第六章 二十五節「断絶」
豪雨は少し収まってきただろうか。
それでもしとしとと降り続く雨は先程まですし詰めだった身には煩わしく、光の一つも射さない曇天は陰鬱な気持ちに拍車をかけた。
輸送機から走り出して、三十分。輸送機は随分と端のほうに着陸したらしく、中心街に向かうには時間がかかった。交通機関が麻痺しているために、いつものように車でとはいかない。そもそもこの事態に至って車など、とアヤノはひよった頭に呆れるばかりだった。先を歩くエイタの背中に目をやる。
無理を言ってエイタの直属にしてもらったが、エイタは口を開こうとしない。アヤノは先刻、爆発があった場所へと視線を向けた。もうもうと黒煙が上がっていたが、もう鎮火したのかほとんど火炎の跡形も無かった。その数分前には腹の底に響く激震が揺さぶったのを思い出す。全く別の場所だったが、どうなっているのか。既に戦闘状態に突入していると考えるのが妥当だったが、ディルファンスのメンバーが戦っているとは考えづらい。だとすれば、別勢力か、と頭を巡らせるが、実際に見ないと何も言えない。
ひょっとしたら、ロケット団と寝返ったディルファンスが内部分裂を起こしたのかもしれないと推測する。もしかしたら最初からディルファンスはヘキサに寝返ったわけではなく、ロケット団残存戦力を殲滅するためにわざとそういったパフォーマンスをしたのではないか。だが、それならばこれほど外敵を拒む事をする必要もないし、輸送機を墜とす必要も無かった。やはりヘキサとして動いているのか。アヤノはエイタに話しかけようとしたが、裏切りに一番傷ついているのはエイタだと思い出し、何も言えずに口を閉ざした。エイタは肩越しにアヤノを見やり、事務的に言った。
「モンスターボールを常に持っていたほうがいい。いつ敵が現れるか分からないから」
アヤノは頷き、そこから会話の糸口を探そうとしたが結局気の利いた事一つも言えずにただ「はい」と口にしてホルスターからエイパムのボールを掴んだ。エイパムは模擬戦で何故かアヤノの命令を無視した。それきりエイパムは使っていない。果たして、実戦で役に立つのか。エイタの身を守る事が出来るのか。アヤノはエイパムの感情の読めない黒々とした眼差しを思い出す。何故、あの眼にアヤメを見たのだろう。アヤメの顔など現実では一度として見た事が無いのに。今の状況をアヤメが知ればどうなるだろうか。流されるがままにディルファンスに入り、カリヤを救うはずがいつの間にかエイタにも惹かれているどうしようもない自分を。アヤメならば全てを断ち切れるかもしれない。しかし、自分には断ち切れるだけの覚悟も無ければ力もない。男に依存しているといっても間違っていない自分のあり方にアヤノは顔を伏せた。
その時、エイタが足を止めた。アヤノが踏み出しかけるのを手で制して、口元で一本指を立てて小さく呟いた。
「誰か来る。前からだ。三人組か」
その声にアヤノは視線を向けた。何者かが三人連れ立って、こちらへと走ってくるのが小さく見えた。ヘキサの戦闘員か、と判断したのはエイタも同じだったらしい。モンスターボールから即時に射出出来るようにボタンに指をかけている。アヤノもそれに倣い、その場で三人組を待ち構えた。今いる場所は大通りだ。どう足掻いても、やり過ごす事は出来ない。戦うと誓ったはずの胸に僅かな暗雲が立ち込める。迷いが指先の震えとなって伝わる。エイパムの鼓動が感じられないほど動揺している。アヤノはもう片方の手でボールを握る手を押さえた。三人組の姿が明瞭になってくる。エイタは一歩、踏み出した。次の瞬間には駆け出せるように身体を沈めている。アヤノはあくまでエイタのバックアップだ。エイパムをいつでも繰り出せるようにしなければならない。渇いた喉に唾を飲み下し、緊張で竦む足に鞭打つように心の中で覚悟を決めた。
