Seirene
さざ波の拍に声を乗せ 奏でる調べは愛の唄
眠れよ眠れ海原に 包むは母の慈しみ
唱えるは遠き日々の子守歌 奏でるは岩に打ちつく波の音
淡い月明かりの中、入り江の奥でラプラスは歌う。透明な声は鈴の音のように夜の海に響き、波の音に溶けていく。
そのラプラスはラルといった。
どのくらいこうして歌い続けてきたのだろう。メロディーを奏でつつ、ラルはふと考える。
毎日欠かさずこの歌を、主の聴かせてくれた子守歌を、月の下で口ずさむ。それは一体何時から?
数週間前のような気もするし、何年も前からのような気もする。長い間独りでいて時間の感覚はとうに狂っていた。
共にいるのは朽ち果てた船の残骸だけ。小舟達には穴が開き、舷は折れ、とても乗れる状態ではない。船の墓場、もし人間がここを訪れたならばそう表現するだろう。
その中でラルはただ歌を歌い続ける。紡ぐ詞(ことば)は大いなる母。すべてを包み込む安らぎの歌。
来る日も来る日もラルは海の向こうに主がいると願い信じそして歌う。
出来るなら、一刻も早く主に会いたい。
けれどそれは叶わない。
周囲の乱流は船の命を奪いそしてここへ流される。生物とて同様だった。激しく白波を立てるあの潮に巻き込まれたなら、おそらく無事では済まない。
どうすることも出来ず、ラルはただ唄い続ける。
主と過ごした思い出を。主とまた会える祈祷を。
ラルの声が夜の海に響きわたる。
潮風が旋律を遠く遠くへ運んでいく――
この海域にはセイレーンが住んでいる、いつしかそんな噂が流れていた。
鈴の音の唄が聞こえたら気をつけろ。たちまち波に誘われ沈んでしまう。奴が奏でるのは舟の鎮魂歌だ。決して耳を傾けてはいけない。さもなければセイレーンの餌食となる。
海を渡る者達はそう戒めていた。
セイレーンの話は地方を旅するトレーナー達を通じて、各地に広められる。
渚のセイレーンに気をつけろ、と。
実際はラルが唄っているところに死を迎えた舟が流されてくるのだが、人々はそんなこと知らない。
同様にセイレーンの噂が広がっていることなど、ラルは全く知らなかった。
唱えるは愛する者への届歌 拍の音は当てない己の迷い足
太陽の照らす草原を、レファはただ西へ向かって歩く。
明確な目的地があるわけではない。
求めるは愛する者の居場所。幼い頃から同じ時を過ごし、離れ離れになることはないと互いに信じていた。けれど彼女は今、手の届く場所にいない。どこにいるのかさえ分からない。
歌を聴かせることも出来ず、海の二人旅も叶わない。
なぜこんなことになったのだろう。
ふとレファは思う。
ふたりを裂くきっかけは、ほんの一瞬の出来事だった。
何ヶ月前のことだろうか。いやすでに一年は経っているのかもしれない。ただただ彼女を探し続け、はぐれたのはいつだったか。もう覚えていない。
レファとラルはジョウトの海旅を続けていた。
ふたりで歌い、時には輪唱を時には和音の形を取る。ジャンルも気分によってまちまちだった。
金に煌めく太陽の下では陽気なポップを、優しく照らす月の下では穏やかなセレナーデを。
歌を耳にしたポケモン達は、ふたりの周りに集まり共に音を楽しんだ。
たったふたりの旅でもレファといるなら、ラルと歌うなら、寂しいなんてことは一度も感じたことはなかった。
けれどある日のことだった。
その日もふたりはいつものように唄を奏でていた。ただ気になるのは空模様が不安定なことと、潮の流れが違うこと。それでもレファとラルは変わらず口ずさむ。
あ――
ラルの体が大きく傾く。
その反動でレファはラルの甲羅から投げ出され、背中から海へ落下する。
「どうした――」
問うより早く、視覚が状況を理解する。
渦があった。
けれどこの辺りにはそんなものなかったはず。まさか、
「渦巻き島……」
海の神の気まぐれか、それともただの不幸か。知らずのうちに流されていたようだった。
