第三十三話:誰を信じればいいの?
仄暗い空の下。月明かりすらない灰色の大地で私が目にしたものは驚愕の光景だった。目を見開き、口を小さく開けて絶句する。目を背けようとしても目の前の現実に引き戻されてしまった。異変に気付いたカズキが続いて視線を上げると、同じように目を見開いた。
「こ、これって……!」
空を見ても月はおろか星すら見えない。これは自然の要因が重なることで、起こる場合もあるだろう。しかし、“岩が宙に浮いている”なんてことが自然に起こり得るだろうか?
岩だけではない。朽ちた木の破片や建物の残骸など、大小様々な物体が宙に浮いたまま静止している。さらに周りをよく見てみれば、森の木々はみずみずしさをなくし、地面からも暖かさは感じられない。すべてが空と同じ、灰色と化している。色が、暖かさが、みずみずしさが、一切ない。
「こ、これが、未来の世界なの?随分と不思議なところだけど……」
風すらも吹いていない不気味な世界はカズキの不安を助長させるには十分な威力を持っていた。
私はこの光景に似たものを見たことがある。私達がいた世界で初めてジュプトルと出会った場所――地底の湖。そこに眠る時の歯車が奪われた途端、湖は水に跳ねた水滴すら空中で制止する、すべての時が止まった灰色の空間と化した。
「これじゃあまるで、すべての動きが――」
――止まっている。時の歯車が盗られた時と同じように、木も、岩も、大地も、すべての動きが止まり、灰色と化している。それが辺り一面を覆い尽くしているのだ。
なぜ?なぜ未来では時が止まっている?時の歯車はしっかりと守り通し、守護者達が元の場所へと返したはずなのに!
「……!どうやら追いつかれたようです」
ピクリと耳を立てたウィンが微かな音を拾った。耳を澄ませてみると、開け放たれた扉の奥から掛け声のような声が聞こえる。あの掛け声は確か、処刑場のヤミラミ達が言っていたものだったはず。まだ距離はありそうだが、このまま留まればじきに追いつかれるだろう。
「早く逃げよう!」
「で、でも、レイさんがまだ……」
サンの提案を即座に行動に起こしたいのはやまやまだが、体を張って逃がしてくれたライチュウの姿がまだ見えない。後で合流しようと約束したのに、逃げ道が見つからずに中で迷っているのだろうか?だとしたら、レイ一匹に対して処刑人のヤミラミ達が集団で襲い掛かることになる。そんなことになったらいくらレイでも逃げ切れるかどうか……。
「う、ぐっ……い、いや、今は逃げるのが先だよ!レイ兄なら大丈夫!」
「今は信じるしかありませんね」
しかし、今戻ればせっかく助けてくれたレイの努力を無駄にすることにもなる。心配だが、今はレイを信じて逃げることを選択した。扉の方へ向けた足を必死に翻し、逃げ道を確保するために先陣を切るサン。自分の兄の安否が知れない状況で、それでも逃げなければならないというのはサンにとってつらい選択だっただろう。しかし、使命を果たすためにも、レイのためにも、未練を断ち切って走り出した。
「行きましょう!」
「は、はい!」
「わかった!」
「はぁはぁ……ね、ねぇ、僕もう疲れたよ……」
「いったん休みましょうか」
しばらく走り続けていたが、さすがに体力の限界というものがある。当初はヤミラミ達に追いつかれまいと無理して走り続けていたが、次第にスピードが落ちてふらふらになっていくカズキを見て一度休憩を挟むことになった。
発見されにくいよう適当な岩陰に身を隠し、乱れた呼吸を整える。息も絶え絶えな私とカズキと比べてウィンとサンはまだまだ余裕の様子。いったいその小さな体のどこにそんな体力があるのだろうか。
「少し休んだらすぐに出発するからね!」
「う、うん……」
早く逃げなければならないという焦りからかサンの声は少し荒々しい。いや、焦りというよりは不安を無理やり押し殺しているかのような悲痛な表情だ。おそらく、レイを置いてきてしまったことを後悔しているのだろう。サンにとってレイは、仲間であると同時に家族なのだから。自分のせいではないとしても、あそこで逃げる判断は正しかったのか、助けに行くべきではなかったのか。そんな後悔から逃げるためにも、がむしゃらに走り続けたかったのかもしれない。
「ん?あれは……」
ふと、何かに気付いたサンが空を見上げる。岩陰から少し顔を出して覗いてみると、灰色の空に似つかわしくない黄色い閃光が花のように弾けていた。まるで花火のような閃光は何発も空に上がり、灰色の世界をわずかに明るく照らす。あの方向は確か、処刑場の方角だったはず。
「よかった!レイ兄、無事だったんだ!」
「え?」
ほっと胸を撫でおろしたサンは、それに応えるように空に電撃の花火を上げる。
レイが無事だった。サンの言った言葉はとても喜ばしいことだが、なぜそんなことがわかるのだろうか?
