後編
ついに千年が経った。
見晴らし台から、地平線まで続く花畑を眺めつつ、私は彼の目覚めを待っていた。
この景色を見たらどんな顔をするだろうか。
目の前に広がる光景は、ずっと何も変わっていない。
花畑はもちろん、中央を流れる川、柱だけになった建造物、全てがそのままだった。
そして空が藍に近づく頃、地面が眩く光り始めた。主の墓の隣、ジラーチが眠った場所だ。
そこから紫色の結晶が浮かび上がる。まるで千年前の逆再生のようだ。
結晶から小さな体が姿を現し、うっすらと目を開ける。すぐに私を見つけると、ふわふわと舞い降りてくる。寝ぼけ眼をこすり、鼻のすぐ先で彼は言った。
「おはよう」
「……………………」
話したい事が山ほどあるというのに、声が出てこない。
なぜだか胸が一杯になり、瞳に滴が溜まっていく。
気が付くと私はジラーチに飛びついていた。
「え? わっ!」
驚きの声を上げるが構わない。自分でもどうしようもなかった。
「やっと……やっと会えた。……ジラーチ」
「……うん、またキミと会えて嬉しいよ。約束守ってくれたんだね。ありがとう」
ジラーチが耳と耳の間をそっと撫でる。いつか主がそうしてくれたように。
私は彼を抱き、感情に任せて涙を流し続けていた。
五百年溜まり続けた思いは、今やっと溶け出すことが出来たのだった。
ようやく心が落ち着き、礼を言いジラーチから離れる。
「そっか、ずっとここにいてくれたんだね。でも、どうして?」
「最初は主がいる場所から離れたくなかった。だが段々とここでの生活も悪くないと思うようになってな」
「どんな事があったか聞いてもいい?」
「もちろんだ、約束だからな。私が過ごした千年間、全て覚えている。長くなるぞ」
「当然。全部聞くって言ったからね」
見晴らし台に二匹並んで座り、満天の星が目に映る。
横を見れば、いつでもどうぞとジラーチがこちらに視線を向けていた。
「よし、ではまずは――」
こうして昔話が始まった。
夏の夜は短い。まだ小一時間程度のつもりだったが、気付けば空が白み始めていた。
しかし、話の方も短かった。覚えている限りの事を伝えたはずなのに、もう終わりが近づいている。
「――そして、人間たちがここを襲ったんだ」
「え……? それでどうなったの」
「奴らは辺り一面を燃やし、皆殺されるか人間に捕まっていったよ」
「……その後は?」
「見ての通りだ」
二匹で視線を花畑に移す。顔を出した陽の光が川や露に反射し、視界を幻想的に染め上げる。
「そっか……」
その後ジラーチは何も聞いてこなかった。私の方もどう続けようか迷い、お互いに黙り込む。
先に口を開いたのはジラーチだった。
「そうだ、何か願い事はない? 三つ好きな事を叶えてあげられるよ」
「願い事な……。しばらく時間をくれないか。すぐにという訳ではないのだろ?」
「うん、ボクが起きている間ならいつでも」
決まっているが今はまだ言い出せない。もう少しだけ夢を見ていたい。
「そういえば……お前は自分自身の願いを叶えられないのか?」
「ボクの?」
「ああ。何かあるだろ?」
「えっと……」
不意を突かれたように、ジラーチが戸惑う。
「ボクの願い事はボクの力では叶えられないんだ。誰かのを聞くのがボクだから。それに、そんなこと考えたことなかったよ」
「もし叶うとしたら何がいい?」
私が尋ねると、彼はうーんと腕組みをして空を見上げた。
そしてそっと呟く。
「ボクも千年起きていられたらなあ……」
「ん?」
「キミと過ごせたら、って思ったんだ。そしたらまた違った今があったかもしれない」
「千年生きるのも大変だぞ」
「それでも、キミといたかったよ」
もしそうだとしたら、私はどうなっていたのか。
孤独に苛まれることもなかったのだろうか。
だが、今となっては知る由もない。過ぎ去った時は戻らないのだから。
