ポケットモンスターHEXA - グッバイ・マイ・リトルデイズ
第六章 二十三節「Evolve」
 フレアは不意に手を上に翳した。

 雨が降ってきた気がしたのだ。気のせいか、と思っていると雨脚は瞬時に早まり、すぐに豪雨と化した。フレアは頭を掻きながら「マジかよぉ」と呻いた。

「傘持ってねぇっての。コルドの奴、やったのか? 連絡の一つも寄越さねぇ。敵を倒せば各員に連絡が行くシステムになっているはずだろ。どうなってんだよ、キシベの狸が。なぁ、嬢ちゃんもそう思うよな」

 フレアが目を向けた先にはエンブオーがいた。この雨でも炎は健在であり、先程よりも燃え盛っている。その太い手の中に、金色の痩躯があった。ライボルトだった。血まみれで、青い電流が体表を走るものの、それは操っているわけではなく、生理現象として出ているだけに見えた。エンブオーが鋭い視線を向ける。その視線の向こうに、ナツキがいた。呆然と立ち竦んでいる。ナツキの背後のビルの壁面には、ダイノーズが傾いで瓦礫に埋まっていた。ナツキは今の戦いを反芻する。

 一瞬であった。

 素早さの高いライボルトで背後を取り、真正面からダイノーズで逃げ場をなくし、二体の電磁砲で一気に決めるつもりだった。だが、エンブオーは予想以上の反応速度で動き、ライボルトを滅多打ちにした。ダイノーズの電磁砲もまるで背中に目があるかのように、軽々と避けられた。ダイノーズは元々、岩・鋼タイプだ。格闘のタイプを持つエンブオー相手には弱く、一撃でビルまで吹き飛ばされた。

 生半可な育て方をしているつもりはなかった。ライボルトもダイノーズも充分主力級である。だというのに、たった一体のポケモンを前に成す術も無い。エンブオーの炎の髭がさらに燃え上がり、翼のように広がる。雨でも攻撃の威力が半減するようには全く見えない。

 ――このままじゃ……!

 その思惟がライボルトに伝わったのか、鬣が三つに割れライボルトが目をカッと開いた。突然、手の中のライボルトが動き出したものだからエンブオーは狼狽するはず。その隙をつくつもりだった。

「ライボルト! 雷!」

 エンブオーの頭上に黒雲が立ち込める。エンブオーがそれに気づいて見上げた瞬間、鼓膜を割るような雷鳴と共に光が弾け、エンブオーへと直撃した。ライボルトの特性は「ひらいしん」だ。電気攻撃を受けてもダメージはない。足元のアスファルトまで衝撃で割れたのか、砂煙がもうもうと立っている。

「ダイノーズ。動ける?」

 その言葉に瓦礫の中からゆっくりとダイノーズが頭を出した。チビノーズを展開し、電磁浮遊で瓦礫を浮かせたかと思うとナツキの傍まで近づいてきた。ナツキはダイノーズの体表にそっと触れる。ダメージは深刻だが、まだ動ける。ならば、最後の最後まで諦めるべきではない。ナツキは指を三本立てた。チビノーズがダイノーズから分離し、先程の瓦礫へと浮遊しながら向かう。三つのチビノーズは瓦礫へと頭を埋めた。すると、チビノーズの頭部に氷柱のような針が出来た。チビノーズは二回ほど瓦礫を身体に吸い付けて、ダイノーズの下へと帰って来た。チビノーズは今、それ自体が凶器のような鋭い形状になっていた。チビノーズが頭部をエンブオーがいるであろう砂煙の中に向ける。その瞬間、ナツキは叫んだ。

「ダイノーズ、ストーンエッジ!」

 電流の糸を引きながら、チビノーズが空間を奔る。これが「ストーンエッジ」である。岩タイプの技だが命中率が低い。今の攻撃も二発は外れるかもしれない。だが、一発でも当たれば、とナツキは考えていた。

 チビノーズが螺旋の軌道を描きながらエンブオーへと吸い込まれるように向かい、その鋭い頭部を突き出した。

 その時、砂煙から太い腕が突き出し、ストーンエッジを受け止めた。しかし、もう一発のストーンエッジは止められない。晴れた砂煙の中から顔を出したエンブオーの額へと、その棘は突き刺さった。エンブオーが僅かに仰け反る。