サンが何発かの花火を上げると、処刑場の花火は一本の矢のように空に軌跡を描き、遠方の森へと向かい消えていった。
「あれはレイさんとサンがお互いの位置を確認するときに使う合図なんですよ」
「そうなんだ」
不思議そうにサンを見つめる私を見かねて、花火の用途を教えてくれるウィン。なるほど、確かに今みたいに離れた状況なら便利そうだ。でも、あの花火がレイのものだとしたら敵に気付かれる可能性もあるんじゃないだろうか?暗がりばかりのこの世界ならかなり目立つだろうに。……まあ、それはこっちも同じことなんだけどさ。ヤミラミ達に見られてないことを祈る。
「レイ兄はジュプトルと一緒に別ルートで行くみたいだね。ぼく達も早く行こ!」
「え?今、ジュプトルと一緒って言った?」
サンの言葉にピクリと反応するカズキ。その表情は驚きに満ちて、信じられないといった様子だった。
ジュプトルは時の歯車を盗み、星の停止を起こそうとした大悪党。助ける道理など微塵もなかったのに、ヨノワールや守護者達が苦労して捕まえたジュプトルをなぜ助けたのか。ヨノワールを敬愛するカズキにとって、レイがジュプトルを助けたことは納得ができなかった。
「何で助けたのさ!?あいつは悪いやつなんだよ!?」
「……じゃあ聞くけど、ジュプトルが悪いやつで、あのヨノワールがいいやつなの?ジュプトルと一緒にヒナタとカズキまで消そうとしてたあのヨノワールが?」
「うっ……」
それに対し、サンは静かな口調で冷静に返す。処刑場で私達は柱に縛られ、危うく殺されるところだった。その時、ヨノワールは私達を助けるどころか、執行人であるヤミラミに命令をしていた。わざわざ“三匹の”と強調して。誤って私達まで縛りつけたわけでなく、明らかに殺意を持ってジュプトルもろとも消そうとしていた。あの時のヨノワールは、とてもいいポケモンには見えなかった。
とっさに反論できなかったカズキだが、それでもヨノワールへの尊敬の念が強いのかなんとか言い返そうと口を動かす。憧れていた、信頼していた、だからこそ肩を持ちたいと思う。そんなカズキを見て、サンは小さく息を吐いた。
「……そんなに信じたくないならもういいよ。ぼくとレイ兄だけでジュプトルを手伝えばいい話だ」
「サン……」
「じゃあ、ぼくは先に行くからね。ウィン、ヒナタ達のことよろしく」
「ま、待って!」
身を翻して駆けだそうとするサンを見て私はとっさに引き留めた。帰れるかもわからないような場所で、しかも追われている身で、仲間割れなんてしてる場合ではない。一匹になればそれだけ捕まるリスクも高まる。だから、サンが離れることは避けたかった。
しかし、サンもカズキも自分の考えを信じ切っているのか一歩も引かない。私がどちらかに賛同して話を終わらせようとしても結果は変わらないだろう。むしろ、もっと状況が悪くなる可能性がある。
「い、今は辺りが暗くて見通しも悪いわ。動くにしても、朝になるのを待った方がいいんじゃないかしら?」
「――朝は、来ないよ」
「えっ……」
それでもなんとか引き留めようと苦し紛れの言い訳を考えたが、サンは一拍の呼吸の後、真剣な表情でそれを返した。朝は来ない――それがどういうことなのか、私は灰色の空を見上げてハッとする。
