第六章 二十四節「武神」
リョウを先頭に、五人はタリハホテルを目指し、一路走っていた。
全員が先程から黙りこくっている。残したナツキの事が心配なのだろう。先程、上がった爆発は何だったのか。位置と方向からナツキのいた場所だと分かったが引き返せばナツキの心を踏みにじる事になる。リョウはタリハホテルを見やった。街の中心地にあるビル郡の一つのはずだ。民宿のようにポケモントレーナーを優遇するのではなく、富裕層のためにあるようなホテルだと聞く。大通りを走っているにも関わらず、車が一台も行き交わないのはやはり異常事態だということを嫌でも教えてくれる。市民は全員、騙されて人間爆弾なのだ。車など通るはずもない。リョウは通りの先を見据えて、口を開いた。
「あの路地を右に曲がればタリハホテルだ。曲がった瞬間に奇襲があるかもしれない。全員、モンスターボールに手をかけておけよ」
「誰に物を言っている」
サキが尊大に返した。この時ばかりはサキの傲慢さが逆にありがたかった。肩越しに見やると、フランは聞こえているのかいないのか、伏し目がちに走っている。目の前で人間が爆発して、平気な人間などいるはずがない。
――ディルファンスも人の子、か。
今更な思考に蓋をして、再び前を向こうとした、その時である。先程までいなかった人影があった。緑色の着物に二メートルはある長身の男だ。ぼさぼさの蓬髪と髭は「武人」という言葉を想起させた。遠目にも異様と分かる格好に全員が気づいたようだった。リョウが目で後ろの四人に合図をする。
自分が引き付けるから、その間に行け、と指示したつもりだった。だが、サキがどうした事か前に出てきた。「おい、サキ」と呼び止めても聞く耳を持たないかのように、サキは先行し、男の前で立ち止まった。
「貴殿、何者か」
重々しい声だった。ようやく追いついた全員がその声を聞き、どこか薄ら寒さを覚えた。リョウは、今のがこの時代の人間の声か? と思ったほどだ。遠い昔に忘れ去った根源的恐怖が突然目の前に形を帯びてやってきたようだった。
「サキだ」
簡潔にサキが応じる。男は「ふむ」と神妙に頷いて、言葉を発した。
「我が名はゲイン。ヘキサ戦闘部隊幹部である」
その言葉に全員に緊張が走った。立て続けに幹部と遭遇するとは思わなかった。見たところ、周囲に怪しい影はない。この男一人か、と考えたリョウの思考に冷たい水を差し込むように、ゲインは口を開く。
「安心せよ。相手はそれがし一人のみ」
リョウは自分の行動が見られていると思わなかったため、少なからず驚いた。この男はともすればここにいる全員の挙動を視界に入れているのか。ゲインが懐からモンスターボールを取り出す。ゆっくりとした行動で、隙をついてやり過ごすことが出来そうな気もしたが、一方でこの男からは戦う以外に方法はないのではないか、とリョウは思った。
「相手は誰か。何人で来ようとも構わぬ」
その重苦しい言葉に、声を詰まらせているとサキがそんなものは感じていないとでも言うように口を開いた。
「私が相手になる」
サキの言葉に博士は目を見開いた。リョウはサキの肩へと掴みかかる。
「待てよ! 勝手に決めんな。俺がやる。いや、全員でかかれば何とかなるかもしれ――」
「何ともならない。それぐらい、分かるだろう」
遮って放たれた声に、リョウは言葉をなくした。確かに何とかなるというのは気休めだ。現に自分はゲイン一人に恐れに似た感情を抱いている。リョウは伏し目がちに返した。
「……何ともならないにしても、お前を戦わせるのは博士に申し訳ねぇだろうが」
「私とてポケモントレーナーだ。お父さん」
サキが肩越しに博士を見やった。博士は何を言うべきか分からないのか、口を開きかけて噤んだ。
「私がやる。わがままかもしれないけど、お願いだから先に行って」
迷い無く放たれた言葉に、博士はどう返していいのかも判然としないのか、何度か言いかけては意味のない吐息を漏らしてから、一言だけ搾り出した。
「死ぬんじゃないぞ。サキ」
「当たり前。私は必ず戻ってくる」
サキは朗らかな笑みを博士に投げかけた。博士も少し笑って頷いたが、その心境が穏やかなはずが無かった。ようやく真実を見せ、本当の意味で親子になれたというのにこの別れはあんまりだった。
「……俺も残る」
口にした言葉にサキは「駄目だ」とぴしゃりと返した。
「何でだよ。俺だって戦いに来たんだ」
「リョウはルイを救いにきたはずだ。余計な消耗は減らしたほうがいい」
「余計って……!」
肩を強く掴むが、サキは振り返りもしない。やると決めたものの背中だった。それ以上言葉をかける事は躊躇われた。自分が言ったはずだ。仲間を助ける余裕などないと。ナツキにあんな言い方をしておいて、本当のところで割り切れていないのは自分なのだ。
リョウはゆっくりと肩から手を離して、「サキ」と声をかけた。それでもサキは振り返らなかった。
「これは貸しにしておく。返しに来い」
リョウは全員を引き連れて、走り出した。ゲインの横を通り抜けるが、ゲインは視線一つ向けなかった。振り返ると、サキの横に人影があった。それを見て、リョウは呟いた。
「あいつらは、やっぱり二人か」
支えあえる人がいる。それだけで人間は強くなれる。ならば、自分は大切な人のために戦うべきだ。サキの言葉を背に受けて、リョウは博士とフランを引き連れこの混乱を沈める唯一の道へと走った。地を踏みしめる足に迷いは無かった。
「馬鹿マコ。何で残った」
後ろで不安そうな面持ちのマコへとサキは声をかけた。マコは少しの逡巡の後、口を開いた。
「だって、サキちゃんを一人にしたくないんだもん。私達はだって――」
「知ってるよ。親友だろ」
遮って放った言葉に、自分でも覚えず顔が赤くなったのを感じた。マコにそんな顔を見せるわけにはいかない。サキは振り返らなかった。ホルスターのボールに手をやりながら、目の前の男――ゲインへと視線を向ける。
威圧感を覚えないわけではなかった。しかし、リョウにはリョウの目的がある。ここでポケモンを失えば、全ての希望が潰えてしまう。ルイを無力化し、この空中要塞をカントー到達までに止める。それが果たせなければ敗北なのだ。ならば、リョウには行かせたほうがいい。自分が行っても恐らくはルイを止める事など出来ない。たとえ元は同じ人間だったとしても。いや、逆に同じ人間だからこそ分かり合えないかもしれない。
サキは思考を巡らせていた頭を中断し、ゲインを見据えた。やはり何かが今までのロケット団員や先程の幹部とは違う。何が、という事を明言化することは出来なかった。挑発してやる事も、馬鹿にしてやる事も出来ない。
――こいつは、何だ?
