ポケットモンスターHEXA











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グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 二十八節「羅刹」
 柱が落ちて来るというのは容易に終わりを連想させる。

 柱とは本来、天井と地面を結ぶものであるからだ。それが倒れる、折れる、曲がるというのは天が落ちてくるのと同義である。ローブシンが握っているコンクリートの柱にしてもそれは同じ事だ。

 ローブシンが柱を振り上げ、地上にいるカブトプスへと振るい落とす。カブトプスは身体を開いてまさしく蟷螂のように威嚇し、後ろに飛び退いた。

 叩きつけられた地面が捲れ上がり、砂煙が渦を巻いて破片が飛び散る。

 飛んできた破片をカブトプスは鎌で弾き、握った拳の片腕を突き出したローブシンを見上げた。

 ローブシンは赤い鼻を鳴らして、蒼い眼を煌々と燃え盛らせている。それと同じ光を宿した瞳がローブシンの背後で黙し、俯き加減で立っていた。傍目にはローブシンの巻き起こす旋風に着物を煽られ、被害者かと思われるが、その実はローブシンを操る元凶、ゲイン。武人そのものの威容に臆すのは何もポケモンだけではない。カブトプスを操るサキも、その異様なプレッシャーを感じないわけではないのか、どこか焦りを感じさせる表情をしている。マコは横目でそれを見やり、どうすればいいのか分からずにローブシンから距離を取る自分のポケモンへと視線を向けた。マコのポケモン――ウォーグルは今、ローブシンの射程距離から充分な距離を取って上空で待機している。だが、あまりに高度を上げすぎると今度はフワライドの網に引っかかる。それに掠らないようにすると、ローブシンの攻撃範囲ギリギリに滞空せざるをえなかった。「敵の策だな」と言葉を発したのはサキだ。

「フワライドの群れは攻撃範囲を限定させる意味合いも持っているんだ。高空からの攻撃なんてレックウザほどのポケモンでもない限り出来ない。フワライドの誘爆が怖くてな。そして向こう側のポケモンも間合いを熟知しているのか、必ず攻撃範囲に入る技を一つや二つは組み込んでいる」

「……思う壺、って事?」

 信じたくない事だと思いながらマコが発した声に、サキが苦々しい顔で頷いた。認めざるをえないという事なのだろうか。サキほどの実力者なら、この状況を打開する策もあるのか、と思いたいところだが希望的観測をしても今は何の価値もない。ローブシンとの緒戦で、サキは言ったのだ。

 ――ウォーグルで攻撃はするな。柱が当たる位置には絶対に滞空させるな――と。

 無論、意味はマコとて分かる。ローブシンは格闘タイプのポケモンだ。弱点はエスパー、そして飛行である。ウォーグルは戦いを有利に運べるとマコは思ったが、そうではない。当たり前の事だが、ポケモンバトルでは弱点を補う事が重要だ。当然、ローブシンも弱点を補う攻撃をしてくるはずである。飛行タイプならば岩タイプや氷タイプ、電気タイプというように。可能性としては柱による岩タイプ攻撃が濃厚だった。岩タイプの攻撃を真上から食らい、地に落とされてはすぐに蹂躙される。だが、全く攻撃の通用しない高空にも逃げられない。上がればフワライドの誘爆に巻き込まれるばかりか、市民を殺してしまう。そうなった場合、マコは精神的に耐えられる自信がなかった。精神を病んでポケモンを操れる道理はない。畢竟、手詰まり。そう認識せざるを得ないところに、今マコ達はいるのだ。

「カブトプス!」

 カブトプスが積層構造の甲殻の隙間から全身が隠れるほどの蒸気を噴出させる。噴き出た水滴がカブトプスの足の裏に溜まり、カブトプスは身体を開く。すると、地面の水溜りが青く光り輝き、カブトプスの足の裏にそれぞれ下駄のように水かきが装着された。カブトプスが身体を沈めて、僅かに前傾姿勢を取る。ローブシンが柱ごと腕を振り上げた。柱が刺さっていた箇所が抉り取られている。砂煙が尾を引いて、柱に絡みつき、それが消える前にローブシンは柱を叩きつけるように打ち下ろした。格闘タイプの技「アームハンマー」である。素早さが下がる諸刃の剣だが、威力は折り紙つきであった。カブトプスは岩タイプ。もろに食らえばやられる。マコは思わず、目を閉じそうになったが、サキの声が鋭く響き渡った。

「滝登りだ!」

 その声にカブトプスは沈めた膝に力を込めた。水の下駄の踵部分から水が迸り、スノーボードのように拡張する。カブトプスは次の瞬間、水流に押されるように跳び上がった。ローブシンが振り下ろした柱が迫る。その柱へと、カブトプスの下駄が吸着した。接触の瞬間、摩擦のせいか水が勢いよく走り、カブトプスが僅かに滑る挙動を見せたがそれも一瞬、カブトプスはほとんど垂直の柱をスケート選手のように両足を巧みに動かしながら滑走し始めた。