「この未来は暗黒の世界。日が昇ることはないし、したがって朝も来ない。ずっと暗いままだよ……」
「ど、どうして?」
「それは、“星が停止している”から」
嫌な予感は的中するものだ。宙に浮かぶ岩を見て、色をなくした灰色の世界を見て、薄々感づいてはいた。この世界が今、どうなっているのか。
以前、ヨノワールが星の停止について説明していたことがある。星の停止が起こった世界は、風も吹かず、昼も来ないし、春も夏も来ない。例えるならそう――暗黒の世界。世界の破滅といっても過言ではないと言っていた。
「星の停止って……確かにヨノワールさんの説明と同じ感じだけど、ほ、本当に未来では星が停止しているの……?」
「これは全部ジュプトルが言ってたことだからね。信じたくないなら信じなくてもいいよ」
今度こそ先に行くよ。そう言い残してサンはこの場を去っていく。衝撃の事実を知らされて、カズキはもちろん私も止める気力すら失っていた。
俄かには信じがたい。いや、信じたくないと言った方がいいだろうか。私達は今までヨノワールの話を信じて、命がけで時の歯車を守り、ジュプトルを捕まえた。星の停止は防がれたはずだった。なのに、実際には星の停止が起こってしまっている。一体どういうことなのか、理解できなかった。
「ヒナタ。僕、もう何が何だかわからなくなってきたよ……」
「カズキ……」
「星の停止は時の歯車が無くなることで起きるんだったよね?だから僕達は時の歯車が盗まれるのを防ごうとして、それは成功したはずよね?」
「ええ……」
「取り返した時の歯車はユクシー達が元の場所に戻すって言っていたし、星の停止は防いだはずなんだ。――なのに、どうして未来では星が停止しているんだろう?あぁ、もう何を信じていいのかわからなくなってきたよ……」
ヨノワールを信じ、それに向かって真っすぐ突き進んできた。しかし、信じた未来は砂漠に映る蜃気楼のように消えてしまった。寄る辺を失い、道がかき消され、信じるものをなくした。今のカズキは何が本当で何が嘘なのか、単純な質疑にすら答えられないほどに不安定になっていた。
「ヤミラミ達が来ます。つらいかもしれませんが、急いで出発しましょう」
極限の精神状態の中、無情にも迫る追手の声。気遣ってくれるウィンに大丈夫とお礼を言って準備する。おそらく先程の花火の影響だろう。とんでもない置き土産をしてくれたものだと、サンに対してわずかに憤りを感じた。
ショックが大きいであろうカズキの背中をそっと撫でて、ゆっくりと立ち上がらせる。いつものような笑顔はそこにはない。糸のように細い目は表情を読みにくいが、同じチームとして常に一緒に行動してきた私には手に取るようにわかる。それでも今は、素人目で見ても一目でわかるほどに落ち込んでいることがわかるだろう。
「カズキ、今は逃げましょう。大丈夫、私がついてるから」
「……うん」
迫りくる追手、帰れないかもしれないということへの不安、そして、衝撃の真実。何もかもが最悪の条件下で、私は今にも胸が張り裂けそうだった。でも、ここでくじけちゃいけない。ここで捕まってしまったら何もかもが終わってしまう。私は、カズキと一緒に元の世界に帰るんだから!