その時、出し抜けにゲインが低く笑い始めた。陰鬱な笑みというわけでもなければ、高飛車なわけでもない。どこから笑い声が出ているのか分からない。全く腹を探れない人間だった。
「それがしが何なのか。それがしは語る口を持たぬ。故に貴殿の疑問に応ずる事など出来ぬ」
全てを見透かしているようだった。滅多な事では怯えないサキだったが、この男だけははかり知れない。心を読まれているのか。だとすれば、これからの勝負に不利ではないか。最初のように全員でいけばもしかしたら、と考えかけて頭を振った。自分でやると決めたのは自分だ。仲間のためにも全うしなければならない。
サキはホルスターからボールを引き抜いた。背後のマコへと言葉を発する。
「マコ。お前も抜いておけ。奴は一人で全員を相手にしてもいいと言ったんだ。複数のポケモンを所持している可能性が――」
「それはない」
遮った低い声が、ぞくりと冷水のように差し込んだ。ゲインは先程懐から取り出したモンスターボールを掲げ、
「これがそれがしの手持ち。ただ一匹よ」
サキは俄かには信じられなかった。たった一匹で先程、六人を相手取るつもりだったということになる。どんなポケモントレーナーであれ、それは無謀だ。もしかしたら、一挙一動全てはったりなのかもしれない。混乱させるだけさせて、幹部とは名ばかりの弱いトレーナーの可能性はある。ならば、とサキは鼻を鳴らして高圧的になった。
「一匹で相手とは嘗めてくれる。まぁ、いい。私達も一匹ずつしか持っていないからな。ちょうどいいハンデだ」
その言葉にゲインは何も返さなかった。全てがはったりであると思えば、これほど弱そうに見える相手もいない。
サキはボールを放り投げた。サキの真横の地面でボールがバウンドし、中から光に包まれた人型のシルエットが飛び出す。積層構造の外骨格に、水蟷螂のようなシルエット。カブトプスだ。マコもボールを投げた。ただし前に、である。馬鹿か、と言いたくなったが我慢した。ボールが割れ、中から巨大な猛禽の特徴を持つポケモンが飛び出す。赤と青の羽根に、白い鬣のような羽毛。攻撃的な鉤爪と嘴を持っている。勇猛ポケモンと称されるウォーグルだ。
「さぁ、私達はポケモンを出した。お前はどうなんだ?」
ゲインは暫く黙した後に、フッと口元を歪めた。
「それがしは幸運だ」
「何だと?」
サキが苛立ちを含んだ口調で返すと、ゲインは不恰好ながらも笑っているようだった。
「よき相手と巡り会えた。一対一が理想だが、全力を尽くそう!」
ゲインはモンスターボールを頭上へと放り投げた。空中でカチリと音が聞こえ、光に包まれたポケモンが出てくる、はずだった。だが、サキやマコのようにトレーナーの横に侍るのではない。光は膨れ上がり、中型のビルと同程度の高さになった。腕を振るい、光を振り払う。
そこにいたのは焦げ茶色の体表を持つポケモンだった。紫色の血管が肩などに浮かび上がっており、筋骨隆々としたその姿は格闘タイプのそれだった。鼻は丸く、ダンゴ鼻だがまるで拳法の老師のように威厳のある顔立ちをしている。足は短いが両腕は長く、両手でコンクリートの柱を握っていた。このポケモンこそ、人間にコンクリートの製法を教えたといわれる格闘タイプのポケモンであり、ドッコラーと呼ばれるポケモンの二段進化形態である。その名は――、
「……ローブシン」
重い声でゲインが名を呼ぶと、ローブシンは鳴き声を返した。これが普通のローブシンならば、威圧などされない。だが、このローブシンは異常なほど巨体だった。ビルとほとんど同じ高さのポケモンなどいるだろうか。握っているコンクリートを地面に叩きつけるたびに、地震の如く揺れた。
マコは威圧されているようで呆然とローブシンの巨体を眺めている。サキは振り返らずに声をかけた。
「マコ。集中を切らすな。こいつは、私達のポケモンの天敵だ」
その言葉にマコがハッとしてサキに目をやる。ゲインはローブシンの後方から手を振り翳し、叫んだ。
「ゲイン。ローブシン。推して参る!」
ローブシンが地鳴りを起こしながら動く。サキは嫌な汗が首筋を伝うのを感じた。