「やった?」

 思わず出た声に、ナツキは一歩、足を踏み出した。今ならば勝てるかもしれない。そう思い、ライボルトに指示を出そうとした。その時、耳にこびりつく声が聞こえてきた。

「今のは、そこそこだったぜ。嬢ちゃんよぉ」

 砂煙が完全に晴れた向こう側に、フレアがエンブオーと同じように顔を仰け反らせていた。首の角度を戻し、徐々に前を向く。その瞬間、ナツキは息を呑んだ。エンブオーがダメージを受けた箇所と全く同じ、フレアは額から血を流していた。鼻を伝って口元に至った血を、フレアは舐め取った。

「だがよぉ、オレのエンブオー倒したきゃもっといい技使うんだな。こんなんじゃよ、蚊が刺したほうがマシだぜ」

 フレアが手の甲で額の血を拭った。それと同時にエンブオーが両手に握ったチビノーズへと力を込める。みしりと嫌な音が響き、脳裏を過ぎる予感にナツキは叫びかけた。

「やめて――」

「やれよ、エンブオー」

 その言葉の直後、エンブオーはチビノーズを握り潰した。青い欠片がエンブオーの指の間からぱらぱらと落ちる。破砕されたチビノーズの残骸を投げ捨て、エンブオーは顔を正面に向けた。額に突き刺さったストーンエッジを抜き、今度は拳で固めて地面に叩きつけた。チビノーズが元の形状など思い出せないほどに破壊される。ナツキは耐えられずに目を覆った。チビノーズとてダイノーズの身体の一部だ。それはつまり、ダイノーズへのダメージになる。チビノーズの磁気を失い、棒立ちになったダイノーズをフレアが見据え、にたりと口元に笑みを浮かべた。

「隙だらけじゃねぇか。エンブオー、やっちまえ」

 エンブオーが炎を纏った一歩を踏み出す。その音に気づいて顔を上げた瞬間には、もうエンブオーはダイノーズへと肉迫していた。回避の指示も攻撃の指示も咄嗟に喉からは出ず、ただ無意味に手を伸ばした。

 エンブオーの鋭さを伴った拳がダイノーズの身体に突き刺さる。鼻を中心として同心円状に衝撃が広がったかと思うと、皹が入り、ダイノーズが白目をむく。ナツキが叫ぶ前に、ダイノーズの巨体が吹き飛ばされた。ビルの壁面へとぶち当たり、ビルが揺れて砂埃が起こった。真正面から格闘タイプの拳を受け止めたせいか、ダイノーズの身体がボロボロと崩れていた。着弾点から煙が上がっている。戦闘不能なのは火を見るまでも無く明らかだった。ナツキはすぐにボールを取り出し、ダイノーズに向けた。赤い粒子となったダイノーズがボールへと吸い込まれる。これでダメージがこれ以上進行する事はない。エンブオーはストーンエッジの傷など痛くも痒くもないとでも言うように、鋭い眼差しをナツキに向けている。ナツキは慄くように目を見開きながらも、思惟をライボルトに飛ばす。ライボルトはストーンエッジを受け止める時に手離したのだろう。倒れ伏しているが、まだ動ける事が感覚で伝わってくる。ナツキは胸の前で手を握り締め、あたかも怯えているように振舞った。エンブオーが威圧するかのように一歩、近づく。

