Trans Magic!
「うん、できたあ」
最後の縫い合わせを終えて、マーシュは裁縫道具を置きほっと息をつく。たった今完成した衣装を両手で持ち上げ全体を眺めると、満足気に頷いた。
作り上げたのは白い長袖のワンピース。胸に桃色の大きなリボンがあり、長い紐が左右にひらひらと伸びている。お尻の上からはふさふさとした桃色の尻尾が飛び出し、肘にはふわふわなフリルがついていた。
マーシュの横には獣耳のカチューシャや、胸と同じ柄の耳につけるリボンなどがあり、それらは全てマーシュがハロウィンのために手作りをした衣装だった。
モチーフにしたのは彼女のパートナーのニンフィア。その衣装を着ればニンフィアそっくりになれそうだ。
マーシュは完成したものを見せるべく、隣の部屋にいるポケモン達の名前を呼ぶ。
「ねえみんな。見せたいものがあるんよ。こっちに来てもらってええかな?」
その呼びかけに応じて現れたのは、ニンフィアとクチートとバリヤード三匹。彼女のパートナーにして、ジムで挑戦者と戦うポケモンだった。
「ハロウィンの衣装がやっと出来たんよ。こんな感じになったんやけど、どうやろうか?」
よく見えるように、マーシュは腰を落として服を斜めに持つ。照明の光が生地の白に反射して衣装が輝いているように見える。丁寧な作りも相まって文句のつけようのない出来だ。
「そう喜んで貰えると嬉しいよ。ああ明日が楽しみやな」
そう言ってマーシュは服を折り畳んで、横の小道具と一緒にバッグへしまう。
「せっかくポケモンになりきれる日やさかい、いっぱい楽しまんとね。けど――」
声の音量を落としてマーシュは呟く。
「本物のポケモンになってみれたらええんやけど……」
あ、まただ……。
その言葉を聞いてニンフィア達は顔を見合わせた。
何度も耳にしたその思い。少しでもポケモンに近づけるようにと、フェアリーを意識した服を纏うマーシュの願い事だった。
「さてと、配る用のお菓子を作らんと。ガレットたくさん用意するから期待して待っとってな」
荷物をまとめ頭を優しく順番に撫でると、マーシュは下の階へ下りていった。これから振り袖の人達と一緒に、子供に配るお菓子をいっぱい作るのだ。
なら自分達はどうしようか? ニンフィアのシルフはふうと考える。
明日マーシュとお菓子を配るまで、することが何もないし――。シルフはふと思ったことを口にしてみた。
「叶えてあげられないかな……」
マーシュの願い事。いつも彼女にはお世話になってるから、できることなら力を貸してあげたい。
「人間がポケモンになるなんて、おとぎ話みたいだけど、」
「時折寂しそうにしてるものね」
僕の言葉を継いだのはクチートのティリスだった。横に並び腕を組んでうーんと天井を見上げる。その隣でバリヤードのエイムも続けた。
「けど、種族を変えるなんてそんな不思議なことが出来るひと――」
そこまで言ってエイムは言葉を切る。はっとした顔になり、頭の上で電球が光った。同時にシルフとティリスも「あっ!」と声を上げた。
「「レナ!」」
思い浮かんだのは町外れに住む一匹のマフォクシーだった。そうだレナなら何かいい方法を知ってるかもしれない。
魔法の修行のため各地を回っている彼女なら。そう思うとそれぞれの表情に明るみが浮かんできた。
「レナはハロウィンの時は絶対帰ってくるし、きっと今年もいるはずだよ」
「そうね。じゃあ早速レナの家に行ってみる? もし駄目だったら考え直さないといけないから」
「賛成! レナ、知ってるといいなあ」
三匹は互いに頷き合うと、ジムの出口へ向かっていく。
「あれお出かけするん?」
キッチンの前でばったり会ったマーシュに、シルフは行ってきますの代わりに「きゅん」と鳴いて扉の向こうへ出かけていった。
クノエシティの南西のはずれにレナの家はある。元は人が住んでいたらしいけれど、家主はどこかへ行ったきり帰って来ず、ぼろ屋になりかけていたので、勝手に借りて住んでいるらしい。
「お、今年もいるみたいだね」
一番背の高いエイムが進む方向を指さして教えてくれる。ドアに提げられているカンテラが仄かな光を放ち、半分開いた窓からは甘い良い匂いがしてきた。
家に近づくほどに匂いは段々強くなり、扉の前に着く頃には、シルフのお腹が空腹を訴えていた。
「おいしそうだよね……」
「それは明日の楽しみにしておきなさい。それよりすることがあるんでしょ?」
「でも……」
そうは言ってもこんなにおいしそうな匂いがしたらお腹が空くのは当然だ。逆にどうしてふたりは平気でいられるんだろうか。そんなシルフををティリスは溜息で流すと、こんこんとドアをノックする。
中から聞こえてくるのは、かたんと容器を置く音、そして床を踏む足音に、ぎぎっと扉が開き。マフォクシーが姿を現した。
「こんな時間に何の用だい? ハロウィンには一日早いんじゃ――ああ、あんた達は」
「やほっ。久しぶり、レナ」
「ティリスにシルフ、エイムじゃないか。三匹揃って私の所に来るのは久しぶりだね。お菓子の味見かい?」
はい! と即答しかけたシルフを、ティリスは頭の顎で思い切り殴りつける。痛い。
「シルフはおいといて、今日は頼みごとがあって来たの。ちょっと時間いいかしら?」
「構わないよ。外も冷えてきてるから中へお入り。出来立ての紅茶クッキーもあるよ」
「クッキー!?」
再び瞳を輝かせるシルフの頭に、今度はエイムがげんこつを落とすと、レナに勧められ中へ入っていった。
出してもらったクッキーを頬張りつつ、シルフはレナに事情を説明する。
「なるほどねえ。マーシュの願い事を叶えてあげたいと」
「一度だけでいいから、そんな不思議なこと出来ないかな」
「レナに相談したら、何か案が出るかもしれない、そう考えて今日は来たの」
「そうだねえ……ちょっと待ってな」
思い当たる事があるらしく、レナは飲みかけのコーヒーを置くと、本棚に歩み寄る。一冊抜き取りぱらぱらとページを捲って元に戻す。そんな作業が十分ほど続いた後、一つの本を手にレナが戻ってきた。
「答えから言うとそれは可能だよ。その前に質問だけど『マジックルーム』は知ってるかい?」
マジックルーム、聞いたことはあるんだけど、なんだったかな……?
