第六章 二十六節「無言の雨音」
ひたひたとひっそり付いて来るかのような雨音が煩わしい。
思わず振り返りそうになる。今、はっきりと分かったはずだ。アヤノはもう戻ってこないと。それでも、振り返りそうになるのは仲間意識というものか。だが、旅に出てからそんなものは希薄だった。今更、友情を求めても仕方のない事なのかもしれない。
リョウは走りながら、では自分はルイに何を求めているのかと自問した。ルイが自由になる事か。
しかし、ルイは戦うためだけにこの世に産み落とされた存在だ。
それ以外の選択肢などあるのか。暗がりに引っ張られそうになった思考を、否と頭を振って否定する。あの無垢な赤い瞳に世界を見せてやりたいと思ったのは自分自身だ。それに迷いを感じるなど、それこそ今更の話だ。そう感じられないならば、こんな場所まで来た意味がない。タリハホテルが目前に聳え立つ。白亜の壁も、今は見る影も無くくすんでいるように見えるのは曇天のせいか、それとも自分の感情のせいか。リョウは振り返り、二人に確認した。
「ここから先はヘキサの本拠地だ。恐らく今まで以上に強大な敵が待ち構えているだろう。行くか、待つかはそれぞれの判断に任せる」
今更こんな事を言うのはアヤノに会ったからか。全員、覚悟は出来ていると言ったはずだ。確認しなければならない覚悟など本物ではない。リョウはアヤノを残した道の先へと僅かに視線を向けた。あの二人はどうするつもりなのだろう。ヘキサを壊滅する術を持っているとは思えない。いたずらに戦火を拡大するだけではないのか。
「リョウ君。それは今更というものだよ」
フランが言葉を返す。リョウは思考に蓋をして、その言葉に頷いた。フランとて、迷いが生じていないはずがない。それでも戦おうとするのは死人の意地か。エイタと直接会って、より決意が固まったのかもしれない。博士のほうを見やると、博士も頷いた。リョウはタリハホテルの正面入り口から入ろうと、階段を上りかけて、肌を粟立たせるプレッシャーの波を感じた。空気が震えている感覚に、ホルスターからボールを引き抜き、即座に緊急射出ボタンを押す。中から光を纏ったリーフィアが首を振り光を払って、リョウの背後についた。
「どうかしたのかい?」と博士が振り返ろうとする。その瞬間、プレッシャーが鼓動となって、リョウの身体を震わせた。腕を振り翳し、叫ぶ。
「リーフィア、マジカルリーフ!」
リーフィアが身体を揺らすと虹色に輝く葉っぱが舞い落ちた。それが即座に意思を持ったように動き出し、リョウとリーフィアの前面に展開した。直後、ビルの隙間から鮫の背びれのような影の刃が三つ、空気を切り裂いて向かってきた。「マジカルリーフ」は必中の技だ。虹色の葉っぱが光の尾を引きながら影の刃へと真っ直ぐに激突する。影の刃のうち、二つは空中で霧散したが、一つはさらに鋭い刃となってマジカルリーフの網を通り抜けた。リョウがそれに気づいて声を上げようとした時には、リョウの横を通り過ぎていた。手を伸ばして止めるわけにもいかず、背中を向けていた博士へと影の刃が突き刺さった。博士が衝撃に身体を地面にしこたま打ちつける。
「博士!」とフランは叫び、倒れ伏す博士に駆け寄った。リョウはビルの隙間から襲い来るプレッシャーの波に意識を集中して振り返りもせずに「博士は?」と尋ねた。
「脈はある。生きているようだ。このバックパックがどうやら盾になったようだが……」
フランが言葉を濁したのはバックパックの中身まで切り裂かれているのを見たからであった。これでは回復出来ない。博士は呻きながら、ゆっくりと目を開けた。「博士!」とフランが呼びかけると、博士は「フラン君、か」と途切れた声で言った。
「しっかりしてください」
フランは博士に肩を貸した。博士が頭を振りながらゆっくりと立ち上がるが、足取りがおぼつかない。脳震盪を起こしているのかもしれなかった。
リョウはリーフィアと共に爆撃のように降り注ぐ影の刃をマジカルリーフで弾いて、肩越しに見やり叫んだ。
「そのまま博士を連れて降りろ!」
「そんな、君はどうするんだ?」
「俺は、ルイを助けなきゃならない。目的は恐らく地下に続くルートを封じる事だろう。さっさと行け! 影の刃をいつまでも防ぎきれるわけじゃねぇ!」
その言葉に逡巡を浮かべたのも一瞬、フランは博士と共にエレベーターへと向かった。まだ電力は生きている。扉がすぐに開いた。フランは振り返りながら、応戦するリョウに聞こえるように声を張り上げた。
「先に行っている! 君も早く追いついてくれ!」
「ああ!」と乱暴に返すと、エレベーターの扉が閉まった。階層表示が動き始める。マジカルリーフが影の刃を防ぐのも限界だった。触れた先から虹色の葉っぱは切断されていく。舌打ちを漏らしながら、リョウは指示を出した。
「リーフィア。ツバメ返し!」
リーフィアが地を蹴って跳び上がり、身を空中で回転させたかと思うと、額から生えた葉っぱの刃で影の刃を相殺した。「つばめがえし」は飛行タイプの必中の技だ。刃を一度長く保持し、標的へとくるりと刀身を返して打ち込む。リーフィアの額の葉はサイの角のように尖っていた。マジカルリーフとの連携でどうにか防げるか、と思った刹那、リーフィアが弾いた影が拡散し、リョウの周囲の地面へと叩きつけられた。白い砂埃が上がり、リョウは目を細めて状況把握を努めようとするが、その前に影の刃がリョウの脇を通り抜けた。
しまった、と声を発するよりも先にエレベーターホールに突き刺さる。エレベーターホールの前に瓦礫が堆積し、扉を半分以上見えなくした。これでもうヘキサ中枢に侵入するのは不可能に近くなった。瓦礫をどけるのに時間がかかるだろう。それ以上に、自分は相手を倒さなければならない。リョウは砂埃の晴れた中、ビルの隙間を見据えた。
「いるんだろう。ルイ」
その言葉に応じるようにビルの影が動いた。まるで血溜まりのように地を影が埋め尽くしていく。その影の中心から、人の形が徐々に伸びてやがて明瞭な形を取った。薄紫色の髪に、儚げな印象を与える華奢な身体。赤い瞳は見間違えようがなかった。
「ルイ」
呼びかけても返事はない。影が寄り集まり、ルイの背後に屹立する。亀裂が入り、カッと開いた。赤い眼がリョウを睥睨していた。あの時と同じ、ゲンガーだった。
リョウはホルスターからもう一つ、ボールを引き抜いて緊急射出ボタンを押し込んだ。
「行け、メタモン」
光に包まれたメタモンが地面に虹色の水溜りを作り出す。ゴマのような目がゲンガーとルイを見つめた。メタモンとリーフィア。この二体でルイを必ず解放する。そのための力は手に入れたのだ。懐からポケモン図鑑を取り出す。図鑑ナンバーをスクロールさせつつ、リョウはゲンガーとルイを見据えた。影と少女は何も言葉を発する事無く、ただ敵を見る目を向け続けた。