 ライボルトの体表で青い電子が跳ね、口腔内に電流の弾丸として溜まってゆく。エンブオーが腕を振り上げる。その瞬間、ナツキはたじろぐ眼を攻撃の眼差しへと変えた。

 それを合図としたようにライボルトが起き上がり、鬣を三つに割った。口腔内から電磁砲が空気中の微弱電流すら奪いながら直進する。エンブオーは背中を向けている。この巨躯では思うように動けないはず。ライボルトの攻撃スピードについて来られない。ナツキがそう確信した、直後、エンブオーは不意に振り返った。まるでライボルトが攻撃する瞬間が見えていたかのように、迷い無く腕を突き出す。電磁砲がエンブオーの掌の中で弾けた。電流の弾丸からのたうつ青い光が周囲に放たれ、アスファルトを焼き、切り裂いていく。エンブオーが一声鳴いた。その瞬間、肘から指先へと炎が血脈のように迸り、エンブオーの腕を炎の鎧が覆った。電流の跳ねる音と青い光が瞬く。それを上塗りするように赤い炎が燃え盛り、ついには電磁砲を呑み込んだ。直後、一度だけ強く明滅したかと思うと、もう青い光は消えていた。エンブオーがナツキへと振り返る。先程まで電磁砲を受け止めていた手は固く握られている。完全に防がれた、と頭が認識した瞬間、エンブオーが身体を沈めた。何をするのか、と思う間もなく、エンブオーはその短い足からは想像できないほどの跳躍力で後方へと飛び上がった。その着地点にはライボルトがいる。上空から迫る影に、ナツキは叫んだ。

「ライボルト、逃げて!」

「エンブオー。ヒートスタンプだ」

 エンブオーの足から腹までを炎が包み込む。ライボルトが反応する前に、隕石のように赤く輝くエンブオーの全体重がライボルトに圧し掛かった。コンクリートが割れ、ライボルトの身体が沈み込む。ナツキは思わず手で口を覆った。「ヒートスタンプ」は重ければ重いほどダメージが上昇する炎タイプの技だ。

 エンブオーはゆっくりと身体から炎を掻き消し、もう一度、跳躍した。また爪先から腹までを炎が纏いつく。ナツキはボールを突き出して、ライボルトに向けた。赤い光がボールから伸びる。膨れ上がる炎の瀑布が、ライボルトへと落下する。
エンブオーの足が地面にめり込み、道路に亀裂を生じさせた。亀裂から血飛沫のように炎が舞い上がる。エンブオーは着地点へと視線を向ける。そこには、何もいなかった。

 ナツキは肩を上下させながら突き出したボールを見やる。赤い粒子がボール中心のボタンから僅かに舞っていた。ボールを内側に向ける。透かすとライボルトの姿が見えた。フレアが舌打ちを漏らす。

「殺し損ねたか」

 フレアが蒼い瞳に殺気を滾らせながら、ナツキを見据える。エンブオーも同じ色の眼だった。四つの眼が、戦いの悦楽に浸る狂気を映し出している。

「……何、なの」

 呟いた声にフレアは肩を竦めた。

「何なのか気になるのはこっちのほうだぜ、嬢ちゃん。ただのガキかと思ったら、今のは何だ? ライボルトに一度も視線を向けずに攻撃の指示を出したな。熟練したトレーナーでもなかなか出来るもんじゃねぇ。それにさっきから妙なんだよ。ざわざわするぜ、嬢ちゃんの周囲はよ。まるで見えない網でもあるみたいだ」

 ナツキは目を見開いて一歩退いた。全て見破られているのか。ポケモンに思惟を飛ばすナツキの能力を。それにナツキも同じように妙な感覚を覚えていた。エンブオーの動きがあまりにも鋭い。ポケモンと同じ箇所に傷を負う。反応速度が尋常ではない。全て、自分とカメックスの時と同じではないか。鏡と相対しているように感じられ、ナツキはまた一歩退いた。

「怯えてんのか? まぁ、いいぜ。存分に怯えろよ。オレはお前を殺さなきゃならねぇ。怯えてくれたほうが、最高のスパイスになるってもんよ」

 フレアが口角を吊り上げた。エンブオーがゆっくりと歩み寄ってくる。ナツキは拳を握り締めた。もうオニドリルとカメックスしかいない。オニドリルはこの空中要塞から脱出するために必要だ。瀕死状態でも秘伝技が使えるとはいえ、この場ではそれで済まないだろう。恐らく、中途半端な実力では殺されてしまう。ナツキはカメックスのボールへと触れた。カメックスの鼓動が伝わってくる。水タイプのカメックスならばこの戦いを有利に進めることが出来るかもしれない。