宙に浮く岩々、眼下に広がる奈落、そして、我を失ったポケモン達。星が停止しているとはいえ、私達のいた世界と同様、不思議のダンジョンは襲ってくるポケモン達が絶えなかった。育った環境の影響か、強敵揃いのダンジョンに何度も苦戦を強いられながらも協力し合い、どうにか洞窟を抜ける。まるで空間がねじ曲がっているかのような不思議な洞窟は、名付けるとするなら“空間の洞窟”だろうか。
「だいぶヤミラミ達を引き離したかな……?」
「カズキ、無理しないでね?」
「う、うん。はぁ、はぁ……少し休もうか」
道中、先陣を切ってくれたウィンを押し退けて前に出たカズキは襲ってくるポケモン達を次々と倒していった。普段なら考えられない光景だが、それも不安を取り除くための、云わば防衛本能。忘れることはできないけど、せめて少しの間だけでも記憶の片隅に押しやりたい。そんな思いが無茶な行動をさせる。
バッグから取り出したオレンの実をカズキに渡し、手近な岩へと腰を下ろす。探検に行く際は念入りに準備してから出かけるが、今回はこんな事態を想定してなかったため持ち物は少ない。オレンの実があっただけでも運が良かったと言える。食料もそこまで残っているわけではないし、この装備でどこまで逃げられるか……。
「あっ、あそこに水がある!」
せめて食料だけでも現地で確保できないか。そう思っていた矢先にカズキが水を発見したと騒ぎ立てる。指さした方向には小さな滝があった。――ただし、流れすら固まった灰色の滝だ。水飛沫は跳ねたまま空中で静止し、とても飲めるような状態ではない。
「やっぱり、未来では時が止まっているのかな……」
立ち止まってしまったことで、今まで考えないようにしていたことが次々と思い起こされてしまう。時が止まっている、周りの状況を見れば一目瞭然だが、いまだに信じられない。ここが未来の世界だなんて、信じたくはない。
「ヨノワールさんはなんで僕達を連れてきたんだろう?あんなに親切だったヨノワールさんが……」
「カズキ……」
カズキのヨノワールに対する敬愛は相当のもの。難解な探検を次々と成功させ、彗星の探検家として名を馳せたヨノワール。いつかはあんな探検家になりたいと目を輝かせていたのを覚えている。ヨノワールが悪者だと聞かされてもなおさん付けをしているのは、それほど尊敬の念が強いからだろう。
「せめて、真実を解く手がかりがあれば……。ウィンは何か知らない?」
「いえ、残念ながら。僕がレイさんから聞いたのは、ジュプトルが過去へ渡ったのは星の停止を起こすためではない、ということくらいです」
「そっか……」
「お役に立てず申し訳ありません……」
ウィンが話してくれたのは概ねサンの考えと同じ。なぜ、未来では星の停止が起きてしまっているのか。この答えを導くためには、今まで考えてきたことの根底を覆さなくてはならない。カズキはヨノワールに対する尊敬が強くて信じ切っている。ヨノワールが正しいという先入観を捨てない限り、今の状況を理解することはできない。
「他に方法は……そうだ、いい方法がある!」
「え?」
「“時空の叫び”だよ!ヒナタなら時空の叫びで何かわかるかもしれないよ!」
真実を知るためのもう一つの方法としてカズキが挙げたのは私の能力を使うこと。なるほど、確かに時空の叫びは触れたものの過去や未来が見える。この固まってしまった滝に触れれば、星の停止が起こった原因を見ることができるかもしれない。やってみる価値は十分にある。
「わかった、やってみる」
私は滝に近づき、そっと水飛沫に触れる。時空の叫びは確かに便利な能力だが、いかんせん任意で発動するのが難しい。どうやったらうまくできるのかはわからないが、とにかく目を閉じて集中してみる。――しかし、数分が経過しても何も見えることはなかった。発動の予兆であるめまいすら起こらないところを見ると、ここでは時空の叫びは使えないのかもしれない。
「だ、だめかぁ……いい方法だと思ったんだけど」
「肝心な時に……ごめんなさいカズキ」
「い、いいんだよ!ヒナタは悪くないよ?」
首を横に振る私にカズキはがっくりと肩を落とした。今まで何度も助けてくれた時空の叫び。スリープの時も、滝壺の洞窟の時も、水晶の湖の時も、重要な局面で答えを見せてくれたのにこんな時に限って発動しないなんて。期待してくれたカズキを裏切るようで胸が痛んだ。
