサーナイトを打ち据えた。サーナイトが床を滑り、大きくフランの側に後ずさる。エルレイドはアスカには目もくれず、地を蹴って再びサーナイトへと直進した。サーナイトがリフレクターを前面に展開する。それを見越したように、跳び上がったエルレイドの姿がまたも掻き消えた。後ろ、と断じたサーナイトが背後にリフレクターをすかさず張る。すると、フランが口を開いた。
「横だ」
その言葉に反応する前に、無防備な横っ腹に空気を割る一撃が打ち込まれた。サーナイトが仰け反り、壁際まで追い込まれる。エルレイドが再び紫色の残像を両腕に纏わせ、跳躍して一気にサーナイトへ距離を詰める。サーナイトの頭上にシャドーボールの粒が浮かび上がり、瞬く間にシャドーボールの壁となった。エルレイドが腕を振るい上げ、サイコカッターを放つ。
サイコカッターがシャドーボール一つは割ったものの、全てを断ち切る事は出来なかった。残りのシャドーボールがエルレイドへと襲い掛かる。
空中のエルレイドは光を瞬かせ、テレポートでシャドーボールが通過した後の空間に自身を飛ばした。シャドーボールが天井でぶつかり合い、誘爆の光と衝撃波が広がった。エルレイドは着地点にサーナイトがいるものだとばかり思い、サイコカッターの腕を振るい落としたが、刃は空を切った。そこには何もいなかった。
エルレイドが着地すると同時に、顔を上げる。青い光を纏ったサーナイトが身体にかかる重力を無視して、壁に立っていた。自身にサイコキネシスを使い、壁に縫い付けているのだ。
エルレイドが残像を小刻みに震わせ、サイコカッターを頭上のサーナイトに振るおうとするが、その前に既にサーナイトの手で練られていた巨大なシャドーボールが天井から落ちてきた。落下速度とサイコカッターのどちらが速いを瞬時に予測したエルレイドは逡巡など感じさせず、光を瞬かせ、一気に後退していた。シャドーボールが先程までいた地点で弾ける。床と壁の一部を根こそぎ奪っていた。サーナイトが緩やかに下降し、その場に立つ。エルレイドは肩を上下させながら、サーナイトを見据えた。勝負を焦るあまり、無駄に消耗させてしまった。サーナイトとて念力を思いのほか使ったのか、ほとんど開かれる事のない口が開き、荒い息をついていた。同じキルリアから派生した進化だ。この二匹はアスカの下で兄弟のように育てられた。相手の手が読めないはずがない。
――僕にも、出来る事がある。
そう感じたフランは口を開いていた。
「アスカさん。この二匹では勝負はつきません。いつまでも消耗戦を続けるだけです。どうして、あなたはこうまでするのですか? ヘキサの本拠地を教えてくれたのはあなただ。まだ、反抗する意志があったはずだ。それなのに、何故」
アスカは答えない。フランは痛みが電流のように走るのを感じながらも声を張り上げた。
「アスカさん! キシベの下で戦う理由なんてないんだ! 間違っている事を間違っていると言える心をあなたは持っているはずなんだ。そうじゃなければ、どうしてディルファンスなんて作ったんですか!」
その言葉に凍っていたアスカの表情が僅かに動いた気がした。アスカは唇を震わせ、言葉をゆっくりと発する。
「……仕方が、なかった」
エルレイドもサーナイトもアスカのほうに視線を向けている。フランも真っ直ぐにアスカを見据えた。アスカは何度か口を噤みそうになりながらも、言葉にした。
「仕方がなかった。私は所詮、エイタの操り人形。いつからかは分からない。だけど、いつの間にかそうなっていた。カリヤ君とエイタ。両方と旅をしたのに、どうしてこんな事になっちゃったんだろう。私は、結局、エイタに依存していた。抱かれる事が嬉しかったのよ。女だから、こんな事に……」
「エイタに、そそのかされた……」
フランの声にアスカは髪を振り乱し、「違う!」とはっきり口にした。
「私の望みを叶えただけなのよ、彼は。私は昔、怖いもの知らずで。ロケット団に突っかかった事もたくさんあった。エイタもカリヤ君もおどおどしていたけど、その時が一番楽しかった。エイタは見透かしていたんだわ。私が、まだ幼い頃の自分を引きずっているって」
アスカが顔を上げる。妖しい蒼い瞳はエメラルドブルーに戻っていた。正気の光だった。思いのたけをようやく吐き出せたからか、それとも自分の育てたポケモン同士が戦う事に冷静でいられなくなったのか。感情の堰が切れたように、アスカは泣き崩れた。フランはモンスターボールを手に取った。ボールをエルレイドに向けると、赤い粒子になって吸い込まれた。もう、戦う必要はない。彼女の痛みはこの瞬間、自分に引き受けられたのだ。
「アスカさん。あなたのおかげで救われた人もいます。ディルファンスが、全て悪かったわけじゃない。正しさなんて、簡単に変わってしまうんだ。流動的なんですよ。責任を負う必要がないとは言いません。ですけど、無駄な血を流す必要もまた、ないんです。誰にも、そんな権利なんて」
手で顔を覆い、アスカは泣き続けた。リーダーとして今までずっと泣かなかったのだろう。サーナイトも黙ってそれを見つめていた。サーナイトの眼も元の赤色に戻っていた。サーナイトやエルレイドは、アスカをずっと見つめてきただけに思うところもあるのだろう。嗚咽を漏らすアスカに、フランは何も言葉をかけなかった。気のきいた台詞なんて意味がない。ここは気が済むまで泣かせてあげればいい。幼い頃の自分に、別れを告げるためにも。
幼い彼女は奔放だったのだろうか、とフランは思って顔を上げると、ふと赤い長髪の少女と目があった。アスカを見つめ、ひどく悲しそうな顔をした後、その少女は暗闇に消えた。しばらくしてから、「ああ」と呟く。
「誰だって、そうさ。子供の時は大人の自分を見たくないんだ」