 だが、制御出来るのか? その問いが鎌首をもたげる。今の自分に覚悟はあるのか。チアキを変えた覚悟と、ヘキサを打倒して救うと決めた覚悟が。宙ぶらりんな覚悟ではカメックスは制御できない獣と化してしまう。迷いは捨てたはずだ。フレアを倒すと決めたのは自分自身。だが、恐れを抱いている。その恐れは一滴の黒い雫のように心の中で広がってゆく。

 今のままでは呑まれる。感じた恐怖が震えとなって、ボールに伸ばしかけた手を彷徨わせる。

「なんだぁ? さっきよりもお前の周囲の網が揺らいでいるぜ。今なら、簡単に殺せそうだ」

 フレアの声に弾かれたようにエンブオーが直進する。アスファルトを踏み砕き、喉をひりつかせる炎が迫る。ナツキは動こうとしたが、足が鉛のように重たかった。エンブオーが腕を後方へと引く。素早く避ける事もかなわず、エンブオーが振るった拳がナツキの眼に大写しになり、次の瞬間、今まで感じた事のない衝撃が身体を嬲った。身体が浮き上がり、紙くずのように道路を滑ってナツキは先程ダイノーズが飛ばされたビルの近くまで転がった。

 肋骨から肺へと鋭角的な痛みが走り、呼吸が出来なくなる。何度も咳き込んだが、その度に心臓を握り潰されるような痛みが内側から貫いた。視界が白みかける。意識が遠のき、神経が遊離する。

 ――……これが、ポケモンの技。

 今まで自分はこれほどの痛みをポケモン達に背負わせてきたのか。知ってもなお、これからもポケモン達に痛みを押し付けられるのか。ナツキは薄れゆく意識の中、カメックスのボールへと手を伸ばそうとした。今、カメックスに謝りたかった。カメックスだけではない。自分の手持ちポケモン全てに。痛みを背負わせてすまなかったと。

 だが、カメックスのボールがなく、伸ばした手は空を切った。ハッと目を見開き、周囲を見渡す。ぶれる視界の中、カメックスのボールが転がっていた。ナツキのいる場所からは三メートルほど遠い。そちら側へと身体を向けようとして、内側からせり上がってくるものを感じて、ナツキは下を向いて咳き込んだ。当てていた掌に血が滲んでいた。内臓がどこかやられたのか。血を吐いたのは初めてだった。それだけで意識が飛びそうになる。だが、最後の一線で踏ん張った。

「……ボールを、取らな、きゃ。……カメックス、の」

 途切れ途切れに言葉を発して、地を這う虫のようにゆっくりと前進しようとする。その度に、痛みで全てが消え行こうとする。

 その時、カメックスのボールの向こう側に何かが立ちはだかった。視点を上げると、エンブオーが髭を燃え立たせながら立っていた。ナツキとカメックスのボールまでの距離はまだほとんど縮まっていない。しかし、エンブオーは今にもボールを踏み潰せる距離だった。

「エンブオー。不戦勝は趣味じゃねぇが、嬢ちゃんのためだ。諦めさせろ」

 フレアの言葉に、エンブオーは足を上げた。「やめて」というナツキの声は蚊が鳴くよりも小さく、猛ったエンブオーの雄叫びに掻き消された。

 ボールをエンブオーの足が踏みしだく。アスファルトが捲れ上がった。ボールの表面に皹が入る。エンブオーが全体重をかけようとする。ピシリとボールが割れかける。ナツキは手を伸ばした。だが、まるで届かない。意識も閉じようとしていた。このままでは、と思っても身体が動かない。ナツキは瞼を閉じた。闇が自身を覆いつくす。充分にやった。フレアを足止めしただけでも成果だ。皆ならばヘキサを止める事が出来る。そう信じて、意識が掻き消えようとした。

 ――それでいいの?