「ありがとうカズキ。――だいぶ時間が経っちゃったわね。ヤミラミ達に追いつかれないうちに早く行きましょう」
なるべくカズキにはつらそうな表情は見せたくない。私が不安なのと同じようにカズキだって不安なのだ。つらいからといってカズキに心配をかけるようなことはしたくない。自然と早足になる歩みを気取られないように抑えつつ、暗闇が続く丘へと歩き出した。
進む道は次第に険しくなり、比例して歩く速度は遅くなっていく。十分な休息もできないまま連続でダンジョンに挑んでいるのだから当然と言えば当然のことかもしれない。星明りもない“暗闇の丘”を登りきった頃にはへとへとの状態だった。
「お二方とも、一度ここで休憩しましょう」
「え、でも……」
「無理をして先を急いで倒れでもしたら大変ですから。僕が見張りをしていますので、少しでも休んでください」
見かねたウィンが再び休憩を申し出ると、答えを待たずに後方が見える位置に陣取った。どうしようか迷ったが、疲れているのは事実。ウィンの言う通り少しでも休んでおくべきか。
でも、疲れているのはウィンだって同じはず。道中、何度か危ない場面もあったがその度に助けてくれたし、道具だって自分は大丈夫だと受け取らない。身を削ってでも私やカズキを守ろうとしてくれている。頼ってばかりではいけないが、今は自分達のことだけでも精一杯の状況。見張り役を買って出てくれたウィンに申し訳ないと思うと同時に、強く感謝した。
「ねぇ、ヒナタ」
「なに?」
深呼吸をして呼吸を整え、地面に座り込む。だいぶ登ってきたこともあって眼下には灰色の大地を一望できた。小さな光が点々と見えるのは、ポケモン達が住んでいる場所だろうか?その一つに、処刑場の場所と思われる明かりも見えて少し複雑だった。
少し落ち着いたところでカズキが口を開く。私と同じように丘の下の景色を見ていたカズキの表情はポーカーフェイス。まるで感情が抜け落ちてしまったかのような表情を見てぎょっとした。
「ヨノワールさんは今まで僕達を助けてくれたし、色々なことを教えてくれた。だから、ヨノワールさんのことをはすごく尊敬してた」
「……………」
「でも……ヨノワールさんは僕達のこと、騙してたのかなぁ……。こうなった今でも信じられないよ……」
表情とは裏腹にカズキの心は揺れていた。ヨノワールのことを信じたいと思えば思うほど、騙されていたんじゃないかという疑念が強くなる。信じたいけど信じられない。そんな矛盾を心に秘めて、何のために逃げているのかという目的すら失いかけた。
何を信じていいのか、頭の中で様々な思念が交錯し、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。頭を抱えてうつむくカズキの目にきらりと光る雫がにじんだ。
「僕達、これからどうすればいいんだろう?いったいどこまで逃げればいいんだろう?元の世界に帰れるのかなぁ……」
「か、カズキ……」
「ギルドのみんなはどうしてるだろう?みんな、元気にしてるのかな……?僕達のこと、心配してくれたり、してるの、かな……」
プクリンに、ペラップに、ビッパ達に――ギルドのみんなに会いたい……!
悲痛な叫びは涙となって頬を伝う。一度流れ出てしまえば抑えは利かなくなり、堰を切ったようにあふれ出した。あまりに悲愴で、哀愁漂うその姿にちくりと胸が痛んだ。
カズキが参るのも無理もない。これまでに見聞きし、体験したことはとても信じられないようなことばかりだったから。かく言う私も何を信じていいのかわからないし、不安でいっぱいだ。――でも、だからこそここで頑張らなくてはならない。諦めたらすべてが終わってしまう。なんとかしてカズキを元気づけないと。
「(こんな時、なんて言えばいいんだろう?単純に慰めるだけじゃ、逆効果になりかねないし……)」
カズキは今とても不安定になっている。現実を受け入れられなくて、目的すら見失っているような状態だ。そんなカズキを勇気づけるには……そう、何か突破口があればいい。何か光が見えればそれに向かって頑張っていける。でも、こんな状況でそんな光が見えるだろうか?