突然振られた質問にシルフとティリスが顔を見合わせる中、バリヤードのエイムが教えてくれた。
「不思議な空間を作り出すんだよね。その中にいると道具が使えなくなるんだ。『ワンダールーム』も似たような技だよ」
「そういえばあんたも使えたんだったね。そうその説明で正解だよ。なら先に進もうか」
うんと頷いて続きを促す。
「自分が作った空間に相手を閉じ込めると、術者の自由の幅が広がるのさ。ゾロアークの幻影も似たような感じだね。一定の範囲内なら周りの光景や音だって作り上げることが出来る」
「つまりレナの『マジックルーム』の中なら『魔法』が使えるってこと?」
とティリスが尋ねる。
「その通り。で、シルフはさっきから固まってるけど理解しているかい?」
「う、うん。今のまとめでなんとか……かな? ようは技を使うためにはマーシュをレナの近くまで呼ばないといけないんだよね」
間違ってはいなかったようでシルフ以外の三匹が、安心したような疲れたような息をつく。レナはカップのコーヒーを飲み干すと、席について足を組む。
「あんた達の頼みごとが不可能じゃないのは今話した通りさ。それでどうするんだい?」
「もちろん」
今度こそ即答だった。
「お願いします」
答えを受けてレナはふふっと微笑む。
「よし、じゃあ早速案を練ろうかね。まずはどんな風に始めようか」
「シルフがまず最初に――」
「ここでティリスが――」
結局その内緒の会議は、満月が空の天辺に昇るまで続けられたのだった。
それから一日が経ち太陽が沈み始めると、いつもとは対照的に街がどんどんと賑やかになっていく。ジムから外に出ると色々な仮装をした人々の姿が見えた。エーフィにニャオニクスにグラエナ。小さい男の子はイベルタルやルギアなどの伝説ポケモン、女の子はデデンネやイーブイなどの可愛いポケモンに扮している人が多い。
マーシュとジムのトレーナー、そしてそのパートナーがお菓子を渡していく。「トリックオアトリート!」の元気な声に、マーシュ達が作ったお手製のガレットをプレゼントする。
こうしてたくさんの人の仮装を見るのも面白いのだけれど、今年だけはずっと落ち着かなかった。時々月を見上げては、まだ時間にならないかとそわそわする。シルフ以外の二匹もそれは同じようで、お菓子を渡し忘れそうになったり、ぼーっとしたり。とにかく「とっておき」の「おどろかす」が待ちきれなかったのだった。
それから一時間ほど経つと、人の列がようやく無くなった。籠の中のガレットもほとんど空になり、そろそろイベントは終わりのようだ。
マーシュがジムの人達に指示を出していく。
「ほな、片づけを始めましょか。うちは飾りを取り外してくるから、アサミとキリカはまだもらってない子供が来たらお菓子を渡して。カレンはキッチンの整理、シオネはうちと一緒に手伝ってもらえる?」
わかりましたーと声を揃えて、それぞれが作業に取りかかる。マーシュともう一人がジムの横へ周っていくのを見て、シルフ達は互いに頷き合う。
「「さあ僕達のパーティーの時間だ!」」
それを合図にニンフィア達は二手に分かれた。シルフはここに残り、他の二匹は町外れのレナの方へ。たぶんもうレナは準備を始めてくれているはずだ。パーティー会場の最後の仕上げには特にエイムの力が必要らしい。全部が終わったらレナにはちゃんとお礼をしないと。
そう考えつつ周り込んだ先ではマーシュとシオネが街灯の明かりを頼りに、段ボールで作ったバケッチャや色画用の模様を取り外していた。
シルフはマーシュではなくもう一人のトレーナーの方へ駆け寄ると、胸のリボンを伸ばして彼女の右腕に軽く巻き付けくいっと引っぱった。
「ん、どうしたの?」
作業の手を止め、トレーナーは腰を落として視線を合わせてくれる。彼女の腕からリボンをほどくと、今度はその先でマーシュの方を指した。そして寂しそうな声で一鳴きしてみる。
「もしかしてマーシュさんと遊びたいの?」
質問に小さく首を縦に振る。
「そっか。マーシュさんジムリーダーだから、あたし達よりポケモンと遊べる時間短いのよね」
持っていた荷物を地面に置いて、彼女はマーシュに手を振って呼びかけた。
「マーシュさん! 後はあたし達が片付けておきますから、マーシュさんはポケモン達の相手をしてあげてください」
「え、けどそんなん悪うないかしら……」
「最近トレーナーの挑戦が立て続けで、オフの時間少なかったじゃないですか。この子も寂しそうにしてますし。ね、シルフ?」
彼女の台詞に合わせて、リボンを力無く地面に垂らしてもう一度鳴いてみる。それを見てマーシュは迷っているようだった。あともうひと押しだろうか。
「人手は十分なのでこちらの心配はいらないですよ。あたしからもシルフと遊ぶのをお願いできませんか」
ふたりの頼みにマーシュは少しの間手を止め――そして頷いた。
「ほなそうさせてもらいましょうか」
その答えにシルフは顔を上げ、マーシュの元へ走り寄った。これは作戦なんかではなく純粋に嬉しかったから。今度はマーシュの右手にリボンを伸ばして「早く行こう!」と引っ張ってみた。
「今ならまだ町の飾り付けが残ってると思いますから、見てきてはどうですか?」
それはそれで楽しそうだけど、今日の目的はそっちじゃない。でも何をするのか、それはまだ内緒だ。
「どこに連れてこうとすとるん?」
ーーすぐ分かるよ!