 瞬間、心の奥底で波紋のように声が響き渡った。誰の声だ、と闇の中で目を凝らす。人影が揺らめいたかと思うと、逆光が照らした。そこにいたのはかつての自分自身だった。赤い、トレーナー然とした姿だ。かつての自分はナツキを指差す。ナツキの服はヨシノから貰ったものだった。

 ――そこにあるのは、ヨシノさん達の覚悟でもある。それを着ている間は、諦める事なんて許されない。最後まで、意地汚くても戦い抜く。それが私の覚悟じゃなかったの? こんなところで終わるんじゃない。もっと先の、未来のための戦い。それが今の戦いでしょう? 今、足踏みをしている場合じゃない。

 言葉が心へと染み込んでくる。だが、身体が動かない身で何が出来よう。ナツキが首を横に振ると、かつてのナツキは言った。

 ――恐れる事なんてない。カメックスは全てを分かってくれている。だから、カメックスを信じてあげて。私の気持ちが強ければ強いほど、カメックスは応えてくれる。たとえ、どんな逆境でも。

 ナツキは自分の鏡像へと手を伸ばした。しかし、自分は光の向こう側へと消えていく。それが完全に消え行く間際、明瞭な声がナツキの中に響いた。

 ――私はかつての私。戻るんじゃない。私はもう変わっているの。それを解き放つかは、あなた次第。

 光が包み込み、闇の境界線を浮き彫りにした。瞬間、ナツキは目を開いた。現実の視界がそれに連動し、踏み潰されかけているボールを見据える。

「……カメックスが、信じてくれるなら、私はそれ以上にカメックスを信じる。ポケモンの信頼に応える。それがポケモントレーナーだから」

 ナツキは手を伸ばした。感知野がカメックスのボールへと拡張した意識の手を伸ばす。いつものようにボールを握る動作をすると、拡張した意識の手も同じように動いた。

「……変わるんじゃない。私は――」

 エンブオーが足を上げ、今度こそ踏み潰そうと足裏に炎が纏いつく。それが振り下ろされる瞬間、ナツキは全身を声にした。

「私は、もう変わっている!」

 その時、エンブオーの足元で光が弾けた。ボールの切れ目から刃のように光が射し、エンブオーの眼を刺激する。一瞬の、躊躇を浮かべたエンブオーにフレアは怒声を放った。

「何をしている! エンブオー! 早く潰しちまえ!」

 その声にもう一度、踏みつけようとエンブオーが足を上げるが、その時にはナツキの意識の手がボールを完全に掴んでいた。意識の手でボールを力いっぱい握る。内部の鼓動が拡張されて聞こえてくる。その鼓動が伝える。

 ――戦う、と。

 その意志に応えるようにナツキは叫んだ。

「いけっ、カメックス!」

 ボールが内部からの光によって砕け、光に包まれた巨躯がエンブオーを押し出した。バランスを崩しかけたエンブオーがたたらを踏む。その隙を逃さず、光の中から水の砲弾が放たれた。エンブオーが咄嗟に腕を交差させて防御の姿勢を取るが、空気を割る音すら響かせる砲弾にエンブオーは大きく後退した。フレアとエンブオーの眼が同時に攻撃してきた存在を見る。

 積層構造の甲羅と、そこから突き出した二門の砲身。全身が筋肉で包まれているかのような頑強さを思わせる姿。丸太のような腕の先には三本の爪。全身を漆黒で包んだその姿は見た者を威圧させる貫禄があった。鋭い双眸がエンブオーを射る。覚えず、エンブオーは一歩退いていた。

「……カメックス」

 フレアが口にしたその名前に、カメックスは咆哮した。フレアからしてみれば、その一声で空気がちりちりと焼けるように感じられた。

 ナツキは立ち上がらなかったが、その眼は真っ直ぐにフレアとエンブオーを見据えていた。眼に宿る決意の光がカメックスと共鳴している。

「……何だ? この嫌な感じは。さっきまでとまるで違う。てんでバラバラだった網がまるでカメックスに集約されているみたいじゃねぇか。どうなってやがる。まさか、お前も月の石を――」