エイタが駆け出す。それと同時にアヤノは緊急射出ボタンを押し込もうとして、はたと気づいた。三人組の姿が完全に見えたからだ。その中に知った顔を見つけ、アヤノは覚えず呟いていた。
「……リョウ君。それに博士も」
その事にエイタも気づいたのか、すぐに立ち止まり「あなた達は」と呻いた。会いたくない相手だったのだろうか。リョウと博士の他にもう一人、歳若い金髪の青年がいる。彼は、エイタを睨み据えた。
「……久しぶりですね。エイタさん。いや、エイタ」
その言葉にエイタは苦虫を噛み潰したような顔になった。どういう関係なのか。勘繰る前にリョウが前に歩み出す。
「アヤノ。ナツキから聞いた。どうしてディルファンスにいる?」
どこか責めるような声音にアヤノは言葉を窮した。どうして、と問われると分からない。言葉を返せずにいると博士が「アヤノ君」と呼びかけた。
「皆、心配しているよ。どうしてこんなところにいるんだ? 君は優しい心の持ち主のはずだろう」
アヤノはさらにばつが悪くなって俯いた。優しい心の持ち主というのは仮面だ。本当の自分じゃない。だが、それを今言って何になろう。開き直る事も出来ずにアヤノは口を閉ざした。
その時、エイタが前に歩み出し、アヤノを庇うように手を翳して口を開いた。
「アヤノは僕らディルファンスの正当なる構成員です。あなた方にとやかく言われる筋合いはない。我々はこのカイヘンにおける唯一の正義の組織として活動しているだけだ。ヘキサを壊滅させるために」
その言葉がアヤノの心に染み渡る。エイタはやはり自分を守ってくれる。その感触に耽る前に、金髪の青年が言葉を返した。
「エイタ。あなたはまた利用するつもりなのか。コノハだけでは飽き足らず、その子まで」
利用、という言葉が突き立ち、セルジの言っていた事が思い出される。コノハのように利用されるだけされて捨てられる。その恐怖が毛虫のように這い上がる。エイタはどこか気圧されたようになりながらも、余裕の笑みを崩さない。
「……死人が何を言う。今更、どうにもならないんだ。ヘキサを僕の手で壊滅するしか、ディルファンスは生き残れないんだよ。フラン、君はもう部外者だ。道が別たれているのははっきりと分かるはずだ。この状況を含めてね」
フランと呼ばれた青年は表情に怒りを滲ませた。どこかその青年には不釣合いな感情に見えた。
「……それほどまでに、ディルファンスが大事なのか」
「当たり前だろう。僕がここまで大きくした組織だ。それを君達のようなワンマンな人間に、潰されて堪るか」
エイタが手を振るって応えた声に、フランは歯噛みしたように見えたが、やがて何もかも諦めたように首を横に振った。
「僕はあなたとは違う。命を捨て駒のように扱ったりはしない」
「どうかな。君とてこれからの事は分からないだろう。博士も、そこの少年も、君にとっては関わりなど薄い存在だ。裏切られない保障がどこにある」
「だからといって、あなたの下には戻らない」
フランの声にエイタは小さく舌打ちを漏らした。フランを取り込む算段だったのかとアヤノは気づいた。博士が一歩踏み出し、優しく言葉をかけた。
「アヤノ君。君には間違って欲しくない。ここで戦う事がどういう意味なのか、分かっているのかい。殺し合う事なんだよ。分かり合えない者達が、何の躊躇も無く。そんな場所に君を置きたくないんだ」
博士には恩を感じている。ポケモントレーナーの資格をくれたのは博士だ。迷う心へと、リョウが踏み込むように言った。
「アヤノ。俺達はミサワタウンから旅に出た仲間同士だ。苦しいのなら言ってくれればよかった。今からでも間に合う。俺達に苦しみを分けてくれ。背負い合う覚悟は皆持っている」