答えの代わりにジムの外へ駆けだす――前に一つ忘れるところだった。
ジムトレーナーの人の横でブレーキをかけると、リボンで彼女の腰のモンスターボールを指した。
「クレッフィとも遊びたいの? ……そうね、片付けの間構ってあげられないし、お相手頼んでいいかな?」
(任せて!)
胸を張って返事をすると、シオネが放ったボールからクレッフィのクゥが姿を現した。
「クゥ、突然で悪いんだけど、一緒に来てくれる?」
「え? いいですけど、どうしたんですか?」
「それは移動しながら説明するから。とにかく僕についてきて!」
今度こそ忘れ物無しに夜のクノエへ飛び出していく。
まずは大通りを真っ直ぐ行って突き当りを東へ。そして目指すは15番道路。マーシュはまだニンフィアの仮装のままで走りにくそうだった。それはちょっと悪いことをしたかもしれない。でもこれから起きることを思うとわくわくしてどきどきして。早くマーシュをパーティーに招待したかった。
15番道路。
クノエのゲートを抜けて見えてきたのは紅や黄の落ち葉に彩られた街道。その上をさくさくと音を立てながら進んでいく。すすき野の間の道を切ってとにかく南へ。
そうして何度か曲がると広めの凹地に出た。周りは背の高い木に囲まれ、自分達がいるところだけ低くなっているて、まるで不思議の国に迷い込んでしまったような感じがする。
「ここでいいのかな?」
辺りを見回してみると、いた。凹地の外、一本の木の陰からティリスが控えめに手を振っていた。後ろの顎で幹をこんこんと二回叩き、準備は万端、そう伝えていた。
「シルフ、こんなところに連れてきて一体何をしなはるん?」
答える代わりにシルフは胸のリボンの両端を翼のように大きく広げた。
予め決めていた秘密の合図、魔法の始まり。
レナがティリスの横から現れ、シルフ達に向かって杖をかざす。
そして次の瞬間、眩い光がマーシュ達を包み込んだ。
――魔法の世界へようこそ!――
「――きなさい」
誰かに呼ばれている気がする。
でもあと少しだけ。これからマカロンのプールに飛び込むところだからーー、ごにゃごにゃとシルフが寝ぼけた声をもらす。
「シルフ! あなたが起きないと始まらないでしょ」
「うーん……あと十分だけ……」
「そう……」
呼びかける声のトーンが下がる。刹那、殺気を感じてシルフは慌てて横へ転がり回避を取った。どんと音がした場所――つい今まで寝ていたところにおそるおそる目を向けると、ティリスの後ろ顎が叩きつけられていた。今のはアイアンヘッドだろうか。何にせよ目覚ましにしてはハードな起こし方だ。
「おはようシルフ」
「う、うん。おはようティリス」
逆さまのティリスが笑顔で挨拶をする。逆さまなのは自分が寝ているからか。
体を起こして、頭を左右に振る。まずは今の状況を整理しないと。
「どうなってる?」
「見ての通りよ」
そう言われ、周りの景色に目を移す。
僕達がいるのは木々が生い茂る森の中。日光が緑のカーテンを通して地面に当たり、光と陰で斑点模様が出来上がっている。けれど今の時間は夜で季節は秋の終わりのはずだ。なのに目にはこう映っている。ーーつまり最初のステップは上手くいったみたいだ。
ならきっと。
改めて視線を戻すと、ティリスとクゥの横でもう一匹ののポケモンが倒れていた。白い身体に桃色の足の先。ピンクの尻尾に、ひらひらと風になびく二つのリボン――シルフと同じニンフィアがそこにいた。
ごくりと息を飲むと、シルフはニンフィアへと近づいていく。
「ねえ、起きて。こんなところで寝てるとリングマに襲われちゃうよ」
前足でニンフィアの背中を軽く揺する。んっ、と声を漏らしてニンフィアがスカイブルーの目を開いた。
「あれ……うち……」
「おはよう。倒れてたみたいだけど大丈夫?」
「うん……あれ?」
返事をしかけてニンフィアの動きが止まる。驚いているのと、あとはーーポケモンと話していることが信じられないのかもしれない。前足を口元に当てて、まばたきを繰り返していた。
「えっと、ポケモンが……ニンフィアが喋っとる?」
マーシュの質問にシルフはきょとんとした表情でわざと聞き返す。
「ん、どういうこと?」
「だって、うちは人間やしポケモンの言葉が分かるなんて――」
「人間……? でも君はどこから見たって僕と同じニンフィアだよ。ねえティリス」
「ええ。私にもそう見えるわ」
腕を組んでティリスが首を縦に振る。クチートがティリスと呼ばれたことに、ニンフィアの耳が揺れる。
「ニンフィアさん、名前聞いてもええかな?」
思い当たったことがあるらしく、ニンフィアがシルフの名前を尋ねる。
「僕はシルフ。で、こっちのクレッフィがクゥっていうんだ。そういえば君の名前もまだ聞いてなかったね。君は何ていうの?」