 見るがナツキの眼もカメックスの眼も、蒼くなどない。月の石を使わずに自分以上のシンクロを成し遂げている事に、フレアは戦慄した。

「カメックス。私、信じる」

 ナツキが口にした言葉をカメックスは振り返りもせず、黙って聞いていた。その戦士の背中が頼もしく、ナツキは安心して言葉にする事が出来た。

「カメックスを。そして私自身を。私も背負うよ。私のポケモンの痛みを」

 カメックスが前傾姿勢で雄叫びを上げた。カメックスの思いが伝わってくる。まるで血肉のようにカメックスを自分と同じ位置に感じる。ナツキは目を閉じて言った。

「行くよ。カメックス」

 カメックスはその言葉に応じるように一声鳴き、腕と脚の隙間から蒸気を噴出した。浮遊してすぐに腕と脚を仕舞いこみ、頭部と砲身も甲羅の中に収めると勢いを増した蒸気がその身を回転させ始める。蒸気の尾を引きながら、カメックスの身体が高速回転しエンブオーへと一直線に向かった。

「嘗めるな! カメックス程度で!」

 エンブオーが踏み出し、両手を前に突き出した。指の間から炎が上がり、両腕へと鎧のように装着された。

「見えてんだよ! その動き全てがな!」

 高速回転する甲羅がエンブオーの目前へと迫る。エンブオーは二の腕に力を込めた。だが、次の瞬間、水色の光が走ったかと思うとエンブオーと繋がったフレアの視界がぶれた。どうなっているのか。エンブオーの視界と直結したフレアの視界の隅に、回転するカメックスの尾の部分から水の尻尾が出ているのが映った。その尻尾が甲羅に纏いつき、鞭のようにエンブオーの顔面を打ったのだ。

「……アクアテール、だと。くそが!」

 その名を忌々しく口にする。エンブオーが腕を振るい落とし、カメックスを叩き落そうとするが、その前にカメックスの甲羅から砲身が飛び出した。片方だけである。砲身から空気が発射され、カメックスの回転する軌道が変わった。「アクアテール」で僅かに傾いだカメックスが、縦回転になりエンブオーの顎へと刃のように回転する甲羅が打ちつけた。

 エンブオーがよろめき後ずさる。首を振り、エンブオーはカメックスを探そうと周囲を見渡した。頭上を見上げた瞬間、カメックスが曇天を背に空中で四肢を展開させ、真っ直ぐに落下してくるのが視界に映った。片手が凍結し、冷気を放っている。それがあっという間に大写しになったかと思うと、エンブオーの脳天に雷撃のように叩き込まれた。エンブオーから電流のような痛覚が逆流し、フレアは叫び声を上げた。エンブオーが腕を振るってカメックスを掴もうとする。カメックスは砲身をエンブオーに向けた。それを蒼い眼に捉えた直後、エンブオーの胴体に二発の水の砲弾が撃ち込まれた。エンブオーは大きく後退し、ビル壁面間際で片手をついて制動をかけた。

 カメックスは「ハイドロポンプ」を撃った衝撃を利用して、エンブオーと距離を取って着地した。エンブオーは肩を上下させ、荒々しい息をついていた。それはフレアも同様であった。先程まで動きが読めていた敵だというのに、急に動きが読めなくなった。それはフレアの自尊心を傷つけるには充分だった。

「……ふざけるなよ、ガキが。爆発させて滅茶苦茶の死体にしてやるよ!」

 フレアが手を振るう。すると、小さくなっていたフワンテが一斉にエンブオーの前に寄り集まった。小さいとはいえ、集まれば大した数である。エンブオーの姿が隠れるほどに密集したフワンテがそれぞれ大きな渦を描きながら、エンブオーの身体へと鎧のように吸い付いた。

「エンブオーに直接攻撃すれば爆発するぜ。エンブオーにも多少のダメージはあるが、ここまでコケにされて黙っていられるかよ。お前は必ずここで殺す。最後の技だ、エンブオー!」

 エンブオーの炎の髭が一際燃え盛り、まるで翼のように伸びたかと思うと、全身から炎が迸った。フワンテは一瞬浮かび上がって炎を避けると、また吸着した。炎が押さえつけられるが、フワンテ自体が赤く発光する。

「今にも爆発しそうだぜ。お前は道連れだ。爆発の腕に抱かれて死ね! エンブオー、フレアドライブ!」

 エンブオーが雄叫びを上げ、髭を翼のようにはためかせて浮き上がった。背中のフワンテを強い炎で爆発させ、推進剤のように使ってエンブオーが突進する。エンブオーの身体に張り付いているフワンテはカメックスに少しでも当たれば爆発しそうなほどに膨れ上がり、赤くなっていた。エンブオーが腕を広げる。