渦巻き島。アサギとタンバの間に存在する列島で、最深部ではルギアが静かに眠っているとされている。しかし訪れようとする者はほとんどいない。島の周りに点在する渦潮が来訪者を拒む。空も気流が不安定でプロの飛行士でもこの空域は避けて通る。それでも神に会おうと向かった猛者のうち無事帰ってきたという話は聞かない。
なのでレファ達も離れて渡ろうとしていたのだった。
しかし流されてしまったものは仕方がない。今は一刻も早く退避することが優先事項だ。
「ラル!」
腕をかきラルの元まで泳ごうとする。が、服が肌に張り付き思うように動かない。変に空気が入り気持ち悪い。
「待ってろ、今行く!」
この距離ではラルをモンスターボールに戻すことも出来ない。あと少し、少しだけラルに近づければ。
けれどラルは必死に首を振る。このままでは主人まで渦に巻き込まれてしまう、だから主人だけでも安全なところへ逃げて、と言うように。
そんなこと認められるか。
ラルの訴えを無視し、レファは腕をかき続ける。けれどラルの姿は遠くなって行くばかり。
いつしか雨が降り出し強風が吹きつける。視界は不良、もうラルの姿がはっきりと見えない。
「おい、ラ――」
ル、言葉は波にかき消される。
横殴りの波に飲み込まれ、レファは白波に沈む。
(離れ離れになるなんて絶対に嫌だ。お前もそうだろ、ラル!)
荒波の中レファは必死に手を伸ばす。
けれどその手につかむものは――何もなかった。
その後レファの身に何があったのかはよく覚えていない。
気がつけばレファは浜辺に打ち上げられていた。幸いどこにも怪我はなく、体力が回復次第すぐにラルを求めて探し歩いた。手がかりは一切なく、"海辺"という条件だけを頼りにレファはひたすら足を進める。
全く情報を得られぬまま数週間が経ち数ヶ月が経ち、そしてとうとう一年が過ぎてしまった。
表情にも歩みにも諦めの色が見え始めた頃、食事処でこんな噂を耳にした。
西の海にはセイレーンがいる。美しい歌声で通りかかる者を誘い沈め、朽ちた舟に向けて鎮魂歌を捧げるらしい。
助かった漁師が言うには、セイレーンは歌声で渦を操り雷雲を呼び、一瞬にして舟と船員の命を奪ってゆく。そして一瞬だがラプラスの影を見た、と。
歌、渦、雷雲、ラプラス……。
男の言葉がレファの中で反響する。
特に根拠があったわけではない。ただレファの直感が、これは無視してはいけないと騒いでいた。
他に頼る当てもない。レファは男の隣に腰掛けると、詳しく話すように頼んだ。
男によると、そのセイレーンはアサギから南へ遠く行った場所にいるらしい。滅多に人は立ち入らず、確証はなかなか持てないが――
そこまで聞くと、レファはお礼もそこそこに飛び出した。
アサギの南へ。それだけを頼りにそして力の源に、レファはひたすら駆ける。
拍の音は――しっかりと刻まれていた。
海に始まり 海で会い 海で別れ 海で去ぬ
母は全てを 慈愛する
そんな歌が風に乗って運ばれてくる。
声色は、忘れもしない透き通ったもの。
言の葉は、共に奏でた母のもの。
片影は――
「ラル!」
捜し求めた愛しきもの。
人の手の入らない藪をかき分けレファは彼女の名を呼ぶ。倒木を越え枝を避け草むらを抜ける。
そして、
歌が止んだ。
歌の主、セイレーンは振り返り目を見開く。視界に写るものが信じられないというように。そしてそれはレファも同じだった。互いに何も言わず、ただ茫然と視線を交差させる。
先に動いたのはラルだった。
ヒレをかき、体の半分を陸に上げる。鈴の声で主人の名を叫ぶ。
それを合図にレファは駆け出し――ラルの首に抱きついた。くぅんと甘えた声を出し、ラルはレファの体重を受け止める。
「やっと……やっと会えた、ラル!」
嗚咽から声を絞り出し、やがて言葉は泣き声に変わっていく。
重ねるようにラルがしゃくり声を上げ、夜の海に二重奏が響き渡る。
観客はひとりもいない。
けれどそれは何よりも美しく幸せに満ちた演奏だった。
唄うは再会の喜び 彩るはふたりの滴