「ティリス」に「シルフ」。マーシュの予感は確信に変わったようだった。
「うちはマーシュ。もしかして――」
「マーシュって……ジムリーダーの?」
ティリスとマーシュの声が重なる。マーシュは控えめに頷いた。
「そう、なんやけど……一体どうなっとるんやろう。シルフに連れられて、街の外に出たところまでは覚えとるんやけど、起きたら知らない場所におるし、うちはニンフィアになっとるし……。何か知らんの、シルフ、ティリス?」
「ごめんなさい。私も気がついたらここにいたの。シルフもさっき起きたばっかりだし」
なんでのんきに寝てたのかしらね、と睨みをきかせた視線を送ってくるけれど、目を逸らしてごまかす。
「変わった点といったら、エイムの姿がさっきから見えないのよね。どこにいったのかしら……」
バリヤードともお話したいのにと、マーシュも辺りを見回す。とそこに、一枚の紙がひらひらと空から降ってきた。地面に落ちたそれを手に取ると、そこにはこう書いてあった。
『エイムは預かった。返して欲しくば、扉を開き私のところまで来い。鍵はクレッフィが持っている』
綺麗な筆記体で書かれた手紙の内容は、エイムをさらった旨。助けなかった場合はどうなるか記されていないけれど、その選択肢を取るはずがない。答えはもちろん全会一致の「助けに行く」だった。
「念のため言っておきますけど私は敵の仲間ではないですよ! 目が覚めたら知らない鍵が通されてて。本当です!」
じゃらじゃらと音を立てて、クゥが弁明を始める。その行動がいかにも怪しそうだけれど、クゥがいないと何も始まらないのは確かだ。仮にクゥが敵だとしても、エイムを助けるのが最優先だ。そう言うとマーシュも了承してくれた。といっても、マーシュはまだ現実感が掴めていないようでいつもよりさらにふわふわとしていた。
「まずは扉を探さないとね。何か手がかりになりそうなのはない?」
ここから先のシナリオはシルフもティリスも知らない。マーシュと一緒に鍵を自力で解いていくしかなかった。
「マーシュ、歩けそう?」
マーシュにしてみたら初めての四足歩行だ。視点が低くなったのもあって上手く体を扱えないかもしれない。そう思い聞いてみると、案の定マーシュは四足の体に苦労していた。
なんとか立てはするものの、そこから歩行するのが上手くいかないらしい。
「斜め側の足を交互に出すといいんだよ。右の前足を出したら次は左の後足。右の後足を出したら左の前足。やってごらん」
「う、うん」
シルフのアドバイスを受けてマーシュはもう一度試してみる。おそるおそる足を伸ばして、反対側の足を動かす。ぎこちなさはあったけれど、この調子だとすぐに慣れてくれそうだった。
「うち歩っとるよ! ポケモンになれただけじゃなくて、シルフとティリスとお話できて、こうして歩けて、ほんま夢みたいやわあ」
満面の笑顔を浮かべて、マーシュがぴょんぴょんと飛び跳ねる。そんな嬉しそうにしていると笑顔が移ってきそうだ。
四匹のパーティーはそれから三十分ほど森の中を探索していた。けれど手がかりらしきものは全く得られなかった。収穫といえば、マーシュが四足に慣れてきたことだろうか。
初めはゆっくりとした進みだったけれど、今ではシルフ達と並んで歩けるほどになっていた。
「すごいよマーシュ!」
「シルフの教えがええからよ。でも手を――今は前足になってるけど、地面に付けるのってなんだか変な感じやわ」
「嫌だ?」
そう聞くとマーシュは慌ててかぶりを振った。
「ううん、全くそんな事あらへんよ! 突然ニンフィアになったのは驚いたけど、ポケモンになってみたかったのは確かやし。でもずっとこのままって訳にもいかへんからね。元に戻る方法探さんと」
「うん、そうだね」
「でも、どうするんですか? この先進めそうにないですよ」
とはクゥ。問題はそこなのだった。今いるのは森を抜けた川の手前。向こうには道が続いているけれど、この川は滝のすぐ側にあるから流れがとても速くて渡れそうにない。川幅の狭そうな上流に遡ろうにも、ごつごつとした岩が不安定に積み重なっていてこれもまた歩くには危ない。
「かといって引き返すのも良案とは言えないわよね」
ならどうしようか……。四匹で頭を悩ませていると、どこからか明るい楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
「〜♪ 〜〜〜♪」
一体誰だろう、そう思い音の方に視線を向けると、大粒のオボンの実をおいしそうに頬張るフライゴンが現れた。
「ここのオボンの実は最高だね! すっごくおいしいし、それにこんなに大きくて!」