 カメックスはナツキと共に、それを見つめていた。直接攻撃できないのならば間接攻撃で叩けばいい。だが、ハイドロポンプ程度ではフワンテを盾にされてしまうだろう。

「――なら」

 ナツキは指鉄砲を構えた。エンブオーが巨大な火球のように向かってくる。成功するかどうかは分からない。一度憎しみに駆られて失敗した技だ。しかし、今は違う。憎しみでも、憧れでも、一方的な正義でも悪でもない。強い意志の力で、憎しみの炎を貫く。

「カメックス」

 呼ぶと、カメックスは両手を広げて砲身を突き出し後ろに体重を預けた。すると、カメックスの砲の前で空気中の水分やカメックス自体から放出される水分が固まって渦をなすではないか。みるみるうちに、巨大な螺旋を描く水流となり、削岩機の先端のように尖っている。高速で回転し、螺旋の水流が巨大化していく。

 エンブオーが獣の叫びを上げる。フレアの憎しみを増幅させ、今やどす黒い炎が燻る爆弾と化した哀れなポケモン。清き水の心で断ち切る。否定ではない。肯定した上で、その先は心で決める。その心を体現した水の螺旋。エンブオーの狂気に沈んだ蒼い眼を見た上で、ナツキは叫ぶ。

「――放て! ハイドロカノン!」

 水の螺旋――「ハイドロカノン」が両砲門から空気をねじ込んで放たれる。水タイプの究極の技であり、最初の三体しか覚えられない特別な技だ。

 直線上の水分を全て奪い取り、さらに勢いを増した螺旋の水流がエンブオーの身体に突き刺さった。二つの螺旋が一つの螺旋となり、巨大な力のうねりとなってエンブオーの身体を押し返した。エンブオーと繋がったフレアの眼にはそれが光の奔流に見えた。その一瞬の光を掴む間もなく、闇の奈落へと落ちていく感覚と共にエンブオーの身体はビルの壁面に激突した。砂煙がもうもうと上がり、その中で赤い光が二三度瞬いた。

 刹那、爆光が牡丹の花の如く咲き、誘爆を何度も起こしてたちまちビルを飲み込む巨大な火柱となった。

 轟、と空気が鳴動し瓦礫の崩れ落ちる音が幾重にも響き渡る。

 火炎がビルの面積を根こそぎ奪い取り、一瞬にして一つのビルが紅蓮の中に消えた。

 立ちのぼる煙と塵が喉を刺激する。

 ナツキは指鉄砲を下ろし、息をついた。カメックスは暫く攻撃の反動で動けない。カメックスとナツキは爆発と砂煙を見つめていた。

 フレアの姿は見当たらなかった。

 ビルに押し潰されたのか、それともショック死したのか。分からないが、ナツキはここで一つ痛みを背負ったという事だけは確かだった。自分の意志を貫くためとはいえ、人を殺した。これまでのようではいられない。悪人でも命は等価だ。それをチアキや、仲間達から教わった。ナツキはふらつきながらも立ち上がった。カメックスに火を消すように命じると、カメックスは砲門から水を出して緩やかに火を鎮めていった。カメックスも何かしらを思っているようだったが、そこまで立ち入った事をする必要は無かった。言わなくても、探らなくても判る。カメックスもまた痛みを背負ったのだ。

 ビルの爆発跡地には巨大な穴が開いていた。地面が捲れ上がり、ビルの下にあった空中要塞の表層が溶けている。穴の下は奈落が広がっていた。ナツキはカメックスに手をついて、静かに言った。

「行こう、カメックス。チアキさんを救うため。そして、ヘキサを倒すために」

 カメックスは首肯を返すと、身体を沈めた。乗れということらしいと理解したナツキはカメックスの背中に乗った。カメックスが脚の付け根から蒸気を噴き出し、二人は静かに闇の口へと落ちていった。


オンドゥル大使 ( 2013/03/11(月) 21:26 )