「ボクからも一つ聞いていい?」
「いいぞ」
何を聞きたいか大体予測はつく。きっと彼は気づいている。それでも私は努めて平静を装った。そうしないと決まりが悪かった。
大きく深呼吸をすると、彼は真剣な眼差しで私を見つめ、そして緊張を帯びた声で言った。
「そろそろ本当のことを教えてくれるかな?」
やっぱりか。
息を吐き出し、逆に尋ねる。
「何時から分かっていたんだ」
「最初から何となく。だって、ボクが渡した花の種は、春の初旬に咲くものだから。夏に咲くのは変だよ」
「一日は気づかないと思ったが、早かったな」
「隠す気なんてなかったくせに」
「それもそうだ」
くくっと口の端から笑いが漏れる。
ジラーチも普段の穏やかな表情に戻っていた。
「ねえ、さっきの話、全部じゃないんでしょ」
「ああ。私が撃たれた後のことだ――」
眉間を打ち抜かれた私は、他の者と同様あっけなく死んでいった。
しかし未練の念が強すぎたせいか、魂だけは消えることはなかった。身体は死んだが精神はまだ生きていたのだ。
奴らは私の亡骸を肩に担ぎ、人間が多く待機している場へと歩いて行った。
そこには縄で縛られたウインディやゴウカザル、他に愛玩用として売られるのかイーブイやヒノアラシが檻に入れられ、皆俯き嗚咽を漏らしていた。
奴らはそれを一瞥すると、私を地面に降ろした。たちまち人間たちの注目を浴び、わらわらと集まってくる。
「どうしたんだ、そいつ?」
「あまりにも素直に従わねえから、打ち抜いてやったのさ。毛皮にして売れば高値が付きそうだ」
見せびらかすように尻尾の付け根を掴み、自慢げに持ち上げる。
周りの人間たちも金の毛並みに惹かれ、背や腹を撫でこれはいいと評し合っていた。特に尻尾の触り心地が気に入ったのか、触れなかった者は一人もいなかった。
しかしこれが奴らの不幸となった。
キュウコンの尻尾を触ると呪われる
昔からこんな伝承があちらこちらにある。けれどこの人間たちは知らなかったか、忘れていたか。どちらにしろ、迂闊にキュウコンの尻尾に触れてはいけない、それを彼らは犯してしまった。特に悔恨や敵意の詰まった身体となれば、呪いの程度は相当のものだった。
奴らは二度とこの谷に現れることはなく、呪いの噂も広まりここを訪れようとする者もいなかった。
奴らが去る際に亡骸は持って行かれたが、精神はここに留まり続けた。
主との、ジラーチとのつながりを消したくない。私の五百年を無にしたくない。
強すぎる思いは幻を生み、偽りの花畑を創り出した。
谷を取り囲むように結界が張られ、他者の侵入を拒んだ。
そうして、誰の干渉も受けることのない『平和』な地で、私はただジラーチを待ち続けた。
「――といったところだ」
これで話は全てだ。私のすることはもう何もない。
「どうして……そこまでして、花畑を?」
キミのトレーナーはいないし、ボクだって出会ったばかりの赤の他人だったのに、ジラーチはそう言った。
「私は何も知らなかったんだ」
「どういうこと?」
「私は主の事以外何も分からなかった。外の世界がどうなっているか、誰が何をしているか。全部知らなかった」
知識を得る余裕が無いのもあったが、主といること、それが私の全てだった。他には何もいらなかった。
「主の言う通り、他に何かしたい事があるのか、考えた時もあった。けれど、主と過ごす以外の生き方を知らないことに気が付いてしまった。ならば他に移る必要はない、ここにいよう、そう思ったんだ」
そして時が経つにつれ仲間が増え、この地で他の生き方を見つけることが出来た。やがてそれは私の大切なものとなっていったのだった。
しかしそれも、終わらせなければならない。
ジラーチと会い花畑を見せる、何があったか全部話して聞かせる。二つの約束は果たされた。
もう幻に生き続ける理由はない。
「ジラーチ、一つ目の願い事だ」