手元のオボンの実に夢中でフライゴンはまだシルフ達に気付いていない。偶然魔法≠ノ巻き込まれてしまったらしい。そうだ、彼ならきっと。
「ねえマーシュ。フライゴンを呼んでみようよ」
ここはマーシュにやらせてあげよう。
「ええけど……でもどうやって?」
「小さい私達が大きい相手に気付いてもらうにはひと工夫必要なの」
「例えば私なら『きんぞくおん』で『おどろか』せたりしますね」
「それも一つの手だけど、その後の交渉は難航しそうね。技を使うにしても平和的に。これが重要よ」
「ならニンフィアやったら……」
「マーシュの――ニンフィアの体で上手く使えそうなところはない?」
二匹のヒントに考えてみるも、マーシュは公算というように息をついて肩を落とした。
「ここを使えばいいんだよ」
胸のリボンでマーシュのそれに触れて答えを教える。きょとんとしたマーシュにシルフは続けた。
「ニンフィアのそれは自由に動かせるんだ。人間にはない器官だけど、とりあえずやってみようよ。ここを動かしたいってイメージするんだ」
「こう……やろか」
不安げな呟きと共にリボンの両端がふわりと持ち上がる。
「そうそう! 次はそれをフライゴンさんに気付いてもらえるように高く上げて」
マーシュのリボンが空へ上がっていく。ちょうどその時吹いた風に流されて、リボンはフライゴンの手にぶつかった。
「ん、どうしたの? キミ達もオボンの実が欲しいの?」
「そうな――うぐっ」
すかさず答えるシルフを、ティリスは昨日と同じように殴りつけると、フライゴンに事情を説明した。
「なるほど、ここは現実の世界じゃないのか。魔法の世界に閉じ込められたままってのも嫌だし、ボクでよければ手を貸すよ?」
残りのオボンの実を一口で飲み下すと、フライゴンは右手を差し出した。
「ボクに出来ること、何があるかな?」
親切なフライゴンにマーシュは川を渡って向こう側にいきたいことを話した。
「そういうことならお安い御用さ!」
ほら、とフライゴンが乗りやすいように体制を低くしてくれる。全員の搭乗を確認すると、フライゴンは翼を広げた。
「ちゃんと捕まってるかな? じゃないと落っこちちゃうよ」
その言葉にマーシュが思わず前足に力をこめる。
「ぎゅっとしとったら落ちへん?」
「もし落ちても僕が助けてあげるから大丈夫!」
後ろから「本当かしら」と声が聞こえてくるけど知らない振りをした。
「ほんまに……?」
「僕を信じ――うわぁっ!」
鼻先を上げたしたその瞬間、フライゴンの体が宙に浮かんだ。羽ばたきの振動でシルフは背中から振り落とされてしまったのだった。
「だからちゃんと捕まってって言ったのに。怪我しても知らないよ?」
なんとかフライゴンが両手で掬ってくれたおかげで、無事で済んだ。せっかくかっこいいところ見せようと思ったのに。
彼の手の中から見上げれば、マーシュが控え目に顔を乗り出しているのが見えた。前足は震えていたけれど、左右に視線を走らせて空の遊覧飛行を楽しんでいるようだ。
シルフは一匹になれたのをいいことに、彼の手の中で横に寝転んだ。懐に隠しておいたおやつを頬張りつつ、休んでいると、第一の扉が見つり、そしてティリスの制裁が飛んでくるまでにそう時間はかからなかった。
扉は民家についているような、ごく普通のものだった。それにしても、一つ目のフィールドからこんな大きいなんて、レナ達随分と張り切っているみたいだ。
「確かあんたが持っているのよね」
ティリスがクレッフィの鍵に目を向ける。
「そう、らしいですけど、一個ずつ試してみましょうか」
そう言ってクゥは扉に近づくと、自身に通した鍵の一つを錠前に差し込んでみる。一つ目――は大きすぎるようだ。二つ目は逆に小さすぎる。三つ目――これが正解みたいだ。がちゃと音がしたかと思うと、正しい鍵は光となって消えてしまった。その代わりに、新しい道が出来上がる。
「それじゃあ行くよ」
「次はどんな世界なんやろうか」
それぞれに違う期待を抱いて、僕達は扉をくぐり抜けた。
「真っ暗だね……」
次の世界は光の無い世界だった。声は聞こえるけどお互いに姿が見えないし、どこに道があるか分からない。
「声が響くってことは洞窟の中でしょうか」
「周りは岩に囲まれてるみたいだし、そうかも」
とクゥとソラ。シルフも前足で壁に触れてみると、ひんやりとした感触がした。暗いから頭をぶつけないように気を付けないといけない。
「進もうにも明かりがあらんと危険やろうな」
「でも残念ながら私達の中に『フラッシュ』を使えるのはいないのよね――あら?」
ティリスが顔を上げるのと同時に、遠くの方に何かが見えた。
『何か』は段々とこちらに近づき、それが青い炎であることがわかる。青い炎?