 柱が地面に打ち落とされ、砂煙がサキとマコの視界を覆った。

 思わず手で顔を庇ったマコだが、サキは逃げないという覚悟の現れのように真っ直ぐにカブトプスを見つめていた。柱を衝撃が見舞い、足場が不安定になってもカブトプスは足を止めない。それどころか、水流はより勢いを増し刃のように鋭くなった足先が柱に食い込みながら進んでいく。ローブシンはもう一度柱を上げようとした。だが、その頃にはもうカブトプスは柱の頂上へと達していた。カブトプスが躍り上がり、鎌を使って回転しつつ衝撃を減衰し、水鳥が降り立つように静かに、ローブシンの手の甲に辿り着いた。ローブシンがそれに驚愕するかのように目を見開く。カブトプスはカッと目を開き、鎌を脇に構えた。紫色の波動が鎌を満たし磨き上げた鏡面のように瞬いた瞬間、サキは声を張り上げた。

「食らえ! 亜空切断!」

 カブトプスが鎌を振り上げる。その軌道をそのまま中空に描いた紫の残像が鋭い刃となり、ローブシンの頭部へと空間そのものを切り裂きながら疾走する。見る事などかなわず、その速さに避ける事などなおかなわない。まさしく空間を切断する刃はローブシンの無防備な頭部へと真正面から命中した。その手応えに、サキは「よし!」と拳を握り締めた。今の一撃で決まれば。そうマコは願うかのように両手を握り締める。頭部で着弾時の衝撃のせいか煙が上がり、未だ見えない。しかし、命中したのならば断ち割れているはずだった。

 その時、

「甘いな」

 不意に差し込んできた声にマコは背筋を寒くした。低く重苦しい声だ。マコでも分かるほどのプレッシャーの波。その根源へと、サキとマコが同時に目を向ける。そこには顔を仰け反らせたゲインがいた。仰け反ってはいるが倒れてはいない。ゲインがゆっくりと、ブリキの人形のように顔を元の位置に戻した。目に飛び込んできた光景にサキもマコも息を呑んだ。

 ゲインの顔に、斜めの切り傷が生々しく刻み付けられていたからだ。鋭い刃の太刀傷だと分かるが、そんなものをいつしたのか。答えは分かっているはずなのに、遠回りしようとする思考が煩わしい。ナツキから聞いたではないか。過度な同調はトレーナーにも負荷を及ぼすと。もし、ゲインも同じようにポケモンと同調し、同じ部分に傷を負ったとしたならば。嫌な予感に、マコはゆっくりと顔を上げた。果たして、その予感は的中していた。ローブシンの顔の顎から額にかけて、斜めの傷がある。亜空切断は物質の硬度や強度に関わらず空間ごと切断する技のはずだった。だというのに、ローブシンは薄皮一枚ほどの傷しか負っていなかった。蒼い眼がマコの視線に気づいたかのように睨み返す。その眼に、エイタの言葉が思い出される。月の石によって強化されたポケモンは通常の五倍の性能を引き出すと。傷から血が滴り、ローブシンは紫色の舌でそれを舐め取った。ローブシンは健在だ。このままでは――。そう思ったのはサキも同じらしく「……だったら」と喉から声を搾り出した。

「今度こそ切り裂くだけだ! カブトプス、亜空――」

「――遅い」

 断ち切るように放たれた声に気づく間もなく、カブトプスの身体が宙を舞っていた。茶色の甲殻の欠片が舞い散り、カブトプスが身体を無防備に開いて落ちてゆく。どうして、と呻く前にローブシンが後ろに引いていた拳を戻した。一瞬のうちに柱から手を離し、手の甲に乗っているカブトプスを打ち落としたのだ。音速を誇る拳、「マッハパンチ」だった。ゲインが口を開く。

「我がローブシンの特性は鉄の拳=Bその名の通り、ローブシンの拳によるダメージは通常の1,2倍になる」

 その言葉が本当ならば、カブトプスが受けたダメージははかり知れない。カブトプスは失神でもしているのか、投げ出されるように開いた身体が地面へと紙くずのように落ちた。カブトプスの名を呼び、サキが駆け寄ろうとする。その時、空が翳った。見上げると、ローブシンが柱を振るい上げていた。このまま、サキごとカブトプスを潰すつもりだ。マコは思わず叫んでいた。