ジラーチは私の方を見ずに、花々を見下ろしつつ答える。
「いいよ。何かな?」
「幻を解いてくれ」
「――いいんだね」
最後の確認と言うかのように尋ねる。もちろん首を縦に振る。
「了解」
千年前に見た懐かしい光が短冊に灯る。文字が浮かび上がり、遠くの方から順に雪の絨毯が消え、元の赤茶色の土が現れる。
それにつれて、私の姿も徐々に透け始める。
「やっぱり、お別れになるの?」
「思い残すことは何もないからな」
尻尾と爪先から見えなくなっていく。これで全てが終わる。
「ジラーチ、もう一ついいか」
「……うん」
答えるジラーチに声は弱々しかった。
私が消えたらジラーチは独りになる。独りはとても辛い。
ジラーチもきっとそれはよく知っているのだろう。
目が覚めたら知らない人ばかり。遠い昔に語り合った者はもういない。千年ごとに彼はそれを、身をもって理解している。
避ける方法がないわけではない。だが、まだそれは伝えない。
――狡いな、私は。
そんな思いを胸に秘めつつ、言葉を続ける。
「天の国があるとしたら、そこで主と会えるようにしてくれないか?」
「なんて曖昧な。それに、そういうことは出来ないって言わなかったっけ」
「願掛けだ。いいだろ」
「本当にキミ達は変わった事を言うんだから」
文句を言いながらも、二つ目の短冊が使われる。
これで残るは一つとなった。
「どうするの?」
半分以上姿の消えた私に問いかける。
答えは既に決まっていた。
「少し複雑だぞ」
「さっきのより複雑なら、逆に聞いてみたいよ」
もう驚かない、とジラーチが構える。
きっとすぐ後に、その構えは崩れるだろう。
「お前の願いを私の三つ目の願いにしてくれ」
「……え?」
何を言われたのかよくわからない、そんな表情だった。
もう一度彼に伝える。
「お前の願い事を私の願い事に。こうすれば、お前の好きな事を一つだけ叶えられる」
「それって、どういう……」
「叶えてもらうばかりというのも、こちらが申し訳なくなってくるからな。最期に恩返しくらいさせてくれ」
ようやくジラーチは我に返り声を上げた。
「そんなことダメだよ! だって――」
「駄目なものか。私がこう願ったんだ。決まりだろ」
反論を遮って、そっと諭す。
「何でもいい。千年眠らずにいたい、友達が欲しい、過去に戻りたいってのもありだな」
「……ズルいよ。そんな……最後の最後に」
「キュウコンは昔から狡賢い種族だ。狡くて当然だろ」
「でも!」
「さてと、そろそろ別れの時間だ。一つだけの願い事、大切に使うんだぞ」
主とやっていることが似ているな。ふとそんな事を思った。願い事を残して、本人は去っていく。ふたり揃って迷惑なことだ。
その主に会えるのだろうか。だとしたら私はもう何も望まない。
「じゃあな、ジラーチ」
「……うん、さよなら」
まだ何か言いたげであったが、それらを飲み込んでジラーチは挨拶を絞り出す。
やがて私の姿は全て消え、千年の幻想が解かれたのだった。
一人残されたジラーチは、その場を動こうとしなかった。
「こんなの残されても、どうしたらいいのさ」
三枚目の短冊を手で弄り、息を吐く。
何でも一つ叶えられる。そうキュウコンは言った。そして、自分は彼女に千年生きられたらと話した。
けれど、それは彼女といることが前提だ。独りで千年過ごして何になるというのか。
過去に戻ってやり直したとしても、彼女と自分は対等ではない。過去の思い出に浸ったまま出られなくなるのと何ら変わりはない。
どうにでもなれ、そんな感情すら芽生えてきた。
あと五日もすればまた眠りにつき、誰かの願いを叶える。その繰り返しだ。
投げやりな気になって台に背を預ける。
「ねえ、そんな所で何をしているの?」
ふと声が聞こえた。
幼い可愛らしい声。話しかけるのは誰だろう。
目を開けそちらを見ると、そこには一匹のロコンが座っていた。