「あれって『鬼火』ですよね」
「うん、そうだよね……」
大きくなる炎を緊張と共に見つめていると――ふっと消えた。
「えっ?」
予想外の展開に頓狂な声が出てしまう。一体今のは
「こっちだよ」
「ひゃっ!?」
今度こそシルフは飛び上がって尻餅をついてしまった。「っしし、驚いた驚いた!」
涙目で睨み付けながら顔を上げると、ジュペッタが手を叩いて喜んでいた。その周りではムウマやヨマワルが『鬼火』を出して浮かんでいる。
「この子たちの仕業だったんだね。ボクもびっくりしたよ」
横でフライゴンも胸を撫で下ろす。青い炎のおかげで周りが見えるようになっていた。
「あんひと達なら助けになるんやないやろうか」
「あらそれは名案ね。ただ、簡単に行くかしら?」
どういうこと、と聞き返すマーシュにティリスが小さな声で教える。相手はイタズラ好きなゴーストタイプ達。素直にはいと答えてくれるとは限らない。かといって頼まない事には始まらない、としてマーシュは前に進み出た。
「お、かわいいニンフィアさん。僕に何か用かい?」
「そう、お願いがあるんよ。頼んでもええかな?」
「お願い」の単語にジュペッタ達は顔を見合わせ、またにやっと笑った。
「断りはしないよ」
「どういう意味?」
含みのある返事に尋ね返す。
「なんたって今日はハロウィンの日。ということは、分かるよな?」
「トリックオアトリート?」
「そう! つまり、俺達の仕事に見合う『トリート』をくれれば協力してやる。ただし釣り合わなければ」
「釣り合わないと……?」
「そうだな、そこのニンフィアにイタズラするなんてどうだ?」
「だっ、ダメだよ!」
何を言うんだとシルフが前に飛び出した。そんなのダメに決まってる。
「嫌なら別の方法を探すんだな。こっちは妥協する気はないからな」
「う、うーん……」
飛び出したはいいけど、トリートなんて……。お菓子はおろか何も持ってないし。
「なら後払いはどうかしら?」
悩んでいるところへティリスが助け船を出してくれた。
「実はこのニンフィア――お姫様の方ね、元は人間だったんだけど、悪い魔女の魔法にかけられてポケモンの姿にされてしまったの。今は元の姿に戻る冒険の途中というわけ。マーシュはお菓子作りがとても上手よ。協力してくれたら、きっとおいしいものを作ってくれるわ」
でしょう、とティリスはマーシュに視線を送ると、彼女は柔らかな調子で同意した。
「もちろんええよ。楽しみにしとってもらえたら嬉しいわ」
「それは本当だな?」
こくんとマーシュが頷く。人間がポケモンになるなんて夢のようなお話を信じてくれたわけではなさそうだけれど、それよりもお菓子の魅力の方が大きかったようだ。その気持ちはとてもよくわかる。
ここでゴールの後の楽しみも出来たことだし、こんな暗い洞窟早く突破してしまおう。なんだか怖いし。先導するゴーストポケモンに続いてシルフが進んだとき、耳元で声を大きな出された。
「わっ!」
「ひっ!」
壁によりかかり、動悸を抑えるために胸を押さえていると、どうやらティリスの仕業だったらしい。不安に思ったそばからなんてことを。彼女の顔を見れば、してやったりと小悪魔の笑みを浮かべていた。
そんな様子を見られて笑われつつ、洞窟の先へと進んでいく。
背中に落ちる水滴や、突然驚かせにくるヨマワルに、主にシルフを中心に何度か悲鳴を上げながらも、二つ目の扉が見えてきた。
クゥの鍵で扉を開き中から光が溢れだしてくる。次もこんなテンポで進みますように。そう願いながらくぐり抜けようとーージュペッタ達がついてこない?
「来ないの?」
尋ねると、ムウマは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「ごめんねー。明るすぎるところはあたし達苦手なんだ。なんだかその先すっごく眩しいし」
「悪いな。あ、けどお菓子の件は約束だからな」
苦手なのはわかるけれど、ここに取り残されたらジュペッタ達はどうなるんだろう。だってここは……。
そこまで考えたところでシルフは自己解決をする。
「シルフ、どないしたん?」
なかなか来ない僕を待ちかねてか、マーシュが奥から僕を呼ぶ。うん、そろそろ行かないと。なんとなく答えもわかったし。
「じゃあまた後でね」
「ばいばーい」
「残りも頑張れよ」
ゴーストポケモン達の声に押されて、光の世界を進んでいく。扉が閉まり目指すは第三の扉。今度はどんな世界だろうか。
シルフ達は作戦の事もすっかり忘れて、純粋に冒険を楽しんでいたのだった。
その後も魔法の世界は続いていった。
雲を渡ったり、虹を滑ったり。クチートの鋼の顎で岩の壁を壊したり、ニンフィアの触手を使って遠くの物を引き寄せたり。
「いつもは指示をだすだけやけど、こうして一緒になって進むのもええね」
その見せてくれた笑顔は、いつもポケモンになりたいと憂う顔でなく、シルフやティリスがずっと見たいと思っていたものだった。
そして進んでいくうちに、とうとうクゥの最後の鍵が使われた。けれどまだ元の世界には戻れない。
ということは、ここが最後の部屋だった。その証拠にフィールドがふさわしいものになっている。
「これ……うちのジム……?」
シルフ達がいるのは見知った場所、クノエジムのジムリーダーの部屋だった。