何か一つでいい。真実を知り、元の世界に帰るために……今の私達には何ができるのか、何をすべきなのか――考えるんだ。
「……カズキ」
「ん……?どうしたのヒナタ?」
「カズキ。ジュプトルと……ジュプトルと合流しましょう」
「えっ!?」
考えて、考えて……考え抜いた結論はこれだった。ジュプトルを悪者だと思っているカズキにこんなことを言うのは酷かもしれない。でも、今の状況で光となり得るのはジュプトルしかいないと思った。
「ど、どうして!?」
「聞きたいことがある」
「聞きたいことって……そっか。元々ジュプトルはここから僕達の世界へ行ったんだもんね。ジュプトルなら、僕達の世界に行く方法も知ってるはずだもんね……」
どういうわけか、ヨノワールが敵に回ってしまった以上、頼れるとしたらジュプトルしかいない。元の世界に帰るためにはジュプトルと合流し、帰る手段を聞き出す必要がある。ジュプトルが悪者にせよ善者にせよ、今すべきことはこれではないだろうか。
「でも、ジュプトルは悪いやつだよ!?あいつは時の歯車を盗むために僕達の世界に来た。そんなやつの言うことなんか、信用できないよ!」
「カズキ……」
「……ヒナタはどうなの?ジュプトルのこと、信用、してるの?」
「……………」
信用しているか、か。私はジュプトルのことをどう思っているのだろう?地底の湖で会った時はリーフブレードで斬られ、水晶の湖の時もボロボロになるまで戦った。でも、私はそれを乗り越えてここにいる。それはなぜか?――ジュプトルが手加減してくれたから。
ジュプトルがルナティックのように殺しも厭わないような残虐なポケモンだったら、私はとっくに命を落としているだろう。私だけじゃない。ジュプトルに関わったポケモンは怪我こそすれど、命まで取られた者はいない。気絶させられただけだ。だからといってそれが許されるというわけではないが、ジュプトルはジュプトルなりに傷つけないように努力をしていたのかもしれない。
「(……何を言ってるんだろう、私)」
気づけばジュプトルのことを庇う解釈ばかりが浮かぶ。誰がどう見たってジュプトルが悪いように見えるのに。なぜかはわからないけど、ジュプトルの声、動き、洞察力、それらすべてがつい先程見聞きしたかのように鮮明に思い出せる。これはなんだろう?私はジュプトルの何を知ってるんだろう?この光景は――何?
「(……!?ここは!?)」
俯いて目を閉じ、答えを探していた私は気づけば真っ暗な空間にいた。空を、地を、どこを見ても闇一色。先程までいた灰色の世界をより深く染めたかのような深淵。自分の姿すら見えない漆黒は、まるで水中にいるかのように動きを制限し、身動きすることができない。
助けて!そう叫んだはずなのに音は聞こえない。それどころか、私の視覚、聴覚、嗅覚、触覚――それすらも漆黒に支配されていく。
「(これは、あの時の……)」
前にもこんな場所に来た気がする。その時は夢の中だっただろうか?真っ白な空間が黒く塗りつぶされ、誰かが私の名前を呼んでいる。そんな夢。この場所はその時の塗りつぶされた後の空間に似ている。
霞んでいく視界の中、私の目の前に現れたのは半透明でゆらゆらと揺らぐ人型の物体。シルエットでしか特徴を捉えることはできなかったが、その姿は細身の女性のように見えた。口角を釣り上げてニィッと笑うその女性は、動けない私を見て嘲笑っているようにも見える。
「(……ああ、そうか。ここは、私の……)」
ようやく理解した。ここは私の心の中――私の心が不安でいっぱいだから真っ暗なんだと。これは誰だろう?心に住まう魔物か何か?それとも人間だった時の私?ようやく理解できたところで、しかし今更どうでもいいと感じてしまった。
私は弱い。力もないし、せっかく特別な力を持っていても扱いきれない。だからこんな世界に来てしまう。弱い自分が心までも染めていく。仲間を守れず、簡単な問いにすら答えられない私が存在している価値なんて、もう――
『諦めるな!!』
「!?」
一喝。その言葉が響くと同時に漆黒は消え去り、元の灰色の世界へと戻ってきていた。今の声は、いったい……?