「お願い、ウォーグル!」

 ウォーグルが身体を地面に向け、空気を巻き込み一回転したかと思うと、翼に纏わりついた空気が刃のように鋭くなった。翼そのものが鋭利な刃物となり、睨み据えた鋭い眼がローブシンの振り下ろす手の甲へと狙いを定める。

「エアスラッシュ!」

 ウォーグルが両翼を内側に振るうと、凝縮された刃の風が空気の壁を切り裂いてローブシンの手の甲へと一直線に向かう。高速で奔る風の音を聞いたのか、それとも月の石による感知野の拡大によるものか。ローブシンは打ち下ろしかけていた柱を怪力と思える速さで頭上に翳した。柱へと「エアスラッシュ」が撃ち込まれ、表層で砂煙が上がる。ローブシンがウォーグルへと敵を見る眼を向ける。ウォーグルも咆哮を上げるが、それが虚勢である事にマコは気づいていた。マコのウォーグルは勇猛な外見とは裏腹に臆病な性格だからだ。今も、戦いへとトレーナーの都合で巻き込まれて怯えているに違いない。しかし、時間は稼げた。

 その事に気づいたのか、ローブシンは再び地面へと視線を向ける。そこには立ち上がったカブトプスがサキ達を守るように立ちはだかっていた。ダメージは受けたが、「マッハパンチ」は先制を取れる代わりに威力の低い技だったのが幸いした。カブトプスはまだ動ける事を誇示するように鋭く鳴いた。ローブシンがカブトプスとウォーグルを交互に見やる。どちらから相手にするべきか、決めかねているようだ。

「……飛行タイプのポケモン。戦力として数えていなかったが攻撃されれば厄介には違いない。岩・水タイプのポケモンも動き出したか。マッハパンチで仕留め切れなかった、己の弱さを恥じよう」

 ゲインは瞑想するように瞼を閉じた。今ならば逃げられるか、と一瞬そんな考えが過ぎったがそれほど甘い相手ではない事は分かっている。トレーナーは目を閉じていても、ローブシンが注意を張り巡らせている。どうすべきか、瞑目しようとしたマコへとサキが言葉を投げた。

「攻撃はするな、と言ったはずだ。攻撃目標をウォーグルに固定されれば私達はとうとう勝てなくなる」

 その声にマコは顔を振り向けた。

「それってどういう事? ウォーグルならあの距離でうまく攻撃すれば――」

「そんな甘い相手じゃない。何らかの策があるはずだ。相手は一対一を望んでいる。うまく立ち回れば、ウォーグルを意識の外にさせられたんだ」

「でも、どうやってもウォーグルで、一撃で倒すなんて事出来ないよ」

「狙いどころはある。奴のポケモンと意識が繋がっているのならば、なおさらだ」

 サキは首筋を手で叩いた。それが何を意味するのか分かりかねて、マコは首を傾げる。サキはどこか苛立たしげに顔をしかめて言った。

「首の裏を狙って最強の技を放て。そうすれば奴とポケモン、同時に意識を昏倒させられる可能性がある」

「……倒さ、ないの?」

 どこか濁したマコの言葉の意味を察したのかサキは即座に返した。

「殺す必要はない。ここはうまく逃げ切る。こいつを後に残さないのが、私達の役目だ。脱出時にこいつを相手にさせられたら、逃げ遅れるかもしれないからな」

 その言葉にマコは少なからず安堵していた。思わず表情が緩む。殺す必要などない。悪党でも、ディルファンスでも同じ事だ。そんなマコの胸の内を知ってか知らずか、サキは呟いた。

「……だが、どうしても、という時はある。覚悟はしているな、マコ」

 サキの言葉に、マコは再び張り詰めた表情を浮かべる。強く頷くと、「よし」とサキはローブシンへと視線を向ける。カブトプスもローブシンを睨み据えた。ローブシンが未だどちらと戦うのか決めかねている。今が好機だと思ったのは二人同時だった。指示を飛ばそうと口を開きかけたその時、重い声が遮った。

「ならば、それがしが戦うしかあるまいな」

 目を開いたゲインがサキとマコを見る。その言葉が何を意味するのか、はかりかねて指示を彷徨わせた、

 その瞬間、ゲインは地を蹴ってこちらへと走り出した。それに面食らったのは二人ともである。ローブシンの股の下を抜け、ゲインの身体が体格に似合わぬ速度で走ってくる様は無条件に威圧させられた。カブトプスが主人を守ろうと立ち塞がる。鎌を振り上げたカブトプスへとゲインは一言だけ放った。