舞台の真ん中には競技線が再現され、足触りもシルフにとって慣れたものだった。異なるのは両サイドにトレーナーエリアがないことか。
「ここがそうだよね」
「ええ。もうすぐ来ると思うわ」
周りに聞こえないようにこっそりとティリスに耳打ちする。ティリスも前を見つめたまま霞むような声で答えた。そして、
「いらっしゃい。魔法の世界は楽しんでもらえたかい」
レナが現れた。
いつもより悪役がかったその口調は二匹が思った以上に似合っていた。招待客のマーシュは一歩前に出て、レナに吼えた。
「エイムを攫ったんはあんさんなんやろ。一体どうして」
「お嬢さんが探しているのはこいつのことかい?」
そう言ってレナが杖をかざす。すると、マーシュの後ろに半透明な光の壁の球が現れた。中にはエイムが閉じこめられていた。
「エイム!」
マーシュは駆け寄って、エイムの壁を叩いてみるけれどびくともしない。
「無駄さ。そいつを助けたかったら私を倒してみるんだね。でもその前に――」
声のトーンを落とすと、レナはまた杖を一振りする。すると、
「え、なっ、何これ!」
フライゴンの体が勝手に中に浮き上がったかと思うと、エイムと同じように球の中に閉じ込められてしまった。彼だけじゃない。クゥもティリスも球に封じられてしまった。
「そんな……」
「さすがにあたしも数が多いと相手しきれないからねえ。それでも一対二、十分なハンデ戦だと思わないかい?」
残ったのは僕とマーシュ。今まで大編成で来たけれど、ここからは二匹でやらなければいけない。
「せやかてうちはどないしたら……。戦い方なんて全然知らんよ……。こんなんやとエイムを助けられん」
後足を折ってマーシュは声を震わせてる。弱気なマーシュなんて初めて見るかもしれない。でもそうは言っていられない。
「ここまで色んな事があったけど全部乗り越えられたでしょ? その中にはマーシュのおかげなのもたくさんあった。だからあと一つ、そんなの無理なんて言わないで。それに」
僕は競技線内の所定の位置からレナを見据える。ジム戦が始まる前の互いの静寂。この光景は何度も感じている。
「戦い方、マーシュはよく知ってると思うよ」
振り返ってにっと笑うと、シルフはレナの横を狙ってシャドーボールを放った。
「さあ、ジム戦の開始だ!」
今度は挑戦者側だけれど。
レナの後ろで爆煙が舞うと同時にレナが杖を構える。木の枝に炎が灯り、そこから一直線上にシルフの元へと迫り来る。
「そんなの当たらないよ!」
軽く横に飛ぶだけで難なく躱すと、レナが笑みを浮かべた。
「いいのかい?」
「え?」
安心していたところ、レナの声に顔を上げてみれば、炎の軌道が変わっていた。さきほどまでシルフがいたところから突然角度を変えたそれは、マーシュを線上に捉えていた。反応が遅れたマーシュは動くことができず、このままでは炎の餌食になってしまう。
きっと初めてバトル場で技を目の当たりにしているはずだ。その恐怖心も相まってマーシュはレナの『火炎放射』と『念力』の合わせ技を前にただ体を震わせるだけだった。
「危ない!」
考えるより早く体が動いていた。「ごめん」と謝ったのは聞こえたかどうかわからない。シルフはマーシュに『たいあたり』を当て、彼女の体を突き飛ばした。その勢いのまま自分も炎を避けられればと思ったけれど、そうはいかなかった。ぎりぎりで軌道を再び変えた深紅に後右足が飲み込まれる。
「……っ!」
全身に走る痛みに顔を歪めつつもなんとか四足の体勢を保つ。視線を後ろにやって確認してみれば、桃色の足の先が焦げ付き「やけど」の症状を負っていた。一歩動かすごとに足が痛む。
マーシュはどうやら無事のようだった。顔を左右に振って立ち直し走り寄ってくる。
「シルフ……うちのせいで……」
「ううん、全然大丈夫だよ。それよりもマーシュ、もっと自信を持たないと」
「自信?」
「そう! さっきマーシュは戦い方なんて知らないから何も出来ない、そう言ってたよね。でも、マーシュはジム戦の時いつも僕を見てるでしょ?」
うんと小さく頷く。
「指示を出してるのはマーシュなんだし、僕の戦い方の半分はマーシュが担ってるんだ。それにマーシュはずっとポケモンになりたかったんだよね。だったら、もし自分がポケモンになれたら何をしたいか、どうやって体を動かすか、想像したことあるんじゃないかな」
「想像――うん、毎日しとったよ。もしうちがヒノヤコマになれたら、もしフラエッテになれたら――そしてもしニンフィアになれたら」
「その想像を今現実にするんだ! マーシュがずっと思い描いていたニンフィアの姿を、試してみようよ!」
「うちの……思い描く姿」
「これが最後だから。マーシュの、そして僕の精一杯、レナに見せてあげよう! さあ準備はいい?」
しばらくの沈黙。マーシュの大きな空色の瞳が見つめてくる。そして、強い意志が灯った。
「ええよ。うちらジムリーダーの実力、見せてあげましょう」
「それでこそマーシュだよ!」
強く頷くと二匹でレナに向き直る。
「相談事は終わったかい?」
「待っててくれてありがとう。でもエイムもみんなも返してもらうからね!」
「ほお、心意気は立派なようだね。だがやる気だけで私に勝てるのかい?」
「意志だけやない。実力で示して見せるんよ」
「お嬢さんの方もその気になったようだね。なら、それを証明してもらおうか!」
レナが杖を取り出し、僕達に向ける。先端で炎が揺らめき――来る!