「はじめまして。あなたは見たことのない種族だけど――だれ?」
きょとんと首を傾げる。挙措が一々愛らしい。
「ボクはジラーチ。千年に七日だけ目を覚ましてみんなの願いを叶えるんだ」
そう言うとロコンは、「ああ!」と大声を出した。
「知ってる! お母さんが言ってた。昔住んでた谷にはあるキュウコンがいて、ジラーチとの約束を叶えるためにずっとそこにいるって。あなたがそのジラーチなのね」
「うん、そうだけどキミは?」
「散歩してたら、ここに来れたの。今まで入ろうと思っても入れなかったのに。もし何か知ってたら教えてくれない?」
「うん、いいけど少し長いよ」
「大丈夫、ちゃんと聞くから」
「私にも聞かせてくれないか」
「……え?」
舌足らずな声に重ねて、落ち着いた低めの声が重なる。キュウコンだった。
「あれ……どこかで会ったことある?」
「いや初対面だ」
一瞬あのキュウコンかと思ったが違うようだ。それでも初めてという感じがしなかった。
どうしてかすぐに分かった。
似てるんだ。あのキュウコンに。
声も体格も、瞳の色も毛の跳ね具合まで、どれもが彼女そっくりだった。
「キミは……?」
「ああ、申し訳ない。私はずっと昔この谷で暮らしていた者だ。けれど、ある日食料を採りに出かけると、帰ってくることが出来なかった。幼い頃から世話をしてくれた姉さんや、仲間たちにはそれっきり会えず……。もし、何か知っているのなら教えてほしい」
そう言ってキュウコンは頭を下げた。
頼まれたジラーチは、夜を通して聞いたことをそのまま彼女たちに伝える。
五百年前に人間がこの地を襲い、彼女や仲間を殺したこと。未練から幻想の花畑を創り出したこと。そして、たった今別れたこと。自分に願いを一つ残したこと。
ロコンは途中で夢の中へ行ってしまったが、キュウコンは最後までじっと聞いていた。
「そんなことが。姉さんや皆は……」
俯きがちに口を開き、そして黙ってしまう。それと入れ替わりに、最後のくだりだけ聞いていたロコンが無邪気に問いかける。
「あなたの願い事はどうするの? 何でも出来るんでしょ?」
実はないわけではない。
このひとたちと出会ったことは偶然でない。そう思うほどキュウコンは彼女に似すぎていた。
そう考えると、一つ望みがあった。
「聞いてもいい?」
少し躊躇ったけれど、思い切って口にする。
「ボクと……一緒にいてくれないかな?」
「もちろんいいよ! 友達が増えるのは嬉しいし」
答えは早かった。明るい声でロコンが答える。
「そんなの改まって訊かなくてもいいのに。一緒にいるのってわざわざ許可がいることかな?」
七日間の付き合いしか知らないジラーチにとっては、少なくとも普通のことではなかった。一緒に過ごしていけば、分かるのだろうか。
「実は私からも頼もうと思っていたんだ。貴方ともう少し居たい。もっと姉さんの話を聞きたいんだ」
キュウコンの言っていることは分かる気がした。
――キュウコンはボクの中に彼女の幻を見ているんだろう。
キュウコンにとって家族かそれ以上の存在になっていた彼女は、突然会えなくなってしまった。時が経つにつれ寂しさが胸に募るが、彼女は死んでしまった。けれど思いは消えずに残り、それを受け止める相手はもういない。
そこで彼女と最後までいたボクが現れた。行き場のない思いはボクを通して彼女の幻に向けられる。
そしてそれはボクも同じだ。
キュウコンと話していると、彼女と過ごしているような錯覚を覚える。このまま別れたくない、そう思った。
今は彼女と幻を通じてつながっていて、それはきっと脆くて壊れやすい。
でも時間はまだたくさんある。
少しずつ確かなものにしていけばいいんだ。
「うわあ、綺麗な光……」
短冊に灯る光を見て、ロコンが目を輝かせる。
二匹の視線の中、三つ目の願い事を念じる。
「ボクの願いは――」