第六章 三十節「死人の意地」
エレベーターに振動が伝わる。
階層表示に目をやると、地下三階部分で止まっていた。だが、エレベーターはさらに下り続ける。腹の下からじわりと染み渡る下降感に、ヒグチ博士は腹を押さえながら深く息を吐いた。
「大丈夫、ですか?」
その声に顔を上げるとフランが心配そうに眉根を寄せていた。博士は何度か頷いて、「ああ、大丈夫」と言葉を発した。実際、大丈夫なものか。博士は立てかけられたバックパックへと視線を向ける。バックパックは縦に引き裂かれていた。中身もほとんど使い物にならない。これでは、自分は何の役にも立たない。陰鬱なため息が漏れかけて、博士は話題を変えた。
「それよりも、リョウ君だ。一人で戦わせて大丈夫だったのか」
「リョウ君ならば、ヘキサツールを使いこなせるはずです。それに僕らの目的はこのタリハシティがセキエイ高原に侵攻する前に中枢を叩く事。そうしなければ、皆の戦いの意味がありません。犠牲だって、あるんです」
フランの拳は震えていた。無理もない。先程、因縁の相手と決別したのだ。分かり合えなかった事に苦しんでいるのか、信じたくなかった事実を突きつけられて呻いているのか。フランがディルファンスでどの程度の位置にいたのかを博士は知っている。スポンサーの一人だったのだ。当然、組織の構造は頭に入っていたが、まさかエイタのワンマンで動いていたとは思わなかった。
「フラン君。今訊く事じゃないのは分かっているが」
「はい、博士」
フランが階層表示を見やっていた顔を振り向ける。博士は重く、どこか物怖じするように口にした。
「本当に我々に付いてきてよかったのかい? 今の君ならばディルファンスを内側から変える事だって出来るんじゃ――」
「無理ですよ。僕は死人です。いたずらに事態を混乱させるだけで、何の役にも立たない。エイタが単独行動をしているという事は、もう誰も信じていないという事です。そんな人間が頭となってディルファンスを動かしている。許せないけど、僕には何一つ出来ない。コノハを救うことすら出来なかった。だから、罪の清算のために戦っているんです。ディルファンスに戻って、与えられた任務に何の疑問も挟まなかった頃には、もう戻れないんですよ」
フランの言葉が持つ重みに、博士は顔を伏せた。彼とて苦しんで今の道を選び取ったのだ。覚悟を問い質すのはむしろ自分のほうだった。本当にこれでいいのか。心は何を望んでいるのか。博士は懐にある重みに手を触れた。
その時、腹の底に振動が残響し下降感が消えた。エレベーターが止まったのだ。しかし、なかなか扉が開かない。どうなっているのか、と扉に視線を向ける。こじ開けようと指を隙間に突っ込むが、びくともしなかった。開閉ボタンを押しても、うんともすんとも言わない。博士は扉を拳で叩いた。狭い箱の中で、音が残響するだけだ。
「……閉じ込め、られた?」
「ええ、恐らくは」
その声に振り向くと、フランはモンスターボールを突き出していた。まるで銃を突きつけるかのように、鋭い光を瞳に宿らせている。博士は思わず一歩、退いた。
「技で壊すのかい? でも、私に向けないでくれよ。驚くだろう」
「……博士。僕は分かりました」
「何がだい?」
平静を努めて返してつもりだったが、その声は震えていた。
「今、この時のために僕は戦っていたんです。ここで断ち切らなければ」
ずいとフランが一歩進む。博士は気圧されたように両手を上げて目を戦慄かせた。フランは自分に対して臨戦状態に入っている。加えてここは密室だ。逃げられない。
「ここまで来て、か」
「ここまで来たからですよ。博士」
「フラン君。君は――」
その言葉尻をモンスターボールの開く音が遮った。やられる、と思った瞬間目を閉じる。その時、破裂音が背後で鳴り響き、博士は柄でもない少女のような叫びを上げた。フランが前に出て博士を突き飛ばす。何が起こっているのか分からない。目を瞑ったまま、博士は小さく蹲った。
破裂音がまたも響き、エレベーターの照明が点滅する。博士は薄目を開けた。フランが自分に背を向けて立っていた。傍らにいるキルリアが金色の丸い皮膜を前面に形成している。フランの向こう側にいる人物が逆光を背にして立っている。その姿に博士は目を見開いて身体を起こした。
「……アスカ、さん」
フランの前に立ちはだかっているのはアスカだった。本人か、と一瞬疑ったが赤い髪とエメラルドブルーの瞳は見間違えようがない。その瞳が今、闇夜に潜む獣のように蒼く光っている。
傍らにポケモンがいた。すらっとした背丈で、腰から下はスカートのような白い皮膚で覆われている。手足はついているが長細い。胸には背中へと突き抜けるオレンジ色の三角形の物体があった。緑色の髪の毛のような頭部に、大きな瞳が光る。女性的な身体つきのそのポケモンはキルリアの進化系だった。その名はサーナイト。サーナイトの眼はアスカの眼の色を引き移したかのように蒼く輝いている。蒼い炎に、覚えず意識が呑み込まれそうになる。
「博士」
フランが短く呼ぶ声に、博士はよろよろと手をついて立ち上がった。肩越しにフランが見やる。
「ここは僕がおさえます。博士はヘキサの中枢へ」
「しかし、君だけで――」
「僕にも格好つけさせてくださいよ。皆、いいところを持っていくんですから」
フランは白い歯を見せて爽やかに笑ったが、その顔に僅かな緊張が浮かんでいるのが見て取れた。相手はディルファンスの元リーダーだ。簡単に倒せる相手ではない。それに加え、彼女こそがフランの救うべき対象でもある。
アスカはまるで感情の浮かんでいない蒼い瞳でフランを見つめた。すると、サーナイトが細い手を前に翳す。前面の空間が歪曲し、暗闇が凝縮されたようにねじれて紫色の球体を作り出す。練るように細い手で形を制御し、バッと突き出した。漆黒の砲弾――「シャドーボール」は真っ直ぐにフランとキルリアに襲い掛かる。フランはすかさず指を向けて叫んだ。
「キルリア、光の壁を二重に張れ!」
キルリアが小さな身体を回転させて、赤い角を点滅させると、先程まであった「ひかりのかべ」の向こうに、さらに光の壁が張られた。シャドーボールが光の壁に突き刺さる。一枚目の光の壁がたわみ、ガラスのように砕けたが二枚目は皹が入っただけで無事だった。
「博士。早く行ってください! 守りながらの戦いは出来ません!」
必死の声に博士は状況の理解できぬ頭に鞭打つように頬を叩いて、走り出した。一瞬、バックパックに名残惜しい視線を向けたが、使えないものに頓着しても仕方がなかった。フランの横を通り抜ける寸前、博士は言った。
「戻って来るんだぞ」
フランは無言を返す。博士はサーナイトからの攻撃があるかと予想したが、フランに目標を絞っているのか攻撃される事はなく、ヘキサ中枢へと向かう空気圧でロックされた扉を開いた。扉を抜ける直前、少しでもフランを疑った事に負い目を感じた。彼はサーナイトの攻撃を察知して、ボールを向けたのだ。
「……私にはない、トレーナーだけが感じる事の出来る可能性か」
呟きを最後の言葉にして、博士は薄暗い照明が点々と続いた廊下を駆けた。戻るべき道などないとでも言うように、背後の明かりが一つ、消えた。