直線で来たそれを左右に飛び退いて対処する。ただレナの念力で軌道が変幻自在な点に注意しなければならない。
炎の先から目を離さずに次に来るであろう攻撃に備える。
「余所見をしてていいのかい?」
「え?」
次の瞬間マーシュの悲鳴が聞こえてきた。声の方を見れば――炎の渦があった。その中にマーシュが囚えられている。
さっきの火炎放射でそれに注意しなければならないことを印象付け、今回はそちらに気を向けているうちに、炎の渦で閉じこめた。攻撃パターンを変えることで戦況を優位に進める。レナはジム戦でも滅多に見ないほどの強敵だった。
「マーシュ!」
「今度はお前さんも手出し出来ないだろう。さあどうする?」
「くっ……」
立ちはだかる炎の壁にはどうする術もない。じわじわと体力を減らされていく技だから早く出ればそれほどのダメージにはならない。けれど遅ければ遅いほどそれは致命的となる。
戦術を組み立てるより焦りがシルフの頭を占めてくる。一体どうしたら、との言葉だけが頭の中で反芻される。
その時、僅かに桃の色のついた風が、シルフの頬を撫でた。
「風……?」
もしかして。シルフが思い当たるのと同時に、炎を巻き込んで上昇気流が沸き起こる。そして、渦の上からマーシュが飛び出した。
「そうか『妖精の風』だ!」
風を地面から空へ掬うように発生させることで、マーシュは抜け出していた。
下降際にシャドーボールを一発撃ちこんで、マーシュは着地の衝撃を和らげる。
「上手く行ってよかった。この体すごく軽いんやね。まるで空飛んでるみたいやったもん」
「なかなかやるじゃないか。けどこれは避けられるかい」
攻撃が去なされたレナは感嘆の声を漏らし、次の技のを構える。後ろに飛び退き、杖で空に文字を書く。腕を勢いよく振り降ろし、巨大な炎の文字が襲いかかってきた。
『大文字』、高火力の炎技だ。あれを受ければそれこそただでは済まないだろう。
これで決めるつもりなのか、火炎放射よりもさらに速いスピードで迫り来る。そしてそれは二匹に炸裂すると――姿が消えた。
「なっ!?」
「本物はこっちだよ」
声をかけるのはレナの背中側。はっとした顔でレナが振り返るけれどもう遅い。こっちの準備は整っている。
自分の背中に前足を乗せてマーシュが力を送り込んでくれる。『手助け』、味方に威力強化のパワーを与える技。そして繰り出すのは、
「いっけえええ!」
ありったけの力を込めてレナの懐に飛び込む。
とっておきの技『恩返し』。
ジムフィールドでのラストバトル。それはシルフとマーシュの勝利で終わったのだった。
「まさかあそこで『みがわり』と『みきり』を使うなんてねえ。負けた、降参だよ」
杖を投げて両手を上げ、もう戦闘の意思がないことを示す。それを見てシルフもマーシュも座り込んだ。
「それじゃあみんなを解放して」
「はいはい」
ぱちんと指を鳴らすとそれぞれの球が壊れていく。束縛が解けるなり、全員がマーシュのもとへ走り寄ってきた。
フライゴンとクレッフィが興奮した様子で、マーシュとさきほどまでの戦いについて話していた。
その間にティリスとエイムがバトルを終えた二匹のところへやってきた。
「おつかれさま」
「まったく手加減ってやつをしらないのかい、シルフは」
「それはお互い様だよ」
バトルの疲れがどっと押し寄せてきて、背中から床に倒れ込む。
「でも疲れただけの事は出来たかな」
仰向けのままマーシュに目を向け呟く。ちょうどマーシュのリボンとフライゴンの右手でハイタッチをしているところだった。
「喜んでもらえてよかったよ。一応レナに全部の映像見させてもらったけど、あとでお話聞かせてね」
とエイム。魔法の世界を作るのにバリヤードの力も必要だから裏方役に回ってもらったけれど、できるだけたくさん話してお礼をしないと。
マーシュの表情はこれまでの中で一番いい顔をしていた。ポケモンになりたいという願い、叶えてあげられたかな、とシルフも微笑む。
「じゃ、あとは元の世界に戻るだけだね。レナ、扉は?」
「あそこにあるよ」
指で示した先に扉が現れていた。もうすぐ朝が来るころだろうし、魔法の時間はそろそろ終わりだ。
「マーシュ、元の世界に帰ろう」
体を起こしてマーシュのところへ歩いていく。
フライゴンの背中に乗っていたマーシュは、ふわっと飛び降りてシルフの鼻先に着地した。
「ニンフィアになれてどうだった?」
「ずっと想っとった願い事が叶って、夢におるみたいな気分やわ。バトルは焦ったけど、シルフ達の気持ちもっとよく分かった気するんよ」
「そっか。喜んでもらえて本当に良かっ――」
「ありがとうな、シルフ」
「っ!?」
口元に温かい体温が伝わってくる。何が起きたのかわからなかった。
温かさが離れて初めて、マーシュがキスをしたのだと気付く。
「さ、帰ろう、みんな」
頬を赤く染めたのを見つからないように、マーシュは扉の向こうへ走っていく。シルフは前足で口を押さえ呆然としていた。
「あらやったじゃない」
「ファーストキスの相手がマーシュだなんて」
そんな風に茶化されても、慌てて誤魔化すことも出来ない。
「おや魔法にかけられたのはシルフの方だったかい」
魔法――。それがぴったりかもしれない。こんな気分は初めてだ。体がほんのり熱くて、胸の音が直接耳に響いてくる。
「これって――でもマーシュは人間に戻っちゃうし」
「今度はシルフが魔法世界の主役なんてどうだろう。私ならいつでも協力するよ」
「え?」
聞き返した時にはレナはもう扉をくぐってしまっていた。
「ねえそれって――」
魔法はまだ解けそうになかった。