「邪魔だ」

 あまりの威圧感に恐れをなしたのか。威嚇のために振り上げた鎌をカブトプスはポケモンに攻撃するのと同様に振るい落としていた。それが頭にかかるかと思われた瞬間、ゲインは爪先で体重を移動させ、半身になり鎌を紙一重でかわした。肝を冷やしのはサキとマコのほうだった。ポケモンの技を見切るなど人間の出来る芸当ではない。ゲインは鎌に足をかけた。カブトプスが反応する前に、鎌を蹴り、その頭上を飛び越えた。信じられない膂力だ。サキは目の前に降り立ったゲインへの反応が遅れたほどだった。影となって立ち塞がる姿は、静かなる獣だった。その瞳が蒼い光を映す。サキが声を上げる前に、その鳩尾へと直線の蹴りが放たれた。残像すら引くほどの一撃に少女の身が耐えられるはずもなく、サキの身体は飛び上がり地面に転がった。

「サキちゃん!」

 マコが叫びサキへと駆け寄る前に、まるで瞬間移動のように一瞬にしてゲインが壁として立ちはだかる。短い悲鳴を上げた瞬間、マコは頬に焼けた棒を押し付けられたような痛みと衝撃を味わって吹き飛ばされた。頬を殴られたのだ、と気づいた時には、マコの身体はゴミのように地面に伏していた。口が切れたのか、鉄の味が口中に充満する。立ち上がろうと腕に力を込めるが、身体が持ち上がらない。震えているのだ、と気づいた瞬間、これが恐怖だと爪先から脳天までその感情が走り抜けた。立ち上がる事も、立ち向かう事も出来ない。殴られたからだけではない。まるで影そのもののように眼前を塞ぐあの威容に文字通り気圧されているのだ。

 ――普通の人間ではない。

 今更の感触が脳裏に浮かんだ。

 その時、短い悲鳴が聞こえ、マコはそちらに目を向けた。立ち上がったサキを嬲るように、ゲインは頬を叩き、後退させている。サキの口から血が滴っている。地面を濡らす一滴一滴を眺める事しか出来ない。大切な人を救う事も守る事も出来ない。カブトプスが背後に近づき、鎌を斜に振るうがまるで見えているかのようにゲインは易々と避ける。地面に突き刺さったカブトプスに一瞬の隙が生まれる。そんな、ポケモンですら見逃しかねない隙に、ゲインはカブトプスの胸部へと肘鉄を食らわせた。カブトプスがよろめき、一歩、後ずさる。カブトプスは積層構造の強固な外骨格に守られているはずのポケモンだ。それに後退させるとはどういう事なのか。もしゲインが本気で打ち込めば自分はどうなっていたのか。頬に触れてみる。腫れているが、骨も顎も砕けていない。だが、少しでも力加減を誤れば――。その想像に、足が竦んで動かなくなる。

 サキの腹部にゲインの膝蹴りが放たれる。背中に突き抜けてしまいかねない一撃に、サキが血反吐を吐いた。その身体が無防備に後ろへと倒れる。まるで見えない糸に引っ張られるように、サキの身体は地面に倒れた。それでもゲインは攻撃をやめない。眼が蒼く爛々と輝き、戦闘本能の塊のような光が射抜くような鋭さを帯びる。サキの身体をゲインの足が踏みつける。サキが咳き込んだかと思うと、血を口元から噴き出した。蒼い獣の眼で、ゲインが見下ろし口を開く。

「貴殿ら、何故戦う」

 マコは動こうとしたが動けなかった。ゲインの暴力がマコの口を封じていた。もう一度、ゲインが低く問い質す。

「何故戦うか、答えよ」

 その言葉に暫時、沈黙が流れた。ヘキサを打倒し、大切な人を取り戻すためだが、ここに来てそれが揺らいだ。本当に、そんな目的だったか。自分は、ただサキが行くから行くと決めただけではないか。大切な人と言っておきながら、その大切な人に責任を丸投げしているのではないか。自分にはここにいる資格など無いのではないか。いっその事、ゲインに殺されたほうが――。

「……呑ま、れるな、マコ」

 その声に思案を閉じてマコは目を向けた。サキがまだ咳き込みながら、必死に言葉を紡ぐ。

「こいつの、手だ。敵を惑わ、せる、ための……。お前は、お前の理由があるはずだ」

 ハッとして、マコはサキを見つめた。そうだ。サキを守るためにここにいるのだ。だというのに、自分は今何をしているのだ。戦う事もせず、目の前の暴力に圧倒されて何も言えない身体を持て余しているだけではないか。マコはウォーグルへと目を向ける。まだ滞空しているウォーグルならば、攻撃出来る。サキの言った通り、敵の首の裏へと、必殺の一撃を。

 サキがゲインの注意を向けようと急に笑い出した。口元から血が垂れている。また咳き込み、血を吐いた。

「貴殿、何が可笑しい」

 ゲインの言葉にサキは声を張り上げた。

「ああ! ちゃんちゃら、おかしいね! お前は、自分の戦う意味を棚に上げて、他人の意味ばかり知りたがる!」

 サキとて叫ぶのには限界がある。それでも声を張るのは、マコのウォーグルへの命令の声を聞こえなくするためだ。ウォーグルに見えるように指を三つ立て、掲げてから小さく技名を発する。出来うる限り小声で言ったが、果たして伝わっているかどうか。