いくら周りを見渡してもそこには灰色の大地が広がっている。さっきまでの漆黒に比べればまだ安心できる未来世界。突如きょろきょろと視線をさまよわせる私を見て、カズキは不思議そうに首を傾げた。
「あの声は……」
私を闇の桎梏から救ってくれたあの声。低く、落ち着きのある声色。若干の威圧感を含み、しかし頼りがいのある男性の声。どこか懐かしさを感じるあの声は――あの声の主は……!
「ジュプトル……?」
「ヒナタ?」
なぜあんな光景が見えたのかはわからない。でも、あの声を聞いたとき、私の心の不安は自然と取り除かれていった。黒の世界に差す一筋の光。例え世界が暗闇に包まれても勇気を与えてくれる安心感。あの世界が私の心の中だとしたら、どうしてかはわからないけど、私はジュプトルに対して特別な感情を持っているようだ。
「私は……信じるよ」
「えっ?」
「ジュプトルを信用してるかどうかと言われたら、それは違うのかもしれない。でも、私は何を“信じるべきか”じゃなくて、何を“信じたいか”だと思う」
何が真実なのか、それを確かめる術は今はない。しかし、私はジュプトルを信じてみたいと思った。信じたいものをただひたすらに、自分の信じた道を進んでいれば、それは自ずと真実になる。そんな気がする。
「カズキは、どう思う?」
「……僕は、信用なんかできない。あんな悪いやつのことなんか絶対に……!」
それでもカズキは頑なにジュプトルを否定する。私がジュプトルを信じたいと思ったのと同じように、カズキもまたヨノワールのことを信じたいのだ。しかしカズキはその後、「でも……」と続けた。
「でも……ヒナタの言ってることもわかるよ。ヨノワールさんはなぜか僕達を狙ってる。となると、この未来で他に過去に戻る方法を知ってるのは、ジュプトルしかいないもんね……」
「ええ……」
「――うん、わかったよヒナタ。ジュプトルを追いかけよう!ジュプトルに会って、元の世界に帰る方法を聞き出そう!」
「カズキ!」
カズキの顔に笑顔が戻る。満面の笑みとまではいかないけれど、この世界に来てからようやくカズキの笑顔を見れた気がする。自然と私の頬も緩む。カズキの笑顔を見ていると、私も元気が出てくるよ。
「行こう、ヒナタ!ジュプトルに会いに!」
「ええ!」
力強く立ち上がったカズキは今までの疲れが嘘のように軽快な動きを見せてくれた。はしゃぎすぎると後でバテちゃうよ?今なら冗談を言う余裕さえある。普段のリリーフが戻ってきた。
早速出発だとウィンを呼びに行こうとした時、カズキは私を呼び止めた。なんだろうと振り返ると、涙でわずかに赤くなった目でじっと私を見つめていた。
「ヒナタ、ありがとう」
「え?」
「僕に元気がないから、心配してくれたんだよね?ヒナタだって不安でいっぱいのはずなのに、ごめん」
せっかく止まったはずの涙が再び頬を伝う。しかし、先程までの哀愁漂う姿ではなく、進むべき道を見つけ希望を掴んだ表情。
救われたのはこちらも同じこと。カズキがいなかったら、私はここまで逃げることはできなかった。カズキがいてくれたから、一緒に元の世界に帰りたいと思ったし、突破口を見つけることもできた。お礼を言うなら、私の方だよ……。
「一番大切な友達が近くにいるのに、僕は一匹で悩んで、くじけて、諦めそうになってしまった。――ほんとは一匹じゃないのにね」
「カズキ……」
「僕、もう諦めないよ。ヒナタがそばにいると、僕は勇気が出てくるんだから!もう大丈夫。必ず一緒に、元の世界に帰ろう!」
「――ええ、もちろん!」
必ず一緒に元の世界へと帰る。誓いを胸に暗闇の世界を見晴るかした。苦手な暗闇だって、カズキと一緒なら怖くない。私がカズキに勇気を与えているように、私もカズキに勇気をもらっているのだから。この先何が起ころうとも、乗り越えられる。そんな気がした。