その言葉にアヤノはリョウ達を見た。一様に覚悟を決めた眼差しがある。彼らについていけば、また元の日々に戻れるのかもしれない。アヤメも戻ってきてくれるかもしれない。全てを忘れ、旅をすれば、失ったものも何らかの形で埋め合わせる事が出来るような気がして、アヤノは手を伸ばしかけた。だが、それをエイタが遮った。
「アヤノ。君は誇り高い女性だ。僕が保障する。君の覚悟を彼らは揺るがせようとしているんだ。固まった覚悟を捨てるのかい?」
エイタの声は迷いなどない。エイタについていけばカリヤにも会える。本当に戻りたいのはどちらか。ミサワタウンの仲間の下か。それともカリヤの腕の中か。踏ん切りのつかない思考に切り込むように、エイタは優しく言葉を降りかけた。
「君を僕は必要としている。なくてはならない存在だ。アヤノ」
それがアヤノの心に深く入り込んだ。エイタは自分を必要としている。リョウ達はただ自分の価値観を押し付けているだけだ。裏切られたから、どうだと言うのだ。自分は裏切られない。エイタにとってなくてはならない存在だから。アヤノは伸ばしかけた手を仕舞って、エイタの背中についた。それを見たリョウ達が必死に言葉を投げる。
「アヤノ! ナツキはお前の事を心配している。そいつに従うな! 自分で決めろ!」
「アヤノさん。僕は君の事をよく知らない。だけど、コノハのようになって欲しくないんだ!」
その声にもアヤノは迷わなかった。エイタと手を重ね合わせる。人の温もりを持った手がアヤノの手と絡まりあう。こんなに温かいのに、裏切るわけがない。
「あたしはもう決めた。リョウ君。博士。あたしはディルファンスとして戦う」
その決意に博士は言葉をなくしたように呆然とした。良心がちくりと痛んだが、構いはしなかった。博士だって代わりがあれば飛びつくはずだ。サキやナツキとは違う。自分はよそ者だ。愛着などあるはずがない。
「……アヤノ君。それは本当に君の意志かい?」
博士が最後の声をかける。これにいいえと言えばまだ引き返せるのか。否、それはエイタへの裏切りになる。もう決めたはずだ。
「はい、博士。あたしはヘキサをディルファンスとして壊滅させます」
博士はそれ以上余計な言葉をかけようとはしなかった。リョウも同じだ。罵るわけでも蔑むわけでもなく、ただ残念そうに見つめている。アヤノはその視線に耐え切れずに顔を背けた。エイタが視線からアヤノを守るように踏み出して口を開く。
「これで分かったでしょう。あなた方と僕らは違う。正義は僕らだ」
リョウが反抗の口を開きかけて博士が制するように手を伸ばした。これ以上の問答は無意味と悟ったのだろう。
「私達は私達のやり方でヘキサを倒す。ディルファンスには邪魔だてして欲しくない」
「これは博士。僕らを支援してくれるのではないのですか?」
エイタが皮肉を口にすると、博士は眉間に暗い皺を刻んで吐き捨てるように口にした。
「君達は間違っている。私達は、君達とは歩まない。正義など、知った事か」
それは初めて見る表情だった。いつも温和な博士が怒りを露にしていた。リョウが前に出て、エイタと睨み合う。真っ直ぐな光を宿した瞳が眩しく、アヤノは直視出来なかった。
「退けよ。俺達はその先に用があるんだ」
静かな怒りを灯した口調に、エイタは鼻を鳴らして道を譲った。三人が通り抜ける瞬間にもエイタはずっと手を握ってくれていた。三人ともアヤノとエイタを見ようともせず、一路どこかへと急いで駆けていった。その後姿を眺めていると、エイタが言葉を発した。
「下らないな。仲間意識など」
エイタに手を引かれ、アヤノは歩き出した。その背中にもう一度問いかけてみたい気がした。本当に自分は必要なのか、と。だが、言葉にする勇気もなく、アヤノはエイタに連れられるまま、リョウ達とは正反対の道を行った。