「戦う意味だと。知れている。それがしは主君のために戦うのみ」

「主君? 誰だよ、それ」

「キシベ殿だ。彼のお方より優れた人間などいない」

 ゲインの言葉に、サキは口角を吊り上げて笑った。ゲインの足の力がより強まる。サキは呻き声を上げる。ウォーグルが翼を広げ、風をその身に纏う。空気が震え、風の鎧がウォーグルの身体を覆った。ローブシンをマコが見やる。ローブシンは主人とカブトプスを見下ろしていた。まだ気づいている様子はない。マコはくるりと片手を返した。ウォーグルがローブシンの死角に回り込む。

「貴殿、それがしの主君を侮辱しているのか?」

「侮辱だって? 別に。あんな男に仕えているお前が可笑しくて笑っただけだ。他意はない」

「それがしの信念を侮辱する事は主君を侮辱する事と同義。貴殿、どうやら死にたいらしいな」

 ゲインがサキの腹を踏みつける。サキが苦痛に顔を歪め、地面に爪を立てた。歯を食いしばって必死に押し殺している。想像を絶する苦痛が全身を電流のように駆け巡っているに違いない。しかし、サキは笑ってみせた。

「死にたくはないな。まだやるべき事は多い。それにお前こそ、何故ヘキサに賛同する? ヘキサには理念も何もない。キシベの私怨で動いている」

 その言葉に、ゲインが動きを止めた。ピクリと眉を動かす。サキはそれを突破口と思ったのか一気に捲くし立てた。

「利用されているんだ。ディルファンスもロケット団も。かわいそうな連中ばかりさ。キシベの復讐だけのために、あいつらは動かされている。駒だよ。お前も同じ。キシベからしてみれば何の価値もないんだ。それなのに、付き従う意味があるのか? ここで見限ったほうが賢い選択だと思うが」

 ゲインは顔を伏せて暫く黙った後、「ならば」と言葉を発した。

「ならば、主君の目を醒まさせるのも部下の務め。間違いを起こす時はそれがしが断じる」

「馬鹿、野郎! そういう事じゃない。もうキシベの復讐で全て動いてるんだ。お前の意思なんてないんだよ」

 サキの必死の声にもゲインは耳を貸そうとはしなかった。ケープを引っ掴み、サキの顔に自分の顔を引きつける。

「意思が無くとも、動くのが部下。主君の思考こそ、部下の思考。それが出来ぬして、どうして主従関係が成り立とう」

「主従なんて生易しいもんじゃない。ただの利用だ」

「利用であっても、それがしは死を待つばかりの重罪人。もはや戻るべきところなどない。ならば、主君と共に殉じられる戦場こそ本望である」

 その言葉にサキは舌打ちを漏らした。

「分からず屋が……!」

「何とでも」

 ケープを引き千切り、サキが頭を強く打ち付けた。

 カブトプスが再びゲインの背後に近づき、鎌を薙ぎ払う。空気を裂いたその音が残響する前に、カブトプスは空を切った鎌の行方を見た。カブトプスが顔を上げる。頭上に身体を丸めて回転しているゲインの姿があった。カブトプスが気づき、鎌を振り上げる前に、ゲインは身体を伸ばしカブトプスの頭部を蹴りつけた。カブトプスがよろめく。ゲインは着地と同時に、駆け出した。カブトプスが鎌を振り上げる。

 しかし、その一瞬のタイムロスに付け入らぬはずがない。ゲインは即座にカブトプスの間合いへと飛び込んだ。カブトプスとてポケモンバトルには慣れているが人間を殺す事には慣れていない。一瞬の躊躇が鎌に走ったのを見計らったようにゲインは身体を沈め、拳を固く握り締めた。カブトプスが我に帰り、攻撃行動に移る前に、その頭部を揺らす一撃が顎に放たれた。突き上げた拳がカブトプスの顎に食い込み、破片を飛び散らせた。ゲインの拳からも血が迸る。だが、僅かに視線を送っただけで、まるで痛みなど感じていないかのようだった。地を蹴り、片足を振り上げる。カブトプスが顔を戻す前に、腹部へと直角的な蹴りが見舞われた。人間相手ならば恐らくは背骨を突き抜けるほどの一撃。甲殻に包まれていても痛みは感じるのか、カブトプスはよろめき後ずさった。

