第六章 二十七節「孤独に非ず」
呼びかえる声が虚しく反響し、指揮官は急くようにモニターを叩いて襟元を緩めた。
息苦しい空気が空中要塞を呑み込んでいる。
何かが地上に現れたか、と指揮官は直感的に思った。何、という事はまったく見当がつかない。
ただ重い鉛のような何かが全身を総毛立たせ、額に汗を滲ませる。先程の衝撃の元を特定する事は出来なかった。戦闘部隊幹部が戦闘に入ったという通信が一度ブリッジに来たきり、誰の声も届かない。このブリッジは牢獄か、と指揮官は思い汗を袖で拭った。仲間と繋がっている感覚がまるでしない。ロケット団戦闘ブリッジのほうがどれだけマシな事か。断絶された感覚と、際限無く意識を苛むプレッシャーが額に疼痛を生じさせていた。戦闘部隊幹部など寝耳に水だ。先刻のフワライドの一件といい、知らされていない情報が多すぎる。指揮官という今の立場が本当に名前を体現しているのか不安になってくる。お飾りなのはディルファンスのリーダーよりも自分のほうなのではないか。これではディルファンスの連中を悪くも思えない。張り詰めているのはロケット団でかつて戦った面々とて同じようだった。フクトクがコンソールに向かいながら、何度も顔を拭っている。疲れの表情が滲んでいた。敵対組織の人間と同じブリッジにいるだけならまだしも、謎の衝撃に動揺を隠せていない。今にも墜ちるのではないか。そう考えているのは指揮官だけではなかった。
「指揮官。浮遊機関に先程のポケモンが衝突したようです。ダメージは最小限に留められていますが、もう一度同じ攻撃を受けると……」
「何だって? 墜ちるというのか、この空中要塞が」
濁した語尾に苛立ちをぶつけると、言葉を発した団員は黙り込んだ。分かっている。単なる八つ当たりだという事ぐらいは。この状況で指揮官の発する言葉ではない。しかし、何か抗弁の口を開いてくれる事を期待していた自分もいる。言い返してくれたのなら、少しばかりは希望的観測が持てたかもしれない。仲間同士であるが故に、相手の心情を汲んでしまい何も言えなくなる。泥沼か、と呟きかけた指揮官に声が投げられた。
「指揮官。まだ墜ちるとは決まっていません。そのような弱気な発言は指揮官にあるまじき言葉と思われます」
不意打ち気味の言葉に目を向けると、イタクラが椅子ごと向き直って指揮官をじっと見つめていた。今の言葉は、彼の口から出たのか? そう考える間にもイタクラは片手でキーボードを叩き、ディスプレイに表示される文字群を追いながら進言する。
「浮遊機関はまだ充分に稼動出来ます。電力供給率も安定値を示しています。浮遊機関に攻撃出来るポケモンがいるのなら、何故すぐ攻撃しないのですか? 恐らくは戦闘部隊幹部の人間が撃退したのでしょう」
「しかし、それは希望的観測だ」
そう口を開いたのはフクトクだった。イタクラは首を横に振り、「希望的観測でも」と言葉を継ぐ。
「我々が勝つためにはこのまま前進し続けるしかないんです。今更、振り向いたってどうにかなるもんでもないでしょう。もう前しか残されていないのですよ。それぐらい、ここにいる方々ならば分かっていると思っていましたが」
イタクラが視線を巡らせる。皆、一様にばつが悪そうに目を背けた。その言葉に指揮官は、この場所に転送される前にロケット団の面々と誓い合った時の事を思い返した。彼らの生きる道を縛ったのは自分でもあり、彼ら自身でもある。その覚悟に今更疑問を抱いていた。それは胸に宿った覚悟に対する冒涜だ。反目した人間に心の真相を突きつけられ、指揮官は戸惑い半分、再び胸の中で覚悟の光が宿る高鳴り半分といった心境でイタクラを見た。彼は視線を逸らさない。真っ直ぐに事態と向かい合っている紺色の瞳を確認し、その眼差しの美しさを確認した指揮官はフッと口元を緩めた。
「……そうだな。杞憂だった」
指揮官は顔を上げ、頭上に手をやりかけてはたと手を止めた。帽子は廃止されたのだ。今、この場所で生きるのならばそれなりの誠意がある。伸ばしかけた手を拳に変え、指揮官は鞭打つように自身の膝頭を叩いた。檄を飛ばすかのように、全身を声にする。
「我々はヘキサだ! 目的は既に定まっている。カントーへの進軍。私怨と言ってもいい事情だが、私は君達とこの戦場にいられる事を誇りに思う! それと同時に、君達にも覚悟を決めてもらいたい! 前に進むか、否か」
昨日まで敵同士であった者達が同じ覚悟を抱けるとは限らない。理想も目指すものも違う者達に掴める未来などあるのか。だが、その未来を眼前に引き寄せるのが覚悟だ。
「迷いあるものは退席したまえ。私は諸君らに、無理強いはしない」
その言葉にフクトクが立ち上がった。まさか、とひやりとしたがフクトクは挙手敬礼をした。ロケット団にいた時に見慣れた姿だ。するとそれに倣うように、他のブリッジクルー達も指揮官に向き直って立ち上がり挙手敬礼をした。イタクラが最後に同じ動きをしてから、口元に笑みを浮かべた。
「今更ですよ、指揮官」
その言葉には温かみがあった。その温もりが全員に伝播したかのように、皆朗らかに笑った。極限状態に置かれているにも関わらず笑える。それが理想のあり方だろう。たとえキシベという一個人の思惑に乗せられているとしても、このブリッジにいる人々はその枠内で行動しているわけではない。自分の意思でここを選んだのだ。指揮官は顔を伏せて、瞼を閉じた。今泣いてどうする、と思いながらも目頭の熱が抑えられなかった。一時的に戦場の指揮を預かった昨日から随分と長い時を経た気がする。実質、二十四時間も経っていないのだ。自分に指揮官の器があるのかも分からない。暗中模索の中、ついてきてくれたクルー達こそ、真の戦士だった。指揮官は目元を乱暴に拭い、敬礼を返した。
「諸君らの勇気に、私は敬意を表する」
「それは早過ぎますよ」
そう応じたのはフクトクだ。彼は「これからでしょう」と言葉を継いだ。
「我々の意志と覚悟がどこまで通用するかは。涙はその後に取っておきましょう」
フクトクの言葉にブリッジが笑いに包まれた。見透かされているな、と指揮官も笑みを浮かべようとした。その時である。
不意にブリッジを激震が見舞った。緩んだ頬の筋肉を張り詰め、全員が席について状況を確認した。
「37地区定点カメラから、地上での戦闘を確認。ローブシンです」
「敵か?」
すぐに指揮官の顔に戻り、尋ね返した。団員は首を横に振った。
「分かりませんが、応戦するポケモンは二体。組織内に登録はありません」
先程の侵入者か、とすぐさま頭を切り替え指揮官は手を振るった。
「戦闘行動には介入するな。どちらが幹部か分からんからな。我々はカントーに向かう、それだけを考えるのだ」
「了解」と復誦が返り、指揮官は初めてこのブリッジで一体感というものを覚えた。こみ上げる熱い感情に押され、静かに呟いた。
「ありがとう」
その言葉を聞いた者は誰もいない。