 マコは半ばその動きに目を奪われていたが、すぐに自分の役目を思い出しウォーグルへと視線を向けた。ウォーグルは今まさに、羽音さえ殺してローブシンの背後を取った。マコが「今!」と叫んだ瞬間、ローブシンとゲインが同時に目を向けた。だが、それは既に遅い。ウォーグルは翼を閉じ、高空からローブシンの首の裏へと一直線に落下を始めた。その身から黄金の線が幾重にも棚引き、風の鎧が目視できるほど強固になった。嘴が鋭く光り、必殺の一撃の気配を漂わせる。ウォーグルは今まさに首の裏に激突する瞬間、翼を大きく広げた。風の鎧が広がり、周辺に暴風を巻き起こす。刃のような風を身に纏い、空気を割るのは勇猛果敢な空の戦士だった。黄金の光がはっきりと風の鎧と組み合わさって、巨大な一条の光の剣のように映る。その剣を身に纏い、戦う空の王者が射抜くような視線を首に裏に注いだ。そのプレッシャーの圧を感じたのか、ローブシンが動き出そうとする。しかし、その動きは鈍かった。主人であるゲインが状況を的確に判断していないのも一因であったが、その実は「アームハンマー」の乱発による影響だった、「アームハンマー」は一回撃てば撃つほどに、素早さが下がる。今、ローブシンの素早さはウォーグルよりも遥かに下だった。

「それに、追い風もある!」

 ウォーグルが背後より吹き抜ける風を受け止めた羽根を震わせ、黄金の光が巨大な鳥の姿を取った。瞬間、ゲインがマコに向けて駆け出した。攻撃を中断させようというのだろう。

 ――だけど、遅い!

 マコは指をローブシンに向け、全身を声にした。

「ウォーグル、ブレイブバード!」

 黄金の鳥のオーラを纏ったウォーグルが、振り向こうとしたローブシンの首の裏へと突っ込んだ。光が何度か瞬き、消えたと思われた瞬間、横に一条の黄金の光が雷光のように走り、轟音が空気を震わせた。ローブシンが口を開き、耳を劈く絶叫を上げる。蒼い瞳孔がぐるぐると動き、意識が消える限界を示していた。ローブシンの首の裏から血が迸り、雨の如くマコとサキへと降り注いだ。ゲインはマコへと飛びかかろうとした姿勢のまま硬直していた。その首の裏から血が流れ、首筋を伝って滴り落ちている。潰される瞬間の蛙のような声を上げ、ゲインはその場に膝をついた。マコは足が震えて暫く立てなかったが、サキが代わりのように立ち上がり、口にした。

「……やったな」

 その言葉に「……勝ったんだ」と呟いたマコはサキへと視線を向けた。サキは笑んだが、唇の端から血が伝っている。痛みに顔をしかめ、サキは額を押さえた。

「サキちゃん!」

 マコが歩み寄ろうと立ち上がりかけるが、足が言う事をきかずその場にへたり込んでしまう。サキが「私の事はいい」と言った。

「倒したが、私達もダメージを負いすぎた。ここはゆっくり休んでからお父さん達を追いかけよう。マコ。ウォーグルを戻してやれ」

 マコはその事にようやく気づいて、ウォーグルを呼んだ。ウォーグルが全身に血を纏って、ローブシンの背後から現れた時は冷や汗を掻いたが、あれはウォーグルの血ではなく、ローブシンの血だろう。その出血量に、マコは思わずと言った風に尋ねた。

「……死ん、だの?」

 倒れているゲインへと視線を向ける。ゲインはぴくりとも動かなかった。サキが首を横に振る。

「いや。気絶しているだけだろう。放っておけば死に至るかもしれないが、まだ死んでいない。だが、殺す必要はない。勝つだけでいいんだ」

 その言葉にマコは胸を撫で下ろした。人を殺さずに済んだ。覚悟は決めていたはずだったが、いざとなればやはり踏ん切りがつかなかった。しかし、しなくてもいい苦労をする必要はない。マコはゲインの首の裏の傷を見た。深そうだが、確かに貫通しているわけでもない。まだ生きていても不思議ではなかった。顔を上げると、ローブシンが柱を杖のようにして体重を預け、顔を伏せていた。陰になって顔はよく見えないが、事切れているわけではないだろう。恐らく、同じように失神しているだけだ。そう自分を言い聞かせた。ウォーグルがマコへと降り立ってくる。その身体が傾いだりして不安定に見えるのは、気が弱いからだろう。これほど血の気が多い戦いを経験した事などない。サキは息をついて、瞼を閉じた。

「とにかく、身体を休めよう。そうしないと、私達がお荷物に――」

「……そうは、いくか」

 不意に聞こえた言葉に、サキとマコは顔を向けた。動かないはずのゲインの手がピクリと動き、その身を起こそうとしている。こちらの身が裂けそうなほどの雄叫びを上げ、ゲインは顔を上げた。サキが声を飛ばす。

「カブトプス! こいつの首をはねろ!」

 即断即決した声にカブトプスは主人の覚悟を知り、地を蹴り、鎌を振り上げた。カブトプスが鋭く鳴き声を上げる。その声に被せるようにゲインが叫んだ。

「ローブシン!」

 カブトプスの頭上が急に翳ったかと思うと、次の瞬間、空が落ちてきた。それはローブシンの柱だった。カブトプスは身体を地と柱に挟まれ、苦悶の声を上げる。振り上げていた片手の鎌が柱と身体に引っかかり、カブトプスが力を込めて引き抜こうとすると、その甲殻に皹が入った。ミシミシと甲殻がひき潰される音が聞こえてくる。サキは思わず耳を塞ぎ、「やめろ!」と叫んだ。しかし、ローブシンはより強く、カブトプスを地面に押し付ける。甲高いカブトプスの声が次第に途切れ途切れになる。その眼から光が失せようとしているのを見たマコは耐え切れず叫んだ。

「ウォーグル! ローブシンを止めて!」

 主人の必死の声にウォーグルが惑う挙動を捨て、攻撃の動きに転じようとした瞬間、ローブシンは柱を掴んでいた腕を膨れ上がらせ、力の赴くままに遂には掴んでいた部分の柱を砕いた。それに気づき、僅かに躊躇したウォーグルへと、ローブシンが素早く岩がこびりついた手刀を振り下ろした。

「撃ち落とせ」

 抵抗の技を発する前に、手刀がウォーグルの身体に食い込み、地面へと強制的に落下させた。ウォーグルが落下地点で痙攣しているかのように身体を震わせる。ローブシンの眼と同一化したゲインが立ち上がり、今までの静けさが嘘のように叫んだ。

「貴様らは蝿だ! 崇高なる理念へとたかる醜悪な虫なのだ! 虫に理念など説くような意味も価値もない。ここで、臓物を撒き散らし、砕け散るがいい!」

 マコは初めてゲインの内側を見た気がした。これがこの男の本性なのだ。武人などとは程遠い。他人に自身の理想を投影し、立ちはだかる者を敵と規定して踏み潰す傲慢な人間。それがゲインなのだ。その証拠に、先程までとは違いゲインの顔には確かな笑みが浮かんでいた。狂気の笑みが仮面のように張り付いている。マコは背筋が寒くなるのを感じた。ウォーグルへと指示を飛ばそうとするが、今の攻撃は岩タイプの技「うちおとす」だ。飛行タイプを強制的に地上へと落とす技でもある。この技を食らったが最後、地面タイプの技でさえも当たってしまう。もう一度飛ぶより他なかったが、ローブシンから放たれるプレッシャーが重圧となってウォーグルの身動きを封じていた。元々臆病なウォーグルは絡め取られたように動けない。ローブシンがカブトプスを柱で押さえつけたまま、ビルへと手を伸ばした。何をするのか、そう思う間にローブシンは目にも留まらぬ速さで拳をビルに向かって繰り出した。ビルの中をローブシンは手で探る。何をしているのか。それを思っていると、ゲインが口を開いた。

「ローブシンは自らの手で柱を作り、武器となす。コンクリートの技術はローブシンからもたらされたものとされている。ならば、既に出来上がっている人間の叡智の結晶でさえも、ローブシンからしてみればそれは自身から産み落とされたものなのだ」

 だから、どうしたというのか。その疑問に応じるようにローブシンの腕が動いた。ビルが根元から振動し、ローブシンの二の腕が膨れ上がる。地鳴りのような音と共に何かが引き出されてゆく。次の瞬間、ガラスが砕けるかのように鮮烈に、ビルが崩壊した。降り注ぐビルの残骸から覗くのは、コンクリートで構成された長物だった。マコが目を凝らす。ローブシンが取り出したおかげでようやく全形が見えた。

 大剣だ。

 コンクリートで構成された赤茶けた刀身の大剣を、ローブシンは握っている。細かい装飾はなく、無骨なその形はただ斬るためというよりも叩きつけて使うような気さえしてくる、原始的な武器に見えた。ローブシンが柱の代わりに、片手にその大剣を握り、振るい落とした。大地が割れ、衝撃が足元を走った。轟、と空気が裂け、大剣を中心としてアスファルトに一筋の傷跡が残った。その威力に、サキもマコも固唾を呑んだ。見たところ岩タイプの物理攻撃、「ストーンエッジ」のはずだった。だが、タイプ一致でもないのにこの威力は何だ。それにこのような大剣を振り回すポケモンなど見た事がない。大剣はほとんど先程のビルと同じ長さ、即ちローブシンの身の丈と同じだった。ローブシンは柱を握っている手を離し、拳にして柱へと槌のように打ち込んだ。地面に食い込んでいる柱が、より突き刺さる。カブトプスが全身に皹を生じさせ、緑色の液体で地面を濡らしていた。カブトプスの血だ。甲殻の内側の肉体も限界に近いのだろう。ローブシンは柱から手を離し、大剣を両手で握った。そのままゆっくりとした足取りで向かう先には、ウォーグルが地面に縫い付けられていた。

「……カブト、プス。このままじゃ、ウォーグルが」

 サキの声にもカブトプスは応答しない。痙攣はより酷くなり、鳴き声すら上げられないようだった。肺をやられているのかもしれない。
ローブシンが「ストーンエッジ」を振りかぶる。空気が切っ先で尾を引いた。あれほどの質量を打ち込まれればウォーグルは無事では済まないだろう。岩タイプの攻撃は効果抜群だ。跡形もなく潰されてしまう事すら考えられた。

「貴様らは、ここで断ち切る!」

 ずんと響き渡る声に、マコは指先が震えるのを感じた。失いたくない。自分のポケモンをこんなところで。

「ウォーグル! 飛んで。今すぐに!」

 無理な願いだとは分かっている。ウォーグルとて精一杯戦っているのだ。だが、その一端すら自分は知る事が出来ない。ナツキのようにポケモンとシンクロ出来るわけもない。サキやリョウ、フランのように一流のトレーナーなわけでもない。戦いに慣れていない自分が放つ言葉は所詮安全圏からの物言いだ。ウォーグルに響くのかは分からない。それでも叫ぶ事しか出来なかった。

「逃げて! 早く!」

「カブトプス! 動いてくれ!」

 サキも苛立ちを含んだ口調で叫ぶ。しかし、二体のポケモンは動く事など儘ならない様子だった。

「これで――」

 ゲインの声に、ローブシンが振りかぶった大剣を打ち下ろす。空が落ちてくるよりもなお性質が悪い。自分のポケモンは切り裂かれ、磨り潰される。その現実にマコは目を覆った。

「カブトプス!」

 サキの声にもカブトプスは反応を示さない。全てを終わらせる一太刀が振り下ろされ、瓦礫と砂塵が血なまぐさいこの戦場を覆い尽くす。その中で引き裂かれ、蹂躙されるしかないのか。

 その時だった。

 高速で空気を巻き込む音が聞こえた。その音が瞬時に近づき、頭上で炸裂音が響き渡った。ぱらぱらと砂や細かい石が落ちてくる。マコは目元の手をどけて、顔を上げた。ローブシンが確かに大剣を振り下ろしていた。だが、それは柄だけだ。刀身がない。周囲を見渡すと、刀身は反対側のビルに突き刺さっていた。ローブシンは衝撃に仰け反り、遂には尻餅をついた。激震が視界を揺さぶる中、ローブシンの大剣を砕いた何かがいる事に気づく。

「……あれ、は」

 サキが呆然と一点に目を向けている。マコもそちらへと振り向いた。

 そこには弾丸のように空中を疾走する黒色の物体があった。こちらの位置からでは尻の部分しか見えない。その何かは、尖った部分をビルに向け、削岩機のように回転しつつビルを抉った。一瞬の事だったが、確かにあれは削岩機そのものだった。先端部分がまさしくドリルのようになっているのだ。ビルの森林を高速で移動する物体が影となって揺らめく。ローブシンは背後のビルに手を伸ばした。そのビルから柱を抉り出す。生成した柱を片手で掴んで翳し、ローブシンはビルから躍り出た物体と対峙した。ビルの屋上から真上へと飛び上がった何かは、その身体を開いた。

 鋼の両腕を持っている。頭頂部には帽子のように張り出した同じく鋼の鶏冠があり、身体は茶色が基調だが、赤いまだら模様があった。それはモグラが直立二足歩行したようなずんぐりとした体躯をしており、格闘タイプのローブシンとは一線を画すデザインだった。その何かは、曇天から僅かに射し込む逆光を背に、ビルの屋上に屹立した。それはポケモンだった。鋼・地面タイプを持つ、ドリルを象徴するポケモン――ドリュウズである。

 ゲインがその姿を認め、眉根を寄せて跳躍した。一瞬で、ローブシンの背後に回る。先程まで昏倒していた人間とは思えない反応速度だった。

 ドリュウズがローブシンと向かい合う。流動し続ける状況を判じる思考を奪われているのはサキも同じようで、呆然とドリュウズを見ていた。その眼には確かな闘志が宿っている。ドリュウズは一声鳴いた。それはまるで反抗への凱歌のように高らかと響いた。


オンドゥル大使 ( 2013/03/26(火) 21:25 )